日本の染織 絽と紗 涼しさ誘う薄織物 紗(しゃ)の白生地はちょっと見たところ何の変哲もない。ただ普通の生地のように布目がつまっているのではなく、逆に粗いのが印象に残る程度であろうか。しかし、生地を重ねてみると、その透明のせいで微妙に変化するモアレ(木目模様)が生じて意外な美しさを発見する。織田秀雄氏は、絽(ろ)と紗(しゃ)の夏のきものとして思うときに飯塚敏子という女優を思い出すという。戦前の時代劇映画のスターで日本髪のよく似合う女優でいつも坂東好太郎という二枚目と一緒に出てそれが似合いの御両人だったという。黒か濃紺、とにかく無地の紗を着て博多帯を締め、竹の縁台にすわって団扇を持っていたグラビア写真が強烈な記憶で残り人間の記憶というものは一体どういう仕組みになっているのだろうかと思ったという。白い長襦袢の白が濃い色の紗をとおして透けているのが艶っぽく、しかもどこか透明なすがすがしさがあり、この二つの矛盾した美しさがかもし出す世界が不思議な魅力となって心をとらえてはなさなかったという。さて、余談はこれまで、そうした意外な美しさをルーペで拡大してみると、それは織物というよりは精緻きわまる編み物のようでただ驚くほかない。無論、紗は編み物ではなく経糸と緯糸とを組織しているのだかられっきとした織物である。経糸が二本からまっている、そのからまり方は左右対称の波状線を重ねて、楕円形がたてに連続する模様をつくったかのように二本の経糸が左右に位置をかえて交差したところに、緯糸が打ち込まれ、さらに経糸がふたたび左右に位置をかえる。これが繰り返されて一反の紗の白生地が出来上がっている。紗とはそういう布である。絽は、その紗から派生したものだ。紗のように緯糸一越ごとに、経糸がよじれて左右に位置を交代するのではなく一度よじったあと、緯糸三越、五越というように平織りを入れるのである。経糸をよじったところが透間になり、この透間を「綟目」や「絽目」ともいう。当然ながら透間は紗の方が多く絽は少ない。このような透間のある織物を「搦み織」「綟織」という。ルーペで眺めていると、その経糸のからまり方が規則正しく美しい。それに実に手が込んでいる。現在では自動力織機に綟綜絖を取り付け容易に織ることができる。だがそれ以前は手織で織っていた。精緻な編み物のような紗を手織りで根気よく織っていたのが不思議にさえ思えるのである。ところで織物に透間をつくる、あるいは透かせるという発想はどこから生まれたものだろうか。紗の以前に「羅」(ら)という薄地の絹織物がある。中国の前漢代(紀元前202〜8年)から平安時代(794〜1192)にかけてが最盛期とみられている。この羅の透間は紗の比ではなくかなり大きい。これこそ網とよんだほうがいいとも思えるもので、しかし織物である。経糸をたがいに綟り合わせるという原則は紗と同じだが、その綟り合わせ方は、その左右の経糸と位置を交代してよじれるだけでなく、二本も三本もとばした経糸にからまるなど、はるかに複雑である。透間のある織物の最初は、この羅と思われるが、織物研究家の龍村平蔵氏は著書『日本のきもの』(中央公論社刊)の中で 「おそらく初めは鳥や動物をからめとる網のことだと思われるが、それが中国では黄塵、砂塵をさけるベールのような薄物として、発達したのであろう。錦の上衣の上に羅をまとうのが理想とされた」と述べている。 そういえば「羅」という文字はもともと中国で「鳥網」を意味し、のちに転じて「薄絹」、薄地の絹織物をさすようになった。おそらく龍村氏の推測は正しいと思われる。 ユニークな「夏文化」の典型 絽と紗について 紗と絽といえば日本特有の風土を抜きにして語ることはできない。海洋性の高温多湿という日本の夏は、実にしのぎにくく、ある意味で日本文化はその夏を克服することを起点として生まれ育ってきたというのは過言でない。たとえば木と紙の日本家屋である。冬のことなど無視しひたすらしのぎにくい夏をいかに快適に過ごすかという発想の所産といえるふしが多々ある。平安時代からおこなわれてきた「更衣」(ころもがえ)という年中行事もそのひとつといえる。季節の変化に応じて衣服を着替えることだが、これもいかに夏を過ごしやすくするかという考えが基本にあったようである。とくに「夏姿」という言葉があり、のちになっても夏のきものが特別に扱われているというのは、そうした考え方の流れをくんでいるからではないだろうか。その「更衣」であるが『広辞苑』(岩波書店刊)を引いてみるとこう記されている。 「平安以降、四月朔日(ついたち)から袷を着、寒ければ下に白小袖を用いる。五月五日から帷衣(かたびら)、涼しい時は下衣を用いる。八月十五日から生絹(すずし)、九月九日から綿入、十月朔日から練衣を着用。江戸時代では四月一日、十月一日をもって春夏の衣をかえる日とした」 とある。また以前本紹介した北村哲郎著『日本の織物』(源流社刊)によると、 「徳川将軍の大奥では夏衣裳の初めが絽または縮緬、あるいは絹縮の単衣で、次に透綾となり、極暑には越後縮を着るというきまりでした。そして総体に身分のある人ほど単衣の時が長く、帷子の間が短かったということです」ということのようで、暑ければ薄着をし、寒ければ厚着をするのはどの国も同じである。しかしながらわが国では春夏秋冬と季節は微妙に移り変わり、しかも四季ははっきりしていることで知られる国である。日本人はそうした季節の変化に生活を順応させ、季節感を楽しむようにしてきた。風鈴の音や水の流れに涼気を感じたり、夏は簾をさげたりする。食では『初旬』にあるように季節でとれる時期を重視して調理しそうした和食はいまやユネスコ登録をうけるまでの食文化という評価もつくりあげている。衣食住に季節感をとりこんできたというわけである。それは、きものも同様である。花や草などの植物をはじめ、蝶とか鳥、雲、波など、きものの模様に自然の風物をとりこみ、四季風情を楽しみながらみにまとう。四季があり豊かに変化する自然に恵まれていればこそのそうした発想であり、きものの模様はその恩恵である。紗と絽は日本風土に、とりわけ夏に適したものだった。しかも細やかな日本人の美的感覚にぴったりと一致してきたそれはまたみる人にとっても涼感を誘うものであった。しのぎにくい夏に目で見るという視感で涼しさを得るという効果も紗と絽の役割はあったのである。 紗の透ける特性を生かしたもの「紗合わせ」 紗の透ける特性を生かしたもの「紗合わせ」がある。これは表には紗、裏に紗か絽を合わせ、二枚の紗のかさなりが動きによってつくりだす杢目の面白さや裏地の絽に染められた模様が紗をすかしてほのかに見えるのを楽しむといった、おもしろきものである。この「紗合わせ」はさらに、紗を二枚重ねて一枚の袷にした無双仕立てで、上の生地は無地に染めるが、下の生地には友禅模様などを染める。優雅といえば優雅で下の模様を透けて見えるために涼感もあるというわけである。無双仕立ての「無双」とは一種の美学だがいつ頃からうまれたのかわからない。表と裏、あるいは内と外とを同じように作るという考え方で、全体を一種類の材で作った「無双箪笥」懐中時計に両面に同じ作りの蓋をつけることを「無双側」とよんだりしている。紗と紗のバリエーションとして、紗と絽という組合わせもあるがとにかく「紗合わせ」もこの美学の範疇(はんちゅう)にあるものである。白地の三本駒絽に紺一色で水模様を染め、その上に爽やかな淡い草色の紗を乗せた紗合わせをみたことがある。余分な衣飾を捨てた単純な模様だし、色数も少なく、単彩に近いが色の重なりが微妙に調和しているうえに二枚の重なりでモアレ(木目模様)が生じ、水模様がまさに波のようにゆらゆらとしているようにみえる。涼しさを感じるものであるがどのような紗合わせであれ紗や絽の一枚であれ非常に涼感がただようのだが着ている人は例外なく涼しくないという。透けてみえるために下着をきちっとつけなければならず、到底、素肌にゆかたを着る涼しさとは比べるべくもないらしい。とのことである。夏にきものを着るひとは少なくなったといわれ、生活そのものが西洋化している影響もあると考えられている。