和更紗の文様 吉岡幸雄 著 図譜 和更紗の文様 は文様に色彩に魅了された日本人がたくみに更紗の真髄を他国から吸収しようとしたものである。さらさ とはジャワの古語「セラサ」(花の模様を撒く)からきたという。インドで生まれた華麗な色彩の木綿布が室町の末期に日本にもたらされ、異国情緒な文様で人々を驚かせたことであろう。江戸時代になると舶載品を模して京都や堺、長崎や鍋島などを中心に「和更紗」がつくられるようになる。技術も意匠もしだいに巧緻をきわめていくことになる。万華鏡をのぞいているかのような色とりどりに、具象、抽象、幾何学、インド風、西欧風、中国風など、和様の文様が弁柄、黄土、藍蠟、群青の色彩が多彩な世界を構築している。ページ数250に近いビジュアル和更紗生地の文庫である。直感的雑誌のような構成で著書は成立している。 では、著書の最後の著者吉岡幸雄氏の解説にて紹介を引用して紹介を終えたい。 インドから日本へ 和更紗の誕生 吉岡幸雄 さらさ。というここちよい響きで呼ばれる華麗な色彩綿布は、木綿の国インドで生まれた。木綿のような植物繊維はタンパク質を含まないため赤系統の染料が染まりつきにくく、日本でもヨーロッパでも、木綿といえば藍を中心に茶色や黄色といった染色にとどまっていた。ところがインドでは、この地に生育する茜系の染料を用いて、鮮やかな赤を染めだす技法が開発されていたのである。それは、まず、木綿布を水牛の乳に浸けることで繊維を動物性に近づけ、つぎにタンニン酸を多く含むミロバランで下染めして、媒染剤の定着を促す。そして、赤く染めたいところへは明礬液(みょうばんえき)を、黒く染めたい部分には鉄塩を、紫はその混合液を塗る。そのあとで沸騰したインド茜の染液に浸けると、それぞれが反応して赤、黒、紫の文様があらわれ、媒染剤のついていないところは白く残るというものである。さらに藍色や緑色を加えたいときは、蝋伏せのあとで藍で染め、緑は黄色の染料ミロバランを重ねる。高温多湿の風土のため、インドには歴史を探る遺品がほとんどなく、更紗がいつの頃からあったのかは詳らかではないが、紀元十世紀頃の製品と思われるインド更紗がエジプトのフォスタート遺跡から発見されており、古くから交易品であったことがわかる。やがて十四、十五世紀の航海術の発展にともなって交易もさかんになり、更紗も世界各地にもたらされて、その華やかさで人気を博した。日本には室町時代末期から桃山時代に、南蛮船により舶載されたと思われる。これらの裂々は珍重され、武将や数奇者の競って求めるところとなり、陣羽織や仕覆に仕立てられて、その富や権力を誇示するものとなった。その後も更紗の輸入量は高まり、富裕な町人たちの小袖や下着、風呂敷、煙草入れなどに仕立てられて彼らの身の回りを飾るようになった。江戸時代になると、インド更紗を真似て日本でも模造更紗が制作されるようになる。インドで染めたシャム(タイ)向けの更紗が日本へ運ばれて「シャムロ染め」と呼ばれていたが、正保二年(1645)に刊行された、発句付句の作例のほか諸国の名産なども記した「毛吹草」に、京都山城の特産として「紗羅染」(シャムロゾメ)を見ることができる。このような京都、堺、長崎、鍋島などを中心に各地で生産された更紗を総称して「和更紗」という。(続略)