日本の染織 江戸小紋 華麗な江戸の伝統美 小紋は大紋に対する言葉である。大紋は歌舞伎の「暫」のように、大形の紋を染め出したものである。小紋は五つ紋だから今日ほど極端ではないが、きわめて小さい。歌麿などの美人画を見ると、紋付が日常にもきわめて多く使われているのがわかる。黒衿のふだん着も紋付である。しかも型染の総模様になっていたり、たて縞になっていたりした。当時は抜染の手法が知られていなかったので、紋のところを白く残して型染にした。そのために小紋の名が起った。小紋は小幅に七つか八つ立てたものをさしている。それより細かいのを微塵、さらに細いのを極微塵といった。白く染め残したところは、紋をかきこむわけである。説明なしに縞のことを言ったが、紋付ならば縞も小紋であった。型染の縞はたて縞にかぎられている。棒縞にかぎらず、よろけや立湧、市松までもふくんでいる。無論、それらの縞に無限の変化があって、小紋の世界につきない魅力を与えていた。現在では、小紋の名のそもそもの起りだった五つ紋は姿を消してしまい、模様の大きさによって、大紋、中形、小紋の区別があるのだという程度になってしまった。小紋なら小幅に十四、五の模様までという人もあるが、それならばもっと細かいのは微塵になる。ご存知のように江戸小紋といったら、ちりめん地のみじんをさす場合が多い。一方では絹ならば模様の大小を問わず、小紋といい、もめんの場合をゆかたといっている人もある。京都では染とともに、型紙までも自分たちで作ったし、やがては型染の友禅さえ栄えさせるようになった。ところが江戸の型染は、伊勢の白子の型紙にたよることが多かった。白子の型紙業者もまた、江戸をもっとも有力な得意先とした。享保(1716-)になると、白子から江戸に店を出すようになり、それまで白子から提供される型紙によって染めていたのが、こんどは江戸の好みを白子に通して、型紙を切らせるようになる。江戸では型紙、いわばデザインよりも、染の技術や色彩に主力をそそいだ。しかも将軍のおひざもと、幕府が贅沢をおさえ、華美を禁止すると、その弾圧をいかに消化するかという柔軟性をもっていた。こうした技の達者さを生かした趣味のゆかしさが江戸小紋の特色となる。遠くから見ると無地のようだが、近くによってみると、実に手のこんだ、みじんであることがわかる。色調もおさえ気味だし、絹も艶をいささか殺す。贅沢禁止におとなしく従うどころか、禁止されたものより、もっと贅沢なものを作り出したのである。趣味が深められて、それが「いき」となる。そして今日の江戸小紋でも、その「いき」が生命であり、女性の魅力のもっとも強力な味方となっている。 3センチ四方に八百から千二百粒もの細かな模様群を誇る江戸小紋 それは遠目には無地のものと変わらない。友禅などにみる豪華絢爛を競う手間のかけようは、誰しも納得のいくところだが、江戸小紋は、それと目にみえないだけに不思議の感さえいだかせる。いってみれば、人間の目の極限の世界を演出したともいえるそれは、まさに職人の意地の結晶であるといってよいだろうか。江戸小紋は特に誰がはじめたといったことはわかっていないが、桃山時代の「職人尽絵」にすでにこれがみえることから、もうそれ以前よりあったと考えるのが妥当と思う。もっとも、その柄というのは、まったく荒っぽく、こうした細かいものになったのは、やはり江戸時代で、侍の裃とか下着に使われて発達したとみるのが一般である。その工程は、型彫りと染めとに大きく分けられる。型はだいたい伊勢で彫られてそれが全国の染屋のもとへ配られていたものだが、江戸も末の頃になると、京都、東京あたりでも盛んに彫られたようである。江戸小紋は、なんといってもすっきりした清々しさが、その身上である。それは彫りこまれた粒の一粒一粒の切れ味にあり、その間隔のそろい方にある。刀がよく切れていれば、型付けの際に糊がしっかりおりるし、間隔に乱れがなければ、見た目もにもすっきりしたものになる道理である。小紋の良さというのは、いっていればただそれだけのことにつきる。しかし、それこそが非常にむずかしく、その意味では一見、単純でいかにも能がないように映るものほど、より洗練された技術の昇華であるといえる。昔の型紙をみると、よく切れる刃もので、一粒一粒、実に丹念に精魂こめて彫ったものであることがわかる。ただ、ごく細かいものになると、ムラの皆無ということは不可能であったようだが、それにしても、それはいかにも乱れというものを感じさせない。ともあれ、それらは当時の職人たちが、極小の確かさにむけて、いかにすっきりと清々しく仕上げるかに心を砕いた証拠を現在に伝えている。そこは、決していいかげんな技術では通用しなかった職人の世界であり、いずれにせよ、曲がって乱れているのが芸術だなどという重宝な言葉など、はいりこむ余地すらなかったと思うのである。