お能の見方 白洲正子 吉越立雄 能についての初心者入門決定版とのことである。染織も能衣装のものを実物をみたことがあるが、華やかさは群を抜く。随筆家白洲正子は、随筆においてもそう言ったように<本物だけが残る>とした。その随筆や作品などにも一貫したものにつらぬかれており、私にとっての無縁の<能>に白洲正子は何をくみとったのか、能をとおして何を伝えたかったのか。純粋にたのしむことをすすめるものかもしれないが、それをさしひいても白洲正子のふところの深さはのこる。文化にあまりにも近づきすぎた人物、そこから一貫性をもたせる。これは白洲正子が着物にも同じような理想があった。能の簡単な構成をみて、どんな複雑な心理を描こうと、劇的に進行しようと、すべてこの単純な形式の変型にすぎないーーー。とある。なれるということは大切だ。ーーーとある。話がとんでしまうが、将棋の名人升田幸三氏も著書<勝負>でも、このなれる、なれについての感覚を述べている。その記事はこちら そこによると頭の良し悪しではないといったことであった。人からぬすんだものは身につくが、教えられたものは忘れてしまう。とはあらゆる道の熟練者がいうことである。能はストーリー性が高いが、舞台などは殺風景に近い。これは時代時代で余分なものは省くということでどんどんものが無くなったそうである。現実に<もの>でそれを出して道具として機能させるより、ないものとして想像にゆだねて、夢や幻をつくるのだという。<もの>があった場合、それは夢や幻ではなくなってしまうという。能のもののなかで、現世への執着というのを融の亡霊に語らせるなど、伊達男からそうでなくなったという独創性あるストーリーも能らしい。現在ではこの能のストーリーに似て、フィクション物語は日々つくられているが、発想の原点といえるもので面白い。また能に登場する<おめん>なども怒りや喜びなど表情が様々である。話をまとめようが、能衣装というものは興味をひかれるものではなかった。私にとっては非現実衣装とおもう。しかし、白洲正子がもう一度、調べなおせ、それも染織文化の一部だ、といっているきがした。 北村陵 北村織物