日本の染織 縞・唐桟 限りない美を生む粋な織物 柳宗悦は『織と染』という一文のなかで、つぎのように書いている。「平織、綾織、綴織、何織と数へれば限りないであろうが、源に帰れば経緯の交はりで、織物が出来る。その二つの結ばりが柄になる時、先ず縞が生れる。(中略)縞こそは織が与へる一番原素の模様だと云ってよい。縞は模様の始めである」まさにその通りであろう。縞こそ模様の元始であり、逆に多種多様の模様に抽象化の限りをつくせば、縞に遡るということだ。柳宗悦は、さらに縞は自然の法に則るものであり、人間の業で左右できない部分が大きいと指摘している。人間より、もっと自然が加わる手法だというのである。そして、縞が美しく見あきることがないのは、自然が味方しており、法が護っているからだという。おそらくこれは工芸品全般にいえることだろう。柳は「自然の法」といったが、それをいいかえれば素材の個性を発揮させること、素材そのものを生かす、あるいは素材の生命に光を当てる、といったことが自然の法にかなうことであり、それをなし得て、初めて美が宿るのだといえないだろうか。そうするためには素材の個性を知らなければならないし、作り手が素材の個性を発見する目を持たなければならないことはいうまでもない。 藍染めの縞織物 江戸情緒と粋な美しさ 江戸時代ー、とあれ、南蛮渡りの唐桟には日本人のものとは異なった色彩感覚があふれ、異国情緒を感じさせるに十分であった。模様染めに飽きた人々にとって、これほど新鮮なものはない。こうして縞物は、まず遊女が好んで着るようになった。彼女たちが南蛮系の縞によって、縞の美しさを発見したのである。やがて一般庶民に広がり、享保年間(1716〜1736)には唐桟縞がブームとなったほどであったという。そのあたりの事情は享保七年(1722)刊の新見正朝著「むかしむかし物語」に詳しい。たとえば、こう書いている。「これは女ながら器量なきゆえ、みな人の真似ゆえなり。小袖、紋所、無地、島るいはやるは遊女の真似なり。むかしは常の女、縫薄く光る小袖着るゆえ、遊女、無地もの島のるい着て、常の女と風替るべきためなり」この「器量」とは「個性的な才気」であり、「風」は「風態」「かっこう」のことである。江戸時代の流行の震源地は、いつでも遊女や芸者たちであり、島の場合もその例外ではなかったわけである。こうして「縞は粋でしゃれたもの」として、広く受け入れられたのである。江戸時代に生まれた美意識に「通」(つう)と「粋」(いき)とがある。「通」とは「庶民感情に通じる」ところからきたもので、その基盤になっているのは細やかな人情だ。いえば「通」とは、何度となく禁令で弾圧してくる幕府に対して、江戸の町人たちが打ち出した無言の抵抗といえるかもしれない。江戸文化の爛熟期は文化文政年間(1808〜1830)だが、このころ「粋」という美意識がうまれた。いかに町人に財力があっても、禁令で制限されているため、かつての桃山、慶長、寛文のころの豪華絢爛な着物は着ることができない。そこで目立たないおしゃれ、「渋さ」が求められる。しかもそれはあかぬけして、色っぽさのある美しさ。それが「粋」であり、心意気とされた。表は渋い茶系統か、ねずみ色の無地の着物だが、誰にもみえない裏に染めや縫いで模様をつけるなど、目立たない細工をほどこしたのである。縞ものは、そうした感覚にぴったりくるものだった。縞は単純なようにみえて、実はその縞や色の組み合わせ、変化によって驚くほど多様な美がうまれる性質がある。縞こそ「粋」そのものであり、その美しさは華美をさけた「粋」な美しさである。