日本の染織 御召 多様な美を織る 御召は御召縮緬の略。先練、先の縮緬である。天明八年(1788)に田宮楚洲によって書かれた『絹布重宝記』の羽二重の条に「御召地極上品の絹の総称なり」とあるし、洒落本、仕懸文庫_二に「おめへがたのような革じゃごぜへせん。おめしサ<かはとはかわはをり、おめしとは羽二重といふこと也>」、また江戸末期の『守貞漫稿』巻十九、織染には「前ニモ云ル如ク三都ノ男女トモニ式正ノ礼服ニハ無地紋付也、無地紋付ニハ黒ヲ専トス、黒紋付ニハ男ハ黒羽二重、下輩ハ黒紬ヲ専トス(略)女子ハ小紋ヲ専トシ縞次グ(略)小紋、縞トモニ縮緬ヲ専トス、縮緬モ近世御召縮緬ト云上品ヲ専トス」とある。こうした文献のほか、江戸時代には御召とは先練の縮緬をさしたのではなく、相手を敬ってその着物をいう「お召しもの」といった意味の、地位の高い人々がお召しになる上第の絹織物の総称として使われ、今の御召のことは、それが縞物であったから柳条縮緬(しまちりめん)といっていたと考えるべきであろう。因みに縞を柳条とかき、その縞柄の多いことやそれに親しみをこめて、結城紬の問屋も柳条屋(しまや)と産地問屋をよぶことがあった。そのくらい縞は一般的な柄として柳条が知られていた。ところで御召縮緬という名の起りにはもう一つ、一般的に広く知られている徳川十一代将軍家斉が、常に好んでお召になったからだという説がある。家斉は「天性華美にして世間にありふれたる物を嫌ひて新機軸を喜びたり。従来縞縮緬とて高貴の人の常にきせしものありたれども、皺縮、紋様極めて平凡なるものなりしを以て、更に之を多くして縞に織らせたり。其の色は御納戸と称し濃厚なる浅忽にして、白き万筋の縞あり。二分を隔てゝ横筋ありて格子状を成す。是(これ)を御止縞と称し、他人の着ることを禁止せられ、天保初年に至り桐生にて此(これ)の縞に擬し、格子なしの紺地に藍縞、茶縞、鼠縞(ねずのしま)の千筋、万筋を織出し、縞縮緬は一尺三寸幅のものなるを並の絹布幅九寸五分のものとなせり。」 安田丈一著「きものの歴史」には、桐生では「この柳条(しま)ちりめんを織って幕府に献上したところ、家斉は大層よろこんでこれをお止め柄にした。桐生ではその縞柄を変えて、お召ちりめんといって市場に出したのだという。家斉に献上したという文献は何もなく伝説に過ぎないとは思うが、このようなことはありそうなことでもある。つまり商売にもそつがなかったようである。」と書かれている。このように見てくると、どうやらこの家斉お召の俗説が織りのきものの高級品であるという宣伝にたくみに利用され、先染縮緬のネーミングとして成功し、上等の絹織物の総称であった「御召」という名称を先染縮緬が独占することになったと考えるのが妥当のように思われる。それは、明治に入ってからではなかろうか。 染織辞典でもう一度、「おめし」の項を引いてみよう。 「御召縮緬の略称なれども普通御召の名を使用するものは其範囲広く、例へば杢糸(もくいと)を平織し整理法に依りて御召風となしたるものまでも御召風と称すれど、普通は緯に縮緬と同じく強撚糸を織り込み(縮緬は生糸、之は練糸)製織後処理を行ひ布面に微なる皺縮を呈せしめたるものなり。経緯純絹もの及び絹綿、絹絹紡、綿玉糸、綿柞蚕糸、人絹等の混用せる交織物もあり。幅九寸五、六分、長さ二丈八、九尺、重さ百二十匁(もんめ)内外を普通とし、縞物、絣物、紋物及び色無地等の種類あり。純絹御召は京都及桐生を、絹綿交織御召は足利を以て主産地とし近時各地よりも盛んに製出せられる。」とある。ちなみにこの辞典が出版された昭和6年という年には西条八十作詞の『女給の歌』が大流行したのであるが、そのなかに「わたしゃ夜さく酒場の花よ、赤い口紅錦紗のたもと、ネオンライトで浮かれて踊り、さめてさみしい涙花」という一節があり、この部分は、この歌の中でも特に愛唱されたのであるが、この錦紗とは薄地のしぼの細かい上等の御召(縮緬で派手な染めのものであった)で、その当時に新しく創られ、こうして流行歌にとり入れられるほど、女性の着尺地、コート地として流行していたのである。御召は、織りのきものの代表的なものとして婦人に愛好され、それだけに色々と工夫された新しい風合の御召がつぎつぎに考案され業界のドル箱であったのである。しかし、いつの時代でもそうであるように、売れる時は、また商品の質が低下する時でもある。かならず売れ行きに便乗した手抜きや素人眼にはわからないところで材料の質を落とすなど粗悪品が出回り、それが悪貨は良貨を駆逐するの例のように、結果的には信用を落とし善も悪も共倒れすることになる。その意味で、ここでも前記したように緯糸に杢糸や壁糸をつかって、あたかもしぼがあるかのように見せかけた御召風御召や、素材に綿や人絹等を使ったまがい物が数多くつくられていたことを見逃すことができないのである。西陣をはじめとする業界で御召というと、狭義の意味では御召縮緬を指すがむしろ一般には紬をのぞいた先染着尺全体の通称として使われていると見るべきである。 「若い時にはお召を、よそゆきにもふだんにも、西陣お召ばかり着てゐたもので、いまでも一ばん好きな着尺はお召である。ちりめんほどぼってりとせず、結城ほどかたくもなく、一ばん着心地がよい」(森田たま著『きもの歳時記』) たしかに御召は、体によくなじみながら裾さばきがよく、しわになりにくく、よごれにくく、着やすくて、しかも品のある織物であった。さらに二度、三度と洗い張りをして着こんでいくと御召緯(おめしよこ)に深く浸透している糊が抜けてさらに着心地がよくなるのである。(できれば結城はやわらかくなるまで着た上で最初はカタいといっていただきたい)。このように着ることで糊がおとされて風合いがよくなる織物が御召や紬の愛好家をひきつけてやまない。さらに森田たまさんの著書を引用してみよう。 「どうしてかこのごろのお召しは好きな柄がない。平結城の縞には気に入ったのがよくあるのに縞お召といふものは殆ど見ることなく、紋お召などの複雑な柄ばかり多いのは、お召をよそゆきにより考へぬせいであろうか」 これは、どういうことかというと、生産側が染物志向であるからだ。染物に偽せるのであるから必然的に紋御召、小紋調は風通御召が主体になって、御召の着やすさはほとんど死んでしまっている、ということである。さらにほとんどの織物の命は<糸>にある。御召の命は御召緯にあるといえる。ほとんどの機屋が同一メーカーの品であるというのは酸素吸入でかろうじて息をしているというのにひとしい。西陣、桐生といえばかつての御召二大産地であったからなんとか御召の火をたやさなかったからこそ、御召はそれでも生きのびてきたといえるのかもしれない。 森田たまさんをふくむ、本当に着物のよさを知るほどの人は口をそろえて御召の良さをたたえる。ただしそれは昔を回想してである。少なくても普通の紬と同じくらいの値段で売れる、本当の御召をつくりださなければならない。すぐには売れないかもしれない、それを恐れて現状を変える努力をしなければ完全に見離されてしまう。そしてふたたび、御召が昔のように着られるようになれば、それは本物である。