日本の染織 紅花染 花の生命を染めた布 何千年以上も前の古い世紀、近東メソポタミアの山間の地に野生する紅花。紅花は赤と黄色に染めることができる。紅花の種子は近東よりエジプトに渡りヨーロッパに、一方ではインド、中国へと伝わっていった。 聖徳太子によって初めて制定された服色の制度は数回の改定によっても常に最高位は<紫>であった。だが聖武天皇十四年紀に位階を改定した際は、最高位に<朱花>(はねず)を置いている。日本書紀に「朱花、此をば波泥孺(はねず)と云う」とある。さらには万葉集の中には朱花を詠んだ歌が四首確認されている。引用する。 念(ねが)はじと言ひてしものを 唐棣色(はねずいろ)の変(うつろ)ひ易きわが心かも (大伴坂上郎女 巻四 六五七) 夏まけて咲きたる唐棣ひさかたの雨うち零(ふ)らばうつろひなむか (大伴家持 巻八 一四八五) 山吹のにほへる妹が翼酢色(はねずいろ)の赤裳のすがた夢に見えつつ (巻十一 二七八六) 唐棣花色(はねずいろ)の移ろいやすき情(こころ)あれば 年をぞ来経る言は絶えずて (巻十二 三〇七四) ここまでで、色がうつりやすいところをうつろい易い心にかけて歌っているところから、退色しやすい紅花染の薄色だったのではないかと思われると様々な考察がなされている。さらには赤裳とあり赤系統の色であることもその意見に拍車をかけている。仮にこの染めが紅花による染色であるとすると聖武天皇の頃、日本に渡来していたという想定もなりたつ。中国では珍重されており、そのために日本でも最高位の色として定めたという説もつよくなる。ただ、紅花は咲きがよく栽培できることから世界各地で普及し、さらには日本でも栽培すれば大量に生産できることから、わずか三年間で最高位の服色から追われる結果となっている。持統天皇四年紀には再び<紫>が最高位に戻っている。 <紅染に憧憬(しょうけい)した万葉女性> 紅の衣染(ころもし)めまく欲しけれども着てにほはばや人の知るべき (万葉集巻七 一二九七) 紅の深染(こぞめ)の衣下に着て上に取り着ば言(こと)なさむかも (万葉集巻七 一三一三) 呉藍(くれなゐ)の八塩(やしほ)の衣朝な馴れはすけれどもいやめづらしも (万葉集巻十一 二六二三) 紅の薄染衣浅らかに相見し人に恋ふる頃かも (万葉集巻十二 二九六六) 万葉集には紅(くれなゐ)を詠んだ歌が短歌二十二首、長歌七首の数があり、当時、紅花染がいかに万葉女性の憧憬のまとであったかが思われる。 紅花には紅色素(カルタミン)と黄色素(サフロールイエロー)があって、黄色素は水溶性であるが、紅色素は水に溶けないでアルカリ水でないと溶出しない。その色素の溶出した液も、そのままでは染色に使えない。この色素は酸を加えて染着させる。古代人はこの複雑な染色法を経験の累積から知り得ている。灰汁水(樹木性の灰)に花を浸して紅色素を溶出し、その溶出液に梅酢を加え(中和作用)、染色したあとにさらに梅酢を加えて定着させる。この複雑な染色法によって染めるために京(みやこ)だけで紅染がなされていた原因とも思われる。梅酢の梅は、青梅の黒焼(烏梅 うばい)を用いるようになる。 平安時代には二藍(ふたあい)という色名が現れる。枕草子でそれは出てくるが紅花と藍草の二種の藍で染めた色が二藍であり、その濃淡によって、二藍、濃二藍、薄二藍と枕草子では記録されている。平安時代にはこの花でそめる唯一の染料であって高価にならざるをえないにも関わらず家財を傾けるものが多くでてしまう。はかない花の生命をそこに求め、そうした想念さえも抱かせる紅の色であった。 わが国にあるもっとも古い紅花染は、東京国立博物館や正倉院に所蔵されている奈良時代の「紅地七宝文纐纈裂」といわれている。纐纈といえば「天平の三纈」のひとつで、現在の絞り染であるが、この紅地裂は七宝文の縫い絞りだという。紅花染の紅色はすっかり褪色してしまったという。しかし、安土桃山時代(1573〜1600)や江戸時代(1603〜1867)のものになると、やや朱色にはなっているが、はっきり紅花染とわかるものが少なくないという。島根県清水寺所蔵「丁字文辻が花胴服」(桃山後期)や東京国立博物館所蔵「紅地梅樹模様匹田絞振袖」(江戸後期)などがあげられるという。 紅花の染めは歴史の古い染色法である。