日本の染織 絣 日本の郷愁さそう織物 かつて絣は、日本人なら誰でも着たきものであった。当然、どこの町、どこの村でも絣を織る機音が聞こえていた。結城紬の産地の結城市の結城市の歌にこんな歌詞がある。

おはよう結城 わたしたちの市(まち)

むらさきの筑波のみねから

太陽ののぼる市です

鬼怒川の流れのほとり

千年の昔も今も 娘らがはた織る音の

高らかにひびく市です 名にし負うつむぎのふるさと結城

(結城市のうた 一番) 名誉市民の新川和江さんのつくった歌詞である。

また、もうひとつ、 花むくげ 家あるかぎり 機の音

これは正岡子規(1867〜1902)の句である。

正岡子規は伊予絣のふるさと、愛媛県松山市で生まれ育った。彼が松山にいたのは明治の初期だが、当時の松山地方はその句の通りであったのだろう。絣が庶民の生活に切っても切れない存在になり、全国のほとんどで織られるようになった理由は様々であるが、そのひとつに天保の改革(1841〜1843)による奢侈禁止が考えれられる。そして江戸時代(1603〜1867)の中期以後、全国に木綿栽培が普及したこと。それに歩調をあわせるように、藍染めする紺屋(こうや 染め屋のこと)が全国いたるところに生まれたといったことなのだろう。木綿の織物が我が国に初めて伝えられたのは飛鳥、奈良時代のことである。しかし、綿花栽培は失敗して絶滅してしまう。そのあと700年後にふたたび栽培されるようになった。綿花栽培は八世紀末「日本後紀」に延歴18年(799)7月、三河国に漂流した天竺人(サンスクリット語のシンドゥ(Sindhu)のあてじ インドと同じ地域を指すのではなくインダス川流域のことらしい)が綿の種子をもたらし播種した。その地域は紀伊、阿波、讃岐、伊予、土佐に配布された。700年後、再び栽培されたのは不思議な一致であるが最初に伝来した三河であった。いまも「三河木綿」は有名であるがそうした歴史的な事情と無関係ではない。一方、藍染が発達したのは奢侈が禁止されていたため、藍染のきものをきるしかなかったからである。 インドから絣は伝来、スマトラ、ジャワ、ティモールなどの島に移民によって伝えられ沖縄に上陸し、薩摩に伝わり、久留米、伊予、山陰、能登、越後といったように全国で絣が織られるようになった。絣は日本の特産ではない。東南アジア系の絣は、オランダのアムステルダムにあるトロピカル博物館に素晴らしいコレクションがあるし、スウェーデンのストックホルムのノルディスカ博物館の民族衣裳のコレクションの中にも何点かの絣をみることができる。その他、中南米に面白い絣があるときく。日本の絣ほど民族文化の基盤から吹き上げるうたごえを感じさせるものはない。それほど日本の絣は見事なのである。 東京国立博物館に飛鳥時代の「太子間道」たいしかんどう という裂(きれ)が保存されている。これは法隆寺に伝えられた宝物のひとつで聖徳太子(574〜622)が勝鬘経(しょうまんきょう)講讃のときに使われたという幡の裂である。そのため「太子間道」とよぶようになったものだという。日本の染織史上、きわめて貴重な品だが、それというのも<現存する世界最古の絹の絣織物だから>である。 北村陵