原田麻那の染織 自己に出会うことがこの染織においての一生のテーマだったという。名前の「麻那」は「麻那識(マナス)」は由来はサンスクリット語の「第七感」「覚りの境地」を言うことだったのが、父の名付けのものだったという。本人が「麻那識」にいくには何度も転生して人生をやらなければならないことであろうとしていた。 私は貧乏で生きてきて本当によかった。というと母はすまなそうな顔をしたので驚いたという。原田麻那氏は、私は散漫で好奇心の強いものは、お金があったら何かを見たり、聴いたり取り止めの無い一生を送るのは必定であるから、貧乏は有難いと心から思っている、という意味だったらしい。暉峻康隆 (てるおかやすたか)の芭蕉、蕪村を、ルネッサンスを富永惚一に、中島健蔵からフランス文学を、哲学を清水幾太郎から、田中俊雄から民芸の話を当時、わたしには何の足しにもならない講義を三年間ききまくったという。それは母にすすめられていたものだった。原田麻那は「なにもしないのであれば死んでしまえ」と自分に命じたが、死にたくないと思いなおし、柳悦孝氏の弟子となる。染織を志した。昭和23年24才のときだった。元来、祖母が天竜川支流の山家の出で地方の織の名人であったという。子供7人に織ったものを着せていたという。人生に偶然等というものは一つもないという説がある。「天網恢恢疎にして漏らさず てんもうかいかいそにしてもらさず」ともいう。(ことわざ)私の人生は有難いものだと思っている。原田氏は「連珠文」と名付けた織り方を創案した。 先生の指導で蘇芳(すおう)と渋木で染めたレンガ色をみたときに思わず「染まった!染まった !」と大声をあげたという。すかさず先生に「これは染まったのではない、色が付いたと言うものです」と言われたという。私の画への気持ちが着物そのものを画面として考え、私独得の織のスタイルをつくり、また文学好きが物語性や情性を作品の中に出しているのだと思う、と原田氏はいう。それを「白い紙の上に砂鉄をばらまいたように取り止めもなく勉強していたものが織物をすることによって磁石を紙の裏にあてたようにさっと集まって何かの形を作ったのだ」と説明しているという。 原田氏はさらにいう。「幼児のとき、黄色と黒縞の虎が出て来た夢、手賀沼の森の向こうに沈む大きな太陽、やぶからしの蕾の美しい色調など、強烈な幼い記憶が私の仕事に大きく影響しているのだと思う。小学一年のとき遠足の写真の真剣な眼差そのものが私の心のような気がしている。」 北村陵