古書現代3rd

全約200冊等 書物寄贈済み

これからの染織資料の発展、資料の発展販売促進を祈るばかりである。 

書籍をかくために研究者からの問い合わせ等もあったりした。

父からは床が抜けてしまうとか配送業者の方から本屋さんでも開業するのかと言われた。

一番良い形としては次世代に豊富な資料環境を作ることであろう。

資料作りの途中、関係者の目にとまり優良後継者賞をいただいた。

そしてありがとうございました。 北村陵

古書現代ZERO

色と文献だより 

本 タイトル 著者 /共著 評と本紹介
日本染織芸術叢書 紋織1  西村兵部 (シリーズ全10巻) このシリーズは昭和50年に世に出回ることになった。バブル崩壊をむかえる日本のちょっと前の誰もが資金などではうかれている、または土地が値下がることなど考えもしない時期であった。それで研究者は研究にあけくれ、研究内容も充実のものをみせているのは本の解説で一目瞭然である。古書現代2ndでこのシリーズのこの本のみ掲載忘れで古書現代3rdにてカバーした。日本の染織は、日本経済の景気と無縁ではないことのように思われる。深い低迷をすれば染織も迷走しはじめ着地点がわからなくなる。私は古い染織資料をとおして、よんだら余計に混乱してわけがわからなくなった時があった。いっそう調べるべきではないものだったのかと思うときもあった。しかし、時間が経過すると再び、資料整理し、まだよんでいない人へ本紹介している。もっとシンプルに伝えるべきかもしれないがまとめるちからをお察しいただいて、私なりの研究を続けたい。

ふるさとを見直す絵本3

おかいこさま

むかしの

「蚕飼い(かいこがい)」

文・みなみ信州農業協同組合

絵・肥後耕寿

機械化、大量飼育をされていなかった明治、大正、昭和初期の「蚕飼い」の話を通じて、先人の苦労と知恵を学び自給自足の大切さと「くみあい」設立の原点を考える一助にしたい、という企画で、物語は地方の方言がおしみなく会話で登場し、方言の意味が絵本中の下記に意訳がでてくるがそれが協力をいただいた方が60歳から85歳の方からより深い取材で物語が構築されていったのであろう。とくに私が共感をえる文章を引用すると 子供の頃はお婆さんの糸とりやハタ織りをしているそばで遊ぶもんだなむし というところである。私は小学校1年でとなりに住む幼馴染がいた。お互い場所が場所だけにいききも多かった。その子と遊ぶと私の自宅では、人が全然いない母屋とひとが集まる仕事場になっていて、ちょっとした学校の宿題は、母が機音をたてて仕事をしていてそのそばに二人ならび、宿題をよんでは問題を出してもらったりしていた。家内制手工業のまえに自給自足の形というのは私の祖父祖母は自宅よこの畑でとうもろこしや大根を育てていて夕暮れまで姿があって家に帰ってくるまえに、私をよぶ声がしたものだ。そんな世代はもういなくなろうとしている。
科学のアルバム

カイコまゆからまゆまで
岸田功 染織資料は、仕事の延長にあるように思えてくるがこうした図鑑や絹に関しての絵本などの資料は、小さな子供に説明するときにチカラを発揮する。私の頭脳も小難しいものやかなり難しい研究資料よりこうした資料のほうが好きなものですから、自然と集めてしまっているのかもしれません。カイコについてどれくらい知っていますか、ときかれれば、現在はカイコさんを育てて仕事にしている人が近くにはいない、ということと、あまりにもカイコを育てる仕事は重労働である、というくらいだろうか。カイコは1000mの一本の糸でできていて、結城紬では、まずカイコを成分でみるとセリシンとフィブロインというものでできていて、結城紬はセリシンをはずしてしまって原料がつくられる。この資料では著者が科学者であるので実験と工夫でおもしろく興味がわくような仕組みでできている。小さなお子さんがいればこの本を読んであげて本中の写真をみせて説明していけば、なかなか知らないような不思議にふれたようで大喜びするのではないかと思う。

布仕事

染色技法と新発想の布表現まで

金子利代 著者は約40年にわたり手仕事、ものづくりに関われたことがとても貴重なものだったという。現在は講師のお仕事をしているのだろうか、詳しくは知らないが、染めの技法をざっくりと知りたい場合はこの染めの資料がいいのではないだろうか、というのが私の意見である。草木染めが彼女の強みであり、藍染、紅花染、紫根染の3つはとくに私の想像こえた染めをうみだしたのだという。草木染めを実際に行っている人はその1つ1つが果てしない技術や経験、知識、とくに一生をかけて取り組んでいる人は少なくないように思う。私も藍染をやってみたいがいつになるかは自分でもわからない。資金も仕事にすれば腐敗などの失敗率を考えると容易に取り組める分野ではないことは確かである。
手縫い文化の探求・手ぬい職人のカンどころ 熊谷フサ子 Twitterで藍甕のおつうさんから拝借したものであるが、図書館に寄贈しようとして拒まれたとのことだが、中身はしっかりしている。例えば、過去の月刊染織α(アルファ)とつくりが似ているが、中身がしっかりしていても月刊染織αも図書館に寄贈しようとして拒まれるのと同じで利用者の少ない専門分野でたとえ高評価で高内容であったとしても図書館は利用者の数を優先する。とくに後半の寸法付き図解は、絣の職人である私の立場からみるととてつもなく絣の価値があり、その絣の価値が高いというのを全然知らない人に伝えるにはどうしたらいいか、とかとにかく言い続けるしかないみたいな雰囲気がある。この著書は本のタイトルに決して絣とはうって出ていない。ただ絣を仕事にしている人がみたら著者は目がこえているんじゃないかとかそういうカンどころでみてしまう。
そだててあそぼうカイコの絵本 

え もとくにこ

へん きうちまこと

この絵本シリーズには敬意をはらっている。構成、ポイント、センス、技術それらが総合されて絵本の洗練と完成度をはじめて形成し把握することができる。その内容に私がこの絵本シリーズに敬意をはらっている理由だ。限定されたなかで様々な工夫がページごとにあとで覆らない研究成果と質をそつなくうみ、大人になってからでも充分にたのしめる内容をつくりだしている。過去をあさっていいことは少ないがそこにも確かな流れとかそういうものがあったりする。カイコが繭をつくりそれを人間が加工し、絹のもつ特長をいかす…絹を通じて現代の人々がたくさんのひとと知り合う、話す、書く。繭は大きな繭をつくるカイコを選び、時代をかさねるごとに品種改良されていった。江戸時代のものと現代のものでは大きさも異なり現代のほうがはるかにでかい。メンデルの法則という親の性質がどのように子どもに伝わるかという法則が発見され急激な品種改良が進んだ。それはカイコも同じということだろう。カイコの図鑑などをみてきたが知れば知るほど、ひとつの分野を研究したり極めることって大変な作業だって思うようになった。私は伝統工芸にみをおいて13年あまり、資格はえたがまだ何かを極めたとはいえないし、何者でもないもどかしさに挟まれている。
西陣織 伝承の技

切畑健

松尾弘子

西陣の職人さんが2017年になってダブルワークと今後どうやって生きればいいかわからないというだけでなく、どうやって生きればいいかと自分に問うことも知らない大概の若者を相手にひともんちゃくがあった。単純に高度経済成長で成長の波に遅れた伝統工芸は、その分野で特殊なスキルをみにつけていても困窮を極めるという行末では若者はついてくるはずがない。インターネットの環境が整い現場や生産をあまり把握してない匿名者がSNSで忽然と登場しやすくなっている。現状はその程度だ。西陣織は日本の染織を代表するものだった。技術が海外に流れやすい技術であったというのが最大の弱点で海外流出が国内の生産者を苦しめている。西陣は応仁の乱のあと、ほとんど焼土と化した京の地に新しく復活した織物をさす。過去の西陣はどのような経緯をたどりいまに至るのかを知るためであれば資料に目を通すことに意味があるだろう。西陣織についてはリアルタイムでサバイバルしているユーザーをチェックするのが現状把握には効果的だろう。西陣織も結城紬もときと場所によっては高級な自動車と値段ではりあうような織物だ。私はダブルワークはスタンダードになると思う。どうやったら成功するかを考えないと成功はしない。成功している人はどうしているかも考えたり研究しなければいずれそういう人は忘れ去られると思う。西陣織も結城紬もときにはとんでもない値段のものと比べられる宿命があるが、どういう需要に答えるか、層に訴えるか、ターゲットにするのかもこれから重要な戦略のひとつになると思う。問題は簡単ではないがそのなかでサバイバルに勝ち抜いていくしかない。泥臭い苦労人が尊い、お金持ちこそ成功、のふたつのカタログ化した価値観しか示せない日本はめんどうで他の価値観や生き方を開拓しようとしないのだろうか。
結城紬シリーズ染織風土記 

坂入了

中江克己

石崎三郎

鈴木たい

北村敏雄

北条きの

インタビュー形式のもので語り口調の文章でそれが結城紬に携わる職人の考えやその時の流れていた時間とかそういうものを記録したかったと思われる。北村敏雄というのは私の祖父ですでにこの世を去っている。私にとってはもう祖父と結城紬についていまになって語りたいこともあるのもたしかであるが私が10代の頃にあの世にいってしまっていたので語りたいといっても無理である。カラー写真記録でないが画像も昭和の結城紬の作業風景、作業を封印しているし、私がホームページで説明していることと基本的に昔から今も変わっていないということだ。手に入る環境があれば手に入れておくことをすすめる、というのも内容がとてもいいし昭和の記録はいっぱいあるようで意外とないからである。ここでは祖父が本に登場しているのでどうしても祖父の姿を思い出してしまう。つむぎ、ありがとう いいこともわるいことも長くは続かない、でもつむぎ、ありがとう。これが私と祖父の本音だろう。
日本の手わざ 長板中形    長板中形、中形というとどうしても浴衣なんかが思い浮かべられます。藍染が日本に広まって定着して、白無地の木綿などを藍の染液に浸して染めます。この浸して染める浸染で藍染で染めてなおかつ、人間には欲がありますからどうしても柄が欲しくなったりして知恵をしぼり、浴衣といえば藍染の色と白でそこに柄があってさっそうとあるく女性がいたらどんなにいいことか、そういう小さなアイデアが大きく染色技法を発達させたといって過言ではない気が致します。しかも浴衣で染めも型をつくって量産できれば、それだけでも、決して豊かな生活ではないその時代の庶民のころもの柄を変化させ同時に楽しんでもらえる。それが長板中形の存在の大きなところ。興味がある方は本を読んでもらいたい、この日本の手わざというシリーズは文章も少なくてわかりやすいのでオススメである。ただ値段が安くなはいのがなんとも人気の高さといえそうだ。
日本の手わざ 久米島紬    久米島紬が国の重要無形文化財の指定を受けた織物である、と定義したのはここ最近とでもいえばいいのか、平成になってからで国の重要無形文化財の指定を受けているものは基本的には文化的価値がしっかり定義できるくらいの歴史をすでに蓄積しているといっていいのでこの日本の手わざ久米島紬が編集されたとき(1973-1977)はまだ指定がかかっていなかった。草木染めで染める、絣も草木染めのもの、糸は人が道具でつむぎだしたもの、で紬の基本的な工程は海外から染織技術を貿易とともに伝わったものがそのまま現在も続いている。一説では織は高機織りである現在ではなく地機織りであったという説がある。結城紬との違いを述べてくれといわれれば、久米島紬は草木染めと草木染め絣で結城紬は草木染めから化学染めで堅牢な染めの上に成り立つ細かい絣をつくるようになったことの染色方法の違いと手織でも織り機が若干ことなるところで最初から最後まで手作業でつくられているのでむしろ違いより共通点から少ない共通でないものをはじき出すほうがはやい。私は草木染めの結城紬は常陸紬という結城紬の母体となる歴史から草木染めは染色として認める方向なので、非常に似た紬であると結城紬と久米島紬はいえると考える。絣模様でも沖縄から日本全土に伝わっていったため琉球の絣とその産地の絣などの違いもあるがここではとくに述べない。
きものと私  大塚末子 この本は古いものだなぁというのが印刷の活字から伝わったのでまずは本の裏で出版されたのはいつか調べてみると昭和33年3月1日とあるので、結城紬が国の重要無形文化財の指定をうけて約2年後の頃である。この頃、私の家では当時記録した写真があるのでご覧いただきたい。昭和41年の結城・北村織物 さてしっかりとした織物で外装に金をかけるとはなかなか中身にもそれなりの自信がなければ女性でもやらないことなので期待したが期待通りの中身であった。不世出の版画家・棟方志功、濱田庄司、河井寛次郎、などの民芸の神様とよばれる人びとが出入りしていたというので風呂敷一枚包んで出直した人生の成功者とはどんな女なのか、またときとして幸田文のきものという小説に似た雰囲気がある。この本は当時の男性は恥ずかしくて小さく小綺麗な女性の手にフィットする本は読めなかっただろうと思う。きものについて調べているとマニアックなものに出会うことがあるのでその感動的喜びを忘れてはいけないなぁと思う。 
「柄」きものと帯【visual】 浦沢月子 この本は浦沢月子さんの晩年の著書である。6代目銀座紬屋吉平の夫の奥さん、つまりは6代目にあたるのが浦沢月子さんである。基本的には雑誌のように視覚的な写真とそれを説明していく感じである。TPOの装いの解説の親切さはずば抜けている。1999年の出版であるが古さを感じさせない基本がおさまっている。例えばこれから着物を学ぶという場合、まずは1冊を手にして、文様の話しが出てわからない場合、文様の専門書を買うというスタイルになる。現代であればインターネット環境が整っていれば、わからないことは検索して言葉をキーワードに自力で探すことができる。私は正直、着物を勉強していくうちに、ほんのわずかな時間にしか生きていないこととそれまでの歴史の蓄積がいかに莫大なものだったのかというのがわかり無力感におそわれてきた。それもそうで奈良時代とか、はるか昔のことでありことこまかに先人が文章や絵などで記録してきたその後の世代を思う記録こそ日本の素晴らしさだと思う。パリを訪れるとなにものにもなっていない人にはしんどい都市だといわれる。日本にはまだそこまで冷酷で残酷な都市はない。私は何を言っているのかと思われるかもしれないがパリの建築や文化をみるとなぜか日本の文化の嘘みたいなものを感じてしまう。それがなぜかはわからない。
手織り大全  箕輪直子  1m超の大きな布まで織れる高機から、手軽にはじめられる卓上織機までさまざまなタイプの織機を解説。複雑な織り技法も卓上織機で織り出す方法まで紹介する。カラーの織り図とともにその織り技法を使った作品を掲載しているので、すぐに実用的な作品に生かせます。と、まぁ本のはじめに書いてあるようにいつもながら箕輪さんの親切さが伝わる。エクセルというMicrosoftの本来デザインソフトではないもので織り図をつくれますよ、といった具合に初心者にはもってこいの説明もあるし、難しいことを考えず、身近なパソコンソフトでまずは始めましょうね、という感じだ。裂き織り大全、草木染め大全も私はそろえたのであるが、カラーでみやすく、しかも知りたい部分を教えるという不親切な著書とは違う点である。肝心な部分を書かない本はいがいとあって、そういう意味で箕輪さんの作品群は親切だと、私は言っているのである。あえて全部書かずに謎めかしさを残す女性より、全面的に情報を押し出すから箕輪さんの方がそういう女性より好感が持てる。
西陣文様事典  いとう喜一  パラパラパラっと本全体をみて私は随分と文様はあるものだと思った。文様の資料でもいまや格安で手に入り、これは染織家にとってはいい流れではないだろうか。送料を入れて300円程度であった。本は新品で1456円したもので実際にはそれ以上の大変な編集や手間を考えると頭が上がらない。割付文様で44種、自然文様で9種、植物文様で20種、秋草文様で8種、唐草文様で8種、蜀江文様で4種、鳥文様で6種、蝶文様で4種、丸(円)文様で8種、器物文様で17種の文様を図案化して紹介。これは結城紬の絣図案化もできるという貴重資料でもあるのである。たしかに自分の欲しい資料だけ集めているわけでもないが、それが想像以上の資料のときとてつもない発見をした、というかすかな自分の喜びを感じ、誰かに伝えたいという気にさせてくれるので染織資料蒐集はまだ未知数な面白みが私にはある。なぜ、あなたは正直に書いたり言ったりする動画や記事を書くのか、ときかれたことがある。なぜ正直なのかといえば自分の残酷さと限界を知っているからである。
織ひとすじ 西陣織兄弟、
二百歳の志 千年の技

山口伊太郎

山口安次郎 共著

兄弟で二百歳という月日を西陣織にかけてきた凄まじい本である。生涯現役の秘訣を読みとろうとする時、また定年後どうしたらいいのか、といえば彼らは染織活動、兄・伊太郎さんは西陣織で源氏物語を再現すると決意したのが70歳、弟・安次郎さんは能装束の復元に賭けることを決めたのが55歳、会社勤めの人がこれから新しいことに取り組み始めようとするとき、決してそれが何であれ遅くはないといったことを述べている。西陣織というと能装束はほとんどの場合、西陣織の美しい織物でできているわけで、それは現在においてもまったく同じである。最近NHKの美の壺で西陣織の番組があったが、手間のかけ方がものすごく、外国の人がこれが織物ですといったらにわかに信じられないようなことをやっているのである。私は西陣に詳しくはないが文体のみを追ってきて、実際の西陣織の映像でみてそこにひっくり返るような衝撃もあった。爪の先をクシのようにして毎日ケアし、一本一本糸をその独特なクシ状にケアされた爪でそろえて織るようなとてつもない職人技の結晶であったがためにしばしその姿の映像をみて終始無言であった。果てしない技術の探求の末にだけに成り立つ値段ではない世界。なくなってほしくはない。誰もがそう思う。西陣織は現在、職人さんが育ちにくいという結城と変わらないような背景がある。私はぼう然と結城紬はどうなってしまうのだろうか私がいなくてもやはり少なくなっても結城紬は続くのではないかという思いもあり、にわかに染織は日本が誇る高い技術で今後も続くのではないだろうかとかすかに次世代へ期待している。
結城紬

重要無形文化財結城紬技術保存会
  銀座紬屋吉平さんが当時の記録を残すために作った資料でじつは市販されていないことが勿体無いとしか言いようがない。昭和38年12月1日に非売品として出た。棟方志功、柳宗悦、濱田庄司など民芸運動のはじまりとそれに共感した産地が記録したものである。さて、内容は歴史をみるぶんには優れており、ちょっと結城紬の現在を私は述べたい。結城紬は基本的には夫婦で共働きで、次第に旦那は外で稼ぎ妻が織りなど全般を旦那から教えてもらい、続ける。これより状態がよくないと夫婦で紬業はやらなくなる。私の家の近くは紬業が盛んな地域であったので近所のほとんどの家々が紬業をやっていた。これは私が中学の頃、だいぶ変化した。そしていま、私の地域では4軒しか残っていない。紬業が盛んな地域でその具合である。私が思うに、丁度、私の親の世代が団塊の世代でもっとも人口が多く、そのメンバーたちがいなくなると、いっきに紬の生産数は減り、果たして結城紬は残っているのかどうかイマイチ伝わってこないという時期が必ずきて、技術の保存と伝承は急ピッチで行わなければ本当に幻、という状況がある。私はそこに残っているかどかもよくわからない。いま現在でも結城紬の伝承は組合で総力をあげて保持しようとしているが、それもまだまだはじまりにすぎなかった、なんて言う時代を迎えるかもしれない。そのときはまだひとりもいない結城紬2部門伝統工芸士になれていればいいな、なんてのんきに私は考えている。 
京都西陣、愛すればこそ 田中峰子 2000年に出版された。いま思うと私はこの頃まだ社会人ではなかった。この著書ですでに不景気であったのだ。私は1998年サッカー日本代表がフランスで開催されるワールドカップ出場をはじめて日本がキップをもぎとり、4年後には日韓でワールドカップが開催され、話がそれてしまうが世界トップクラスの豪華なサッカー選手が日本にきてプレーするというビックイベントのせいか、恥ずかしくも不景気とは無縁な浮かれたいち学生であった。同じ思いの人もいるのではないだろうか。著者は、西陣業界にふく不景気で従来からの京都の老舗があちらこちらで思い切った改革策を練り出さないといけない背景をその道の人、職業ならではの視点で描写している。それは事実だと思う。本のタイトルは京都西陣愛すればこそ であるが続くとしたらそこにだから厳しく言っている、着物は強制はしない、押し売りもしない がサブタイトルであると思う。いままさにリーマンショックのあとでまたしても似たような不景気が再びおとずれている。それが2017年の状態である。是非、着物ファンのみならずこの本を読んでもらいたい。そこには経営の本質と同時に意識改革、やさしさもこめられているからである。
写真集西陣 美を織る暮らし  神山洋一 西陣の暮らしをおさめたものと文章のプロが書いている。写真集というが著者の背景は西陣の仕事の家に生まれたが西陣には無関心であったという。母が死んだ時、西陣の地に生まれたものとして結果的に写真で関わっていくべきだと思ったという。著者の職業は写真家である。ここには確かに西陣という織物を生み出す職人とそれを支える人々や日常の記録があり、撮影されたのは2000年よりずっと前であるので、おそらく多くの十代の方はこれを見てもあまり心には響いてこないのではないだろうか。そんなことはなく、織物に興味のない人でもしっかりと楽しむことができる。一流企業と互角の業界であったことや、その機織りの職を離れていく時、ハンマーで粉々にされていく残酷な写真もある。それらも含めて西陣なのである。日本でも織物の多くは西陣が人口的に多くそれは平成も間も無く時代が変わるという宣言が天皇様のお言葉で決まってからまた新しい時代になっていく。しかしそこには不景気や経済と影響の少ないものと大きいものも含めてわずかに時代をこえてしまうものが出てくるのである。賑わいのあった頃とは確かに昭和の終わりころの私でさえそれほどさほど知らずに時代が変わってしまった。よくも悪くも時間だけは平等に流れている。実は私もこの著者と同じ経験をしている。私は十代の時に祖父が他界しこの道に入ってきた。自分の決断だった。私は長男ではない。よくこの道であとをとると長男だと思われがちである。同級生の多くの人も私が長男だと思っている人が多いが実は違う。私の父は時代にあわせて子供の好きな道を選択させていた。私の父は強制的に家業を継がされてしまったのであるがこれがとんでもないことにこの職業に実に適していた。正直なところ、私は天才ではない。私の父は血筋とは違う自己開発による才能があった。それは結城紬の世界ではまずかじりつくことのない1999年にホームページ立ち上げとともに急速に図案講習などを受けてできたものと今までの経験とすでに十代でスピードでは業界で勝てるものがいない速度の絣くくりの速度を持っていた。私も正直なところスピードは十代がもっとも速かったと思う。そのどちらも知り、外の世界を全く知らないでこの道一筋できたというのだから従事歴50年で叙勲の権利というのはもう時間の問題だが、父はいらないと言っている。ここまでこればいわばメダル一個で語れる人生ではなないのは確かである。さてだいぶ話はそれたが久しぶりに染織資料を手に入れたので読んだ。現在は染織資料は底値である。これはそれだけ需要そのものがないということとこの職業だと有利な条件としか思えない。
日本農村工業史研究 桐生・足利織物業の分析 市川孝正 これは私は伝統工芸士になって一年二年で読むには、はやすぎた感じがする。私の経験では、職人である以上、実技が重要で実技がしっかりものになってものにしっかりと考えや思想的なものやその人に込めたものが実技になって、さて後は知識だけだななんて頭をよぎった頃、読んだのであったがそれでもまだはやすぎた。もう少し染織資料に詳しくなってからとか工業、産業、織物業、家内制手工業とかそちらに詳しくないとさっぱりなんのことかがわからないのである。当然著者の参考資料が参考文献として登場するが私が今まで読んできた染織資料やその他の読書のキャパシティーにはおさまってないものばかりで学者と職人の差が出たとでも言えばいいのか、まぁそんなところである。さて余談になってしまうが桐生や足利というのは群馬と栃木の二つの都道府県にあり私もどちらも行ったことがある。桐生は群馬であるが過去には、西の西陣 東の桐生 と呼ばれていたほど織物が盛んな地域だった。ところが私がいった桐生はすでに職人はほとんどいなくてしかも手仕事があまり残っていない。さらにはまさかの着物の商人が他の産地の織物を売っているというような悲惨な状態なのであった。さらには足利はどうだろうか。足利は栃木であるがこれまた桐生とまったく同じで手仕事からやがて機械化や工業化をむかえてやがて滅んでいる、といって過言ではない。残された博物館には工業化のあとが無残にも残っているのである。当然このことに私は批判されて仕方がないのであるがわずかにでも職人がいていまだに続いているというようなささやかな夢をもって帰った方が幸せなのである。結城はどうだろうか。こんな振り返り方をするともしかして、産地問屋の話かとびっくりして慌てている君、正しい。私はすきをみはからっているわけではないが、他の職人との違いは本音でいうので私は嫌われるのである。本当のことしか言わない。まず産地問屋であるが昔ながらの従来の手仕事を工業化に、むかわせているのは産地問屋および本場結城紬卸商組合に登録されているおろかものたちである。さも、手織りの地機や高機で織られる本場結城紬と機械織りのいしげ結城紬がさほど変わらない、といって中途半端な知識の大卒者の社員に、間違えている知識をうえつけたあげく、素人相手にぼろ儲けしているのである。知識不足だった着物ファンは、残念だがその結城紬は新品で2万円くらいしかしないものでそれ以上の価値はない。約、月に100反以上生産できる高橋式半自動織機といわれる機械織りであり、さらには手紡糸(てぼうし)と呼ばれている機械によってできた真綿の糸で1kgで5000円しない絹糸であり真綿でひいたとわ言え、価値がない。そもそも本場結城紬の違いは糸と織りにある。ここを間違えていると格好の餌食になるしかないのである。高い勉強代だ、と思って勉強不足を後悔して諦めなさい。産地問屋は責任をとりたくないので幹部は社員に真実を知識として教えない。刷り込んだ間違えた知識を教えて、その間違えた知識でさばいた客は、知りませんでした、といって簡単に逃げる仕組みになっているのである。そもそも名だたるめいかんをもっている、つむぎなのでそこらへんのつむぎ、というようにはなっていないのである。そこらへんのつむぎであれば、そこらへんのつむぎで終わっているのである。私からは以上だ。さて肝心の書物であるがここに掲載されて収録されているものは史料価値があり調べによると相当な高額な金額で取引されている。私は手に入れらえるのか、いまのところわからないが、読者の方は一読されてはいかがだろうか。研究内容は私は評価できるほど詳しくはないが肩がこるのは間違えない。だが、再びこの本の資料の価値に気がついた時、私は染織資料を300冊以上読破し経験豊富になっているだろう。
布をつなぐ日々 前田順子 布は3Dではなく、つねに2Dで表す世界である。と私はかけ出しの頃から見習い15年目の私はいまだにそう思っている。特に私はそのことを痛感するようになったのは、デザインソフトで図案と長考する時だ。絣を作るという、染織でいう、染めにも織りにも属さない不思議な立場でものを見ている、まして極めて稀な職業で、どちらにも属さない感覚を持ち、その中間にも位置しているのが絣(かすり)にたずさわっている職業である、というようなことを福井貞子さんが述べていたような気がするがその通りである。図案をパソコンのデザインソフト、Adobe Photoshop(アドビ フォトショップ)を使い、いまや使えて当たり前の世代がいるのでとても語りにくいものがあるが、このソフトは昔、Apple(アップル)のMacintosh(マッキントッシュ)がスケルトンの家庭用に小型化されていよいよパソコン時代突入といったごく当たり前の頃より昔、クソでかいファンがうなるような、それでいてろくに速さはないような環境そして、パソコンが光フレッツなどの高速通信より前すなわち、電話代イコールがインターネット観覧時間というような時代から私はスタートしている。その時、私の家ではパソコンを導入し、親父はそのインターネットの世界に一発勝負していた。いまやネットをやっていることはごく一般的であるものの、この頃からインターネットで紬を直接販売するというのは、結城紬の世界では考えられないくらいの販路が開けたかのように見えたのである。それはのちに結城紬関係者のあいだで語り草になった話であるが、自販は産地問屋は最も恐れてたことであった。すなわち、産地問屋はなんとか封じるために自販するものには、注文を出さないという共通認識でいっせいに、北村織物の北村初雄すなわち私の父およびその織元の人を受注停止した。当時から結城紬は受注によって絣の世界と織りの世界は成り立っていたのでそれを断ち切られるのはほとんどネットの世界にかけてそれが失敗は、廃業と同じ意味になるほど酷なものであった。私はその過酷さを知っている。特に痛感したその産地問屋の受注ストップの猛威はリーマンショックである。それを知った私がいなければ、いまの私はいないのである。さてだいぶ、どうでもいいような私し事を語ってしまった気がするが、なぜこの著書を紹介するのか、そもそも北村さん、染織資料の紹介ではなかったんですかと問いただされそうであるがよくここで一度立ち止まり考えていただきたい。前文で述べてきたように絣の世界に身をおいてきた私はそもそも染織資料と言いつつ、だいぶ私の解釈のみによる独断と偏見によって染織資料コレクションがされてきた。しかし何度もいうが染織というのは、それを支える人々がいてはじめて商売になり得るのである。それを言えば私の仕事は、そもそもどちらにも関わっていないと言えるし、どちらにも関わっていると言える。絣について紹介したようにどちらにも当てはまらないのでこんなことが言えるのである。それでは染めや織りいがいというのは重要なことではないか、のようにとらわれてしまうだろうが実はそんなことはない。特にこの著書を買った人は私がこの本を紹介していることにたまげているといった感じではないだろうか。そうである。この本は染めと織りに重点をおいていては手や目が届くものではない。縫うことで生活を豊かにしよう、みたいなテーマである。だが染織は述べてきたようにそれらを支えてくれる人がいて、はじめて効力が増すのである。では具体的にはどのような本であるのかというのを本のはじまりに書いてある文章を引用して終わりたい。こういうおばちゃん悪くない人生ではないか、いいじゃないかと私は勝手に楽しませてもらっている。では、部分的に本の文章を引用する。<  人の記憶は何歳ぐらいから残るのだろうか。体の中には案外、思っているよりはるかに古い記憶がしまい込まれているようなきがする。幼いころに着た浴衣の色合い、柄などひょいと思い出すことがあるし、涼しげなボイルの感触までも、、、、。そんな時いつも布が、着物がきっかけとなっている。   あまり変化のない日々だと、めまぐるしい時の流れに戸惑う時と。そんな気持ちを整えてくれるのがチクチクと単純に針を運ぶ手仕事。布が暮らしを彩ってくれるし、元気をもらえる。畑の中で一人、草むしりをしているおばあちゃんの穏やかな表情にも似たようなものを感じる。そのおばあちゃんと同じように、自分の居場所、自分の時間を持てた今の暮らしをありがたく思っている。私の縫ったものを見て『よくもまあいろんな色、柄、素材をつないで、それなりにおさまっているのね』とか『パワフルね』とかの声を聞く。沖縄では楽しいことがあると三線(さんしん)に合わせてカチャーシーを踊る。約束事のない自由な踊り。もともとの語義はかき混ぜるの意味らしい。いろんな色が混ぜ合わされて元気。多くの人が仲間になって踊る元気なカチャーシーが私は大好き。私も自然に踊り出す。布と会話しているように思っていただけたらうれしい。その会話に加わっていただき一緒になっていただけたらもっとうれしい。  布から教えられるさまざまな暮らし、人との出会い、喜びなど、今日も針と糸を連れて涼しい場所に座り込む。>

いちばんよくわかる 

手ぬいの基礎

高橋恵美子 私は、手ぬいは手ぬいでも過去に確か<新しい和裁>というようなぶ厚い和裁の本を買って非常に後悔した記憶がある。針と糸で縫っていくわけでそのあたりは中学までの教育で家庭科というのがあったのでそれほど難しいイメージはなかった。そのためそのままの得意イメージで買ったため、いかにその和裁の新しいことが複雑で難しい問題であるかがわかった。何しろ、寸法とか技法といってもどの分野や職業でも業者とかプロがいるわけでその中で最適なものを出版しているので私のような初心者が購入しても理解できないまま時間が経過して、その本は、もう新しくはないもの、になっている可能性だってあり得る。そこで基礎をしっかりしていれば、まずはとっつきやすいので新たに出発できると考えるのである。確かに、すでにプロの方はニヤニヤしながら見ているに違いない。そこで私はもっとも簡単でしかも中学生からのレベルでも大丈夫くらいの本を選んだわけである。このシリーズは結構、多くの出版物があるようであるが、基本的には婦人用雑誌とかそのあたりをチェックしていなければならない。私は、別の話をさせていただくと、本屋で雑誌<美しいキモノ>を買うのに、女性の本コーナーを通過したりそこで立ち読みすることに抵抗があった。やはり職業です、みたいな感じでも白い目で見られるものは見られるのである。そのため、こういうハイテクがしっかりした時代はこころおきなくじっくりチェックできるネット販売か、リサイクルの古本屋さんがいい。中途半端は良くない。古本屋は神経質の方は抵抗があると思うが私は雑種である。しかも忙しい現代では、本を引越しで手放すタイミングはあり、ありとあらゆる時間と労力で私はチェックすると、そもそも手放したくはなかったが場所がなくて古本屋さんに持ってくるというパターンができている。それくらい新しい生活とは、夢や期待もありさらには不要な過去は捨てたがる。捨てる神あれば、ひろう北村くんである。さて雑談はこのくらいで、この本であるが保存状態は最悪のコンディションであるが、えらい古本屋なのに高額である。これには一読の価値ありとみて値段チェックを済ませいよいよ立ち読み開始。さらには著者の思う壺で、読者の仲間入りを私は果たした。非常に親切でしかも私でついていけるのである。こういう本はまさしくおさえておきたい基本中の基本がところせましと書かれている。ここまできたら買って帰る他に選択の余地はない。私の染織資料の一冊になったわけである。確かに自分の目でチェックしたし、これさえおさえれば応用への進路もあり得るし過去に買った和裁の本も解読できる日が来るかもしれない。考えてみればこの世に不要なものなど何一つとしてないのである。

染織厳選読書(1)

  1. 本 タイトル 著/共著 本紹介と評
    no.1紬 銀座紬屋吉平 山辺知行 紬 つむぎ 限定1200部での出版が県立図書館以上の保管であり、民間では新宿のアートブック専門店での取り扱いというまでに至り、その画力と芸術的価値を物語っている。昭和を封印した良書といっていい。
    草根花木皮染  松本宗久 アマゾンやヤフオクで高額取引されている本である。実物の糸サンプルがある。こちらも後世に残したい良書。有名図書館にはおそらくあるだろう。解説本や函が欠品が多い。全てそろっていればほぼ草木染めサンプル資料の決定版である。 卵かけご飯に卵を2個入れる人がいないように、二冊もっていたら奇跡である。
    熨斗目 のしめ 吉岡幸雄 平成9年に出発された縞や絣、格子といった美事なカラーの布地たち。晩年尻上がりになる予兆と自負、そして布のデザインが示す高度な柄はみるのの心を踊らせ、遊ぶ。大型本はペーパーバックでの入手が限度だろう。
    日本の染色 上村六郎 平安時代の文献をすべて読了し、平安時代の染色と専門書をかたすみまで吸収して出力に変化させる。あまりにも偉大な染色家であり、天は二物を与えぬ というが嘘である。天は二物も三物もあたえている。研究するというテーマは一度のめりこむとぬけることが難しい。
    縞のミステリー 竹原あき子 縞の歴史とエッセイが混ざり合う本。文章は参考書籍を多くすることで、少々かためである。縞の歴史は日本だけの側面でなく世界史にもきちんとふれている。

    日本の伝統色

     配色とかさねの事典

     

    長崎巌 江戸時代中期頃、いままでの時代にない、庶民が経済力をもちはじめるという時代に。このことでこぞって流行をおうという時代の産物をうみだした。とくに派手とは逆の、地味で洒脱、すなわち粋の志向である。それは結城紬も黒や茶が多いという色の背景的歴史にも同じくなぞられてつながっている。この本は、染色のプロ用の専門書であり、染色に興味の無い人には意味をなさないつくりになっている可能性がある。

    草木染染料植物図鑑

    山崎青樹 その名の本のタイトルと同じく、植物学と過去の文献を染色するものに知恵をあたえてくれるものである。草木染めの山崎氏が草木染めという言葉として、特許として草木染めをえた一族であり、また同時に広く後世に伝えてもらいたくて、草木染めを自由なものへと流れをむけた意味がわかるような一冊。群馬の偉大な染色家は日本の染めを重んじて、草木染めと他の染色家を愛した。

    近世のシマ格子

    着るものと社会

    広岩邦彦  著者が縞という一つのデザイン、柄のことを本のタイトルであえてシマにしている。嶋、島というように、歴史のうえではそれらの記述を縞におきかえるのは、狂いが出るといい、本の中ではテンポ良い極力短文にすることで緊張感がうまれ、参考文献が多く登場するにもかかわらず難しいことをわかりやすいように文章の構成に工夫がみられる。結城紬が歴史において、すべての絹物値下がりの中、結城紬だけ値上がりしたという異常事態にも触れている。また、哲学者の九鬼周造(くきしゅうぞう)の著書についてもふれるところがあり、九鬼の示した<「いき」の構造>の一脈が統一されて正当な考えのひとつであったことがわかる。

    縞事典 日本の縞名百相

    外山美艸 著書に名百相とあるが250をこえる縞を紹介している。縞がこれほどまでに多くあり、ひとつひとつに、歴史の一句など、古事記や万葉集などからもひろいあげて、縞を紹介。

    民藝の教科書2

    染めと織り

     

     

     

    久野恵一 監修

      萩原健太郎 著

    全国の染め織物、織り織物を紹介。民藝の教科書シリーズの2であるが、はじめて民藝や専門的になっていくそれぞれの分野で、大雑把に全国見渡せばこういうものがすでにあるといった世界観を披露しつつも写真と文章はどことなく女性読者獲得の方向性にある。

    天然染料の研究

    理論と実際染色法

    吉岡常雄

    昭和の限定での出版物であり、著者は限定にすることは周囲から染色資料の発展の妨げになると指摘され、限定での出版をわびている。昭和において25000円という本の価格は個人で工面するのは難しかっただろう。天然染料において、世界史から日本史と幅広くみわたし、己の偏見多いとといたうえで、独自の視点を展開する。貝殻を使用した貴重な染色は贅沢な染色であったといい、王宮などにあるものは、退色が少なく、素晴らしい技術とかいている。

    きもの熱 清野恵里子 樋口可南子のきものまわりという本を思わせる雑味の少ないテイストで著書は進んでいく。第1章から貴重な結城が登場し、最後までとぎれることなく、年代物のきものが写真とともに紹介されていくこととエピソードもつけくわえて読者を飽きさせない。きものは私の人生をかえてくれたという。
    ハーブ染めレッスン

    佐々木薫 総監修 

    梅原亜也子 著

    主婦などの忙しい人が、そのキッチンで染められるからどうでしょうかというような初心者からスタートする染色の本。写真の解説などでもそれほど難しいことや専門用語がとびかうわけでもない。ハーブでこれだけ染められるのであるというのがわかり、実際に染色してみたくなる。
    染色の理論と技法 西田虎一 この著書の出版は本書公刊の理由からして、教育的である。大学における染色講義に適切な書物がないため。高等学校の先生の要望に答えるため。一般染色愛好者の優良独習書がないため。の三本柱ときている。私は三つ目であろう。しかも内容が専門用語が惜しみ無く使用されているため、わからない用語はネットで検索して調べて読書するという前代未聞の読み方をした。これは昭和40年にここまで染色のことを思っている人がいたことにも驚きをかくせない。

    日本の染織2 紬

    素朴な美と日本的な味わい 

    著者複数 紬屋吉平六代目伝説の女将、浦沢月子の話もでてくる。二個の蚕があわさってしまいつくられる玉繭(たままゆ)という利用価値が困難な繭、蚕が成虫になり繭をくいやぶった出殻繭(でがらまゆ)や、そういった通称、屑繭(くずまゆ)を使用するのがもともと全国の紬の糸の原料であるというのが複数の著者が説いている。つむぎの魅力にすべてをかける人々の姿がそこには封印されて読者になるあなたをまつ。
    宗廣力三作品集   郡上紬を柳宗悦(やなぎむねよし)とともに宗廣力三(むねひろりきぞう)は、郡上紬を蘇生させた。村の士気を高め、組織をつくり研究所をつくり、と郡上紬に人生をかけた生涯が人間国宝という評価をうけ、また絣技術は斜め45度にとばしていく技法は彼特有のものといえる。彼がいなくなった郡上は、というなげきをきく書が多いが確かに彼のみで技法がどれほど眠ったまま終わったものが多いか、作品が語る。
    甲木恵都子草木染の仕事 甲木恵都子 宗廣力三(人間国宝)の門下という看板を背負い、彼の影響と郡上紬にみせられて、活動をかさねた。草木染めで繊細なタテ糸が私は目立って素晴らしいと思うが、そこが女性の美的感覚だったのかもしれない。宗廣力三氏と過ごした時間が作品に出ているのは格子柄である。
    図説 日本の絣文化史  福井貞子 絣は文化の中で育まれ、生産と残酷で厳しい現実を受け入れてきた。少なからずこの本で私は絣の受けてきた傷が著者から伝わってきた。本来この著書は厳重保管下にあるべくものであり、Amazonのながれもので手に入れた。その時代と解禁を真っ向から仁王立ちして受け入れる。こういった本に後何冊であえて私は磨かれるのだろうか、その時代に感謝するだろうか。
    草木染め大全 箕輪直子 私は学者ではないから難しいことは書けない。とし、それらを工夫という知恵で本書をカバーする。3500余種の草木の染色見本を披露してそのとおり草木染め大全である。草木染めにはキッチンを利用する。という著者だが、かなり本格的な染めである。後半はさらに草木を専攻していくつくりになっている。

    手織りの実技工房

    絣からもじり織まで 

    吉田紘三 この本を読んだからといって、絣やもじり織りがみにつくわけではない。あくまで織りの組織と道具の基礎知識を補うためである。絣やもじり織りは、それをつくれる技術者から伝承してもらったほうがよいと思う。この著者ならば、宗廣力三氏の絣技法を読み解けるのではないかとおもう場面があった。基本的にはさとす感じで淡々と進んでいく。経絣のつくり方の解説は現在の結城より原始的なつくり方をしている。
    きものの思想 戸井田道三 昭和の中頃には、洋服が多くなり、その波紋が著者をふくむ日本がどこへむかうのかわからなくなった、では考えてみようといった創作活動にもいまやうつる。着物の柄から考えをめぐらせて読み解き昭和という時代に疑問符を投げかける。
    日本の文様   茨城繊維工業指導所に置いてあるが、古本というか古書店にてまさかの出会いであり、ほっておかれた月日がより愛おしく欲をいえば欠番がありうめたい。代表的な文様をシリーズにして封印した資料である。
    貝紫幻想 芝木好子 現在絶版の昭和小説。吉岡常雄氏をモデルに貝紫の染色世界と男女の暗い恋愛関係を主題に描かれている。こういう世界観は私はひかれるものがあるが、なかなか人前ではこの作品が好きですとはいわせないものがある。絶版というのが心惜しい気もするが、私も本を紹介してくれた人がいたのが幸い、結城紬の職人はおそらく知らないまま終わっている。

    伝統を知り、今様に着る

    着物の事典

    大久保信子 監修

    温故知新を大切にするという監修の大久保信子さんであるが、ファッションの世界もめまぐるしいスピードで変化しているのであるから、着物に対する考え方もどんどんこの変化に対応するしかないという。スタッフと白熱した議論と検討を重ねて完成させたという。着物の基本から始まる解説や説明などがわかりやすく、また本全体の隅のほうに<信子さんのこぼれ噺 ばなし>とあり、こうしたアイデアは女性の細かな視点ともいえ、ひょうきんな女性なのだろう。最近は、ヘアースタイルまであって、ひそかに男性には理解できない新分野を開拓し始めているのも確かである。

    手織り手紡ぎ工房

    彦根愛 著 

     馬場きみ 監修

    高機における二枚綜絖、四枚の綜絖での織り組織が独特なものは、この本にほとんど掲載されている。また、そういった変わった織り組織のものは、変わった織り上がりの布を分解してどのような織り組織でできているのかを調べることで織りのバリエーションを増やしていく楽しみもあるといっている。織りは入門編、基本編、応用編で区別されている。織りの布の糸の浮き沈みも白黒で織り組織を視覚化し、解説しており、複雑な織り組織のものはそれをみるかぎり手がこんだものであると感じる。一例をとりあげれば、浮き織り、つづれ織り、模紗織り、からみ織り、ほぐし織り、風通織りなどである。
    蚕室 野木充 2003年に出版された本で20から30代にかけての執筆が蚕室と他4編で成り立ち楽しませる。蚕室は養蚕農家の戦前と戦後を舞台にえがき、戦争のもたらす不安と狂気染みた人間関係が熱く虚しくえがかれている。戦争という不可抗力と感情は養蚕について思いっきり作業にうちこむものも次第に虚しさと過去回想へと陥れる。
    日本の伝統色   古来より伝わる日本の色250色を紹介。文化や生活に深く浸透してささえた色は歴史の中でつけられた色名が多く存在する。著者はとくになく匿名性こそある。色の解説も色見本にはそえられるかのごとく掲載されている。
    新版 草木染
    四季の自然を染める
     
    山崎和樹 目次に四季を染める 染め色図鑑 染め工房 と区分されてテーマごとにかかれているのであるが染め色図鑑は図鑑の見かたが親切丁寧に、植物メモ、染色メモ、部位、使用量、染料液のとり方、染め方、色見本とあり短文ではあるがわかりやすい表のようになっている。雑木林にはえるような樹木などは見事なまでに薄茶や茶系での染色という結果になり、草木染めらしい。特徴的な色のものは染料として有名になっている。おはぐろ液のつくり方が書いてあるが錆びた鉄に水と酢の三つを同じ重量で用意して煮詰めていくという簡単にできるものであるがそのおはぐろを媒染にした染色は独特の黒色をつくりだす。
    『いき』の構造 九鬼周造 哲学者九鬼周造は いき について言葉が日本の民族でどのように言葉として成立しうるのか本にまとめた。昭和4年に出版をこころみている。いき の内包的構造、外延的構造、自然的構造、藝術的構造でいきについて考察し、着物については藝術的構造で解き明かそうとして着物の縞についてのいきについて書いている。灰色はなぜいきか、は白と黒に推移する無色感の段階でこうした途中の色は茶色などでも同じことがいえるとしていきな着物色として成立しえたとしている。
    日本の絣 岡村吉右衛門

    絣の親元は沖縄である。多くの人がそうよぶようになった。1789年から1835年にかけ沖縄織物成熟期を示すと思われる御絵図帳に沖縄のみならず本土、否、世界に君臨する絣として心にとめておきたい。御絵図の研究はそのまま括絣の核心に触れよう。また戦前に柳宗悦の甥である柳悦孝と田中俊雄共著の<沖縄の織物>と戦後の田中俊雄と田中玲子の共著<沖縄織物裂地の研究>が定評であったと岡村氏はひもとき、<沖縄県立芸術大学美術工芸学部紀要 第5号>(主力は祝嶺恭子とルバース吟子の二人)に触れずして日本の絣は語れないとし、この協同研究は従来、御用布は手結い(絣)に終始し、図案を予め規制する種糸絣(直接染色による絣のおおもとになる原始的なつくり方をしている)は廃藩置県の後に本土からの移入であるとの定説を鮮やかに覆す研究結果へとみちびいている。また説明ながかれ,手結絣(絣括り)の主流は首里織絹絣の宮平初子(現在 人間国宝)と喜如嘉(きじょか)の芭蕉布の平良敏子(たいらとしこ 現在 人間国宝)によって堅実に守られ、その後に二十世紀後半の伝統を新たにした見事な手結い絣は柳悦孝と大城志津子に代表させ、二十一世紀を開く若人の活躍を待ちたいと結んで本書を終わらせている。

    きもの暮らし

    着こなしの知恵と楽しみ

     

    青木玉 吉岡幸雄 共著 幸田露伴が祖父であり、母が幸田文という厳格な家庭で育った青木玉さんと江戸からの染屋、染司よしおかの継承者の対談で構成されるきもの暮らしという本。東京は空襲、京都は応仁の乱という時代が一度焼け野原になるという空白と平安時代、王朝回帰など時代のなかできものが変化した時点について濃く語る。平安時代における、草木染めの季節のうつろいに関しては当時教養された階級のものは特に色について詳しいという点に関してはほぼ同感であり、源氏物語に登場する女性は全員きものや色にうるさいが、高貴な女性ひきめく中できものの色で差をつける特有の生活形式は必然的に染めには関心が高くなり、こうした時代においても高い身分のものも染めを自らしていた。また幸田露伴のエピソードも青木玉さんがトークしており、それをきいても幸田露伴らしいと思えるのであるからキリッとした人物だったに違いなくイメージは崩れない。2000年に出版されて、平成の娘に華やかさをといったテーマの部分の対談やアドバイスはファッションに苦心する現代にも精通する。
    草木の染色ノート 加藤國男

    草木の染めに関する資料が多い中、草木染めの素材はウールにすることで差をつけるかのように、ウール染めをする染色家には適したストライクな資料になることであろう。また染材料は、野菜、一例をあげればそれも染まるのかといった感じではあるがダイズ、ソバ、ゴボウ、サツマイモ、ニンジンといった一日でおそらく栄養摂取していると思われる一般的で手に入れやすい野菜たちであり、さらには果物の部門にはクリ、ザクロ、カキ、キウイ、ブルーベリー、ラズベリーなどであるがこれらも染めることが可能である。さらにはハーブ全般と野生植物、庭木なども紹介して、なにがなんでも染めることを試した気合の一冊である。

    草木染750色 高橋誠一郎

    京都が出版した草木染めのサンプル本。あまりにも高額な一冊なので財布は悶絶。こうした資料を買うのであれば、うな重が何回食えるか、といった楽天家のほうが人生、しあわせで生きやすいのは確かである。草木染めを専攻していくうえでは、この高額投資はさけてとおることは不可能にちかいものがある。なぜならば、草木染めはどこまですでに研究が済んでいるのかを知ることができなければ、その染めに新たな可能性や生産物にいぶき、勢いをふきこむことが困難であるからである。またこうしたサンプルや図鑑が世に出ないころの苦労は、想像を絶する染色の壁であったといわざるをえない。

    源氏物語、枕草子

    (日本の古典)

    古典の解釈者多数 染色を考えると古典に植物の名をしるして登場しはじめて、こうした文献に残されていることをもとに、多くの古来からの染色法を再現するといった、大きな染色プロジェクトが時代時代で行われてきた。平安時代前後は色によってその染めの材料は何かという沈黙や暗黙のうちに理解する予備知識が高貴な階級のものには必要なものになり、色への関心が強い時代であった。そうした時代に突出した色彩感覚をもつ女性は名を馳せることができた。古典では現在も名称が変化しない植物や推測が頼りの色も存在する。季節や色もこの時代には数多くかきのこされた。時代によって古典のよみとり方が変化していくことがおもしろい。といった解釈をするものが多い。

    新技法シリーズ 染めもの

    染料顔料 型染め

    筒描き 化学染料 鑑賞 

     

    岡村吉右衛門 

    四本貴資 共著

    チェコスロバキアの木版蠟染めがあるが染めものという言葉の持つ一つの観念は西洋にはほとんどみられないという。図柄は<模様>と呼ばれ第一に<実用性のある品ものにつけられる>ということで、模様を離れて単独に存在しないという。実用性をもたない純粋絵画とは異なる。用途をもつことが工芸の性質であり、着物のなどの品も<形に従属する>ものであって、形を無視して成立しないという。さらに<用途に似つかわしい>性質があるとしている。染めものをすることは、装飾本能という人間の祈りの微を染めていることになる、模様には従属性という受身の性格が基礎にありそれが、何かを表現せずにはいられない衝動に変わる時、それは本能的な祈りにほかならないという。命をかけた戦場でわざわざ目立つ色の鎧、甲冑を染め、美々しく身につけることは危険な動物の警戒色と同じと結論づけている。様々な染めものに関する基礎知識を学べること、技法に関する手順を知ることができる本書は1980年を前に新技法シリーズとして分野多くプロジェクト化されて出版されている。

    新技法シリーズ 工芸染色ノート

    繊維と染色 糸、布染めの基礎

     

    柳悦孝 

    假屋安吉 共著

    著者である柳悦孝氏は、手結い絣を探求するという日々に若かりし頃、自分の影に追われて活動を続け、沖縄でそのほとんどの探求活動を捧げた。柳宗悦氏の甥であり、のちに将来有望とその活動が認められ日本民藝館の館長や女子美術大学の講師としても活躍をする。そうした経験から染色に関して正確な染色方法を記述して残しておくことは有意義であり、假屋安吉氏と共著することで新技法シリーズの一冊を手がけた。化学染料が日本に全て手に入るような現在の恵まれた環境とは別に、まだ化学染料が入手困難な時代にそうした草木染めでは制限されていた色からの解放を生徒は喜んでいたという。しかし、化学染料を用いての染色法が、未熟で色が落ちやすく生徒は困惑したという珍しく染色法が確立されていない時期の出来事をつづっている。しかし、そうした序文とは違って、実技と染色方法の正確なものとして、記録に残すとしただけあって、事細かに染色について書きこまれている。実際に女子美術大学で使用された資料であるというが、生徒は高度なレッスンをうけていたことがわかる。
    きもの 幸田文 きもの(着物)が日本人の当たり前の<ころも 衣 >であった時代が何故こんなにも人の心に響いて潤すのだろうか。著者の幸田文さんは、きものを題材にしてごく当たり前のように筆をすべらせた。その当たり前があまりにも自然体で自然美なのである。きものを通して幼少期からの女性の成長をえがくものであるが、きものの不便さと便利さをも正確に忠実に繊細に描写している。そのきもの生活のなかで家族と凸凹な姉妹が人情と愛情で成長していく。それらがなんとも言えない奥ゆかしく質実なのである。決してお金に恵まれているわけではないが豊かなのである。余計それが今を持って過去を美化してはいけないがきものを通しての家族と絆が幻想的な美しさを秘めている。関東大震災にあってからとその前のありふれた日常ときものを描ききった著者の自伝的小説との見解と位置づけは正しい。幸田文の文学はこの一冊に凝縮されていよう。自意識のナルシズムと世界観が挫折をむかえない強さのようなものがそこにある。こういったものをかかれると私も惹かれてしまい、大変弱ってしまう。<ぼろはきててもこころはにしき>とはいったもので生活感あるきもの女性の姿を忠実にえがき、美しくそして内面も強い女性であり続けたいと今昔(こんじゃく)の女性は願っている。そうした意味で一読の価値はおおいにあるため、この著書をすすめる。人のこころに残る作品こそ真の成功であり名著といえる。幸田露伴が父であり自慢の娘と天国でほほえんでいるであろう。
    染と織 安西千恵子 監修 序に代えて、として始まりに万葉の時代から今日まで日本人の美意識が連綿と織り込まれてきたものがきものであるという。美しいきものの歴史は人間の体温調節や護身という目的の衣生活に始まった。全国の織物を写真付きで産地、特徴、用途、変遷といった織物、布の歴史、染色法、をひとつひとつ織物別に記されている。カラー写真だけにどういった織物なのかがひとめでわかりやすい。また本の最後のほうに織具、織機(しょっき)がしるされているが、戸外機、地機、高機、ジャカード機(フランスのジャカードが発明した織機で日本は数えるほどしか現存していないと思われる位数が少ない 帯の高級品で使用され、明治六年に輸入され、明治十年から国産化されたという織機 )、足踏機(手織機と力織機の中間)、力織機(唯一これだけが完全に動力源が電力 機械に一番近い織機)の六つを解説。こういった中で織物の多くは効率よりむしろ適性を重視して織機は選ばれる。
    日本色彩文化史

    前田千寸 

    上村六郎 監修

    上村六郎氏は古代染色家で前田千寸氏も同じく古代染色家でありライバル関係をよぎなくされたのは思想の違いであった。日本民藝館館長で、民藝の父とよばれる柳宗悦氏とも出会っているが、六郎氏と同じような考え方が多く柳宗悦氏の著書へ書かれていく。六郎氏は化学染料の研究者から古代染色家になった。こうした古代染色家の背景があるにも関わらず、日本色彩文化史という前田千寸氏の名著に監修をうけたのは、あまりにも素晴らしい研究をしていたためであると上村六郎氏は語っている。この名著に目を通さずしては当時の染色の研究は語れないと言わざるを得ないのが実情といえる。

    専門書だけに超高額資料のまま現在もほとんど推移をみない貴重な高額資料である。

    正倉院、京都、奈良、大阪、兵庫といった数多くなどの旅を重ねて、古代染色の遺品を検討し、適正と思われる技法を探り試験染めを行ったという実布は巻頭に収められている。監修の上村六郎氏は、前田千寸氏と古代染色についてともに二強を切磋琢磨し、ときに解釈が異なる染色解釈も多かったが、この前田千寸氏の生涯をかけて大成したという名著は、染色資料や著書に厳しい論を展開し、批判されて嫌われているようであると、自分が酷評なので仕方ないという上村氏も絶賛し、二強古代染色家がタッグを組むという歴史的染色資料である。

    一竹辻が花 久保田一竹名品集   辻が花の長い年月のあいだに、だんだんできたもので多彩な絵模様染の最後が友禅染になった。どんな色でも形でも自由にできるところまでいった。久保田一竹氏は若いころに見た辻が花を自分の手で再現したいと思った。そうした長い歴史の試行錯誤を二十年におよぶ下積み経験と失敗の数は、彼を成長させ、古い辻が花に新しい辻が花のあり方をとりいれる新技法とよべる辻が花を表現させることを可能にした。そういう意味で一竹辻が花は伝統文化継承の一つの姿を示した。一竹辻が花は、女性が美しいあまりワァ、一度はそでを通してみたいと思うものといったのは、数少ない一竹辻が花の所有者の黒柳徹子さん。一竹辻が花は美術品の仲間入りをしてしまい誰でも実際に着てみようというわけにはいかなくなっている。

    新技法シリーズ

    きもののろうけつ染

    ろうけつの基本技法から

    着物の手染まで

    中嶋紫都 一般的に友禅染や型染は、はじめに防染をしてから自由な配色で防染されたなかに色を塗り込んでいけるが手描き更紗や手描き染めも技法、工程こそ違え、なんらかの糊状のものを加えて染料を顔料化して用いるため絵の具を使って絵を描くように作業ができる。しかしろうけつ染めの場合、地色が濃く、なかの模様が薄い色の時も反対の場合でも原則として薄い色から順に濃い色へと染め重ねていく。しかも染液は透明のため必ず先に染めた色が大きく影響してくる。透明な水彩絵の具を重ねてぬる状態ににている。色の補色の関係も大切な仕事の色彩知識である。ろうけつ染の歴史は、遺品資料がなくすべて想像と憶測の範囲を出ないがろうを用いた染めは古くエジプト、インド、ジャワなどにありこれがぞくに更紗とよばれる。日本最古のものは正倉院に残る奈良時代のもので中国から伝わったものといわれている。
    定本 和の色辞典   結城紬の無地オーダーではこうした色見本のようなサンプルになる本は便利で、こうした色見本帳のような本は2,3冊あればほとんど抜け目なく好みの、もしくは指定の色を選んでもらえるのである。それだけに仕事で活用されている実用書的な位置づけであるといえる。つむぎの無地の色のサンプルとして、色見本の紙に光沢が無いことも重要といえる。光沢がある場合、サンプリングが不安定になる上、光影で見本とは異なる場合もある。こうした光沢のない色見本は重宝される。この和の色辞典という本一冊でほとんどはこの中から決まるくらいに色が紹介されている。やはり二、三冊の色見本があればそれに越したことは無いが、一冊のその中で色が決まるくらいに一冊の完成度が高いともいえる。

    明治 大正 昭和に見る

    きもの文様図鑑

    弓岡勝美 編 

     長崎巌 監修

    弓岡勝美氏が紹介する本は、極めて美意識と美の質が高いという印象が強く、個人的に、まるで女性、いや女性より女性的な感覚をもっているという点が、粋狂人にみえる。失礼多いが、弓岡氏の著書の多くは、著書に顔写真が掲載されており、それをみるにヤクザのような怖い顔とは対照的な優しく優美で繊細な世界観を紹介している。個人的に弓岡氏の本を集めて、ちょっとしたところで本紹介していたら、本人から東京へくるといいとお誘いがありほんとにびっくりした。パリコレクションのクリスチャンディオールの仕事をまかされて、美意識は洗練されていったそうである。古いきものをコレクションすることで知られているが、最近は青山にお店を出店して、和のぶんかに関する塾を定期的に開いて、若い世代へ向けての企画に力を入れている。晩年になって、そうした貴重な経験の多くが彼の言葉に重みを与えている。弓岡氏が手がけるものは美しいかどうかという点は本当にぬかりがないもので、こうしたことは彼のてがけた作品の全てに一貫していえる。
    きもの帖

    幸田文 著

    青木玉 編

    幸田文こうだあや さんは着物で一生過ごしたといわれ、それを素晴らしいといわれるのはうれしいが、着物姿で結果的に洋服を着なかったのは、洋服を着るタイミングを逃したり、また着物姿でいなくてはといった信念があたわけでなく、複数条件が重なってのもので、といった感じのようである。偶然の産物くらいのものだという。この著書は60歳をこえてからの熟知ある視点から、メッセージのようにかかれている点で私も女性だったらもっと参考になった本だという気がする。きものは一年にニタン新調しても10年で20タンになる。きものは、はじめはよそいき、買い物着、部屋着、生活の布、という点でさいごまで活躍すると説いている。この著書からではないが、藍染めの昔の野良着はもっと現在あっていいものと思っていたが、藍染の布は最終的に細く切ってよじり、それに火をつけて蚊をよけるために畑で活用されていたというくだりで納得させられたものだ。ものが少ない時代に完成された価値観は強い気がする。幸田文の生活の知恵シリーズは台所としつけが出版されている。

    Vegetable Dyes 植物染色

    エセル メレ 著

    寺村祐子 訳 著

    これまで資料集めに奮発しすぎて金欠のため、ゆうき図書館で借りた。エセルメレの名著で知られるVegetableDyes(ハンプシャーハウス印刷工房)は訳者序では18世紀半ばごろから始まった産業革命によって、イギリスの染織界は急速に手工業から機械工業に転換し、その中で伝統的な手工芸が減っていくことに危機感を覚えたエセルメレが自らの研究と経験をもとに多くの染織に関する指導書を残した。VegetableDyesの初版が大正5年のことで容易に植物染料が手に入いらないくなったり自由に使えた媒染剤が環境汚染問題から厳しい制限などがあり、全てがそのまま活用できるものではないがウール染色の基本を丁寧にかつ広い範囲に記している点で他に類のない技法書であるとしている。エセルメレのこの著書(イギリス)の中でも寺村氏は『地衣類』による染色であるところは、日本では古くから絹や木綿を染めるのに植物染料を用いてきたが『地衣類』を用いる伝統は全くなく、それだけに大変斬新に感じたという。『地衣類』に始まり『菌類』、絹や木綿には染まらないことで知られるユーカリ(月桂樹)などの試染を始めて30年あまりがたち、180種1000色以上の色見本ができあがったという。大正五年に出版されて間も無く日本では柳宗悦を中心に民藝運動が始まり、イギリス陶芸家バーナードリーチ氏を介してメレも賛同したという。民藝活動の主力メンバーの笠間焼人間国宝で知られる濱田庄司氏や柳宗悦氏などと交流を深め、日本でも展覧会が多く開催された。染織界の優れた教育者でもあったメレの素材や植物染料に対する取組みの基本的な姿勢を教養的古典としてよむのも悪くない。

    初級技法講座

    織物 用具と使い方

     

    水町真砂子 著 こちらも金欠でゆうき図書館で借りた。資料集めは50冊以上を半年で集めると、いよいよ貧乏になる。それはさておき、この著書の、織物道具は結城紬では使わない用具は新鮮にうつる。この著書の参考書籍は新技法シリーズ ウィービングノート 岸田幸吉 新技法シリーズ タピストリーを織る 島貫昭子 新技法シリーズ 手織りの基本 土肥悦子 新技法シリーズ はじめての織物 荒木峰子 新技法シリーズ 紐を織る 山梨幹子 など新技法シリーズからの参考からさらに噛み砕く手法を用いての初心者にあてられた出版である。2000年以降の出版の織物関連の著書の多くはコンピューターなどの進化に同じく図案といった設計ははかりしれない恩恵を受けている。そうしたコンピューターによって表現可能になったものは数え切れない。パソコンにより、より高度な図案や表現が可能なものになったのであるから一概に機械進化を悪く言うのもおかしなもので用途によっては便利になったことが多い。この著書も例外ではない。みたことがあまりない用具に関しては、おもしろたのしい読書になる。また原始的な地機から正真正銘機械の織機までに至るまでの変遷(へんせん)の中間に位置する道具は、生産期間が短いことなどからも貴重で現存数も少なく、半自動機械織機は食い入るように私は資料をあさる。それはそれで充実している。
    織と文 志村ふくみ 著

    志村ふくみというと人間国宝としてのキャリアが長くなって、質問される側に立つことが多いが、あなたは何故植物染色をなされるのですか?という質問を随分されたという。そんな風な質問をこれまで、きがついたらやっていましたという他ないという。化学染料は使ってはいけませんか?という質問には、そんなことはなくどんどん使ってくださいといってきたという。化学染料は自然の色彩を基盤にして人間が考え出したもので、どのような優れた感覚を駆使してでも、今までに見たことがない美しい色彩を生み出すことができると志村氏はいう。志村氏は続ける、、、植物染料は、植物染料という前に色がある。多分その色のことなのだろう、私が思わず知らず今日まできてしまったのは。『色は色ではない』ところにひきつけられてでは『色は色ではない』とはなんなのかと思ってしまう。だから植物染料に関してその問いに答えられないという。しかし『色は色ではない』と思っている領域が化学染料のはなく、(化学染料は)色は色である。という。では『色は色ではない』領域が自然のむこうにあって、そこから地球圏内に突入する時、色になるのだろうか、その前はなんなのか。『色は光の受苦(じゅく)である』という言葉がある。(これは確かニュートンの言葉です。)この言葉に出会ったことがずっと続けている基盤ではないだろうかという。

    こうしたワイドな思想は、染色がヨーロッパは近代科学への方向、日本は古典や歴史の文献に始まる自然と植物への回帰という方向の中、特に異質なことはヨーロッパでは神と自然というゲーテ的思想(ゲーテ 色彩論)に通づる考えの持ち主といえる。志村ふくみがこの織や染めの道を選んだ最初の動機は明確だった。柳宗悦との出会いであり織物をやってみてはどうかとすすめられたのだという。ここから柳宗悦の著書をよみ、動機はゆるぎないものへと変化していった。柳宗悦の強烈な美術論や宗教論は近年新しい批判が生まれているがその中でもこれは同感であるというのが一文たりともあればそれでいいような気がする。

    きものであそぼ 遠藤瓔子 著

    出版が平成14年8月とあり、著者のはじまりにはこうしるしてある。------インターネットに載せる情報には限りがある--------この119Pに表現した情報量は現在であればホームページ容量が限界に達するということは考えにくいが、確かにこの頃、画像一枚をネットに反映させる労力といったら汗がにじみでるものがあった。現在はそんな時代を本からすかしてみると楽しいのかもしれない。古書店に静かに出番を待っていた。このなかでこの頃とシンクロすることとして500円から2000円で着物をお安くお得にゲットするというテーマは同じといえる。ただしインターネットでの情報発信が現在のような快適性は秘めていないうえに情報量も少ない。

    私はこういった着物を着るために雑誌感覚で買ったというものも含めて、あなたが着物を離れて、また袖を通したいと思う日が再び訪れた時に、心の支えのようにかたみのように持ち続けてもらいたいと勝手に思い巡らせる。

    TODAYムック

    ゆかた記念日2007
     

    ゆかたカタログであるが、この約8年前にあたる当時のカタログをながめるというのは古書店ではあったものの、得ることはあるのかという、大体ゆかた事情に詳しいわけではないので8年という月日がどれくらいの勢いで通過してきたのかもわからない。ただ驚くことに、ゆかたは、一年で着る機会や時期は短いために、一発派手目を着てみようなんて心がワクワクしているのが写真から伝わってくる。そして勢いが最後まで衰えない。唯一男性がゆかた姿で数ページ任されている小池徹平くんが華やかな女性の中、男性というより中性的で華やかさ満載のなかほぼ違和感がないことも恐ろしい。

    藍染めのやや白地が多い爽やかなゆかたはどの時代も無難でかつ品良く見える。

    NHK趣味悠々

    市田ひろみのはじめてさんの

    着物塾

     

    市田ひろみ 講師 

    市田ひろみさんは結織苑(ゆうしきえん)で結城紬について語ることが多かった。結城紬では柄をすすめていたからである。無地派の森田空美(もりたあけみ)さんとは逆の思想であった。結織苑は長い年月に幕を閉じ現在店をたたんでいる。結布着屋スタッフで結城紬研究家の石島眞里氏は2014年の紬講習会ではその無地派への流れについての流れについてかるく触れていたがメイゲンを避けている。私は森田空美氏が無地をすすめるのはその時代には無地派についても仕方がないと思っていた。紬で無地を着る人がいなかったからである。なお、市田ひろみさん自身は結城紬の柄について固執し続けているわけではない。

    クロワッサン特別編集

    着物の時間

      ページのはじめごろに村田さんって方が蚊絣の帯状を着ている。そのギャラリーの村田容子さんって方の結城蚊絣の図案、コレとちゃうかな、なんか依頼うけた記憶ある。どこの問屋か忘れたけどこの図案の結城紬だと思う 。しかしよくみると、さっきの図案の帯状の蚊絣が斜めに切られるような図案なのでこれの応用であると。蚊絣は一反からつくれる唯一の絣でみたことがない珍しい絣がつくれるのもいえる。男性なら断然、全体に配置されるあきのこない絣がにあう。ただ村田容子さんは呉服屋だったというので、その筋には詳しい親や関係者、もしくはベテランの<しっかいや>という着物をすすめる番頭などがいたと思われる。なおその図案は左文字にリンクしてある。
    日本の絣,展 図録  

    日本の絣は庶民の織物として広く全国に普及し親しみ深い織物であったためにその美しさは私たちともすれば見過ごしがちであったのではないだろうかというきりくちに、紋綜絖(もんそうこう これは糸を固定する部分で糸道をつくるしくみの部分)や紋機を必要とせず、地機のような単純な機を用い織物も初歩的な平織りによっても制作できることが利点とし、世界的にみても比較的原始的な染織技術を継承している。このことは現在、絣が盛んな地域にみてうなずけるとしている。絣は各種の染織品のなかでも極めて特殊な存在であるという。普通、文様のある染織品を織物と染物とに分けた場合、織物は先染めの糸を使って織りの工程で文様を織り出したもの、すなわち地と柄の組織を違えることによって文様を表す綾(あや)と緞子(どんす)、多色の彩糸を織り入れて文様をつくる錦(にしき)をさし、一方文様染は製織に布帛に文様を染め出したものをいうが、ここで<絣>となるともちろん織物に分類される。確かに先染め糸を使って表すという点では織物であるが、しかし、その文様は組織の変化や彩色を加えての生まれるものではなくあらかじめ染めわけた糸によって織られる。つまり糸染の段階で防染や捺染によって文様がうまれるのである。ちょうど染めと織りの共同作業によって生まれるのが<絣>としている。余談であるがこの著書に掲載されている結城の蚊絣は私の先祖の作品である。

     

     

    またこれまでの絣関連の本から私なりに絣についてメモしたことを箇条書きして掲載することにする。

    沖縄 okinawa

    日本の絣のはじまりの産地で14世紀に始まる。

    久留米 kurume

    1800年前後からの伝統の絣。絵絣と幾何学文様を組み合わせたものが美しい。その絣の美しさと高度さは、のちに、山陰や伊予、備後に伝えられる。私がリスペクトしている日本三大絣の産地でもある。

    山陰 san in

    1751年から続く伝統の絣。絵絣でしかも繊細なものが目立つ。

    伊予 iyo

    1800年前後からの伝統の絣は山陰と同じく、型紙での絵絣が目立つ。そのため、絵絣に関しては山陰と見分けるのは困難とされている。

    越後 echigo

    上布の産地で知られるが沖縄絣の特徴を現在も色濃く残った珍しい産地であり、それ以来、進化も衰退もない。上質な麻による澄で明るい美しさが豪雪に閉ざされた冬仕事で育ち守られた。

    近江 oumi

    越後と同じような沖縄絣に影響している産地といえる。上布であることからも同じく似ている。滋賀県にあるため豪雪は少ない。

    結城 yuuki

    精巧な図案と絣で知られている。十字絣(蚊絣)と亀甲で知られる。久留米から絣を導入し、そのあと足利(あしかが 栃木県)と桐生(きりう 群馬県)と伊勢崎(いせさき 群馬県)で技法を取り入れて以来、究極の変遷を辿った絣である。

     

     

    日本染織総華 絣 浦野理一  木綿の紺絣は年配の方などなら誰でも郷愁(きょうしゅう)を感じる織物である。むかしの絣を知らない現代の若い人の間にさえ親しみをもって見られているのが絣である。それだけ紺絣は歴史的にも、さほど古くなく親近感と庶民性があり、日本人の心に直接ひびく本質的なものをもっているということがいいできる。世界各地に古くからあるのになぜ日本の絣だけが独特のものに大成し、しかも日本人の庶民の生活に密着したのかをときあかしたいとう。それは著書にかかれていくが、この本の8割は絣のビジュアル文庫的資料となっている。絣は飛白やかすれなどといわれ、文献上最もはやくに登場するのも1600年以降となっている。(その文献は 日葡辞書 という)。有名な<和漢三才図会  1713年わかんさんさいずえ>にも絣の項目はないのである。話がとぶが、私はこうした<絣>についての仕事でいままで従事し、生産をもしてきたがどのように絣を守っていくのかと考え続けている。絣を昔や過去のものと葬り去ることは簡単であるが、葬り去ることができずにいる。
    染織事典 中江克己 編

    昭和56年に出版を試みている。著者中江克己氏がいうに、昭和49年夏から準備を進め、昭和50年から約4年間に日本の染織全23巻を刊行したが、その意図したところは伝統染織の姿をできるだけ正確に記録し、伝えることであった。という。現場から技法や苦心談を収録し職人の聞き書きに多くのページをさくものとなったがそれも特徴になり自負しているという。刊行および出版はその日本の染織全23巻の成果の上に成り立つものであり、集大成の意味合いがあるという。染織事典の企画は、すでに日本の染織シリーズ刊行開始と共にスタートが切られ、準備を進めていたとして数万語に及ぶ染織用語を拾い出し、取捨作業にとりかかり、数千項目に厳選。しかし、様々な研究論文をも照らして基礎原稿をつくり、できるだけ正確に、的確に記述したが、個人差が見られることでもあり、複数の染織家に取材し一般性をもたせるよう配慮したとして、八年間の実りあるものとなった。

     

    現在のようにインターネットですぐに答えがみつかるようなシステムの構築を目指す、素晴らしい企画である。価格は当時8000円となっており、一般性をもたせるとしても、購入者は限定的とみるのが妥当なものである。

    大地の染織

    吉見逸郎  著

    大変興味深い資料となった。染織におけるストーリーが数奇なもの、生き方にうつるのも、背景には経済性と無縁とはいいがたいがそのことがより切実な生き方に現代ではみえてしまう。2008年にそうした職人や作家の一時的封印、保存のように残された資料ともいえる。長文になりそうであるが、本の紹介としてあげておこう。北海道アットゥシ織 アイヌ民族の天は無駄な命はさずけないという教えにいきる職人 岩手県紫根染め茜染 古典の色を紐解いて染める職人 紫根や茜は薬草的価値がありそう簡単にはいかない染 宮城県正藍染 人間国宝千葉あやのの正藍染 女から女への継承 新潟県越後上布 年間生産反数50反になった平成 半年を費やしての糸づくり 東京都すまし建て 人間国宝松原定吉の長板中形(ながいたちゅうがた)の型付けと藍、すまし建てを継承した4人の職人 などである。他にも興味深いものがあげられている。備後絣の継承者は現在一人になっていることなどの取材も染織の世界は美談より厳しい現実が背景にある。常々、私はつむぎは深刻化を増していくと修行中の身で思い、預金は仕事のためにと意識してきたことはこの現状において意味を持ち始めている。
    沖縄織物の研究

    田中俊雄 田中玲子 著

    柳悦孝 監修

    沖縄の織物の研究を戦前から戦後にかけて出版が多く世にでて高い評価をうけた。現在もその名著的位置付けは変化していない。また戦前の柳悦孝と田中俊雄共著の<沖縄の織物>という本は限定出版となっており、幻とささやかれているが県立図書館以上であれば保存されている可能性がある。発行されて全国広域で高評価されているが、輸送二重函の外側は欠落してしまう場合が多いという。中身が肝心でありコレクター以外でも所持者は多い。

    染織の基礎

     

    文様についてまとめた。

    植物文様

    植物文様は日本の文様の中で季節、季感表現はもっとも顕著。<枕草子>草の花は の条に秋草(あきくさ)という語を見ることができる。秋草というと秋の七草をイメージしてしまうことがある。季節と関わり深く季節を再認識する意味合いでも野の花はさりげなく静かに生きる。単に秋草というのは、草に限らず、花というようにも置きかえることもできる。<枕草子>草の花は の条では、何の秋草の美しさに激賞したのかといえば、なでしこである。秋草を春というように季節を変えてみてみよう。<枕草子>木の花は の条にこうしるされている。桜は花びらが多く、葉の色濃く、そして枝は細いのがよいとある。このような文献と植物とを当てはめてみると桜は枝垂れ桜がもっとも理想的といえる。梅や藤の花房長く垂下するさまを思い深く記述している。

    動物文様

    着物の文様としてみると、その意匠はかなり限定的なものとなる。例えば鶴、千鳥、雀、蝶などの羽ばたいてみせる鳥類全般のモチーフが中心をしめている。空想上の鳥類、鳳凰などもまた同じく少ない。獅子や熊など蛮絵とよばれて登場するものもあるがそれも極めて少ない。

    風景文様

    風景文様というと山水の景は、やはり神仙の住む高山であり当時は楽園としての考えを秘めていたとみるのが一番よいのだろう。平安時代の女房の装束に登場するため、伝統は古い。江戸時代中期、友禅染の完成以降、再び風景文様は盛期をむかえる。友禅染は、あらゆる対象をあたかも自在に絵を描くように表現することが可能となったため風景文様はその波にのった。江戸時代中期は日本各地に対する興味、観光の概念もうまれていることから、友禅染ばかりが風景文様の盛期をつくりだしたとは一概に言えないが複数の要因が好循環していることからも文様は影響する。

    文芸文様

    文芸文様は意味内容のある意匠ということで、歌舞伎文様などもこれにあたる。意味内容ということになれば、中国の衣服に見る神仙思想、仏教的な性格の文様、ギリシャ神話の意匠、さかのぼることエジプト王の行状をあらわしたものにも見いだすことができる。しかし日本の場合は、平安時代の『栄花物語』などにしばしば記されているように『古今和歌集』の一首の意匠化であり、『和漢朗詠集』の詩を色彩におきかえて着ようとするように純粋に文芸を意匠化する点が注目され、世界的にみて珍しい文芸文様の評価がなされている。

    風景文様(江戸)

    江戸時代後期には、源氏絵をふまえつつ、ついに風景文様に変容した『御所解(ごしょどき)』とか『江戸解』とよばれる一連の武家女中の意匠が注目される。

    文芸文様(江戸 歌舞伎文様)

    文芸文様の一変形として歌舞伎文様をあげる。例えば役者の名前やその屋号を意匠化し、男伊達の心意気をあらわす『鎌輪奴 (かまわぬ)』や音羽家の『斧琴菊 (よきこときく)』の判じ文様などは、よく知られた例である

     

    とこのあたり、までが大まかな概要をなぞるものである。

    この本では染織素材の文化圏 吉田光邦による調べによるものでは中国のイメージをつくったのは絹であるとしながらも紀元一世紀のローマ人、プリニウスのその著<博物誌>に羊毛のような森の産物とされる絹の産地をセレスとするギリシャ人、パウサニアスはその旅行記でエリュトラ海の果てにセレスという国があり、住民はエチオピア種である、そこではセルという虫が飼われていると記している。このじてんでは、五年目になると虫は糸をはくと記している。絹の産地としてのセレスの名は、そのまま絹=シルクの語源なったのである。ーーーーーとある。中国の一部では、蚕の存在が登場し始める、様々な文献のしるしかたになされていくことになるが、中国の王にあたる身分のものは、蚕の存在を極秘にしていくことで人の記憶から一度消える。再び、蚕の存在が世界で知られると中国は飛躍的な染織世界の黄金期を築き始めることとなる。

     

    きもの文様事典

    きものの色 家紋 

    本吉春三郎 著

    きものの特色は裁断がすべて直線でなされていること(直線裁ち)である。パリやロンドンのスーツ(紳士服)は、人間の体が全て曲線でできていることにあわせて、曲線裁断を採用する。仮縫いは五回をする大変なものだという。日本のきものは、洋服の自由な形に対して定形の衣服ということができる。洋服は流行り廃りによる変化の変遷に常にさらされており、時代において周知の事実といえる。きものもその傾向がみられるが、代を譲る、例えば母から娘へときものをついで、仕立て直しができる点で融通性が優れている点は洋服にはないものである。

    またこの本からこのサイトの勉強不足の点を修正することができたため、その点を肉付けする。

    秋草文様(きものの文様)

    秋の七草とは、萩、すすき、くず、撫子、女郎花(おみなえし)、藤袴(ふじばかま)、桔梗(ききょう)をいう。また菊、竜胆(りんどう)、朝顔そのほか秋に咲く草本の総称。きものにつける場合、全部ではなく一つ二つが独立してついていても秋草文様とよぶ。秋草文様は秋に着るきものの文様ではなく、夏のきものにつける。夏に秋草文様を着る意図は、盛夏の季節に着ることで夏涼しの感覚を出すと同時に実際の季節より早く着ることで秋をさそう。いいかえれば夏のきものの文様が秋草文様ともいえる。夏の中心的存在にある文様が秋草文様である。

    うち織 縞乃着物

    養蚕農家の手織の着物

    安藤やす江 著 蚕を飼い、糸をとり、染め、織り、仕立てる。この一貫作業を農業、養蚕、家事、子育ての合間にやってのけた女性たち。決して珍しいことではなく、ごく普通の人たちだった。明治中頃までは化学染料がなかったために身近で手に入る植物やお茶の煮出し汁などを使ったという。その色は茶や黒でありまた主流の色であった。男女の差は色にみることはできなかった。そうしたごく当たり前のように日常的に着られていた着物、そして柄は縞の黒と茶の渋い色が共存と工夫でなりたち、本の中でカラー写真で紹介されていく。それは人間の等身大の大きさではなく雛人形の大きさの着物で、、、、。本の最後に、東京家政大学生活資料館の寄贈資料受領証の証明が貼られて終わる。私たちにとって20世紀とはどんな時代だったのだろうか。
    現代の織り 誰でもできる織物

     

    小名木陽一 編

    大角徳江

    藤野靖子

    冨田潤

    仁尾敬二

    能口育子 著

    旧石器時代は、絶えず獲物を狩るために安定のない移動をする狩猟が中心の生活であった。それはラスコー洞窟画にもバイソンやマンモスの写実からうかがえ知れる。新石器時代になると農耕や牧畜が始まって生活が安定的で定住的になる。人類が織物を始めるには少なくても三つの条件が必要である。まず経糸を等間隔に平行に並べ緯糸をそれぞれに直角に交差されること、そのためには経糸の奇数と偶数を選び出す能力が必要になる。こうしたことは、数理的な抽象概念は新石器時代の安定の定住から始まった牧畜や農耕によって人類はメカニズムを獲得したとみられている。新石器時代の抽象文様が現れ始めたことは、安定と定住によって空間認識が生まれ、円や四角や三角の連続文が描かれていることからも、こうした抽象形態を創造していく過程で織物に必要な平行、直角、奇数と偶数の抽象概念が生み出されるようになったと考古学上考えられている。人間特有の毛髪は人間だけが長い頭髪と局部の体毛を残して裸になってしまったのかも興味深い問題で、髪の毛を結うことと糸を扱う技術との関連が指摘されているが考古学上、結論へ導くことがいまのところ困難であるという。では衣服を着る目的は何かというと、着衣によって識別や誇示、威嚇を行うためであると考えられているままとなっている。絹の起源は、古代中国だという。紀元前2650年の昔、黄帝の妃、西陵氏が繭から糸をとりだすことを考え出したことが始まりとされている。また現代の精錬と漂白は、精錬はアルカリ類を用いて精錬され、漂白は酸化漂白剤と還元漂白剤を素材によって使い分けるという糸を染める前の処理は確立されたものになっている。

    手織の技法

    居宿昌義

    田中佳子 共著

    織りについてどの辺りから噛み砕くかといえば、人間は織物をつくる時に経糸(たていと)を地面に対して垂直(すいちょく)に張る方法と、地面に平行に張る方法がある。ということろからである。垂直に張る方法は、竪機(たてばた 難しい漢字であるが有名)にその原理が元になっている。平行に張る方法は、地機、高機の経糸の機巻きに該当する。この著書が丁寧に導いたこと部分は、経糸を一度に持ち上げるしくみについてである。経糸は織物で上糸、下糸の二本で一組、一対とされている。そこへ緯糸(よこいと)が通されて上糸下糸がクロスして織り組織が組み立てられ、織りこまれていく。この上糸と下糸そして経糸を一度にもちあげるという、一見簡単なしくみは、原理は確かに簡単であるが、この解明にはかなりの時間を費やしたと思われる。持ち上げたい経糸を一度に持ち上げて、というしくみは、三つの方法から出来ている。鉤(つりばり)のような形のものによって経糸をかけて持ち上げる方法(1)、紐で一本一本、結んで持ち上げる方法(2)、一本の糸を輪奈状にして持ち上げる方法(3)、の三つである。結城紬は(3)にあてはまる。これら全てを総称して 綜絖 そうこう と呼ばれている。V型の空間をうみだし緯糸を通し、糸は常に8の字型に交差し、8の字の隙間の中に緯糸が通っていくことになる。この先も綴りたいが、著書のまんまでお前は何の変化球も入れていないと言われるとごもっともで、つまらん解説がいらない出来栄えが本書 手織の技法 なのである。結城図書館で借りることができるため、私物にしたいのであれば、借りてみて検討していただきたい。あえて援護射撃するならば地機と高機の織りのしくみについてである。参考までに独自資料を掲載する。参考にしていただきたい。独自資料はこちらです。
    日本の織物 北村哲郎 慶應義塾大学文学部で鍛えられた文章と調べてまとめあげる能力をいかした著書といえる。この本で知ることができるものは、次にあげるものである。羽二重(はぶたえ)、塩瀬(しおぜ)、精好(せいごう)、仙台平(せんだいひら)、琥珀(こはく)、茶宇(ちゃう)、竜紋(りゅうもん)、綟子(もじ)、甲斐絹(かいき)、八端(はったん)、上布(じょうふ)、明石(あかし)、透綾(すきや)、紬(つむぎ)、銘仙(めいせん)、解織(ほぐしおり)、斜子(ななこ)、しじら、縮緬(ちりめん)、お召(おめし)、唐桟(とうざん)、絣(かすり)、紅梅織(こうばいおり)、吉野織(よしのおり)、紗綾(さや)、一楽(市楽 いちらく)織、八つ橋織(やつはしおり)、緞子(どんす)、錦(にしき)、経錦(たてにしき)、倭錦(やまとにしき)、糸錦(いとにしき)、綴錦(つづれにしき)、コブラン織り、浮織物(うきおりもの)、二陪織物(ふたえおりもの)、紋白(もんじろ)、唐織(からおり)、風通(ふうつう)、繻珍(しゆちん)、モール織、厚板(あついた)、金襴(きんらん)、羅(ら)、絽(ろ)、紗(しゃ)、縠織(こめおり)、絽金(ろきん)、ビロード、となっている。大まかな概念を知るきっかけになればいいとおもう。
    HOW TO 絵織物  ユミコミノーラ 著

    子育てにより好きだった油絵の用具が子供の誤飲など等の防止のために中断せざるをえない状況になり、油絵ではない他の表現方法はないのか著者は模索する。そしてスウェーデンのフレミッシュ織と運命的な出会いをする。フレミッシュ織ならば、子育てと油絵のかわりに絵織物をつくれる、と直感的に感じるのである。楽しい作品作りのきっかけにしてほしいという願いがこめられた本書は油絵も掲載されていて思い入れが尋常ではないようである。絵織物を織る前に用意するものと題しての記事では、麻糸=ちょっと高いけど味わいがある。綿糸=たこ糸のようなものからもう少し細いものまでいろいろ。ウール=これはおなじみですね。太さもいろいろ色もいろいろで紡いでオリジナルの太さやブレンドするととっても素敵!などと終始、好物紹介しているかのように優しい口調が続くのも本書の特徴であろう。さぁ、織ってみよう、というハウトゥーの記事になると具体案を出して指導者に早変わりといったところ。デザイン画を考えよう、色彩計画をしよう、サイズも決めよう、枠をつくり好きな大きさのパネルに3〜5mmの間隔で釘を打つ、釘にかけて経糸たていとを張って絵織物をつくっていこうといった感じでイラストを交えて丁寧な指導がなされていく。これをみていると私も絵織物に挑戦してみたい気分にさせられる。子育てとの両立があってこその、充実したカテゴライズの成功例をみているかのようだ。さぁ、あなたも受け身から攻めていく姿勢にシフトチェンジしてみないか。変化することを望まなくなった時点から老人と同じになってしまうのだ。人間意欲的なほうが著者のように美しい生き方ができるし、お得なうえに発見もある。人生いろいろ、といううたもあるが、楽しんでも楽しまなくても時間は流れていくのであれば楽しんだほうがいいとわたしはおもう。

    楽しい古裂 更紗 

    上田晶子 選

    奥田実 文抜粋引用

     梶洋哉 写真

    インドネシアを中心に多種多様な染織布をコレクションのように美しい写真で掲載されている。うっとりする。現在はインドネシアは二百以上の民族で構成されているというのだから布ひとつとっても多種多様にはなるものであろう、美しい。伝統染織の技法も当然多様であり、絣、バティック(ジャワ更紗 さらさ)と呼ばれる、ろうけつ染、紋織り、紋り染め、刺繍、印金、描き染め等が主要なものであるが、スコトラ島南部のコームリン、ロンボク、バリ、ティモール各島の一部やスラウェシ島、タナトラジャ、等には綴れつづれ織りやカード織りの技法もみられるという。百年以上前に織られた支配者階級の人々の儀式の腰布、肩掛け、壁布に複雑な技術工程(戦国武将で和室にインド更紗をふすまにした人物もいるくらい美術価値がある、かつ美しい。)を経た織物が多くみられるとあって布たちは多彩性に富んでいるが、インドネシア共和国独立以降は諸民族の精神的バックボーンが交通と通信の手段と、通貨、経済の発達によって崩壊の速度を増し、今や海外輸出のためや旅行者の土産品需要を満たすための企画生産の織物が中心となってしまっているという。それは美しい織物布で知られる国々、タイ、インド、トルコも例外ではない。沖縄県の織物、広くは日本全国の染織、また広くは他国の染織文化も衰退の一途をたどるものとなっている。後世の人々にとって織物や自然布は人類は必要としないものなのだろうか。私も頭をかかえてしまいそうである。
    織りと染めの歴史 西洋編  佐野敬彦 著

    染織の美と題して生活の基本アイテムとしての染織品、ものからアート、素材美、技法美、意匠美の三大要素にせまっていく。古代の染織という題では南シベリアのパジュリュク出土、ササン朝ペルシアの絹織物、ビザンティンの絹織物、コプトの織物とせまっていく。イスラムやイタリア中世とルネサンス染織、フランスの絹織物、イギリス、イングランド、ウエールズ、スコットランドの染織、20世紀前半の染織、古代アンデスとアフリカの染織というように世界各国の諸事情染織関連を掘り起こす。染織史は世界の枠で地球規模でみてみるとまた違った意味での衝撃と発見が用意されている。私が箇条書きのようにまとめたもの、興味深かった個人的なものを掲載して筆をおこう。

    ーーーーーー1919年ドイツのヴァイマールに開校したデザインと建築の専門学校、それがバウハウスである。1919年というと世界史ではベルサイユ条約がどうのこうのという中学社会授業に習う年号である。話を戻して、バウハウスは放任主義で自由を奪わない教育ではあるが最終的にはすべてのデザインは建築に集約されるというものである。バウハウス学校の特徴(特長)は、何と言っても、シンプルで機能的なモダンデザインを尊重して重んじることにある。文様や色彩のはなやかさや遊び心よりも、シンプルでしかも重厚であたたかく、織物の組織や素材がつくりだす造形美を求めるのである。近代織物の方向を決定づけたといっても過言ではない。バウハウスはナチによって閉鎖されたが、ナチから逃れるように移住した卒業生と教師によってバウハウスの造形精神は世界に広められた。アメリカの染織は、バウハウスやスカンディナビアからの染織作家を得て大きく前進した。フランスのアールデコの染織、ポワレやシャネルなどのモードの影響で衣装用のテキスタイルが形づくられていった。モダンテキスタイルの教育を北欧スウェーデンやノルウェーなどの雪国の染織家がすすめて教育し、織物はアメリカではクラフトアートととして育っていくことになる。ーーーーーー

    織りと染めの歴史 日本編 

    河上繁樹 

    藤井健三 共著

    <蚕経>によれば養蚕の起源は、先資料記述と重複するが、中国の黄帝その妃 西陵におこなわれていたという。すでに新石器時代に絹の生産が始まっていたと推定されている。養蚕、絹織物の起源は先史時代までさかのぼる。漢代(漢時代)の錦は(我が国の人間国宝北村武資さんの継承した特技技法として尊ばれている 経錦たてにしき)経糸たていとで文様を織りだした平絹がノインウラ遺跡で経錦の残欠が出土されており、他にも現地で織った彩色の毛織り物がみられている。毛織り物には、ちぢれ毛で鼻が高い人物と葡萄ぶどう、あるいは亀甲四弁花文などの文様を織りだしたもの、それはまるでひし形のようなカゴのめで葡萄柄の文様を囲むかの如く織り組まれた文様、いずれも緯糸よこいとで文様を表すものである。中国で発展した錦が経糸で文様を表すのにたいして、ウイグル自治区のニヤでは毛織物は西方的な緯糸による顕文という織法の違いが表れている。ノインウラ遺跡はモンゴル人民共和国に位置しているが、これらは中国シルクロードを経由して、はるかシリアのパルミラなどからも漢代の絹織物が次々と出土していることから、中国の絹技術は多くの国に伝来していることがわかる。古代ローマでは中国のことをセリカ(絹 という意味)とよんだ。日本には海を渡ってもたらされて養蚕技術は紀元前150年から前100年ごろの弥生時代のことで弥生時代に養蚕技術ができあがっていたのである。(これらは布目順郎の研究で明らかになっている。)九州北部に集中して出土例をあげている。中国の正史<三国志>のなかの<魏書 ぎしょ>すなわち我が国のいうところの<魏志倭人伝 ぎしわじんでん>には、三世紀ごろの日本の状況が伝えられている。そこによるところ、稲作、養蚕、絹織りが定着している姿が残されている。卑弥呼(ひみこ この時代における日本の王)の朝貢にたいして、魏帝(当時の中国の王)からは毛織物もおくられているがなかでも<絳地縐粟罽(絳綈縐粟罽)>や<細斑華罽>が贈与されているが縐(すう)は表面に皺(しわ)のあるもので我が国の縮ちぢみに近い織物で貴重な史料であるのではないかと推定されている。卑弥呼は中国からもたらされた絹関連技術を集結させて日本製の錦<倭錦>を中国へ賜った。卑弥呼のあとの次の日本の王も同じく最先端技術を駆使して<倭錦>を献じたが、中国の文献では<倭錦>のことを<異文雑錦>とよび、珍しい文様の錦や他国の織物の錦という意味であったであろうが、当時の突出した絹の先進国の中国からすると日本の錦はとるに足らないものであった、と研究者はくちをそろえる。

    これらの重要染織史料は結城図書館で借りることができるために一読するといいかもしれない。また他国と我が国の史料を関連づけて分析して解明してみせている研究者の困難さ難解さ労力には、現代に引き継がれて語られて、同時に感謝しなくてはなるまいと思う次第である。

    LIBRARY iichiko

    着物の文化学 CULTURE OF

    KIMONO PART1

    WINTER2013NO.117

     

    河北秀也 監修

    山口源兵衛

    笹島寿美

    山本哲士

    牛首紬:西山博之

    結城紬:奥澤武治 井上和也

    黄八丈:山下誉

    編集及び研究ディレクター山本哲士氏の書き残したディレクターズノートの記事が興味深いものと私にはうつる。その中の共感と思わしき文章を引用する。キモノの意味を言説化していくことは大事である。という一文章の言葉である。もう一つあげるならば、この文章である。<仕事がいそがしくなるとつい、洋服を着てしまう。それは労働に便宜であるが、文化は失っていく、それが体感的にわかった。>という部分である。わたくしごとの等身大の話をすると、紬とはどういうものかということを考えてみると、生産においては、10年以上のキャリアをつんで、また紬の現場をみてみると必然的に必要な、必要になる要素をあげるならば、やはり資金面(資金確保)での安定化もなければ、生産に集中して打ち込めるものではなくなってくる。というものである。単に体力の衰退だけの問題ではない心理的なものにもさしかかるのである。この難しい問題は生産者になってみると必ず出てくる問題であると思う。生産は、産地問屋から私どもの機屋(はたや)などの織元に完全受注によって生産は成り立っていた。不景気のうねりとキモノ需要のふたつによって成熟期をむかえた結城紬生産は、はるか長い伝統を伝承されて生産されてきたが、問屋と機屋の関係も崩壊をむかえた。産地問屋は注文を出すことがなくなり、やむなく路頭に迷う生産者も出始めている。こうした事態は2010年のユネスコなどの文化に関わる組織が、ユネスコ無形文化遺産のリストアップして登録をかけたという危機リスト入りを果たすという不覚にも不名誉的名誉にもみえうることを一生産者として覚えたのである。こうした現実になると生産は原料を仕入れること、それを使って織物をつくること、それらの二つをとぎれることなく継続性をもたせること、の三要素が生産においては重要な要素となり、資金面を強化することがその三要素を安定的円滑に一番意味があることとなっていく。資金面強化というのは私の場合であればコンビニで夜勤をすることで一応の形はとってはいるがいつまで続くかわからない。そして、この著書の話にまた戻すと、こうした事例には先例があったことを知るのである。インタビューによって織物の現場をえぐり出す手法のこの著書及び資料は、とくに牛首紬(うしくびつむぎ)という石川県の織物を製造する代表取締役専務のインタビューにかさねてみるとこができるのである。その文章を要約すると、ーーーー牛首紬を復興しようとしてつくるけれども売れないということが繰り返された。当社の場合、建設というスポンサーがあったから、なんとか牛首紬を復興できました。加藤さんも別のところで働きながら牛首紬に取り組まれていました。もし、牛首紬一本に絞った復興だったら、もっと難しかったでしょう。ーーーーという部分であるが、こうした事例は推測では他の織物も同じような復興をとげているものもあるのではないかというきがする。こうしたインタビューによっての資料、ないし記録はこれから先の生産者にはもっと意味や重要性は増すものであると感じる。というのも何かしら、仕事が悪化していると危機管理能力があるとすれば好循環に軌道をもどす作用が出るのは当然のことであり、書き留めたものがそこに誠の意であれば貴重であり、うそであれば資料を記録する意味はなくなってしまう繊細なものが情報である。また歳月に左右されないような資料を残すことも同時に難しい。この本は結城図書館で借りたが、結城図書館が染織資料を削減した意味は削減しなかった資料を重点的によんでもらいたいから残したのか、と好意的に思っている。
    西洋染織文様史  城一夫 著

    序にかえて として織物の起源についての記述が脈々とつらなるのであるが、キリスト教の『旧約聖書』の「創世記」によればと < 人とその妻(アダムとイヴ)についての記述から人類は樹木や草の葉などの繊維を身体にまとうことに使用していた。とあり、このことは戸井田道三 著 きものの思想 という以前資料紹介した、きものから文化を論じた著書にも同じ記述がみうけられる。織物の起源を神話の世界からよみとった考古は似通っている。さらに著書では『旧約聖書』に続き「創世記」には、「主たる神は人とその妻のために皮の着物を造って彼らに着せられた」との記述から人類の先達は動物の毛皮をまとい、すくなくとも紀元前6000年から7000年前には、人々は動物の毛皮をまとい、樹皮、動物の腸線や草の紐などをつなぎ合わせたりして着用していたに違いないとみているとしている。アデール・クーラン・ヴィーベルはその書作「織物二千年史」の中でシベリアのオイロティアの墓から発見された毛皮の長衣はトナカイやリスなどの毛皮を数百とつなぎ合わせたもので、幅の狭い短冊状に裁断されて明るい色で染色されたトナカイの腸線が綱状の縫い目を形づくってひとつの文様をつくっている。という箇所から、原始人は毛皮を除いて皮革にととのえて靴などの素材に加工していたが、やがて湿気を含んでもつれ合っている毛の塊を打ち叩いているとそれが実用に向くような温かい毛布になることを発見したのだと記述している。この記述は、京都の染め師の吉岡幸雄 氏も縄文時代においての考古で、似たような考察をしている。吉岡氏の言葉をかりると、動物の皮を家などの建物の屋根の素材にしていた縄文人は、火などをおこし、そのすすやけむりのあたる部分の動物の皮(建物の屋根の部分)が他の皮より滑らかであることに気づき(発見)、さらには加工するにも体にフィットしやすい実用性もあり、こうした生活の中の発見によってより文化的になっていった。というようなことであったが、いずれの考古の推測も狩猟生活中心でより優れた知恵を獲得していったとするものである。

    また私がこの著書のなかで興味が惹かれた部分はこの著書の主旨にそれる部分なのかもしれないが、フランスのナポレオン・ボナパルト皇帝の登場とその後のフランス織物産業史についてである。すでにかなりの長文のため、別リンクを貼って終わりにする。 別リンク資料のつづき(工事中)

    衣匠美 

    白洲正子 

    撮影 藤森武

    白洲正子(しらすまさこ)は日本有数の随筆家であった。白洲正子が積極的に好きになったのは手織りの紬や八丈、木綿絣といったたぐいのものであった。そうした親しみのある織物は、ここでも民藝の父柳宗悦の存在が光る。著者は民藝運動が柳宗悦氏によってはじまった時分、銀座あたりにもきがしが現れていたという。白洲正子が愛した染め織りびと という記事は大変参考になる(著書の私物になっている織物でその作家ものが多い)。まず、郡上紬の宗廣力三(白洲正子と知り合ってしばらくあとに人間国宝になる 白洲正子氏の私物の郡上紬は宗廣力三氏の初期の作風の水文(紋)とよばれている絣が目立つ)、芹沢銈介(工芸の表紙を担当 沖縄の紅型を志す モダンな色は現在でも高い人気をたもちつづけている 日本民芸館の内外装がいまだ美しいことからもデザインの能力が柳宗悦氏に信用されていたことがわかる)など今日でもよき手本となりうる染織家たちであり、また同時に民藝運動を支えてきた中心人物たちである場合がおおい。あえて、ここからは、箇条書きの私の原稿に忠実にかきのこすとして、嶋田悦子という人物のなもきになる。柳宗悦が<かつて夜見ケ浜は綿も植ゑ(え)られその和円村あたりには絣の手織も動きましたが衰えました>との意の記述を記す、通称<ゆみはま絣>の復活と再生に尽力した人物が嶋田悦子との紹介。こうなるとあとで調べるほかない。また、本郷大二 氏もきになる。安曇平の天蚕の美しさにひかれ農家の納屋に眠っていた糸を求めそれをもとに天蚕織物を制作とある。このころから天蚕は貴重な野蚕で入手困難と思われる。また、もうひとり、井出孝造 氏もきになる。白洲正子に出会いその助言を受けて辻が花や更紗の伝統的な作風を研究、昔のものとは異なる趣が違う作品をつくりあげた。とありその人柄は本文<かくれた名人>というところからもうかがえるが、<世間からは変人か珍品に見えるかもしれないが私にしてみれば、彼らの方が常人なのである>と記された職人のひとりである。このあたりに紹介されている人物、偉人は柳悦孝、柳悦博などの民藝関連のうごきと密接な環境であったということも共通している。民藝運動の活発さは残した作品の数の多さにも理解はたやすくみえる。随筆家白洲正子の本は、はじめてよんだがこうした時代のひとと、会話してタイムリーに作品をみて、購入したりしているのであるから、著書のみせるパフォーマンスは圧倒的である。いまや博物館入りを果たしているべきものばかりである。こうした人物たちの作品がタンスにおさまっているというと、着物好きは鼻血がでてとまらないものである。もう少し、白洲正子の示す、思想もものもいいものだけが残るという眼の世界観がみたいのであとで著書を紹介していく予定である。変わり者が好きといい、その変わり者とよばれる作家は高い評価をのちにうけているためなんでもかんでも収集していたわけではないとおもう。

    芭蕉布

    上巻下巻

    辻合喜代太郎 著

     

    実物裂45点入 辻合喜代太郎『琉球芭蕉布』 限定200部 沖縄の染織。上巻、下巻によっての実布付であるが、10万円近い高額資料につき、国立単位の充実した資料図書館で借りて読むことをすすめる。芭蕉布は、国の重要無形文化財指定を受けているが、こうした沖縄の織物は、他に久米島紬なども同じく国の重要無形文化財指定を受けており、沖縄は織物は独自性や特有性が色濃く残っている織物産地である。みごたえ、よみごたえ共にそろった染織資料である。ウェブ百貨辞典では芭蕉布はこのようになって概要としている。引用する。>>おおよそ500年の歴史があるとされ、琉球王国では王宮が管理する大規模な芭蕉園で芭蕉が生産されていた。庶民階級ではアタイと呼ばれる家庭菜園に植えた芭蕉で、各家庭ごとに糸を生産していた。現在の沖縄島では大宜味村喜如嘉が「芭蕉布の里」として知られる。一反の芭蕉布を織るために必要な芭蕉は200本といわれ、葉鞘を裂いて外皮を捨て、繊維の質ごとに原皮を分ける。より内側の柔らかな繊維を用いるものほど高級である。灰によって精練作業を行うが、芭蕉の糸は白くはならず薄茶色である。
    無地織か、ティーチ(シャリンバイ)の濃茶色で絣を織るものが県外では一般的な芭蕉布と認識されているが、沖縄では琉球藍(Strobilanthes cusia)で染めたクルチョーと呼ばれる藍色の絣も人気が高い。連合国軍の保障占領下で進駐したアメリカ軍によって「蚊の繁殖を防止する為」として多くのイトバショウが切り倒され、絶滅の危機に瀕している。近年では、紅型の特徴的な美しい黄金色を染めるフクギやアカネ、ベニバナを用いることもある。<<芭蕉布の素材は植物であり、より栽培の困難かつそのなかで芯の中心に近い貴重な素材はそれだけで、付加価値とよべるしろものであり、100万円という織物になるが、それは言葉擁護の余地がある。本場結城紬も似ている価格評価をうけやすいが、それは絶滅危惧種の織物としてみれば、しごくまっとうではあるがその売り上げが職人に入るわけではなく、100万円を投資しても生産者は潤わないことは明記しておきたい。

    織りの事典 しなやかな手仕事  

    施(あしぎぬ)について:なかでもピックアップすべきは結城紬、つむぎの原型とされている正倉院宝物、施(あしぎぬ)とそれに本場結城紬であろう。施は7,8世紀の世界に比類をみない高い品質とスケールの大きさで正倉院の宝物は美術的工芸品としてばかりでなく、史料的価値も計り知れないものがある。染織品も例外ではなく施に比べて脇役的な存在ではあるが、衣服や敷物などの裏地も見逃すことができないものである。施は平絹の一種ではあるが平絹は品質により精緻で上等のものを絹といい、それよりやや粗く質の落ちるを施(あしぎぬ 悪しき絹)というとされている。しかし、正倉院に伝えられ、施と墨書きされたものを見ると使用されている糸もほぼ均質で奇麗に織られたものがあり、絹と施の区別が非常に困難な場合が多い。このような施も調布や庸布(ようふ)とともに貢納品として中央政府に地方から上納され、製品に墨書きされた銘によって奈良時代中期に各地で織られていたことがあげられる。

    本場結城紬について:織着尺の最高峰は重要無形文化財指定の結城紬(平織り)にとどめを刺すが同等の価値観をもつ縮(ちぢみ)の結城紬は織歴(大正期はじめごろ)が浅いため、県無形文化財という一段下の格付けのまま置かれている。そのため流通機構の扱いは平織に集中して縮は衰滅寸前という矛盾をきたしている。結城紬は手つむぎ糸を手でつむぎだし、手括り(絣くくり)して染め、地機で織りあげるという結城紬は現代に中世の織技を伝えるまれな織物である。

    染織の道 文明交差の回廊  

    中央アジアの砂漠を越えてローマ帝国にもたらせれた中国の糸及び絹。ローマ帝国などの西方では、金(金属)と同じ価値があるとまでいわれた。ネアルコスは絹はアマの表皮をこまかに割いてつくられるとした。詩人ヴェルギニウスは同じように木の葉からとった繊維と考えた。プリニウスは羊毛に似たもので森の産物であると「博物誌」に記した。しかし2世紀の人、パウサニアスは絹を産するセレス(中国)の地はエリュトラ海のもっとも東にあるとし、セレスの人はエチオピア種であるととき、この地にはセルと呼ばれる虫がいて、大きさは最も大きな甲虫の2倍もあり形は蜘蛛に似て脚は八本ある。セレスの人々はこの虫を特別の家をつくって飼うとした。この虫にミレット(あわ キビ)を食べさせ四年間飼い続ける。五年目になるとこの虫に緑色のアシを与える。このアシは虫の好物なので虫はこれを食べて死ぬ。この死んだ虫の体内から糸がとりだされる。ーーーこのように絹が動物質の繊維であることがなかなか知られなかった。取引をする商人たちが生産法を秘密にしていたためとみられる。しかしついに410年になって養蚕技術は中央アジアのオアシス、コータンにまで伝わった。これはコータン王国に嫁いだ中国の女王が髪の中に蚕を隠してもたらしたためとの伝承は有名である。これについで絹織物を製造しようとしたのはササン朝のペルシャであった。ササンの王たちは、シリアを従服したのち、シリアの織工をペルシャのフジスタン地方に移住。ササン錦といわれる絹織物をつくりだした。ただしその原料は中国の生糸を用いたものとみられる。このササン錦は緯錦であった。つまり緯糸で文様を表現する。これに対して中国のそれは経錦であった。経糸で文様を表す技法である。織りの技法からいえば緯錦のほうが華やかで複雑な文様を織り出すことができる。そこでササン錦は中国でも歓迎された。この影響を受けて中国でも7世紀半ばから緯錦がつくられるようになった。そしてついに550年になると東方から帰来した修道士たちが竹の杖のなかに繭をしのばせてコンスタンチノープルに到着し、これをユスティニアヌス皇帝に献上した。これによって地中海方面で養蚕がはじまった。

    青色の染料として古くから知られる藍には、大別して四種ほどの植物が知られている。四種で最も有名なのがインド藍すなわちインディゴ(インジゴ)である。ローマ帝国ではインジゴについてはよく知られていなかった。ディオスコルディスはこれを鉱物質の顔料とみて絵の具として利用され、医薬にも用いるとした。染料としてはウォードを利用する。プリニウスの「博物誌」でもインジゴはインドに産し、外見は黒いが水にとくと青紫色になり熱病や発作などに効果があるとした。インジゴは薬剤として用いられたがこれがのちに重要な絵の具となった。このインジゴ以上に重要な絵の具にヒマラヤ産のリシウムと呼ぶ黄色の絵の具があった。これは染料にも使い、時には化粧用にもなったと伝える。インジゴがはじめてペルシャに紹介されたとき、それも医薬であったという。王はインドから書物、チェス、髪を染めるための薬料を受けた。この髪を染める薬剤はインディアンといわれたとある。同様のことはアブマンスールらも記してこの葉は髪を丈夫にし、ヘンナで髪を下染めしたのちインジゴで染めると光沢のある美しい黒になるという。ヘンナは黄色の染料である。このインジゴの実情をはじめてヨーロッパに伝えたのはマルコポーロの「東方旅行記」である。これによってインジゴは植物であることが明らかになった。彼はそのほかカンバエット王国、グジャラート王国にもインジゴがあると記した。彼はワタは12年までは採取できるとし、それ以上になると紡いで糸にするのは難しいし使えぬとした。これは<キワタ>についての記載である。マルコポーロ「東方旅行記」は写本としてひろく行き渡りヨーロッパに詳しく知られるようになったのであった。またさきもひいた14世紀のペゴロッティの手引書にはやはりインジゴの取引のことがのべられている。取引は重量でおこなわれる。手引書は風袋の目方に注意すること、小孔をあけて少量のサンプルを取りだして検査することが必要であるといっている。画家チェンニーニの「芸術の書」には羊皮紙を染めてインジゴ色の紙をつくることがみられる。またインジゴを用いて緑色をつくることもあるともある。これをみるとインジゴは重要な絵の具のひとつであったことがわかる。

    染めの事典 風土を映す人の技  

    風土を映す人の技とのこの染めの本で私が惹かれる記事は何とっても吉岡常雄氏の担当のものである。そこによるものは、この本紹介100選の中で紹介したものに含まれども、詳しく知りたい人は吉岡常雄氏の本を購入していただきたい。古書に分類され絶版もしくは版元切れになってはいて専門書のため、高額ではある。ではあるがそちらを購入すれば知識を補うには充分といえるものだ。世界の染色のなかでも紅や紫をつくりだした染色技術は苦労の末の絶え間ない苦労と努力があったことはここに書き留めねばなるまいと思う。

    紅について:エチオピアを原産とするキク科の植物で遥か四千年の昔より、染色や薬用にするために栽培されてきたといわれている。この花はその外見の通り、黄と赤の二種類の色素を含んでいる。黄色のほうは水に浸すだけで溶出し黄色系染料として用いられてきた。この黄色は染料としては定着が乏しい。そこでもう一つの赤色色素をとり出して布に展着されるには、何段階もの複雑な工程を必要とした。それらはこの本や吉岡常雄氏の専門書におさめられているのでそちらに目をとおしていただきたいと思う。この複雑な工程によっての紅は栽培に手間がかかり染色にも困難な技術を要したため、高価であったが選ばれた人々が自らを誇示するにふさわしい衣料として貴ばれ競って求められるという奇妙なる需要によって支えられた。こうした栽培法や染色法も長い間、秘方法とされ、こうしたことは中国で養蚕や蚕の存在がしばらく極秘になっていたことと変わりなく国家的な重要なファクターであった。平安時代、高価で貴重な紅花を幾度も染め重ね、深い紅色としたや八汐染め(やしおぞめ 別名 韓紅からくれない)や黄色の梔子(くちなし)やウコンで下染めし、濃い紅色を掛け合わせた朱華(はねず)と呼ぶ紅色は高位の人しか着用を許されない禁色(きんじき)と定められて色によって制限があった。一反の布を一斤染(いっこん)(約600g)の紅花で染めた薄紅色のみが認められこれを一斤染(いっこんぞめ いつこんぞめ)と称している。赤、青、黄 は自然界の色をうつしだすために皆必死の思いで布色に思いを託したのだろう。参考までに赤、青、黄の染色素材例をあげておく

    赤:紅花 茜(あかね) 蘇芳(すおう) コチニール

    青:藍 

    黄:サフラン 黄檗(きはだ) 梔子(くちなし)

    を昔の人々は染色の染料として染めだした。

    日本染織地図 創造と伝承  

    北海道に住む有志に追悼の意と敬意をこめて北海道中心に筆をかく。通産省では「伝統的工芸品産業の振興に関する法律」という通称、伝産法によって伝統的な織物、染物に指定するには、百年という月日を決めており、アツシ織というアイヌ人たちの染織の痕跡の他に、近年、優佳良織という旭川の近辺中心で羊毛(政府は明治期から大正期にかけて羊飼いを推奨し伝統になったといわれている)とかかわりの深い織物が関係者の間で新たな勢力として認知される兆しがある。百年構想の伝統を築く過程、あと20年を残すのみのものとなっているのがこの羊毛の優佳良織である。一つの作品に300色近い色を織りこみ、油絵的な表現が特徴とされている。とくに染織工芸というものは、風土に根差さないと育たないし、なじまないとされ、育つ必然性がないわけである。あと20年の伝統をつなぐのみとなっている。これから何か新しいことをするか、しようかとする者にとっては一つの指針を示すものであり素晴らしい。優佳良織の創始をされた作家 木内綾 さんはたった一人の作家として出発し工芸館を開館し、年間入館者36万人吸収するという異次元の染織ブームをもひきおこした。地元に仕事の少ない北海道に仕事をつくり、その評価もされている。アイヌの織物素材は植物で色彩はきわめて限定的であったが新生、優佳良織は多彩である。染織研究家 竹内淳子 さんはこういう言葉を残されている。「伝統がなければほんとうに良いものをつくり出して、そこから出発して百年を経過すれば伝統産業の仲間入りができるわけですから」と優佳良織の期待値とだぶらせてみている。魅了されるアイヌの美意識としてアツシ織は、はたして現状に生き延びる条件を持っているのかという問題提起がある。オヒョウの木が素材であるが、周辺は国立公園が多い。有名なアイヌ文様、切伏せ も存続が危ぶまれているが、この文様はなんとしてもどさんこは残す努力をしなければ、染織の伝統は希薄に映ってしまう。どさんこの若き染織家は、これから を考えて動き出すときにある。

    身近な素材で楽しむ

    おうちで草木染め

    箕輪直子(二冊目紹介) みじかな素材で楽しめるキッチンでできる草木染めを紹介。レッスンページではレッスンで使う材料、道具、染料と染め方、アレンジページでは、染めるもの、染め方、染めるものの重さ、使用した量の染料、媒染液は何か、染め方のコツなどをかき記して、まるで料理レシピのような感じにもみえうる。100円均一ショップグッズを染めるなど主婦などがターゲットにみえる。この本を読んでもっと本格的に染色したいとおえば、本格的な専門書にすすめばそれでいいのではないだろうか。

    誰でもできる

    草木染めレッスン

    箕輪直子(三冊目紹介) 誰でもできる染色とあるが、主婦ターゲットだけあり、時間がとれない人が気分転換のごとく、簡単でキッチンでできる染色が多い。とくにカレー粉での染色は女性ならではのアイデアといえる。染めの基本とバリエーションを増やすときには持っていて損はないだろう。
    日本の色を歩く 吉岡幸雄 (二冊目紹介) 日本全国の様々な地域に旅をして色の歴史や現況をエッセイにした旅と染色のエッセイといった感じである。2007年に出版された。草木染めや藍染めを尊ぶ姿がそこにある。クヌギ(櫟)の木の葉を食べて山繭は緑色の糸をはき、淡茶の繭を育む野生的な蚕は日本に限らず中国、インドでも多くみられる。やがて人が養蚕を行い、突然変異で白い糸をはく繭が生まれ、それらをとくに選んでかけあわせるようにして品種改良をくわえて白い蚕の糸が多く生産できるようになったと考えられている。といった具合に色の探求も考察している。
    日本の色を染める 吉岡幸雄 (三冊目紹介) 著者は歴史に詳しく特に本中の第五章あたりからは歴史の本を読んでいるかのように歴史がためである。しかも語ることで気分がのってきて文章も滑らかでまるで知識欲をみたすかのようにすいすい進んでいく。著者は様々な多くの自分の著書でも源氏物語をかいた紫式部が日本の歴史上最高の才女であったと推測する場面もある。枕草子をかいた清少納言や土佐日記、竹取物語、伊勢物語などの登場が日本文化のはじまりとしていいとしている。中国から様々なものが日本に伝わって、それらが日本(和の文化)特有のものになったのはこのころからであるとしている。この本は広く言えば縄文時代から染色の考察をいれている染色文化論である。
    色の歴史手帖 吉岡幸雄 (四冊目紹介)

    あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る 額田王

    紫草のにほへる妹を憎くあらば人妻故に我れ恋ひめやも 大海人皇子

    これは万葉集の有名な相聞歌である。大海人皇子がかつての恋人でいまは天皇のきさきになっている額田王を、紫の映える美しい人よいまは人の妻である と詠んだ。この額田王の着ている紫衣装は杜若(かきつばた)の花を摺り込んだものという説を国文学者で植物学で著名な故牧野富太郎博士が説いて話題となったが、染司よしおかの吉岡幸雄氏は、花の色は日時がたつと消えて茶になることやその日一日の遊びのような染物であったと考え、額田王は天智天皇の夫人であって官位が決められてからは夫に準じた色の服装をするようになっていたことをもとに杜若のような一日で変色する摺り衣を着ていたことは考えにくいとして紫草の根で染めたきらびやかな紫色をまとっていたと考えるのが妥当としている。万葉集には杜若に関するうたが詠まれてはいるが、紫草のうたも同時にあり、たがいに推測が二分して相殺関係にある。

    紫草の根は土が染まるほど濃い色素を蓄えているという特徴をよくとらえて和歌や物語に多く記されている。

     

    源氏物語の色辞典 吉岡幸雄(五冊目紹介) 正統なる異端とよばれた染司よしおか継承者の吉岡幸雄氏が源氏物語誕生一千年といわれている平成二十年に関心が高まった源氏物語に色辞典を出版して、古典から色と衣装、襲(かさね)などにみられる繊細な色への心移りを丹念に引き寄せて従時の染色法そのままに再現した色彩辞典。源氏物語の作者は紫式部といわれ、曽祖父が三十六歌仙のひとり堤中納言(つつみちゅうなごん)といわれた藤原兼輔であり、祖父も父も漢学者である家に生まれた頭脳明晰な女性であるという。藤原道長というときめく権門家の娘で一条天皇に嫁した中宮彰子の家庭教師として女房に出仕していた。そのため当時の朝廷の人々の様子を細かに観察していると紫式部を評価している。そして吉岡幸雄氏の色に関する勉強と手作業の偉大なる教科書というべき物語としているように著者の思い入れが強い古典物語である。また出版物もふんだんにカラー写真で画質も繊細に印刷できる、表現するに適した時期だったことも本の質を高める形となった。
    日本の色辞典 吉岡幸雄(六冊目紹介) 本帯に伝統色の完璧な色見本、歴史解説で識る色の名前。とあるそのとおり、色のほんの少し、たった少しの加減の色の濃淡が変化するだけで、色の呼び名が変わってしまう昔の色への思いとは一体なんなんだろうかと考えさせられてしまう。そしてこのほんの少しの濃淡の差を区別してしまう先人はそこに何を感じてもらいたいのだろうか。そのまま樹木の名前を拝借しているものもあれば、まるでレアメタルの新種のような金属気味ている名前もある。こうした多くの名前をおさえておくと、確かに色の組み合わせを考えることは、少しうえに気分があがる。全く同じ色であるにもかかわらず呼び名が3つくらいあるものも確かにあって時代の蓄積に他ならない。

    草木染 日本の縞

    日本に伝わる多彩な

    縞模様の魅力を知る 

    山崎青樹(二冊目紹介) 縞は縞でも、草木染めによる縞であり、自然で淡くモロい発色が美しく、その淡さや濃い色がひとつの布地になり、みているだけで心やすらぐ優しい色である。とくにいちから染色したい場合は、筬目や糸配合まで記してあり親切このうえない本のつくりである。大きめの本で写真が大きく掲載されており、布地の質感を堪能できる。とどめをさすかのように染色方法まで記している。これは日本に伝わる多彩で優しい色が凝縮されている素晴らしい縞資料になっていることは間違えない。
    草木染 色を極めて五十年 山崎青樹(三冊目紹介) 過去を振り返らない染色家が企画により五十年の染色の思い出をつづる。川端康成が著者にあてた文章や紬 銀座紬屋吉平の著者山辺和行氏、染色家上村六郎氏、貝紫の染色家で大阪芸大教授の吉岡常雄氏などの交流などがあったことが記されており、黒柳徹子さんなどのテレビの人とも仕事で出会って素晴らしかったとある。また、五十年の歳月の中でも思い入れが強いものが熱が入って書かれている気がする。そして文才があるようにしか思えない本の中での展開は、染色に興味がなくても面白い。
    母と子の草木染ノート 山崎青樹(四冊目紹介) 玉ねぎの皮での染色はヨーロッパで古くから染色に使用されてきて日本では大正末頃、紅茶の葉による染色、平安時代は茶の葉での染色はすべて薄茶色だった。紅茶というと煮たら飲むしかないが染色で使うまたブドウの皮での染色など身近なものからスタートしていく。子供の染色の基礎知識をみにつけるための初歩染色本といえる。草木染めは、染料を自分で育てることに最大の喜びがあり、またこだわれば媒染の金属類から媒染液をつくりだす喜びもある。そこは草木の魅力と醍醐味である。そうした、これはひょっとすると自分で染色して染めるというのは手間がかかれど素晴らしいことではないか、という結論にみちびくヒントが多い。染色がみじかになれば子はそれを追う。
    草木染 日本色名事典 山崎青樹(五冊目紹介) 著書の最初に草木染432色凡例として8例あげて文章の正確な情報性を目指しているので日本の歴史上の文献から引用して、色名とその草木染めの技法や媒染方法などをかきたして、文章自体にあつみがある。こうした歴史にも詳しく知識も優れた染色家は多くはいないのである。1970年から1990年における出版物は日本の染色技法の確立と出版における情報共有が盛んになった時期のものであり、やはり揺れも動かぬ資料が多い黄金期である。それは初版が1970年か1990年の出版物でさかのぼれば出来は一目瞭然といえる。
    続草木染染料植物図鑑  山崎青樹(六冊目紹介) 古代から緑色を染めるには藍草と黄檗(きはだ)や刈安その他の黄色との重ね染めで染める。ヨーロッパも同じであったが、山崎青樹氏がふとした思いがけない発見で実際に緑色を染める草や木の葉があったという。それは草木染めの世界を一つ変えてしまうという。その新手法については、本のはじまりで手法を展開し、解説している。また草木染染料植物図鑑の続編ということで、草木染染料植物図鑑と根本的にはつくりは同じである。染料について植物学に詳しいというのはあって困らない知識であり、草木染めをするからには植物の特徴などはおさえておきたいものである。
    続続草木染染料植物図鑑 山崎青樹(七冊目紹介) 続続草木染染料植物図鑑ということでさらに続編の続きという本のつくりである。こうした三冊を集めてみてみると、染料になる植物は大変多くあるという感じである。また、本のはじまりには、これからの草木染 というテーマで草木染めの理想について解説しており、著者の草木染めが普及して根がついた染色がこれからもおこなわれていってほしいといった切なる願いがこめられている。知識だけで終わるより実際に染色してほしいといった染色の考え方が深く浸透して親しまれることを思ってやまない。
    草木染 糸染の基本 

    浸し染の手法
    山崎青樹(八冊目紹介) 大正末より植物染料の研究が進められこうした中、公害問題がおきて著者は、媒染剤を見直すきっかけであったとしている。草木染の原点を万葉集に見い出し、古代の染色をみつめたという。媒染剤は硫酸系、塩化系、酢酸系に区分区別して、公害問題の側面と安全性について記述している。また本の本題ではさらに媒染剤についての詳細を知ることができる。古代文財の集りで古代裂の復元が議題になるがいつも問題になるのが鉄媒染による劣化であるとして江戸末期の黒は裏地のほとんどが指で粉末になるほど劣化が激しいとの事例があるが、桃山期は黒系があまり劣化していないということから鉄を使用しての染色方法が重要であるとしている。優れた染色方法は媒染剤を布に残さないことが重要であるとして、金属は一度乾かしてしまうと後で布から流し落とすのが困難であるという。草木染めはとにかく手間をかけることが大切なこととして、染材料を自給することも同時に大切なことという。自分で採集できるものはなるべく採るようにするといいとして染材料の栽培を推奨している。
    日本の色 吉岡常雄 (二冊目紹介) 旧著 日本の色 (昭和54年 紫紅社刊)をもとに代表的な染色と色についてより詳細な内容の充実を心掛けたとしてカラー写真が多い。平安時代に王朝の貴族が築き上げた和様文化のなかで染色においても渡来の染料や技法を駆使し襲色(かさねいろ)に代表される優美な色調と色名が生み出されたことなどからここに至ってはじめて日本の色が確立したという。本の制作で協力した資料館などには改めて重要美術ともいえる着物が日本にあると感じた。
    帝王紫探訪 吉岡常雄(三冊目紹介)

    帝王紫は古代地中海の海洋国家フェニキアで誕生した。ギリシャローマ帝国へ受け継がれていった。1968年(昭和43年)その遺跡を訪ねる旅へと著者は、ナポリ、クレタ島など貝を採集して紫の染色を試みたあと(著書内で貝の色素などを学術的視点から明らかにしている。)、古代フェニキアの都市シドンの近くでようやく帝王紫(ロイヤルパープル)に使われた貝殻の貝塚を発見する。地中海では15世紀にすでに滅び去った貝紫の染色が今もメキシコのオアハカ州で伝えられていることを知り、幾多の困難を押してようやく山深い村にたどりついたのは、今から15年前(著者の視点著書の視点でのこと)1969年(昭和44年)のことであったという。その5度にわたって訪れ、村長で雑貨店を経営しているリアンドロヴィリエルロムス氏には協力や案内、説明でお世話になったという。フェニキアで紀元前16世紀頃から始められた貝による紫の染色はギリシャローマ時代へと受け継がれ、まさに高貴な人々だけに着用を許される帝王紫となった。古代シルクロードの交易都市として知られるシリアのパルミュラやエジプトのナイル川付近で発掘されたコプト裂の中に帝王紫の裂があることでもわかる。そうした帝王紫の探訪を17年間続けた。また著書の終盤、昭和小説『貝紫幻想』の著者芝木好子さんと帝王紫を語る対談が収録されている。今思えば、吉岡常雄氏は染色考古学であとにもうでることのない偉大な人物のひとりだったのである。

    吉岡常雄の仕事 

    天平の赤 帝王の紫

     幻の色を求めて
    吉岡常雄(四冊目紹介)

    法隆寺、東大寺の染織の復元をする復元のエキスパート職人として、のちに継承者になるの幸雄氏を連れてたびたびそうした有名な寺院に仕事のために連れていったと幸雄氏は語っていた。とりわけ飛鳥天平の染織の解明に力をそそぎ、薬師寺、東大寺、法隆寺、法隆寺奉納の幡の制作に応用され、染織研究をリードし数多くの功績がみのる。彼の多くの遺品は残された多くの染織家が遺品にふれておく必要がある。そこには、寺院にある貴重な染織品が鮮やかに復元された美しい姿をみることができる。貧しい時代にしかうつらない幼稚な時代ではなかったことが、かいま見える。古代人の残した染織品を研究することが第一であるという。貝紫(ロイヤルパープルとよばれ貝を用いた高貴な染色による紫)は帝王紫とよばれ、ギリシャ、ローマ、中近東、中南米のメキシコ、グァテマラ、ペルーへと紫を求める世界への旅は三十年近くにおよんだ。その研究心、姿勢はみならうべきものがおおい。

    樋口可南子のきものまわり 清野恵里子(二冊目紹介) 樋口可南子さんと著者の二人称、読者の三人称で、文章が進んでいく感覚がある。きものの話と樋口可南子さんを写真のモデルに着ている着物を解説したり、文章でひきたてたりしていく。比較的読みやすい本である。とくに、きものの似合う風景がよくみえて日本美を感じる。日曜日などに読むとすんなり読める感じ。ちなみに本のタイトルは糸井重里さんがつけてくれたそうである。

    染色の基礎知識

    実技に役立つ染料

    助剤 用具 染め方

    高橋誠一郎(二冊目紹介) 実技に役立つ染色基礎知識が満載といえる。ステンシル染、ローケツ染、型染、浸染、絞り染、マーブル染、版染、筒描き染、筆描き染といった染色法にはじまるものの染色と最後まで懇切丁寧に染色基礎知識を解き明かしていく著書は、全体像は家電製品の取扱説明書のようなイメージもあり、特殊助剤や固着剤、浸透剤などの特徴、特長、他の用途などの解説は素晴らしいの一言に尽きる。染料の使い方と技法などはひろく活用さてれいく資料になることであろう。
    日本の草木染 上村六郎(二冊目紹介)

    色料というのは二種類あるという。繊維まで染まりそう簡単には色が落ちないのが染料。もうひとつは、付着による染色の材料としてのみつかいえるような色料はこれに対して顔料といい、色がついて一時的に表面を色どるものであり、化粧品なども顔料のこれにあたる。

    染色をしたことがない方は、美しい薔薇をみてその花の色がそのまま染まると思いがちである。果物の鮮やかなものも同じといえるが、染色の天然染料の多くはそのままその色になることは少ない。露草(青花)の花の汁は友禅の下絵に使われるが、その色は水につかると流れてしまう。水に流れることが前提なのである。つまり花の色そのものでは染まらない(染着の作用)がないのである。そこで何かしらの物質たとえば金属を中間にかませることで染着させることができる。これを通称、媒染(ばいせん)媒染剤(ばいせんざい)とよぶ。また紛らわしいことにそのままの色に染まるものをあげておこう。槐(えんじゅ)の黄色、黄檗(きはだ)の黄色の樹皮、マンゴーの果実などの黄色に多い。赤いグラジオラスの花や黒豆の紫色の色素などであるがこうした性質はきわめて稀なのである。また稀の中の稀のものとして、榛(はん)の木の樹皮はタンニン剤に使用されるものはそのままの素材で茶色に染まってしまうという恐ろしい特性を備えている。

    草木の染色工房 加藤國男(二冊目紹介)

    Amazonで古書を購入すると前の所持者の勉強をみることができることがある。左の文字にリンクしたが、染色の新聞記事や雑誌の切り抜きがでてくることがある。本への書き込みもそのたぐいであるが、資料へ投資したからには誰でもモトをとりたいと思うのは当然である。この草木の染色工房も加藤氏の染色への思いが伝わってくる前向きな著書である。スウェーデン(北欧)で、自然からの恵を手仕事によって、たとえばりんごをとりそれをジュースにするなど、作物を収穫してからその後一貫して自分が作業を自らするという生活をかさねたことで、その自然と手仕事の深みはより増していくのである。加藤氏のウール素材に選抜してウールを草木染めするという染色スタイルは続き貫き、完成度も高い。また化学染料の登場とともに自然の素材のものの染色は、群馬の山崎氏が草木染めと呼び、化学と区別した時代背景と、平安時代に始まる<十二単 じゅうにひとえ>は草木染めの専攻をこころざしたもの特有のキーアイテムとなっていることが伺える。草木染めがめにみえて染織史でのはじまりとみていいのは平安時代といえてそれに落ちつくことは、文献の豊富さ、色彩感覚の突出した書き手がいたことなどがあげられる。時代によっては草木ブームもあったかもしれないが基本的には染色というのは、文献や資料を考察した上で、時間に埋もれない立派な染めものを残したいと思う姿勢そのものが大切である。その姿が、はやりすたりに左右されないものをつくりだし、結果的に優れた技術者へと変わっていく。

    市嶋千枝子作品集

    綴織つづれおり

     

    山辺知行 解説(二冊目紹介) 市嶋千枝子作品集 綴織 であるがこの本を結城図書館で借りたのは、単に綴織が知りたいという知識欲ではなく、解説の山辺知行氏が担当しているために、借りた。山辺氏は私が資料集め及び私物資料収集の中でも自分の状況にあっている人物というか、文章が厳しいながらも的確な言葉によって数多くの染織家を牽引してきた部分があるとおもう。そして、山辺氏の解説とともに、市嶋千枝子さんの残した作品の綴織が写真によって紹介されていくのである。山辺氏は市嶋千枝子さんと互いに何度か挨拶程度にともに過ごした時期もあったが、市嶋さんは物静かで寡黙な印象だったために会話はほとんどしていない状態だったとして、市嶋さんが亡くなられて源流社の染織資料を出版するにあたり、山辺氏が抜擢されて、市嶋さんの作品をみて、これは20年あまりの歳月を見落としたことはなんともとんでもないことをしてしまった。と感じたのだという。また、悔いても仕方ないとしている。<写真>について山辺氏はこんなことを言っている。引用させてもらう。ーーーーー写真というのは、造形的な美術作品の製作に対して非常に効果のある文明の利器で、それは人間の眼の記憶の不確かな処や、見落とした処など機械の眼で一様に正確にみせてくれる。ただ心すべきは、もし創作的な意図を失って、それにのめり込んでしまうと、それは芸術性の希薄な単なる模倣になってしまって、作品としての感激も迫力もないものになってしまう。ーーーーーーーと<写真>について述べている。市嶋さんの綴織の作品をみると私はどうしても、粒子の細かいどこにでも入り込む砂漠の砂をイメージしてしまう。色が赤や黄色味を帯びているせいもあるが、染めに比重をおけば確かに綴織によっての作品より、より絵画のような写実的な表現もできると思うが、あくまで綴織のなかで綴織によって悪戦苦闘してその末に作品が成り立っている。砂漠の砂は容赦ない照りつけを連想させるものかもしれないが、山辺氏は市嶋さんを物静かなイメージ(印象)としてみていたが、織物へむけられた熱量は、容赦ない照りつけの砂漠のような風景の中にひとりたたずむ市嶋さん自分自身の姿が綴織だったのかもしれない。
    日本服飾小辞典  北村哲郎(二冊目紹介) 特筆すべきは、40項目の厳選紹介の中でも色無地にはふれておきたいところである。<色無地>については色無地ほど古くてしかも新しいきものはないのではないかと著者は色無地の啓蒙性についてかいている。色無地は昔はなかったのかといえばそんなことはなく、無地染のきものとして、結構大きな需要をもっていたという。昭和42年発行の雑誌「新しい装い」誌上で竹下和宏氏は「無地染きもの」と題し、次のように述べている。<<きもの世界でも「流行」だとか「ブーム」だとか表現されるものもいろいろあって、変遷しているわけですが、この大きな意味におけるきものの中で、いちばんそういった人気の浮き沈みに関係なく、広く歓迎されているものがあるのです。それは「黒地染のきもの」または「色無地のきもの」といわれるものなのです。略、そしてむすびとして、みなさまのきものの計画には優れた生地の無地染のきものをお手入れになるようおすすめしたいと思います。 と記している。またたとえば、室町時代末期に書かれたと思われる「女房進退」という一書には、殿中では無地が後染のものではあるが登場していることから古くからこうした色無地とよばれるものは、知られていたことがよみとれる。
    日本の織物  北村哲郎(三冊目紹介)

    昭和46年1月から49年12月までの四年間、47回にわたって連載されたものに手を加えて完成された書物及び染織資料。前回紹介北村哲郎の著 日本の織物は源流社がのちに著者の意図をくんで、北村哲郎染織シリーズというふりがついての出版になったもので、こちらはやや古いものである。織物の組織とか糸あつかいなど、織物そのものに係わることより、その織物の歴史や織物にまつわるエピソードなどを中心に書いたもので、きらくに読んでもらいたいとの主眼によって成り立っている。北村哲郎の1冊目の紹介のもののほうがカラー写真などが大きいのでそちらをすすめる。織物染織資料収集家であれば、こちらの手のひらサイズももってもいいが資料内容はほぼ同じで収集する意味があまりない。

    日本の文様 北村哲郎(四冊目紹介) 日本の文様は、そのひとつひとつがあわさってできたときに表現は布や織物、着物であったのと同時に文様についてはさして説明する意味もないほどに日常に溶け込んでいた。説明が必要になったときに、それは説明が付加価値に変わる。文様には、現代人がおよばないほどに考えぬかれていたのである。空想の世界を現実にする というありえないおこりえないことを文様の世界では、はやくから取り入れていたことは空想の動物を文様にしていることからよみとることは容易く、世界の国々で花といったモチーフも日本では写実の世界をこえる表現として、ハスや連翹などの一瞬幻想的な花をも、そこから優れた工人たちはこの世にない花をつくりだし文様にうつしだすことでそれを現実のものへと変えてみせた。文様のはじまりが土器に縄のあとを残すというものであったがこの一見幼稚な発想をもとに飛躍していったものである。着物をみせるものとしてとらえている文化は京都の織物産地は得意分野ではないだろうか。
    続・日本の文様 北村哲郎(五冊目紹介) 日本の文様という著書の続編であるが、こちらになると文様はより現代の衣装や意匠権を引き継いだものは増える。車輪と水であれば、どんなことが浮かぶであろうか。これはまだ近い日本の歴史を引き継いでいる文様といえる。<御所車(ごしょぐるま)に水>というものでは、車のホイールにあたる部分は木製で、夏のかわきを癒せないため破損してしまう。そこで川の水をくんで、水に浸し、木製の車輪破損することを防いだのであるが、こうした当たり前でいて、匿名性が強いもの、さらにはふたつで成り立つもの、ひとつでは三を表現できないもの、ふたつで特有の意味をつくりだせるものは、文様の要素では重要な要素である。そうした意味では、意味ある組み合わせによって出来上がっている文様はとても勉強になる。
  2. 染織資料(2)

    本 タイトル 著者 /共著 評と本紹介
    お能の見方

    白洲正子 

    吉越立雄 共著

    能についての初心者入門決定版とのことである。染織も能衣装のものを実物をみたことがあるが、華やかさは群を抜く。随筆家白洲正子は、随筆においてもそう言ったように<本物だけが残る>とした。その随筆や作品などにも一貫したものにつらぬかれており、私にとっての無縁の<能>に白洲正子は何をくみとったのか、能をとおして何を伝えたかったのか。純粋にたのしむことをすすめるものかもしれないが、それをさしひいても白洲正子のふところの深さはのこる。文化にあまりにも近づきすぎた人物、そこから一貫性をもたせる。これは白洲正子が着物にも同じような理想があった。能の簡単な構成をみて、どんな複雑な心理を描こうと、劇的に進行しようと、すべてこの単純な形式の変型にすぎないーーー。とある。なれるということは大切だ。ーーーとある。話がとんでしまうが、将棋の名人升田幸三氏も著書<勝負>でも、このなれる、なれについての感覚を述べている。その記事はこちらそこによると頭の良し悪しではないといったことであった。人からぬすんだものは身につくが、教えられたものは忘れてしまう。とはあらゆる道の熟練者がいうことである。能はストーリー性が高いが、舞台などは殺風景に近い。これは時代時代で余分なものは省くということでどんどんものが無くなったそうである。現実に<もの>でそれを出して道具として機能させるより、ないものとして想像にゆだねて、夢や幻をつくるのだという。<もの>があった場合、それは夢や幻ではなくなってしまうという。能のもののなかで、現世への執着というのを融の亡霊に語らせるなど、伊達男からそうでなくなったという独創性あるストーリーも能らしい。現在ではこの能のストーリーに似て、フィクション物語は日々つくられているが、発想の原点といえるもので面白い。また能に登場する<おめん>なども怒りや喜びなど表情が様々である。話をまとめようが、能衣装というものは興味をひかれるものではなかった。私にとっては非現実衣装とおもう。しかし、白洲正子がもう一度、調べなおせ、それも染織文化の一部だ、といっているきがした。

    ものと人間の文化史

    色 染と色彩

    前田雨城  生活の中ではもともとついていた自然の色と人工的に着色したものとがある。私たちの目には、あえてそれを区別することなく、色としてうつってくる。その色をみることで喜び、楽しみ、寂しさや悲しさを感じることすらあるのであるから、色が人間の感情になんの関係性もないとはいえないと思う。数ある哺乳類のなかで色を区別し得る目をもっているのは少ないという。その種類をあげると、ヒト、類人猿、サルのみであるとされている。目の中に色を感じる組織をもつものはこれらの種類のみであり、他の動物においてはほとんどその組織が認められない。色彩を感じ、色相の区別ができる動物であり、そして直立して歩行し、主として地上に住む「ヒト」はこれらの条件があったために文化というものを創り得たとした。これは前田雨城氏が著書で説いている。色彩には形や容量がないため、ある意味からいって物質とはいえない。そのため色のみでは物質的要求の充足ができない。当然のことながら色の人間社会との関係は色に精神的安定を求めるという方向性が主となっている。この精神的安定は、心のやすらぎであり、心の満足といいかえることができる。衣服は好みにより美しさを求めて自由に色彩が用いられ、見た目に美しく着色した各種の食料品は公害を問題にされながらも食欲増進や購買心を起こさせるために一役をかっている。文学の上でのみ見ることができる色彩名や、現存する資料がないためその色相を推測することすらできない歴史上の有名な色、例えば「山藍」色のような色彩名も存在する。色でない色彩、つまり腹黒い人の「黒」、黄色い声援の「黄」など感覚そのものを色名で代表させたものである。いうまでもなくその色は実在しない。しかし、これらをみると人間は色に感情をもって接しているとしか考えられない。現実の色であろうと想像上の色であろうとそれは差がないようである。ものに美しさを感じるのは、常に形と色の調和がとれている時のみであるが、形のよしあしのみにとらわれている場合が多く色や彩色が、その調和にとって重要なポイントであることは案外、無頓着のようにみうけられる。社会の中にあって私たちの生活とその存在を共にしているものである。

    絣 平山郁夫コレクション

    絣に見るシルクロード

     

    古い中国文献に南蛮諸国が産するところの「斑布」がみえる。3世紀ごろの著作で南海や西アジアについての案内記「南洲異物志」に「五色の斑布は古貝木(綿の木)をもって作る。斑布を作るならば、綿の実の斑布の模様の煩雑であるものが、巧みで城城(上等)である」と書いてある(「太平御覧」820所収)また「梁書」諸夷、林邑国の条にも同様なことが述べられている。林邑国(今日のヴェトナムに2世紀末から8世紀半ばまで存続したチャンパー王国の中国名)で、綿花から白い繊維をとり糸にして、五色(様々な色)に染めてから斑布を織ったという。とすればインドシナで絣技法が木綿織物に模様をつける技法の一つとして行われていたことが知られる。東南アジアが絣の発祥地という見方があるがこの仮説も見逃せない。

    絣は沖縄八重山上布の絣糸を作る技法「カシィリィ」(糸に染料をかすりつける)が転訛したという説があるが、模様がかすれてみえるところから「かすり」で馴染まれたのだろう。国際的な用語としてはインドネシア語の縛る、結ぶという意味のムンイカット(mengikat)に由来するイカット(ikat)が一般的に用いられている。墨の筆跡のかすれ(掠れ)に由来する「飛白」(ひはく)も使われるが、絣よりもよりこの織物の特色をあらわしている。

    この著書は、絣からシルクロードの世界をみてみよう といったものではあるが、カンボジアのアンコールワット遺跡を救済するために、カンボジアの社会的安定、経済的余裕をもたらすために日本企業や有力者が企画し、カンボジアにも高度な技術がアンコールワット遺跡からも伝わるように織物にも同じくいえるのだという意味で、またそうした技術も失われていくなかで、カンボジアの感性は優れているから伝えていくものだ。カンボジアの絣は19世紀から今世紀にかけてのそれに先立つカンボジアの織物事情を伝える資料は残念ながらみつかっていない。染織品の展示によってのみ、伝えていくほかない。

    カンボジアの絹絣はすべて同じ技法によっている。緯絣で、模様は緯の絣糸であらわされ、組織は3枚綾(2対1斜文)である。これはまた他の東南アジアの絣のように他の技法で飾られることも少なく、絣技図柄を繊細な絹糸で織りだしている。そのため模様をいかにはっきりと描き出すかに工夫を凝らしているが、実際にそれが成功しているのである。綾組織の緯絣としたことがその最大の特徴だが、3枚綾は本来、毛織物に使われる織物組織で6世紀、ササン朝ペルシャに成立した緯錦(ぬきにしき)に用いられ、唐代になって中国の緯錦の基本的な組織となったものである。インドの絣に3枚綾は見られず、それゆえ、この組織織の知識は華南から南下してきたタイ人から教えられたものにせよ、源流は中国絹織物であろう。3枚綾は綜絖の数がもっとも少なくてすむ斜文組織だが、その緯綾(緯糸が支配的な綾組織)は、緯絣の模様をより表に出すのに効果的である。その場合、裏は経綾で経糸は緯糸に覆いかくされてしまう。それを利用して経糸を表で主な色とは別の色糸を用い、それも1色のみとせず、2、3色を使い、それによって織りあがった布は裏表で異なる色調となり、表では複雑な色合いとなって、織物に豊かな味わいを醸し出している。南方の強い日差しによってそれは玉虫色に微妙に変幻して見えたことであろう。かつては織物に不器用であったと記されていたカンボジアの女性たちは実際のところ繊細な芸術的感覚と優れた技術の持ち主であったのであろう、そのセンスと技量を見込んだのがタイ王室であった。14世紀以来、カンボジアはタイ諸王朝の支配下におかれることになるが19世紀末にいたるまでタイの上層階級のフォーマルな衣装ソムパクプーン(腰布)はカンボジア製であった。幅90cm長さ2mの大型の織物で、それを作る織機も大きくなり、かつて周達観がみたカンボジア人のものではない。おそらくタイからの技術指導があったのだろう。意匠構成はインドの経緯絣として世界的に有名なパトラにのっとっているが、織物の両端に見出される典型的な火炎状模様によって、それが17世紀からタイ王室がインドに特に注文して制作させていた華麗な手描き(媒染)更紗の腰衣パヌンと同列に並ぶものであることがわかる。つまりタイ王室は高級な織物を外注していたのである。それに対して本来のカンボジア人つまりクメール族特有の腰布サンポットホルがある。この古風なつくりものはパトラ絹を模範としながらもはやクメール様式となった菱格子文を主な模様の地に織りだし、長さと幅の方向に簡素な模様の条帯を間隔をとって織りだしただけの地味で控えめな意匠である。しかし絣糸の括りは非常に細かく(最小単位の緯4本)、絣文にさらに細かな明るい黄の点々の絣斑(竹の肌の細かな斑文になぞらえて<bamboo shot >バンブーショットと言う)を加え、まことに繊細な品格のある古典的作品に仕上げている。それらは晴れの場の腰布で、衣の端を股の下に前方からくぐらせて後ろにたくし上げ、袴のような形に着る。日常着は東南アジアで一般的な筒状の腰布が用いられ、土地の伝統的な名称もあるが、今日ではインドネシア語のサロン(sarong)が用いられているようである。ちなみにタイやラオスはパシン(pha sin)である。

    着物の悦び 

     きもの七転び八起き 

    林真理子 著書<野心のすすめ>は作家の実生活から、現在の女性は理想が低いという点から高くいないと駄目で、理想が低いのはなぜ駄目かを書いている。野心のすすめは啓蒙的なアドバイスが満載で、自分をみなおして目標をもちたい人にはおすすめだ。2015.9.6.日に古書店にての箇条書きはこう私はしている。<(林真理子さんの野心のすすめ が面白かった。群集心理にトドメをさして、とにかく上を目指すことをすすめる。古書店に置かれて夢中で読み干した。たぶんこの本がここにあるのは、皆アンテナはってきた人がここで読み干して帰っていくから一冊だけ異様なオーラになっている。)>着物の悦びは野心のすすめとの出版時期は知らないが谷崎潤一郎から着物女を男がどこをみているかが知れるとした。恥かきつつの精神のスタンスは自己成長を倍にしている。谷崎潤一郎の文も、着物にくわしくないと書けないものであるとして、まったくもって同じ意見である。着物の悦びは、初心者からスタートして着物をきるようになった著者が着物に関して感じたことを率直に書いていったもので、感情が怒りまくったり、様々な感情できものをみている。

    日本の染織 縮緬

    立体的な美しい白生地 

     

    縮緬(ちりめん)の特徴は布面に細かいシワのあることで、このシワを「しぼ」という。結城紬の縮という織物も緯糸に強い撚りを手つむぎ糸にかけることで、平織りにはない「しぼ」が縮にはある。結城紬の縮についての記事はこちら

    この「しぼ」があるために、しなやかで柔軟性に富んでいる。縮緬には絹特有の艶やかさ、ぬめりがあり、じっと見ていると思わず壊れ物でも見ているかのような目つきになってしまう、それほど縮緬の美しさは繊細なのである。縮緬は手描きや型染めの工程によって染められ、一段と変身してゆく。また縮緬は艶やかな光沢は素材の絹がいきて目にやさしく映るし、柔らかい手触りはこころを和ませる。そのために古くから人々は絹に憧れ貴重品としてあつかわれてきた。縮緬がはじめて日本で織られるようになった天正年間(1573年〜91年)は、現在のきもの地のすべてが、初めてこの時代に日本で織り出されたといわれる日本の染織史の黄金期といわれている。ちなみに日本国内は尾張(おわり)の織田信長と豊臣秀吉の一味による天下統一の完成は下克上による新しい社会の到来である。庶民のバイタリティが燃焼した時代であった。

    小袖が生まれた時、その素材としてもっとも適した縮緬や羽二重の技法が、ちゃんと日本に入ってくる。染織に新しい息吹が吹き込まれ滅びかけていた染色が復活し、辻が花を経て友禅染がうまれた。それにしても結城紬生産者や熱心な紬ファンはいったい誰が「しぼ」を考えたんだという話題でもちきりである。生糸のもつ性質をたくみに利用して、強撚(きょうねん)のもどるのをとめ、精錬によってその強い撚りをもどし、裂地にあらかじめしわをいれることによって着用時におきるしわを殺してしまう。さらにそのしわによって絹の持つ強い光沢を一つおさえて、光にふくらみを持たせ、普通の絹の平織りでは出せない柔軟さと、しっとりとした重みを創り出すという発想は、実に非凡である。

    日本の染織 絞り染

    古代から続く優美な染め 

     

    絞り染めとは布地の一部を糸などで括り、または縫い(ぬい)しめたりして簡単な道具で締めつけたり、押しつけたり、あるいははさんだりして、つまり絞ってその部分に染料の浸透するのを防ぎ(防染)、染め上がったとき、絞った部分が一種の文様として現れる、染色法のひとつといえる。まことに原始的で素朴な技術である。大昔から現在までそして将来もこの方法から抜け出ることは不可能な宿命をもつ技術である。友禅染や小紋や中形のような自由で色彩的で精巧な絵文様を表現できる技術と違って不自由な技術の拘束から解放されることはできない。しかし、それだからこそ、絞り染めとはそれ特有にのみ宿る独特の美しさが現れるともいえる。進歩した技術や能率的で便利な染めとは異なる文様の表現こそ絞り染めの生命といえる。絞り染は布地の表面に凸凹ができ立体感のある感触とまた多少の染料のにじみが残されて柔らかい味わいのある結果がうまれる。絞り染ぐらい人間の手先のぬくもりや心づかいが端的に見られる染物は外にはあるまいとおもう。絞り染めは大昔、布地が織られるようになってインド、中国、南方諸島、アフリカなど世界のいたるところで自然発生的におこなわれたが注目すべきは世界多くの絞り染めの中でも日本ほど美術的に高度に発達した国はない。絞り染めの日本において最高傑作の呼び声高い<辻が花 つじがはな>は世界美術品の最高位の着物としてほしままにしている。その点でも絞り染めの日本の歴史は興味深ろうかと思う。さて、小袖が主流となって来ると絵模様を好む庶民の感覚もまた好まれる流行になった。そのときに用いられたのが絞り染めであり、言うまでもなく辻が花染めとなったのであった。そして室町時代、信長が京都ののりこむ三、四十年前あたりから姿を見せはじめ、江戸時代にはいるとさっそく慶長小袖に席を譲ることになる。それでは辻が花は消えうせたかというと、そうではなく匹田絞りのような新しい魅力をも加えて江戸時代の着物の染めの芸術のゆたかで、華やかで幅ひろい豪華な花園を形成するに至る。つまり辻が花は七、八十年しか保てず、咲いたかとおもうと、たちまち盛りをすぎてしまったまぼろしの花であったのである。けれどもそれはこんにちなお、世界の賞讃をほしいままにしてると再度いわせてもらう。着物の美しさを生み出す直接の母胎であった。正倉院時代に﨟纈(ロウケチ)夾纈(キョウケチ)・纐纈(コウケチ)の三種類であった。この三種は天平の三纈といわれる素晴らしい技法のものであったのである。まずロウケチというのは臈纈染めというようにろうけつ染めである。次にキョウケチとは板締染めなどであり、さらにコウケチは絞り染である。結論からいえば最後のコウケチすなわち絞り染しか残ることができなかったのである。三世紀からコウケチ、絞り染めをさぐろうではないか。三世紀の日本の実情を記録した「魏志倭人伝 ぎしわじんでん」によれば景初二年(238)十二月の条に倭国から魏へ献上品を贈ったとあり、そのなかに「斑布二匹二丈」の記されている。この「斑布」については「縞織の紵麻布である」とか「草木を摺ったまだら染めの麻布である」などの諸説があるが、のちに生まれる「纐纈 こうけち」の前駆的技法、つまり絞り染によって縞状の模様をあらわした麻布と考えられなくもない。実際に絞り染の布が残っていろのは、飛鳥時代(592〜707)や奈良時代(710〜784)以降のものである。飛鳥時代のものは法隆寺に奈良時代のものは正倉院に残されて伝わった。

    <清少納言と紫式部の色彩能力才女二人の絞り染めの女の戦 >

    染物をつくるとき一番楽しいのは「水もと」である。水もとは、友禅染をした布を川の流れにひたして糊などを洗い流すことである。友禅染流しは京都の鴨川染、その他、各地の染工場の近くの川筋が現在もみられえるが水もとをすることではじめて染物の美しさが目の前に現れるのである。絞り染めも、染めおわってから解きほぐすときが水もとのような楽しさがある。清少納言は「枕草子」に「とくゆかしきもの巻染・むら濃(むらご)・くくり物など染めたる」と書いているが、とくゆかしきは早く結果を知りたいものという意味であり、巻染は糸で巻きつける絞りの技法 のものであり、むら濃は、まだら染のことで、くくりものは絞りをさす。こうした時代に残されし才女も染色は高貴なものの間でもおこなわれていることもわかるが、私の染織資料まとめでも繰り返しになるが色彩感覚の突出したものは名をはせることができたという人物はこのあたりの人物のことをさす。話を戻そう、紫式部は、その日記の中で「清少納言こそ、したり顔にいみじう侍(はべ)りける人。さばかり賢(さか)しだち、、、、」と清少納言をけなしているが、「とくゆかしきもの」として、絞り染の結果を見ることの楽しさをあげている点、才知はおどろくべきもので素晴らしきものである。

    日本の染織 紅花染

    花の生命を染めた布

     

    何千年以上も前の古い世紀、近東メソポタミアの山間の地に野生する紅花。紅花は赤と黄色に染めることができる。紅花の種子は近東よりエジプトに渡りヨーロッパに、一方ではインド、中国へと伝わっていった。

    聖徳太子によって初めて制定された服色の制度は数回の改定によっても常に最高位は<紫>であった。だが聖武天皇十四年紀に位階を改定した際は、最高位に<朱花>(はねず)を置いている。日本書紀に「朱花、此をば波泥孺(はねず)と云う」とある。さらには万葉集の中には朱花を詠んだ歌が四首確認されている。引用する。

    念(ねが)はじと言ひてしものを

    唐棣色(はねずいろ)の変(うつろ)ひ易きわが心かも

     (大伴坂上郎女 巻四 六五七)

    夏まけて咲きたる唐棣ひさかたの雨うち零(ふ)らばうつろひなむか

    (大伴家持 巻八 一四八五)

    山吹のにほへる妹が翼酢色(はねずいろ)の赤裳のすがた夢に見えつつ

    (巻十一 二七八六)

    唐棣花色(はねずいろ)の移ろいやすき情(こころ)あれば

    年をぞ来経る言は絶えずて

    (巻十二 三〇七四)

    ここまでで、色がうつりやすいところをうつろい易い心にかけて歌っているところから、退色しやすい紅花染の薄色だったのではないかと思われると様々な考察がなされている。さらには赤裳とあり赤系統の色であることもその意見に拍車をかけている。仮にこの染めが紅花による染色であるとすると聖武天皇の頃、日本に渡来していたという想定もなりたつ。中国では珍重されており、そのために日本でも最高位の色として定めたという説もつよくなる。ただ、紅花は咲きがよく栽培できることから世界各地で普及し、さらには日本でも栽培すれば大量に生産できることから、わずか三年間で最高位の服色から追われる結果となっている。持統天皇四年紀には再び<紫>が最高位に戻っている。

    <紅染に憧憬(しょうけい)した万葉女性>

    紅の衣染(ころもし)めまく欲しけれども着てにほはばや人の知るべき

    (万葉集巻七 一二九七)

    紅の深染(こぞめ)の衣下に着て上に取り着ば言(こと)なさむかも

    (万葉集巻七 一三一三)

    呉藍(くれなゐ)の八塩(やしほ)の衣朝な馴れはすけれどもいやめづらしも

    (万葉集巻十一 二六二三)

    紅の薄染衣浅らかに相見し人に恋ふる頃かも

    (万葉集巻十二 二九六六)

    万葉集には紅(くれなゐ)を詠んだ歌が短歌二十二首、長歌七首の数があり、当時、紅花染がいかに万葉女性の憧憬のまとであったかが思われる。

    紅花には紅色素(カルタミン)と黄色素(サフロールイエロー)があって、黄色素は水溶性であるが、紅色素は水に溶けないでアルカリ水でないと溶出しない。その色素の溶出した液も、そのままでは染色に使えない。この色素は酸を加えて染着させる。古代人はこの複雑な染色法を経験の累積から知り得ている。灰汁水(樹木性の灰)に花を浸して紅色素を溶出し、その溶出液に梅酢を加え(中和作用)、染色したあとにさらに梅酢を加えて定着させる。この複雑な染色法によって染めるために京(みやこ)だけで紅染がなされていた原因とも思われる。梅酢の梅は、青梅の黒焼(烏梅 うばい)を用いるようになる。

    平安時代には二藍(ふたあい)という色名が現れる。枕草子でそれは出てくるが紅花と藍草の二種の藍で染めた色が二藍であり、その濃淡によって、二藍、濃二藍、薄二藍と枕草子では記録されている。平安時代にはこの花でそめる唯一の染料であって高価にならざるをえないにも関わらず家財を傾けるものが多くでてしまう。はかない花の生命をそこに求め、そうした想念さえも抱かせる紅の色であった。

    わが国にあるもっとも古い紅花染は、東京国立博物館や正倉院に所蔵されている奈良時代の「紅地七宝文纐纈裂」といわれている。纐纈といえば「天平の三纈」のひとつで、現在の絞り染であるが、この紅地裂は七宝文の縫い絞りだという。紅花染の紅色はすっかり褪色してしまったという。しかし、安土桃山時代(1573〜1600)や江戸時代(1603〜1867)のものになると、やや朱色にはなっているが、はっきり紅花染とわかるものが少なくないという。島根県清水寺所蔵「丁字文辻が花胴服」(桃山後期)や東京国立博物館所蔵「紅地梅樹模様匹田絞振袖」(江戸後期)などがあげられるという。

    紅花の染めは歴史の古い染色法である。

    日本の染織 絣

    日本の郷愁さそう織物

     

    かつて絣は、日本人なら誰でも着たきものであった。当然、どこの町、どこの村でも絣を織る機音が聞こえていた。結城紬の産地の結城市の結城市の歌にこんな歌詞がある。

    おはよう結城 わたしたちの市(まち)

      むらさきの筑波のみねから

      太陽ののぼる市です

      鬼怒川の流れのほとり

      千年の昔も今も

      娘らがはた織る音の

      高らかにひびく市です

      名にし負うつむぎのふるさと結城 (結城市のうた 一番)

    名誉市民の新川和江さんのつくった歌詞である。

    また、もうひとつ、

       花むくげ 家あるかぎり 機の音

    これは正岡子規(1867〜1902)の句である。

    正岡子規は伊予絣のふるさと、愛媛県松山市で生まれ育った。彼が松山にいたのは明治の初期だが、当時の松山地方はその句の通りであったのだろう。絣が庶民の生活に切っても切れない存在になり、全国のほとんどで織られるようになった理由は様々であるが、そのひとつに天保の改革(1841〜1843)による奢侈禁止が考えれられる。そして江戸時代(1603〜1867)の中期以後、全国に木綿栽培が普及したこと。それに歩調をあわせるように、藍染めする紺屋(こうや 染め屋のこと)が全国いたるところに生まれたといったことなのだろう。木綿の織物が我が国に初めて伝えられたのは飛鳥、奈良時代のことである。しかし、綿花栽培は失敗して絶滅してしまう。そのあと700年後にふたたび栽培されるようになった。綿花栽培は八世紀末「日本後紀」に延歴18年(799)7月、三河国に漂流した天竺人(サンスクリット語のシンドゥ(Sindhu)のあてじ インドと同じ地域を指すのではなくインダス川流域のことらしい)が綿の種子をもたらし播種した。その地域は紀伊、阿波、讃岐、伊予、土佐に配布された。700年後、再び栽培されたのは不思議な一致であるが最初に伝来した三河であった。いまも「三河木綿」は有名であるがそうした歴史的な事情と無関係ではない。一方、藍染が発達したのは奢侈が禁止されていたため、藍染のきものをきるしかなかったからである。

    インドから絣は伝来、スマトラ、ジャワ、ティモールなどの島に移民によって伝えられ沖縄に上陸し、薩摩に伝わり、久留米、伊予、山陰、能登、越後といったように全国で絣が織られるようになった。絣は日本の特産ではない。東南アジア系の絣は、オランダのアムステルダムにあるトロピカル博物館に素晴らしいコレクションがあるし、スウェーデンのストックホルムのノルディスカ博物館の民族衣裳のコレクションの中にも何点かの絣をみることができる。その他、中南米に面白い絣があるときく。日本の絣ほど民族文化の基盤から吹き上げるうたごえを感じさせるものはない。それほど日本の絣は見事なのである。

    東京国立博物館に飛鳥時代の「太子間道」たいしかんどう という裂(きれ)が保存されている。これは法隆寺に伝えられた宝物のひとつで聖徳太子(574〜622)が勝鬘経(しょうまんきょう)講讃のときに使われたという幡の裂である。そのため「太子間道」とよぶようになったものだという。日本の染織史上、きわめて貴重な品だが、それというのも<現存する世界最古の絹の絣織物だから>である。

    日本の染織 西陣織

    世界に誇る美術織物

      西陣織:染の美しさと織の美しさをともに支えた感覚、色の、形や文様の手触りには外来のものを消化しながら土着の視覚や触覚に育まれた見事な「日本人好み」が息づいており、都には都の、田舎には田舎の甲乙つけがたい高度の創意工夫が定着し、洗練されたことが民族の文化としてとりわけ尊く、興味深い「日本人好み」の原型をなしていて、生活感情や生活様式のいちばん奥底の原則をするどく刺激しえたのである。強いて言えば日本人の文化では衣裳と染織の好みが深く先行(潜行)して領域の造型や表現や行動様式を現し定めるという度合がつよい。世界中で着物の表面を絵画ないし多彩な文様表現の場、画面、とみたてて旺盛な創造力を発揮し、楽しみ、喜び、誇りにして来た中でも、日本人の場合はむしろ並外れてその傾向が著しい。それどころか絵画も建築もまた鎧兜などの武具や紙工品や陶磁器、漆器も染と織の意匠、傾向、技術に負うてきた範囲がたいへん広い。しかも染織品の多くは消耗不損して遺品の数こそ多いが量的には充分ではない、技術はいつも廃絶の危険にさらされてきたし、そのなかでも日本人は染物の美しさにより親しみ、織物の美しさをより尊んだといえる。染の方が遥かに難しいと言われながら織るという技には経緯多彩の糸の一筋一筋を根気よく機にかけて織りなす一種悠久かつ巧緻精巧のいとなみに永遠の時空を一刻一刻実現していく手わざが実質的に実感も強いという点は織りの強みといええるのではないだろうか。織る文化は糸の文化であり、糸を愛する文化は自然必然にまた女文化であった。「いと」という言葉を呟く時、私はこんなに美しいイメージを喚起する発音が他にもあるだろうかと物狂おしいくらいあやしい心地がして、自分の心身もまたその永遠の糸に織りなされてきた日本人だと思ってしまうのである。「嵐ふく三室のもみぢ葉は龍田の川の錦なりけり 能因法師」は小倉百人一首にもえらばれて周知の歌であるが、奈良の龍田川は生駒川の下流で古くから紅葉の美しさで知られている。この歌もまた紅葉の流れるありさまと、さながら目もあやに織りあげられた錦のように美しい、と詠んでいる。この他にも古今集に「龍田川紅葉乱れて流るめりわたらば錦中やたえなむ」などがあり、古来わが国の詩歌文学の中に錦を紅葉の美しさによって表現したものは数多くみられる、錦とは文様色彩を美しく織りだした織物の総称であって特定の織物技術をさすものではない。綾錦、錦繍などの語も美しい織物にちなんだ名称である。
    日本の手わざ 結城紬  

    筑波ねの新桑まよのきぬはあれど 君がみけししあやに着ほしも

    (筑波山でとれた新しい桑繭で作った衣服はありますがあなたの下さる着物が何をおいても着たく思います 久松潜一 )

    これは万葉集のなかに詩があります。恋しい人のためにたんねんに着物を織って贈るなど、世知辛い世の中では望みようもありませんが、せめて団欒のひとときに結城紬を着てみたい着せてみたいと思うのは日本人の心の故郷を見るからでしょうか。

    桑の取り入れは独特の形をした<桑ツメ>を用いて丁寧に葉をつみとる光景がみられた。春の蚕には、枝の刈り取りを行い、枝ごと刈り取って飼育される。省力化が盛んとなってからは秋の蚕でも枝ごと刈り取って飼育するようになった。枝ごとは葉を食べ尽くした状態から回収することにも都合がよい。蚕は1眠から4眠まで休眠し脱皮をしながら成長を続けていく。3眠までは桑の葉を食べる量も少ないとされており4眠から覚めると食べる量が急増し、蚕の成長も著しくなる。桑の葉を与えた蚕はもくもくと桑の葉を食べ、その音は木の葉に雨粒が降りかかっているかのような音がひびくという。4眠から覚めて約12日位で上蔟(じょうぞく)する。この時期は養蚕家はねこのてもかりたい忙しいものとなる。蚕が桑の葉を食べる速度は気温に比例するため春蚕で気温の低いときは暖房を使うこともある。成長の遅れを防ぐための手段である。桑の葉を十分に食べた蚕は糸をひきはじめる。このような状態の蚕を熟蚕(じゅくさん)といい、さかんに糞を排出し、蚕体の青味がなくなり、幾分縮んでピンクがかってくる。それを丁寧に拾い上げて<回転蔟 かいてんまぶし>という道具の環境へ移動させる。蚕は上へのぼる習性があり、上部が重くなりバランスを失って半回転し、また上へとのぼる、これを繰り返していくと回転蔟の紙枠に繭をつくりはじめる。回転蔟という道具によって2匹で一つの繭をつくる玉繭が減り養蚕にはかかせない道具となっている。こうしたなかでも選別のとき形の変形したものや汚れた繭が出ますがこれをのび繭という。そのほかにも製糸工場で糸のほぐれの悪いもので除かれたものを揚げ繭といって同じく真綿の原料として活用される。乾燥や殺蛹(さつよう)をせずそのまま煮繭をして真綿に加工したものを<生がけ真綿>といい、秋の終わりの生がけ真綿は極上のものである。晩秋生がけについてはこちら、同じ原料でも格付けは上位にある。殺蛹をしないと蛾が発生するために熱を加えて殺蛹をします。こうした真綿加工したものを<半生がけ真綿>といいます。冷蔵設備を使い殺蛹した繭のカビの発生を防ぎ品質を保つ。収穫時に加工のできないものは加熱乾燥して貯蔵をする。これを<乾繭>とよぶ。生繭、半繭、乾繭とそれぞれに応じて煮繭を行うがそのさじ加減は職人のなれによるもので調節されるという。蚕から吐糸された繊維はフィブロインを中心にその周囲をセリシンが取り巻いており、繊維の26%がセリシンでできているといわれている。このセリシンはアルカリ水溶液に溶ける性質がある。このセリシンは水やアルカリ性の溶液に溶けるので重曹(重炭酸ソーダ 等)の合成物を用いて煮繭(しゃけん)の工程をおこなう。高温であるとさらによいとされている。昔は灰を抽出した溶液で煮繭がおこなわれていたが手間がかかりすぎるために、重曹を用いる形となった。灰汁の作り方は下記文章(a)にて説明補足を行うことにする。煮繭の工程ではセリシンを取り除く作業がおこなわれ、この工程でセリシンは完全に除去されるわけではない。煮繭の工程で加味されていることを下記文章(b)にて情報補足を行うので参考にしていただきたい。真綿かけは<蚕が繭をつくるときは8の字を繰り返して形成し、やがて親になったときに出やすいように繭の先端は一部的に薄くなっている、食い破って出る箇所>をうまく使ってひろげて真綿にする。繭7粒ほどで一枚の袋真綿ができあがる。真綿かけにはそれぞれ流派がある。下記文章(c)にて説明補足をおこなう。 袋真綿は昔から一枚2gほどであり94gを基準に一ボッチという呼び方で取引がおこなわれる。いざ、糸をひくために、なめし 加工を行うことがある。なめし加工については下記文章(d)にて情報補足をおこなう。つくしという糸とり道具に袋真綿をかけ、おぼけというおけに糸をためてゆく。一反のつむぎには7ボッチほど糸が必要とされている。それぞれたて糸に4ボッチ、よこ糸に3ボッチの割合で使用されます。結城は通常の織物とは糸の太さが違い、たて糸より、よこ糸のほうが細い糸をつかいます。ここに絣が入る結城となると糸は4種類の太細が必要になる。糸の太さについては下記文章(e)にて情報補足をおこなう。ボッチ揚げの工程(ボッチ揚げの工程についてはこちら)を行い、次に染色をおこないます。手つむぎ糸はなめし加工に使った油脂や唾液がついているために軽く精錬をおこないます。精錬剤は高級アルコール系の洗剤を糸量の約3%程度使用し沸騰中で約10分処理する。不純物をとりのぞき、染色をおこなう。使用する染料は草木か化学で方法は異なりますが、化学の場合、地色の部分はクロム染料または錯塩酸性染料を使用し、模様の鮮明な部分は酸性染料を使用する。絣の染色は下記文章(f)にて情報補足をおこなう。染色を終えて糸を巻き、糊つけの工程を数回おこない手つむぎ糸の糸の弱さを糊で補強します。糊については下記文章(g)にて情報補足をおこなう。絣のまざしこみ、筬通し、前結びなどを経て、機巻き作業をおこない、最後に機織りをおこない結城紬は完成されていきます。結城紬の手織り機<地機>(じばたについてはこちら)で織られたつむぎは、我が国最高峰の織物という評価をする愛好家が多いことで知られています。地機は日本でもっとも原始的な水平式織機のひとつといわれています。地機織りの平織りと縮(ちぢみ)織りがあり(縮についてはこちら)、単純に説明すると、平織りのつむぎの緯糸が強い撚りのかけた糸を使って織り上げることで<しぼ>がうまれ独特のシャリ感がうまれます。

    (a)灰汁のつくりかたについて

    藁灰汁の作り方は、藁を燃やして、火が消えかけの黒いうちに熱湯をかけて、上澄みを濾して使います。精練に良いphは10.5程度です。藁の量は糸量(繭量?蛹は除く)の2倍、湯量は糸量の40倍+15Lです。

    灰汁の作り方などの詳細ページ

    (情報提供者 きてぃ。)

    重曹の場合の参考:生繭4kgに対し重曹100gを使用する。繭をつけこみ激しい沸騰をさけてじっくり煮込む。

    (b)煮繭の工程でセリシン除去以外の加味されていることについて

    蛹(さなぎ)は脂肪を多く含みこれがアルカリ剤と作用し、脂肪酸塩(構造 R-COONa)が形成される。これがフィブロインに付着し真綿独特の風合いをかもし出すといわれている。アルカリ剤が多すぎたり、強アルカリ剤を使用すると脂肪酸塩の付着が減ってカサカサした真綿となってしまう。脂肪酸塩の付着量が多すぎると真綿のヌメリ感が強すぎるとともに黄ばみの原因となることがある。

    (c)真綿かけの流派について

    奥州流(福島県)、信州流(長野県)、甲府流(山梨県)などがあり、結城は奥州流である。現在は福島県から仕入れをおこなうために結城では数件ほどおこなっているくらいになっているといわれている。

    (d)なめし加工について

    真綿かけがすむとそれになめし加工をほどこされる。かつては、なめしに胡桃(くるみ)やカヤの実を粉砕したものを使っていたが現在はほとんど白ごまを用いる。すり鉢ですりつぶし、三つ指でつまんでその量を一升五合の水につけて混ぜ込む。よくとかしたら真綿を浸し、すったごまからにじみ出る油脂分をすみずみまでにじませる。こうすることで真綿の毛羽立ちを防ぎ、糸を丈夫にしつむぎやすくなる。これは紡績工程のオイリングに相当するものである。

    (e)4種類の太細の手つむぎ糸について

    細い順に表記 地糸緯糸、絣糸緯糸、地糸経糸、絣糸経糸 になる。タテヨコの絣糸は、地糸より若干太めの手つむぎ糸を用いることで仕上がりが美しくなる場合が多いといわれています。

    (f)絣の染色について

    染料液に入れ物理的にたたきながら、括りと括りの間に染料を浸透させる。たたき染めとよばれるもので熟練の力加減が必要になる。使用する染料は化学の場合、地色の部分はクロム染料または錯塩酸性染料を使用し、同じ部属の染料でもそれぞれ浸透性が異なり「羽二重巻き法」という独特の方法で染料の浸透性を分類し、絣染めの場合は最も浸透性の悪い染料だけの組み合わせで染色する。絣は目色(絣の色)と地色を指定された色に仕上げる技術力は化学染料の染色において並外れた精度を結城の染色家は保持しています。

    (g)糊について

    うどん粉を結城紬では<糊>にします。機織りのときに使う<糊>はゴーセノールとよばれるものを使います。うどん粉は織元で秘伝の<浴比>(よくひ)で数値化した分量を水にとかして10分程度加熱します。うどん粉(でんぷん)は加熱によって糊化します。加熱前をβでんぷん(ベータでんぷん)、加熱して糊化し変化したでんぷんをαでんぷん(アルファでんぷん)とよぶそうです。糊つけ作業の下糊つけとよばれる糊つけは、完全に糊化した糊を使用し、本糊つけとよばれる最終的な糊つけ作業は80%程度が糊化した状態で糊つけ作業をおこないます。この糊を別名、攪き糊(すきのり)とよびローソクなどの油剤をほんの少し使用して糊つけします。

    日本の染織 御召

    多様な美を織る

     

    御召は御召縮緬の略。先練、先の縮緬である。天明八年(1788)に田宮楚洲によって書かれた『絹布重宝記』の羽二重の条に「御召地極上品の絹の総称なり」とあるし、洒落本、仕懸文庫_二に「おめへがたのような革じゃごぜへせん。おめしサ<かはとはかわはをり、おめしとは羽二重といふこと也>」、また江戸末期の『守貞漫稿』巻十九、織染には「前ニモ云ル如ク三都ノ男女トモニ式正ノ礼服ニハ無地紋付也、無地紋付ニハ黒ヲ専トス、黒紋付ニハ男ハ黒羽二重、下輩ハ黒紬ヲ専トス(略)女子ハ小紋ヲ専トシ縞次グ(略)小紋、縞トモニ縮緬ヲ専トス、縮緬モ近世御召縮緬ト云上品ヲ専トス」とある。こうした文献のほか、江戸時代には御召とは先練の縮緬をさしたのではなく、相手を敬ってその着物をいう「お召しもの」といった意味の、地位の高い人々がお召しになる上第の絹織物の総称として使われ、今の御召のことは、それが縞物であったから柳条縮緬(しまちりめん)といっていたと考えるべきであろう。因みに縞を柳条とかき、その縞柄の多いことやそれに親しみをこめて、結城紬の問屋も柳条屋(しまや)と産地問屋をよぶことがあった。そのくらい縞は一般的な柄として柳条が知られていた。ところで御召縮緬という名の起りにはもう一つ、一般的に広く知られている徳川十一代将軍家斉が、常に好んでお召になったからだという説がある。家斉は「天性華美にして世間にありふれたる物を嫌ひて新機軸を喜びたり。従来縞縮緬とて高貴の人の常にきせしものありたれども、皺縮、紋様極めて平凡なるものなりしを以て、更に之を多くして縞に織らせたり。其の色は御納戸と称し濃厚なる浅忽にして、白き万筋の縞あり。二分を隔てゝ横筋ありて格子状を成す。是(これ)を御止縞と称し、他人の着ることを禁止せられ、天保初年に至り桐生にて此(これ)の縞に擬し、格子なしの紺地に藍縞、茶縞、鼠縞(ねずのしま)の千筋、万筋を織出し、縞縮緬は一尺三寸幅のものなるを並の絹布幅九寸五分のものとなせり。」

    安田丈一著「きものの歴史」には、桐生では「この柳条(しま)ちりめんを織って幕府に献上したところ、家斉は大層よろこんでこれをお止め柄にした。桐生ではその縞柄を変えて、お召ちりめんといって市場に出したのだという。家斉に献上したという文献は何もなく伝説に過ぎないとは思うが、このようなことはありそうなことでもある。つまり商売にもそつがなかったようである。」と書かれている。このように見てくると、どうやらこの家斉お召の俗説が織りのきものの高級品であるという宣伝にたくみに利用され、先染縮緬のネーミングとして成功し、上等の絹織物の総称であった「御召」という名称を先染縮緬が独占することになったと考えるのが妥当のように思われる。それは、明治に入ってからではなかろうか。

    染織辞典でもう一度、「おめし」の項を引いてみよう。

    「御召縮緬の略称なれども普通御召の名を使用するものは其範囲広く、例へば杢糸(もくいと)を平織し整理法に依りて御召風となしたるものまでも御召風と称すれど、普通は緯に縮緬と同じく強撚糸を織り込み(縮緬は生糸、之は練糸)製織後処理を行ひ布面に微なる皺縮を呈せしめたるものなり。経緯純絹もの及び絹綿、絹絹紡、綿玉糸、綿柞蚕糸、人絹等の混用せる交織物もあり。幅九寸五、六分、長さ二丈八、九尺、重さ百二十匁(もんめ)内外を普通とし、縞物、絣物、紋物及び色無地等の種類あり。純絹御召は京都及桐生を、絹綿交織御召は足利を以て主産地とし近時各地よりも盛んに製出せられる。」とある。ちなみにこの辞典が出版された昭和6年という年には西条八十作詞の『女給の歌』が大流行したのであるが、そのなかに「わたしゃ夜さく酒場の花よ、赤い口紅錦紗のたもと、ネオンライトで浮かれて踊り、さめてさみしい涙花」という一節があり、この部分は、この歌の中でも特に愛唱されたのであるが、この錦紗とは薄地のしぼの細かい上等の御召(縮緬で派手な染めのものであった)で、その当時に新しく創られ、こうして流行歌にとり入れられるほど、女性の着尺地、コート地として流行していたのである。御召は、織りのきものの代表的なものとして婦人に愛好され、それだけに色々と工夫された新しい風合の御召がつぎつぎに考案され業界のドル箱であったのである。しかし、いつの時代でもそうであるように、売れる時は、また商品の質が低下する時でもある。かならず売れ行きに便乗した手抜きや素人眼にはわからないところで材料の質を落とすなど粗悪品が出回り、それが悪貨は良貨を駆逐するの例のように、結果的には信用を落とし善も悪も共倒れすることになる。その意味で、ここでも前記したように緯糸に杢糸や壁糸をつかって、あたかもしぼがあるかのように見せかけた御召風御召や、素材に綿や人絹等を使ったまがい物が数多くつくられていたことを見逃すことができないのである。西陣をはじめとする業界で御召というと、狭義の意味では御召縮緬を指すがむしろ一般には紬をのぞいた先染着尺全体の通称として使われていると見るべきである。

    「若い時にはお召を、よそゆきにもふだんにも、西陣お召ばかり着てゐたもので、いまでも一ばん好きな着尺はお召である。ちりめんほどぼってりとせず、結城ほどかたくもなく、一ばん着心地がよい」(森田たま著『きもの歳時記』)

    たしかに御召は、体によくなじみながら裾さばきがよく、しわになりにくく、よごれにくく、着やすくて、しかも品のある織物であった。さらに二度、三度と洗い張りをして着こんでいくと御召緯(おめしよこ)に深く浸透している糊が抜けてさらに着心地がよくなるのである。(できれば結城はやわらかくなるまで着た上で最初はカタいといっていただきたい)。このように着ることで糊がおとされて風合いがよくなる織物が御召や紬の愛好家をひきつけてやまない。さらに森田たまさんの著書を引用してみよう。

    「どうしてかこのごろのお召しは好きな柄がない。平結城の縞には気に入ったのがよくあるのに縞お召といふものは殆ど見ることなく、紋お召などの複雑な柄ばかり多いのは、お召をよそゆきにより考へぬせいであろうか」

    これは、どういうことかというと、生産側が染物志向であるからだ。染物に偽せるのであるから必然的に紋御召、小紋調は風通御召が主体になって、御召の着やすさはほとんど死んでしまっている、ということである。さらにほとんどの織物の命は<糸>にある。御召の命は御召緯にあるといえる。ほとんどの機屋が同一メーカーの品であるというのは酸素吸入でかろうじて息をしているというのにひとしい。西陣、桐生といえばかつての御召二大産地であったからなんとか御召の火をたやさなかったからこそ、御召はそれでも生きのびてきたといえるのかもしれない。

    森田たまさんをふくむ、本当に着物のよさを知るほどの人は口をそろえて御召の良さをたたえる。ただしそれは昔を回想してである。少なくても普通の紬と同じくらいの値段で売れる、本当の御召をつくりださなければならない。すぐには売れないかもしれない、それを恐れて現状を変える努力をしなければ完全に見離されてしまう。そしてふたたび、御召が昔のように着られるようになれば、それは本物である。

    ヤママユガ観察事典 小田英智 野蚕(やさん)にあたるヤママユガと、家蚕(かさん)との違いは多々あることは間違えない。養蚕としても常に困難必死である。ヤママユガの吐き出す糸が緑色で美しいということもあげられ、そしてほとんどかねそなえたものが蚕の種族として珍しいということに尽きる。現在のヤママユガの繭は一個で数百円という高価な繭からも、またこの野性ぶりは自然界で生き抜く能力が乏しいうえに進化の過程で防御も覚えなかった。すぐに天敵に食べられてしまう生物としての貧弱さが一個の繭の完成までたどりつく困難さをうかがいしれる。うまれて成虫まで常に天敵にとって格好の餌食、またタンパク源としても家蚕の成虫の体重の四倍ほどでイタチなどの動物からすれば、ひとたびこの緑色をみればつかまえ、とうぶん生きていけるボリュムであるといえる。こうした生物学上のもろさがヤママユガにかんしての養蚕する職人の、ヤママユガを繭粒をじょうずに育てあげたときの喜びははかりしれないものがあるように思う。著書は、そうした外敵が多いことや通常マユの中で休んでいる幼虫の状況を昆虫のエキスパートが写真でとらえて説明している。この著書をみて思うに、江戸時代から産業になったとあるが、それよりとっくの昔にヤママユガは絶滅していておかしくないほど弱いのであるが、私の推測だと家蚕の四倍の体重であるから天敵もすべて喰い尽くせないで、残りまのがれ、生き残れたのかもしれない。ただ仮説にすぎず、隠されたサバイバル条件はあったとおもう。ほんとに幼虫にしても、かよわそうで愛嬌があり目立つ緑色で生存率は極めて低そうとしかいいようがない。種として生き残るきがまったくない。それも生命の神秘だとおもう。

    日本の染織 沖縄の織物

    南国の素朴な伝統美

     

    どのような文化でも、地理的環境と歴史的環境の上に成り立っている。また、美という人間行為の頂点は、その双方の和がなくては成り立たない。

    沖縄は九州の南から台湾まで、弧状に点綴する南海の列島である。本土では見られない豊かな陽光と、石炭質の珊瑚礁、湿潤な気候は、織物に必要な繊維と染料を採る植物を育てた。苧麻、木綿、芭蕉、みなそうであるが、なかでも芭蕉は地味に適して全域にかつてよく繁茂し、もっとも普遍的な衣料となっていた。芭蕉を除いて沖縄の織物を考えることはできない。植物染料も多い。福木、車輪梅、楊梅(やまもも)、鬱金(うこん)、オキナワサルトリイバラ、ホルトノキ、ナカハラクロキ、タウルシ、クールーに藍がある。ねっとりとした染上りは、これらの染料を交染したり、混染するところからきている。強い陽光と湿度が、そうした色相を発達させ、沖縄織物の美しさを形造る一つになる。このなかで藍は、本土の蓼藍と違って、軽く明るい爽やかな色相を持つ山藍である。四方を海に囲まれた沖縄は、交通を船に頼った。芭蕉も福木もそのため、早朝から移植されたが、藍も別名を「唐藍」(からえー)と呼ぶところをみると、中国から使用法を教わったと思う。高級な繊維の桐板(とんびゃん)は主に福州からきたし、臙脂(えんじ)や蘇芳(すおう)は南方貿易によったものである。しなやかな紬は、南中国糸の繭から採り、絹は本土からの伝来による。沖縄で大麻を使わないのは、織物の伝来が比較的早期に本土からあったのを物語るであろう。苧麻を主材としたことは機道具の形からして推測することができる。

    沖縄の歴史は、尚王家を中心として五百年続き、南方、中国、本土の仲介貿易によって各地の文化をそしゃくし、独自の形に仕立てあげていった。そして織物は王家の服制にそって発達をとげたものである。服制には幾度か改正があったという。また都であった首里を中心として、読谷の花織(よみたんさんはなおり よみたんざんはなおり)、久米島紬、宮古の紺上布、八重山の白上布といった地方別に特色があったことも、織物の発展に幸した。私たちが目にし得るものは服制の後期の形と、それが商業に移行した伝統の品である。服制でもっとも上位にあったのは、洪武五年以降、中国から藩の徴として賜られた官服であり、国内で織られた紋織、紗綾であるが、文化的には除外して考えてさしつかえない。はなはだ興味深いことに、沖縄織物でもっとも美しいものは、国内の行事に着られたものである。上位にあったのが花倉織(はなくらおり)で、花織と絽織を併用し無地であった。花倉織で残るものは数少ない。ついで絣になる。初期の絣は捺染絣ではあるが、それが八重山の紅露の赤縞となって残っている。その次に括り絣が南方から発達過程内で中国の影響があった。括り絣の手結いと呼ぶ、きわめて原始的な技法は、展開性に富み、沖縄の風物詩といえる抽象的な図柄を数限りなく繰り広げてゆくのである。特に、織返しという左右対照に図柄を出すものは、独自の境地をもっている。素材も絹、紬、麻、芭蕉、桐板、木綿と沖縄で使われた繊維のすべてに及び、単純な紺絣から、きわめて厄介な経緯色絣まで広範囲に発達をしていった。地色も金黄色を頭にして黄、薄藍、紺、緑、葡萄、赤、紫、煤竹など多彩である。華やかな諸取切(むるとつちりー)と呼ぶ総絣を上位として、縞や格子との併用もあるが、みな王家一門の婦人用であり、着る時と場によって、ひとつひとつ着分けがあったときく。諸取切の発達には南方の絣のほか、同じ沖縄の紅型との相互影響を考えておかなくてはならない。紺絣は王子と士族夫人の晴衣となっていた。白絣の色物は王家の晴衣であったが木綿白地に紺で模様を染め出したのは憂装い(うれーすがい)とよぶ喪服で、死者を悼み、涙に濡れたような織物とした。大柄なものほど位が上で、原始的な技法と相まって、絣を美しくしている大きな原因である。ここには貴族工芸特有の脆弱さは、まったくない。威厳に満ちた王家の絣は沖縄織物の華であるばかりか、世界的にみても、南方のイカットと並び称されてよいものである。また、沖縄絣は慶長以後、薩摩を通して海路越後に、陸路北上して久留米にと、本土の絣の原形になっている。沖縄で絣が民衆の手に渡ったのは明治中期以降になり、手結いは本土から絵図(いーぢー)に技法が変わった。絣に次いで花織が、そして綾とよぶ縞がある。綾は母親の美称であり、美しいものを意味する。王家の綾は黄、赤、緑、薄藍と多彩で綾の呼び名にふさわしいものであるという。花織は王家では、組織で出した無地物であったが、読谷、知花、それに奄美では紺地に赤、黄、白と色糸を入れて、夜空にきらめく星のような小柄を織る。王家の織物は王家内でも織ったが、王家から注文の形で織物の産地に図案を渡して織らせた。これを御用布(ぐいふ)と呼び、その図案を御絵図帳とよぶ。御用布は沖縄物の発達と伝統の基盤をつくった。本土でもそうであったが、沖縄では衣服はその人の身替りであった。民俗学で有名な思い手巾(うむいていさーじ)の前身は、姉妹手巾(おないていさーじ)である。沖縄織物は霊的な存在でさえあって、美しさの基本を形造った。着物は死者の棺を覆って、墓に納められる習慣があり、そのために古い織物で伝世するものは稀である。着物が分身であるのを織るのは、仕立下しのとき母親が「衣美(ちすみ)いく美いく、胴頑丈さ(どうがんぢうさ)」と希いをこめて祈ることでもよくわかる。織物は女の魂であり、守護神である姉妹神そのものであった。

    にほんのにほん 染めと織り

    SOME&ORI

      紬の起源は粗い平織りの絹で、あしき絹を意味する「施 あしぎぬ」といわれるものであった。十六〜十七世紀頃、民衆は厳しい税制の下で高級な絹布を納めなくてはならず、手元にのこった玉繭や蚕が食い破って成長した抜け殻の繭の出殻繭といった繭でこうした悪い方の質の繭を用いてどうにか活用し工夫をこらすことで自分たちの着る布、すなわち着物をつくったのである。現在の結城紬や大島紬のように、紬が高級織物となったのは明治時代になってからのことであるといわれている。本来の紬というのは、そうした悪い質の繭を活用した、飾り気のない実用的な美しさを身上とするものであったのである。絣によって飾り気のない紬から飾り気のある紬をつくりだそうと紬の先人が苦労と努力を積み重ねたことを忘れてはならない。絣のそうした歴史があるにせよ、こうした絣物の細工物は悪いかといえばそうではない。飾り気のある紬は飾り気のない紬と二つが同時に存在することでもわかるように、もともとの飾り気のない紬からどうにかして新しい紬、飾り気のある紬をつきりだし、紬のイメージをぬけたいがために技術開発が先人たちの努力のうえに成り立っているのである。そしてもうひとつ重要なことを現在の現代人は忘れかけている。手間と時間を惜しまず織り上げられたものだけが時を経て長く愛される資格を持つのである。またそうした織物は癒されることのない孤独な工程を経ているのである。
    一竹辻が花・光・風  

    久保田一竹と辻が花の出逢いは昭和17年にまでさかのぼる。東京国立博物館に所蔵された「幻の染」と呼ばれる辻が花の小さな古代裂を見て、手描き友禅の道にいた一竹氏は、精緻極まる中世の美に深く心を揺り動かされた。そしていつの日かその染めを再現してみようと決心する。以前にも一竹氏の辻が花の本を紹介したが、その前に「辻が花」について述べよう。辻が花は、主として縫い締め絞りを用い、黒や朱の線描、くま取り、ししゅうなどをあしらった贅沢な絵模様染めで、室町時代に誕生、桃山時代には戦国武将やその夫人達の衣裳として大流行した。ところが江戸時代に入って突然姿を消してしまい、今日残存する例も文献もきわめて少なく、名前の由来も技法も定かではないものである。京都にある高山寺所蔵の国宝「華厳縁起絵巻」を主題として久保田一竹が五つの作品を残している。さらには後記するが、作品のテーマ、作品名と一貫して美しい名がつけられている。一竹氏は昭和34年より、悲願であった辻が花の制作に取り組んだ。わずかな古裂を頼りに失敗を幾度となく繰り返して約20年、化学染料を使っての重ね染が可能となり、中世の辻が花の単なる模写ではなく、今様の辻が花の創造に成功した。作品の発表とともにその染は過去の文化を現代に映したものとして染色界の国内外に大きな反響を読んだ。辻が花の美の再現という目的に向かってのひたむきな願望と、その為の苦しい試行錯誤の連続、これはあたかも、辻が花そのものが、小袖染色における「多彩な絵模様染め」という時代の要望に対して当時の染織家たちが、少ない手持ちの技術を投入してこれに挑んだ態度に通ずるものがある。辻が花の時代に比べれば染料、技術すべてが多様化し合理化し整っている。目の前にあるものを写すだけで目的が達成されるのだったら、次々とそれを繰り返すしかない。巧みに技術や用具を用いて辻が花に似たものをつくるのだったらそれは必ずしも難しいことではない。しかし辻が花そのものの外形の模倣でなく、その中から美しさを掴み出してこれを現代に生かそうとなればそういうわけにはいかなくなってくるのである。「美」への悲壮な追求であり、前進を続けていくしかない。辻が花は、突然咲いて消えていく運命があったが、絵模様に向かって完成も爛熟もない清新な変貌を繰り返していったのと同じく作品の完成は完成と同時に次への足場の捨て石になる。ラフォーレミュージアム赤坂、パリのチェルニスキー美術館などの展覧を終えても次の作品の大きな期待がよさられ続けた。

    作品リストも英語表記などにしても日本語の音が耳に残る。美意識は作品名にもうつされているように思う。

    作品リスト

    水のテーマ

    1水精 Suisei

    2水精 Suisei

    3水華 Suika

    4水心 Suishin

    5朝光 Asakage

    6風 Kaze

    7海子 Haitsu

    8暮 Bo

    9余波 Nagori

    10水鏡 Suikyo

    11春陽 Shunyo

    12秋陽 Shuyo

    13波紋 Hamon

    14淼 Byo

    15縁水 Ryokusui

    光響

    16紅 Beni

    17緋 Hi

    18香 Kyo

    19鶸茶 Hiwacha

    20藍鳩羽 Aihatoba

    21猩々桃 Shojoto

    22瑠璃紺 Rurikon

    23香柿 Kogaki

    24弁柄 Benigara

    25柿紫 Kakimurasaki

    華厳縁起絵巻 (この三テーマ)

    26善朱華紋 Zenshukamon

    27白露 Shiratsuyu

    28華露 Karo

    29望響 Bokyo

    30女 Hito

    31風の心 Kaze no Kokoro

    32地衣  Koke

    33聖  Hijiri

    34変り桐 Kawarikigiri

    35秋映 Shuei

    36早春賦 Soushunfu

    37寒 Kan

    38典雅 Tenga

    39葵 Aoi

    40無言 Shijima

    黒柳徹子さんは、一竹辻が花を女性であれば一度は着てみたいとおもうものと言った。一竹氏は、現代の染色において研究を重ねての試行錯誤ではこんな言葉を残している。参考までに引用する。

    「黒より暗い色というと黒ということになる。私の場合、研究をかさねてわかったことは、黒より暗い黒がある。黒より強い黒がある。そんなものはないといってほとんどの人が研究もしないで言う。黒より暗い黒には、黒に緑色を混ぜた黒もある。黒より強い黒には黒に赤を重ねたものだってある。それは研究した人にしかわからないと思うんですよ」

    伊予絣  河野正信  元来、絣は藍染の先染め織物であるために、染めの段階において「差込み」ができる。もちろん括りに注意はするが、類百本(結城もほぼ同じ)の糸を一緒に括る性質上これを完全に防止することはできない。織りとの関係は無視してすすめて制作するわけにはいかず、糸に模様をつくることで織り上がりのものに付加価値を生み出す作業が絣の仕事といえる。織る前に一手間加えることで織物に設計されてできる絣模様が浮かび上がっていく。織りの段階においても両端で模様をあわすように調節するがやはり「絣のあし」が出て「カスレ」ができる。「カスレ」が「カスリ」に転化したもので捺染(なっせん =直接染色法=刷り込み=スリコミ この捺染にあたる絣ものは薄地に絣を入れることで模様をつくりだすが、ひとえに絣括りとは完全に区別されている。捺染および直接染色法による絣の模様づくりは結城紬でいえば国の重要無形文化財指定の要件ではない絣模様のつくり方である。さらにはユネスコ無形文化遺産登録のものづくりではない絣の模様づくりである。防染にあたる絣括りおよび手括りによってのみ絣模様をつくりだした絣のみ、国の重要無形文化財指定要件を満たしているといえ、ユネスコ無形文化遺産登録の保護対象はこの模様づくりにある 絣括りによってつくり出される、しぶみと陰影のある模様は防染によってつくりだされる。捺染と防染の技法は、まったく別の絣模様づくりであるというのが絣の作り手の一意見であり、見解である。)と異なり独特の美しさが生まれてくる。絣は普通、地色以外の白または色で一定の間隔をおいて模様を配したもので、地色を合わせて二色で成っているものを二色絣、三色であれば三色絣とよぶ。また絣の色をさして目色(めいろ)とよぶ。絣は目色を残して目色が残るように染色をかさねていくのが通常一般的である。結城の場合は目色はややおちつきのある色で控えめにすることで紬の布地や糸を逆に強調するという場合が多いが消費者には伝わりにくいといえる。縞に絣をあしらってできる絣を「あしらい絣」とよぶ。経糸ばかりが絣糸の場合の絣を「経絣」とよび、雨絣とよばれる絣もこの経絣の一部にあたる絣といえる。緯糸だけでできた絣を「緯総絣 よこそうがすり」または「緯総」とよび経緯に絣をつかえば「経緯絣」とよぶ。定まった絣模様を織りだすとき模様のために特別に寸法をあわせ、つくる絣を「合わせ絣」とよび、たとえば井筒絣、十守絣、亀甲絣がある。追加するのであれば、十字絣(蚊絣)も厳密にいうのでればこれの最も簡略簡潔にした絣にあたる。この著書は私のような絣で生活をしてきたものが、外部のまたひとつの絣産地をみつめることができるので私には貴重な資料である。結城の産地と似ている歴史が当然あり、その多くは作業工程にみつけだすことができる。古図によってそのおおまかな工程を絵師などに記録させた一面も似ているし、何故そこまで好き好んで手間をかけるのか一般理解を超えるところに絣の意味がこめられているが多くのものはそのことに気がつかない。作業工程数経糸で伊予絣はおよそ20工程をかぞえ、緯糸も同じくらいありあわせると40工程にもおよぶ。これは結城も同じで絣をつくるときにはそのくらいの細かな工程を通過して生産されることは他の絣産地も同一であるといえるのではないだろうか。この40工程をなんとか簡単にしたいのであれば、捺染のものに逃げるしかないのである。このことは到底写真から味わうことは不可能であり、絣を手にしたとき、初めてそのこころが肌を通じて感得されるという点でも同じといえる。現代人はそうした意識も希薄になりつつある。
    原田麻那の染織 原田麻那

    自己に出会うことがこの染織においての一生のテーマだったという。名前の「麻那」は「麻那識(マナス)」は由来はサンスクリット語の「第七感」「覚りの境地」を言うことだったのが、父の名付けのものだったという。本人が「麻那識」にいくには何度も転生して人生をやらなければならないことであろうとしていた。

    私は貧乏で生きてきて本当によかった。というと母はすまなそうな顔をしたので驚いたという。原田麻那氏は、私は散漫で好奇心の強いものは、お金があったら何かを見たり、聴いたり取り止めの無い一生を送るのは必定であるから、貧乏は有難いと心から思っている、という意味だったらしい。暉峻康隆 (てるおかやすたか)の芭蕉、蕪村を、ルネッサンスを富永惚一に、中島健蔵からフランス文学を、哲学を清水幾太郎から、田中俊雄から民芸の話を当時、わたしには何の足しにもならない講義を三年間ききまくったという。それは母にすすめられていたものだった。原田麻那は「なにもしないのであれば死んでしまえ」と自分に命じたが、死にたくないと思いなおし、柳悦孝氏の弟子となる。染織を志した。昭和23年24才のときだった。元来、祖母が天竜川支流の山家の出で地方の織の名人であったという。子供7人に織ったものを着せていたという。人生に偶然等というものは一つもないという説がある。「天網恢恢疎にして漏らさず てんもうかいかいそにしてもらさず」ともいう。(ことわざ)私の人生は有難いものだと思っている。原田氏は「連珠文」と名付けた織り方を創案した。

    先生の指導で蘇芳(すおう)と渋木で染めたレンガ色をみたときに思わず「染まった!染まった !」と大声をあげたという。すかさず先生に「これは染まったのではない、色が付いたと言うものです」と言われたという。私の画への気持ちが着物そのものを画面として考え、私独得の織のスタイルをつくり、また文学好きが物語性や情性を作品の中に出しているのだと思う、と原田氏はいう。それを「白い紙の上に砂鉄をばらまいたように取り止めもなく勉強していたものが織物をすることによって磁石を紙の裏にあてたようにさっと集まって何かの形を作ったのだ」と説明しているという。

    原田氏はさらにいう。「幼児のとき、黄色と黒縞の虎が出て来た夢、手賀沼の森の向こうに沈む大きな太陽、やぶからしの蕾の美しい色調など、強烈な幼い記憶が私の仕事に大きく影響しているのだと思う。小学一年のとき遠足の写真の真剣な眼差そのものが私の心のような気がしている。」

    日本の染織 江戸小紋

    華麗な江戸の伝統美

     

    小紋は大紋に対する言葉である。大紋は歌舞伎の「暫」のように、大形の紋を染め出したものである。小紋は五つ紋だから今日ほど極端ではないが、きわめて小さい。歌麿などの美人画を見ると、紋付が日常にもきわめて多く使われているのがわかる。黒衿のふだん着も紋付である。しかも型染の総模様になっていたり、たて縞になっていたりした。当時は抜染の手法が知られていなかったので、紋のところを白く残して型染にした。そのために小紋の名が起った。小紋は小幅に七つか八つ立てたものをさしている。それより細かいのを微塵、さらに細いのを極微塵といった。白く染め残したところは、紋をかきこむわけである。説明なしに縞のことを言ったが、紋付ならば縞も小紋であった。型染の縞はたて縞にかぎられている。棒縞にかぎらず、よろけや立湧、市松までもふくんでいる。無論、それらの縞に無限の変化があって、小紋の世界につきない魅力を与えていた。現在では、小紋の名のそもそもの起りだった五つ紋は姿を消してしまい、模様の大きさによって、大紋、中形、小紋の区別があるのだという程度になってしまった。小紋なら小幅に十四、五の模様までという人もあるが、それならばもっと細かいのは微塵になる。ご存知のように江戸小紋といったら、ちりめん地のみじんをさす場合が多い。一方では絹ならば模様の大小を問わず、小紋といい、もめんの場合をゆかたといっている人もある。京都では染とともに、型紙までも自分たちで作ったし、やがては型染の友禅さえ栄えさせるようになった。ところが江戸の型染は、伊勢の白子の型紙にたよることが多かった。白子の型紙業者もまた、江戸をもっとも有力な得意先とした。享保(1716-)になると、白子から江戸に店を出すようになり、それまで白子から提供される型紙によって染めていたのが、こんどは江戸の好みを白子に通して、型紙を切らせるようになる。江戸では型紙、いわばデザインよりも、染の技術や色彩に主力をそそいだ。しかも将軍のおひざもと、幕府が贅沢をおさえ、華美を禁止すると、その弾圧をいかに消化するかという柔軟性をもっていた。こうした技の達者さを生かした趣味のゆかしさが江戸小紋の特色となる。遠くから見ると無地のようだが、近くによってみると、実に手のこんだ、みじんであることがわかる。色調もおさえ気味だし、絹も艶をいささか殺す。贅沢禁止におとなしく従うどころか、禁止されたものより、もっと贅沢なものを作り出したのである。趣味が深められて、それが「いき」となる。そして今日の江戸小紋でも、その「いき」が生命であり、女性の魅力のもっとも強力な味方となっている。

    3センチ四方に八百から千二百粒もの細かな模様群を誇る江戸小紋 それは遠目には無地のものと変わらない。友禅などにみる豪華絢爛を競う手間のかけようは、誰しも納得のいくところだが、江戸小紋は、それと目にみえないだけに不思議の感さえいだかせる。いってみれば、人間の目の極限の世界を演出したともいえるそれは、まさに職人の意地の結晶であるといってよいだろうか。江戸小紋は特に誰がはじめたといったことはわかっていないが、桃山時代の「職人尽絵」にすでにこれがみえることから、もうそれ以前よりあったと考えるのが妥当と思う。もっとも、その柄というのは、まったく荒っぽく、こうした細かいものになったのは、やはり江戸時代で、侍の裃とか下着に使われて発達したとみるのが一般である。その工程は、型彫りと染めとに大きく分けられる。型はだいたい伊勢で彫られてそれが全国の染屋のもとへ配られていたものだが、江戸も末の頃になると、京都、東京あたりでも盛んに彫られたようである。江戸小紋は、なんといってもすっきりした清々しさが、その身上である。それは彫りこまれた粒の一粒一粒の切れ味にあり、その間隔のそろい方にある。刀がよく切れていれば、型付けの際に糊がしっかりおりるし、間隔に乱れがなければ、見た目もにもすっきりしたものになる道理である。小紋の良さというのは、いってみればただそれだけのことにつきる。しかし、それこそが非常にむずかしく、その意味では一見、単純でいかにも能がないように映るものほど、より洗練された技術の昇華であるといえる。昔の型紙をみると、よく切れる刃もので、一粒一粒、実に丹念に精魂こめて彫ったものであることがわかる。ただ、ごく細かいものになると、ムラの皆無ということは不可能であったようだが、それにしても、それはいかにも乱れというものを感じさせない。ともあれ、それらは当時の職人たちが、極小の確かさにむけて、いかにすっきりと清々しく仕上げるかに心を砕いた証拠を現在に伝えている。そこは、決していいかげんな技術では通用しなかった職人の世界であり、いずれにせよ、曲がって乱れているのが芸術だなどという重宝な言葉など、はいりこむ余地すらなかったと思うのである。

    日本の染織 縞・唐桟

    限りない美を生む粋な織物

     

    柳宗悦は『織と染』という一文のなかで、つぎのように書いている。「平織、綾織、綴織、何織と数へれば限りないであろうが、源に帰れば経緯の交はりで、織物が出来る。その二つの結ばりが柄になる時、先ず縞が生れる。(中略)縞こそは織が与へる一番原素の模様だと云ってよい。縞は模様の始めである」まさにその通りであろう。縞こそ模様の元始であり、逆に多種多様の模様に抽象化の限りをつくせば、縞に遡るということだ。柳宗悦は、さらに縞は自然の法に則るものであり、人間の業で左右できない部分が大きいと指摘している。人間より、もっと自然が加わる手法だというのである。そして、縞が美しく見あきることがないのは、自然が味方しており、法が護っているからだという。おそらくこれは工芸品全般にいえることだろう。柳は「自然の法」といったが、それをいいかえれば素材の個性を発揮させること、素材そのものを生かす、あるいは素材の生命に光を当てる、といったことが自然の法にかなうことであり、それをなし得て、初めて美が宿るのだといえないだろうか。そうするためには素材の個性を知らなければならないし、作り手が素材の個性を発見する目を持たなければならないことはいうまでもない。

    藍染めの縞織物 江戸情緒と粋な美しさ

    江戸時代ー、とあれ、南蛮渡りの唐桟には日本人のものとは異なった色彩感覚があふれ、異国情緒を感じさせるに十分であった。模様染めに飽きた人々にとって、これほど新鮮なものはない。こうして縞物は、まず遊女が好んで着るようになった。彼女たちが南蛮系の縞によって、縞の美しさを発見したのである。やがて一般庶民に広がり、享保年間(1716〜1736)には唐桟縞がブームとなったほどであったという。そのあたりの事情は享保七年(1722)刊の新見正朝著「むかしむかし物語」に詳しい。たとえば、こう書いている。「これは女ながら器量なきゆえ、みな人の真似ゆえなり。小袖、紋所、無地、島るいはやるは遊女の真似なり。むかしは常の女、縫薄く光る小袖着るゆえ、遊女、無地もの島のるい着て、常の女と風替るべきためなり」この「器量」とは「個性的な才気」であり、「風」は「風態」「かっこう」のことである。江戸時代の流行の震源地は、いつでも遊女や芸者たちであり、島の場合もその例外ではなかったわけである。こうして「縞は粋でしゃれたもの」として、広く受け入れられたのである。江戸時代に生まれた美意識に「通」(つう)と「粋」(いき)とがある。「通」とは「庶民感情に通じる」ところからきたもので、その基盤になっているのは細やかな人情だ。いえば「通」とは、何度となく禁令で弾圧してくる幕府に対して、江戸の町人たちが打ち出した無言の抵抗といえるかもしれない。江戸文化の爛熟期は文化文政年間(1808〜1830)だが、このころ「粋」という美意識がうまれた。いかに町人に財力があっても、禁令で制限されているため、かつての桃山、慶長、寛文のころの豪華絢爛な着物は着ることができない。そこで目立たないおしゃれ、「渋さ」が求められる。しかもそれはあかぬけして、色っぽさのある美しさ。それが「粋」であり、心意気とされた。表は渋い茶系統か、ねずみ色の無地の着物だが、誰にもみえない裏に染めや縫いで模様をつけるなど、目立たない細工をほどこしたのである。縞ものは、そうした感覚にぴったりくるものだった。縞は単純なようにみえて、実はその縞や色の組み合わせ、変化によって驚くほど多様な美がうまれる性質がある。縞こそ「粋」そのものであり、その美しさは華美をさけた「粋」な美しさである。

    日本の染織 草木染

    日本の風土が育てた手作りの色

     

    静かなブームとでもいうのか、草木染めは脚光を浴び続けている。これは戦後の着物の流行と無関係ではありませんが、そこには神話といってもいいような、ある種の神秘性がかくされているようです。商品として扱われるからには、なにによらず商業主義という思想の洗礼を受けないわけにはいきません。草木染めも例外ではないのですが、商業主義の思想のもとでは、かなり変質を余儀なくされている面もあります。草木染めと表示された商品が、果たしてどこまで信用できるのか疑わしい、といったこともそのひとつなのですが、それより重要なのは、こういうことによって正統の草木染めが隅に押しやられるということです。ブームといっても、それは草木染という名称の神秘性につつまれた幻想に過ぎないともいえます。それというのも、もともと草木染には、現代の商業主義にはそぐわない面があるからなのです。高度な工業化、大量生産システムの背景があってはじめて流通機構にのり、商品は世にでるのですが、草木染にはそうした生産方式は不可能です。生産能率を重視し、あわただしく作り、大量に市場に送りだすという芸当は、できないのです。のんびりとつくり、わずかな量しかまかなえない。意識的にそうしているわけではなく、のんびりとやっているわけでもないのですが、結果的にはそうみえます。通常の流通ルートにはなかなかはいりこめない最大の理由は、その一点にかかっているといっても過言ではないでしょう。草木染がもてはやされているとはいうものの、その裏にはこうした面もあるわけです。草木染がもてはやされている理由ですが、これは「手作りの良さ」といったこととつながりがあるようです。高度工業化、その結果うまれるおびただしい数の商品。そのどれもが個性を失い、均一化してしまっていることへの反動ということです。草木染は手作りという以外にいいかたはありません。原料の採取から乾燥などの処理、そして染液をそれをもとにつくり、染めるまで、一貫してひとの手をわずらわなければなりません。技法的に多少近代化されている部分もありますが、機械化されている部分はほとんどないといっていいでしょう。というより、染色というのは、機械化できる要素はそうないのです。染液に糸や布をひたす、あるいは糸や布に液料をこすりつける、というだけのことですから。そういう意味では、化学染料にしても同じことです。ただ、染色の手間、時間が段違いに早いということです。そしてできあがりの工合いですが、シロウトの目でみても、草木染かどうかなかなか判断がつかないくらい微妙なものです。いや、専門家でもみただけではわからないほどなのです。化学染料そのものが天然の染料を分析して、それにもとづいて合成されていますから、これはむりからぬところがあります。分子構造は非常に似通っているものが多い。ただし、そっくり同じといえない、微妙なちがいがあるというだけのことなのです。どこがどうちがう、といった説明は非常にむずかしく、手作りの良さとか、自然の色とかいった抽象的な表現にならざるをえないわけです。

    歴史的にいえば、草木染は人々に夢を与えてきたといえます。現代のように色が氾濫するほどに豊かではなかった時代、人工的に得られる植物染料は多くの人にとって憧れのまとであったでしょう。一枚の着物が現代とは比較にならないほど貴重であった時代、当然その染色も貴重なものであったにちがいありません。使い捨てなどといわれる今日の文明パターンに慣れたわれわれ現代人には、とうてい理解の届きかねるところがあると思われます。ものを大切に使うこと。これは物のありふれていない時代にこそ通用することで、現代社会では通用しにくいことです。同じようにカラフルな現代では、色のひとつひとつに注意をはらうということも、あまりないでしょう。モノ同様、色も粗末にあつかわれているといえます。草木染と化学染料による染めが、どちらがいいとか、悪いとかいったことではなく、どう認識され、扱われているかが、実は問題なのだと思います。公害問題を契機に、現代の機械文明は曲がり角にさしかかっているといえます。エネルギー危機に代表される資源問題にしても、高度文明社会の行き着く先を暗示しているといえるようです。バスに乗り遅れるな、とよくいわれますが、われ先にと乗ったバスが、とんでもないところへ向かっているのに気がついた、というのが現状でしょう。飛躍しましたが、「心」がどうこうといったことが問われているのも、人と人、あるいは人とモノの接点が失われたところに原因があると思われます。文明ということからいえば、草木染もその申し子といえます。植物染料の色は、はじめてみた人の目にはどんなに鮮やかなものに映ったことでしょう。丹精こめて制作者が染め、それを買った人が大切に身につけるという関係があった。モノが仲介したとえます。すばやくつくり、粗末にきる、ということではこの関係は稀薄なものとなります。多くの人が、心をこめてつくられた着物をみにつけようとしている。手作りの良さは、そうした人のきもちを支えている。が現実にはこの関係は必ずしも的確な形では結ばれていないわけです。現象的なものでいえば、多くの草木染愛好者がいるにもかかわらず、染め手は経済的に恵まれていないといったことがあげられます。そのことにあまりこだわらないで、つくっているのです。それゆえに、現在まで技術が伝承されたともいえますが、そのこと自体、現代文明への痛烈な批判とも受けとれないことはありません。

    KIMONO mio

    アンティークキモノに夢中

      土屋アンナさんの人気がモデルでの人気爆発しはじめる少し前のあたり2003年6月10日出版のアンティークキモノの本、雑誌かもしれない。襟(えり)を多く抜いたり、襦袢をわざと多く見せたり、遊び心はあるが竹久夢二の恋人、彦乃やお葉になりきるというのだという、この時代の代官山の企画、プレス担当は素晴らしい。襟を深く抜いて着ることで艶っぽくするのだという。土屋アンナさんは2歳の時には、着物を着せてとおねだりしていたとアンナさんの母がいう。キモノのおもしろいところは布は平面なのに身体にまとうことで、ドレープ(布をたらしてゆったりさせる様)が出たり、躍動感が出たりする。キモノを全部ほどいて並べると最初の一反に戻るんです。という。着付けの資格をもち、七五三では自分の娘に着せてあげたかったとしてそれも実現したようである。着物になれているせいか、いたについて着物姿がみえるし、お茶目な感じはういういしい。現在のキモノもレトロな柄をわざわざつくるところをみるとそれらが時をこえてモダンデザインであることがわかるかとおもう。私はできれば敵を好んでつくりたくはないが、美しいキモノに出てくるモデルさん方々より、こちらの雑誌の生活感ある着物好きモデルさんのほうが着物のモデルとして正しい気がしてならない。ましてや、着物の話も強烈なる自己主張があり、客観的にみても説得力がある。

    KIMONO mio Vol.2

    アンティークキモノに夢中

      着物と帯の組み合わせによって無限に広がる着物世界の楽しみ方を伝える内容となっているのがシリーズ2の特徴といえる。ジャケット感覚で着る羽織もこなれてきて大正ロマンの雰囲気がかもしだされている不思議もある。コーディネートもうさぎとすすきをじょうずに見つけてきて組み合わせ秋を表現しているあたりは季語からうつし出したのだろうか、様々な工夫やこころみもうかがえる。凝り性とコレクター気質の高い女性が終始、アンティークキモノの魅力をおしてゆく。実際にはモデルさんはキモノ販売員で経験数があるだけに、所持枚数も果てしないようであるがひとつひとつが選びぬかれていて、また時代もいつかわからない不思議なムードやモードになっているようにみえ、自信もみなぎっている。時代を楽しめる余裕のある女性こそキモノ本来の醍醐味をひきだせていくのだといえるのかもしれない。もっとみたいのであるが、おそらくこの2冊で濃く短い雑誌の企画なのかもしれない、三作目がみたいが心惜しくもこの2冊の仕上がりのようだ。アンティークキモノははまるとやみつきになるから、それだけアンティークキモノにも魔力があるといえる。
    日本の藍 伝承と創造   近世の藍と藍染めの普及という章では、西野嘉右衞門編「阿波藍沿革史」思文閣と阿波藍、ついで他国藍のなかから武州藍と尾州藍をとりあげ、藍の変遷を概観する企画となっている。一番面白い章にみえる。19世紀の藍染め普及については浮世絵、安藤広重「東海道五拾三次」から藍染めの普及度を表にしてデータをとり考察するユニークな企画だ。さまざまなカテゴリーによってパーセンテージにおきかえることで、浮世絵から藍染めを紐解く。藍染の医学についても掲載がある。藍の薬として薬用についてもこのページ内でも紹介してきたが、藍の抗HIV作用というテーマでは、効果的な医療薬がまだ開発されていないクラミジアやマイコプラズマ、薬らしい薬がほとんどみつかってない多くのウイルス感染などに基因する難治性の感染症に対して、優れた効果をもたらすことができると思うという視点から研究を検討し、山本直樹教授との共同開発をおこなうことにしたという。これらの研究で次第に科学的解明がなされていくことを期待したい。藍については出版が充実しているために、知識は比較的みにつけやすい時代になってきている。藍染となると、まだまだ普及していく可能性もある分野といえる。

     

    日本の染織 絽と紗

    涼しさ誘う薄織物

     

    紗(しゃ)の白生地はちょっと見たところ何の変哲もない。ただ普通の生地のように布目がつまっているのではなく、逆に粗いのが印象に残る程度であろうか。しかし、生地を重ねてみると、その透明のせいで微妙に変化するモアレ(木目模様)が生じて意外な美しさを発見する。織田秀雄氏は、絽(ろ)と紗(しゃ)の夏のきものとして思うときに飯塚敏子という女優を思い出すという。戦前の時代劇映画のスターで日本髪のよく似合う女優でいつも坂東好太郎という二枚目と一緒に出てそれが似合いの御両人だったという。黒か濃紺、とにかく無地の紗を着て博多帯を締め、竹の縁台にすわって団扇を持っていたグラビア写真が強烈な記憶で残り人間の記憶というものは一体どういう仕組みになっているのだろうかと思ったという。白い長襦袢の白が濃い色の紗をとおして透けているのが艶っぽく、しかもどこか透明なすがすがしさがあり、この二つの矛盾した美しさがかもし出す世界が不思議な魅力となって心をとらえてはなさなかったという。さて、余談はこれまで、そうした意外な美しさをルーペで拡大してみると、それは織物というよりは精緻きわまる編み物のようでただ驚くほかない。無論、紗は編み物ではなく経糸と緯糸とを組織しているのだかられっきとした織物である。経糸が二本からまっている、そのからまり方は左右対称の波状線を重ねて、楕円形がたてに連続する模様をつくったかのように二本の経糸が左右に位置をかえて交差したところに、緯糸が打ち込まれ、さらに経糸がふたたび左右に位置をかえる。これが繰り返されて一反の紗の白生地が出来上がっている。紗とはそういう布である。絽は、その紗から派生したものだ。紗のように緯糸一越ごとに、経糸がよじれて左右に位置を交代するのではなく一度よじったあと、緯糸三越、五越というように平織りを入れるのである。経糸をよじったところが透間になり、この透間を「綟目」や「絽目」ともいう。当然ながら透間は紗の方が多く絽は少ない。このような透間のある織物を「搦み織」「綟織」という。ルーペで眺めていると、その経糸のからまり方が規則正しく美しい。それに実に手が込んでいる。現在では自動力織機に綟綜絖を取り付け容易に織ることができる。だがそれ以前は手織で織っていた。精緻な編み物のような紗を手織りで根気よく織っていたのが不思議にさえ思えるのである。ところで織物に透間をつくる、あるいは透かせるという発想はどこから生まれたものだろうか。紗の以前に「羅」(ら)という薄地の絹織物がある。中国の前漢代(紀元前202〜8年)から平安時代(794〜1192)にかけてが最盛期とみられている。この羅の透間は紗の比ではなくかなり大きい。これこそ網とよんだほうがいいとも思えるもので、しかし織物である。経糸をたがいに綟り合わせるという原則は紗と同じだが、その綟り合わせ方は、その左右の経糸と位置を交代してよじれるだけでなく、二本も三本もとばした経糸にからまるなど、はるかに複雑である。透間のある織物の最初は、この羅と思われるが、織物研究家の龍村平蔵氏は著書『日本のきもの』(中央公論社刊)の中で

    「おそらく初めは鳥や動物をからめとる網のことだと思われるが、それが中国では黄塵、砂塵をさけるベールのような薄物として、発達したのであろう。錦の上衣の上に羅をまとうのが理想とされた」と述べている。

    そういえば「羅」という文字はもともと中国で「鳥網」を意味し、のちに転じて「薄絹」、薄地の絹織物をさすようになった。おそらく龍村氏の推測は正しいと思われる。

    ユニークな「夏文化」の典型 絽と紗について

    紗と絽といえば日本特有の風土を抜きにして語ることはできない。海洋性の高温多湿という日本の夏は、実にしのぎにくく、ある意味で日本文化はその夏を克服することを起点として生まれ育ってきたというのは過言でない。たとえば木と紙の日本家屋である。冬のことなど無視しひたすらしのぎにくい夏をいかに快適に過ごすかという発想の所産といえるふしが多々ある。平安時代からおこなわれてきた「更衣」(ころもがえ)という年中行事もそのひとつといえる。季節の変化に応じて衣服を着替えることだが、これもいかに夏を過ごしやすくするかという考えが基本にあったようである。とくに「夏姿」という言葉があり、のちになっても夏のきものが特別に扱われているというのは、そうした考え方の流れをくんでいるからではないだろうか。その「更衣」であるが『広辞苑』(岩波書店刊)を引いてみるとこう記されている。

    「平安以降、四月朔日(ついたち)から袷を着、寒ければ下に白小袖を用いる。五月五日から帷衣(かたびら)、涼しい時は下衣を用いる。八月十五日から生絹(すずし)、九月九日から綿入、十月朔日から練衣を着用。江戸時代では四月一日、十月一日をもって春夏の衣をかえる日とした」

    とある。また以前本紹介した北村哲郎著『日本の織物』(源流社刊)によると、

    「徳川将軍の大奥では夏衣裳の初めが絽または縮緬、あるいは絹縮の単衣で、次に透綾となり、極暑には越後縮を着るというきまりでした。そして総体に身分のある人ほど単衣の時が長く、帷子の間が短かったということです」ということのようで、暑ければ薄着をし、寒ければ厚着をするのはどの国も同じである。しかしながらわが国では春夏秋冬と季節は微妙に移り変わり、しかも四季ははっきりしていることで知られる国である。日本人はそうした季節の変化に生活を順応させ、季節感を楽しむようにしてきた。風鈴の音や水の流れに涼気を感じたり、夏は簾をさげたりする。食では『初旬』にあるように季節でとれる時期を重視して調理しそうした和食はいまやユネスコ登録をうけるまでの食文化という評価もつくりあげている。衣食住に季節感をとりこんできたというわけである。それは、きものも同様である。花や草などの植物をはじめ、蝶とか鳥、雲、波など、きものの模様に自然の風物をとりこみ、四季風情を楽しみながらみにまとう。四季があり豊かに変化する自然に恵まれていればこそのそうした発想であり、きものの模様はその恩恵である。紗と絽は日本風土に、とりわけ夏に適したものだった。しかも細やかな日本人の美的感覚にぴったりと一致してきたそれはまたみる人にとっても涼感を誘うものであった。しのぎにくい夏に目で見るという視感で涼しさを得るという効果も紗と絽の役割はあったのである。

    紗の透ける特性を生かしたもの「紗合わせ」

    紗の透ける特性を生かしたもの「紗合わせ」がある。これは表には紗、裏に紗か絽を合わせ、二枚の紗のかさなりが動きによってつくりだす杢目の面白さや裏地の絽に染められた模様が紗をすかしてほのかに見えるのを楽しむといった、おもしろきものである。この「紗合わせ」はさらに、紗を二枚重ねて一枚の袷にした無双仕立てで、上の生地は無地に染めるが、下の生地には友禅模様などを染める。優雅といえば優雅で下の模様を透けて見えるために涼感もあるというわけである。無双仕立ての「無双」とは一種の美学だがいつ頃からうまれたのかわからない。表と裏、あるいは内と外とを同じように作るという考え方で、全体を一種類の材で作った「無双箪笥」懐中時計に両面に同じ作りの蓋をつけることを「無双側」とよんだりしている。紗と紗のバリエーションとして、紗と絽という組合わせもあるがとにかく「紗合わせ」もこの美学の範疇(はんちゅう)にあるものである。白地の三本駒絽に紺一色で水模様を染め、その上に爽やかな淡い草色の紗を乗せた紗合わせをみたことがある。余分な衣飾を捨てた単純な模様だし、色数も少なく、単彩に近いが色の重なりが微妙に調和しているうえに二枚の重なりでモアレ(木目模様)が生じ、水模様がまさに波のようにゆらゆらとしているようにみえる。涼しさを感じるものであるがどのような紗合わせであれ紗や絽の一枚であれ非常に涼感がただようのだが着ている人は例外なく涼しくないという。透けてみえるために下着をきちっとつけなければならず、到底、素肌にゆかたを着る涼しさとは比べるべくもないらしい。とのことである。夏にきものを着るひとは少なくなったといわれ、生活そのものが西洋化している影響もあると考えられている。

    日本の染織 更紗

    異国情緒を染めた布

     

    本中カラー写真の資料に木版摺更紗おだまき文という鈴田照次 作 鍋島更紗 という和更紗がある。美しい色彩を今日に伝える品であり、おだまきという植物は私も自宅に植えている。織物ゆかりの植物である。おだまきについてはこちら

    青色がその作品にも鮮やかさを保ち、更紗特有ともいえるカラフルな色彩で目を楽しませ、異国情緒を日本が吸収した一品といえる。そうした木綿に染めたカラフルな染文様の美しさは更紗の魅力である。更紗の語源は、このページ内で重複するかもしれないが、ポルトガル語のサラシャ、あるいはインド西海岸の古い港町のスラットにあるとされている。室町時代の末期そして江戸時代にかけて、ポルトガル、イスパニア、オランダなど南蛮船や紅毛船などの船によって日本に運ばれてきた。更紗に対してなんとなく異国的なイメージをもつのは、小紋や友禅とちがって原産地の風土の匂いからエキゾチシズムを感じとるからである。日本は更紗が運ばれてきたときにまだ木綿という素材を知らなかった。新しい素材としての木綿、さらには異国の染めによってカラフルな色彩は素晴らしいマテリアルに対する驚きは計り知れないものとなった。またこの時代に同じく輸入されたものに唐桟(とうざん)がある。この縞木綿は先染めによってできあがったものである。染めものの木綿と織りものの木綿が日本に運ばれたのである。

    更紗はインドをはじめとして、ペルシャ、ジャワ、タイ(シャム国)などの東洋の諸国に、特色をもってうまれた色美しい染文様である。少しの例外はあってもその生地に木綿が用いられている点は共通している。木綿の原産地はインドとされているが、わが国に伝えられたのは、中国から朝鮮を経由して戦国時代の末期とされている。木綿は安土、桃山時代になって次第に普及し、江戸時代の中期になるとほとんど全国的な栽培となった。絹にかわる素材として競うように栽培を拡張していった。当時の百姓たちは、米をつくるよりも木綿栽培のほうが収益が多いため木綿づくりは力を入れるものが多くなった。そのために米をつくるものが減り、江戸幕府は木綿栽培に制限をいれなければならないほどであった。この木綿栽培は衣生活が飛躍的な豊かさになったのはいうまでもなく、柳田国男によれば、松尾芭蕉の元禄時代の初め頃は、まだ江戸の人にまで木綿は優雅なものとされていたという。七部集「はんなりと細工に染る紅うこん」「そめてうき木綿袷(あわせ)」などにそれがうかがえる。結城市の弘経寺の屏風絵を残した詩人与謝蕪村は「片町に更紗染めるや春の風」の句があり、日本の木綿づくりも、また更紗を染める技術も一般的になっていることがわかる。「散る音も色も更紗の紅葉かな 犬子集」には、更紗の色彩美が日本人の衣生活に浸透してきた様子がうかがえる。

    更紗には、皿紗、佐良佐、更多、華布、印華布などの字があてられ、暹羅染(しゃむそめ)、砂室染め(しゃむろそめ)はシャム(タイ)の更紗を意味する。技法としては、インドでは筆や刷毛による描更紗(かきさらさ)と、チーク材に文様を彫刻した木版で捺染するブロックプリントが用いられるのが特色である。また、ジャワ更紗は、バチック、すなわち今日の我が国では蠟染(ろうぞめ)と同様に、蠟防染の更紗である。さらに文様表現に金泥、金箔を用いて金更紗はシャム更紗を特色づけるものである。絹地のものを用いたペルシャ更紗もみられる。更紗の文様には、南国熱帯地方の草花樹木などを中心として鳥や人物などを配して写実風のもの、唐草文様の形をとったもの、幾何学文様として配列したものなど多種多様で、インド更紗のベーズリ模様は現在、そのアレンジされたものがヨーロッパの文様に多くみられる。色彩はインディゴ(藍)、黄色のある緑、エンジ色など、強い太陽光線の下にふさわしい強烈なものが多い。しかし、インド、ペルシャ、ジャワ、タイなど、それぞれの風土や国情のちがいは当然みられる。ヨーロッパでも、ロシア更紗、ドイツ更紗などがありそれらは東洋の更紗を模したものであるという。その中にあってフランスのジューイ(パリ郊外の地名)更紗は最も有名である。ジューイ更紗を大成したオペール・カンプは、弟子をペルシャに派遣して東洋の更紗技術を学ばせたといわれている。またナポレオンは数回にわたりオペール・カンプの工場を訪れ、フランスの産業として更紗染の将来に大きな希望をよせたという。しかしジューイ更紗はナポレオンの敗退とともに、敗走する軍隊により破壊され、ナポレオンと運命をともにして消滅した。日本では、彦根藩の井伊家に彦根更紗と呼ばれるコレクションがあった。しかし残念ながら関東大震災により東京で焼失してしまいいまはみることができないものになっている。

    更紗についてもその源流を単純に南方諸国にもとめるだけでは日本のきものとして生きるものではない。東京更紗の歴史をさかのぼってみても江戸末期から百年以上の年月を経て日本の更紗として換骨奪胎(かんこつだったい)されたものであることがわかる。きものは陶器や漆器のような美術工芸品ではなく、血の通った人間とともに存在するものであることはきものを語る最も重要なポイントである。人間味がないのであれば機械とおなじになってしまう。

    栽培から染色まで

    藍染めは誰でもできる 

    高田豊輝

    結城図書館にも置いてある。藍染めの技術は難しいとされていて、そのイメージをこわして敷居そのものをさげる書物となった。一万冊が全国にいきわたり、現在は藍染めのさらなる研究の土台をなしているといっていい。藍染の困難さについては第一に、藍の葉を発酵させて<すくも>をつくるには大量の乾燥葉を保温室に積み上げ老練の藍師が百日間も丹精込めて対処しなければ良質のすくもが完成されない点、第二にすくもを使って染液をつくる藍建ては、専門の染色家が秘伝の技術をもって処理しなければうまくできないと言われている。このように藍染は技術が困難で、さらには手間がかかるために、その製品は非常に高価になってしまう。このままでは古来庶民のものであった藍染めは庶民のものでなくなるばかりでなく、技術的なものも含めて忘れ去られてしまうと著者は危機感をもって発行に至るのである。そこであげたものが三つを柱としたものである。

    一)、一般家庭で栽培した少量の藍を原料にして、

    二)、一般家庭用の器具を使用して、

    三)、熟練や勘を必要とせず、よく染まる簡易な藍染め方法を開発する

    である。わずかな費用で藍染めを楽しめるはずであり、それが普及すれば昔のように藍染めは民藝として復興するであろう、というものであった。この三本柱を軸に著者は20年数十回と試行錯誤を繰り返し、その成果を著書へまとめた。その結果として一般家庭で藍染めは困難という通説を消した。この著書をたたき台として、さらに研究を進め、より良い藍染め方法を考案していただきたいとしている。高田式藍染めは藍染めが親しまれ、全国津々浦々で藍染め文化が華開くことを祈っている。

    日本色名大鑑 

    上村六郎

     山崎勝弘  共著

    我が国の眞の姿を明微する上にほんの少しでも多くの人々に情報として色(色見本参考書)を提供することを目的として本書の作成に入った。しかしながら、こうした目的の途中に大東亜戦争となり戦時において染料の不足と一方、正しい色、健全な色の要求と更にこれに加えて我が国本来の姿に対する自覚との結果、天然の資材を基とした日本の色、日本の染色と云うことが国民の生活に密接な関係を生じてきたという。<この序の文章でみるように上村氏と山崎氏の二人は染色業界をリードしていく、いる立場にある>とにかく染色の分野には資料が乏しい時代に切々と語られている(上村氏の序)

    近来洋書の入手が不自由になるのに反して我が国の古典に目を通すことが多くなったと山崎氏は語る。この時代に大東亜戦争があってそれをきに、一層日本的なものへと国民の心の進展していくのを感じているとした。恩師本野精吾教授指導の許に色彩の科学的芸術的研究を始めて20年近くの年月が流れ、訓練された色威と混色原理とを応用した何か国家のために役立つことをしなければとの気持ちにかられていたときに上村六郎氏から本書協力を依頼されて二つ返事で受けたという。日本の代表的な色八十二種を刊頭に示した六種の原色を混合して再現したという。印刷インクを特別の配慮で完成された出版物となった。現在であれば印刷インクはここまで貴重なものにはならないがこの時代は貴重すぎるものだった。上村氏三十年の苦心の功績など無上の光栄に感じる次第として仕事へ関わった喜びをつたえる。

    色見本はこれまで紹介してきたが、この時代の色見本はこうした困難な色再現などを戦って、どうにか染色資料を残すために、染色の壁をひくくするために、完成させたものである。

    日本の染織 筒描染

    躍動する染色美

     

    筒描き(つつがき)の特徴をいえばフリーハンドの染めであり、円錐形の筒に入れた糊を絞り出しながら、あたかもデコレーションケーキをつくるときのように糊で必要な部分を描いて染める方法、といえる。大漁旗はそのダイナミックで荒削りの染めをいかたものである。糊で描いた部分だけが防染されるわけで、あたかも筒糊で絵柄を描くように見えるところから「筒描き」という名がつけられたという説がある。これは「筒引き」「糊描き」「筒置き」などとも呼ばれる。染によって模様を表現する場合、防染をおこなうのがふつうである。防染とは布地の必要な部分以外に染料がつかないようにすることでその方法には染料をつけない部分を糸で括ったり、板で締めつけたり、あるいは蠟や糊などを用いて布面を覆うなどの様々な方法がある。防染したのちに染めるのだが、それらの方法を併用したり、繰り返すことによって変化に富んだ多彩な染物がうまれる。こうした防染法による模様染めは、すでに奈良時代には行われていた。いわゆる「天平の三纈」とよばれるもので、「纐纈」(こうけち)現在の「絞り染」、「臈纈」(ろうけち)現在の「蠟染」、「夾纈」(きょうけち)現在の「板締め」とよばれるものである。糊を防染剤にした染色は「糊染め」と総称され、それぞれ、型紙を用いる「型染め」と、筒糊で手描きする「筒描き」とに分けられる。しかし、糊染めがいつ頃からどのようにして始まったのかということはいろいろな説があるがはっきりしたことはわかっていない。通説としては中国から伝えられた技法とされている。はっきりしたことは、最古の実物資料として室町時代のものが残されている、ということである。もっとも室町時代後期には型紙による糊染めが盛んにおこなわれていたようで武士の小袖やかたびらに小紋染めが多くみられ、沖縄では紅型が染められていた。江戸時代になると、糊染めはさらに盛んになり、型染めでは小紋、中形、筒描きでは茶屋染め、友禅染めなどが登場、染色の世界は華やかな模様染めの時代を迎えるのである。なかでも見逃せないのは糊防染による模様めの先駆的な茶屋染めといえる。これは夏のかたびら(帷子)に用いられ、友禅染めに先立って流行したものである。麻地に浸染で藍の濃淡に染めるのが基本で、なかには薄黄を加えて刺繍がほどこされたものもあった。しかし全般的に単彩風な染めで、絵画的な格調の高い美しさに特色があるといってよい。模様は山水、楼閣、雲取り、草花などが多く、そうした模様の輪郭部分や地の部分を筒糊や楊子糊で両面防染したわけである。非常に高度な技巧をこらしただけに手数のかかる、贅沢な染であった。糊置きだけで数ヶ月かかるものも珍しくない。布も麻とはいえ、奈良晒、越後上布、能登上布、薩摩上布などの高級苧麻布(からむし)である。この苧麻布は苧麻の繊維で織ったもので、いわゆる麻布という大麻布ではない。こうしたことからもわかるように、庶民には無縁な染物で、徳川御三家をはじめ、上級武士の女性、御殿女中くらいしか着ることができなかった。友禅染めは、こうした茶屋染めの技法を取り入れ、さらにそれ以前の描き絵、更紗、辻が花染めなどの影響を受け、単彩から多彩な部分染めへと発展させたものといってよいものである。友禅染めはカラフルでしかも複雑精緻な模様は絵画的である。このように日本独特の模様染めを生み出したのはほかならぬ「筒描き」という技法であった。かなり複雑で繊細な模様を多彩な染料で表現するためには、それなりに繊細な筒描きが要求される。たとえば、白く表れる模様の輪郭線は「糸目」とよばれるが、その糸目糊置きは色と色とが混じり合って濁ることを防ぐものであり、最も繊細な筒描きといってよい。ほかに、一色ごとに彩色した部分を糊で覆う「伏せ糊」があるが、これも筒糊でおこなわれる。無論、この糊は糯米(もちごめ)で作られるわけで、日本産の糯米の糊と筒描きという技法とが、友禅染めを生んだ大きなファクターになっているのである。

    筒描きは茶屋染めや友禅染めなどの見事な模様染めをうんだ。時代を経るにしたがい友禅染めは多様な技法を取り入れて華美になり、筒描きはその一部にすぎなくなっていく。あまりにも華美ななかに埋没して現在は痕跡さえもとどめないというようになっている。そうした一方でその素朴なスタイルは庶民生活のなかで花開いた。唐草や鶴亀などに染めた風呂敷、布団地、暖簾などの生活のものに彩りをそえた。大漁旗、万祝(まいわい)などもそうである。当然のことであるが筒描きの美しさや楽しさを親しむようになるには木綿と染屋(紺屋)の普及も必要になった。木綿の布を織りはじめたのは、木綿栽培もおこなわれるようになる天文・弘治年間(1532〜1557)のころであり、庶民の衣料として普及したのは江戸時代中期以後のことである。それまで着ていた麻や植物繊維の布はごわごわしたものであって、木綿布は軽くて肌ざわりも問題にならないほど着心地のよいものとなった。糸につむぎやすく染めやすい。まさに庶民に衣服革命にちかいものをもたらした。この木綿の普及と歩調をあわせて、藍染する紺屋が全国各地に増えたのも、好都合だった。こうして筒描きをはじめ、木綿に小紋を染めたものや中形といった型染め、有松・鳴海の木綿絞りなど、さまざまな工夫をして木綿のなかに独特の染色美をうみだしていった。

    筒描きの工程

    下絵→青花→筒描き→乾燥→下豆汁→色挿し→伏せ糊→乾燥→地染め→水洗い→乾燥 の順序で行われる。

    筒描きが盛んな江戸時代後期には、それぞれ染め職人が竹を削って手作りして美しい線や力強い線を表現するために工夫をこらした。そこに使われる糊ひとつにしても、いかに効果的に柄を染めるかと、それぞれ糊作りの秘法を生み出していった。こうして糯米に石灰や塩をまぜこんだりしてよりよい糊がうみだされていった。

    らくらく着つけと帯結び

    きもの初めて

     

     

    のし結び:ダイナミックな斜めのライン 花嫁さんも結ぶ、おめでたい帯結び

    文庫:やさしい曲線が女らしい比較的かんたんな結び

    時代後見:控え目で、洗練された大人を感じさせる帯結び

    帯揚げ、帯締めの結び方:わずかに色をのぞかせるだけで、きもののイメージをかえられる            一の字(帯揚げ)花結び(帯締め)入りの字(帯揚げ)藤結び             (帯締め)など

    二重太鼓:大きくふっくらと格調高く仮ひもを二本使ってかんたんに結べる

    松葉太鼓:お太鼓を華やかに変形させた準礼装に向く帯結び

    吉弥結び:江戸時代の人気女形、上村吉弥が考えたといわれる直線で

                         構成されたちょっと粋な帯結び

    かれん結び:歩くたびに帯がフワフワと揺れるかわいらしい後ろ

                            姿会合やパーティ向きのかんたんで華やかな帯結び

    方流し:長い羽根で気になるヒップをさりげなく隠してくれる帯結び

    リボン結び:ポニーテールにリボンを結ぶ感覚の帯結び

    引き抜き結び:ミセスになった人のための少し落ち着いた帯結び

    上記のような帯結びが写真で丁寧に説明されている。

    そのほか、振袖、訪問着、おしゃれ着、つむぎ、ゆかたなどの基本を紹介。女性のための本となっているようである。

    続 小袖

    山辺知行 

     北村哲郎 共著

     

    歴史的な名著となって宮内庁の書庫にも保存された続編著書である。写真集となっており、あとから解説がある。名品揃うなかでひとつ、名品ぶりがうかがえるものをとりあげてみよう。

    1)紋縮緬熨斗模様振袖 (重要文化財)

     江戸時代中期 裄58.7cm   丈163.5cm

                   <京都 友禅史会蔵>

    牡丹(ぼたん)唐草の地文のある紋縮緬に、大きな束熨斗の模様を、当時行われていたに違いないあらゆる加工技術をもって表現した、非常に美事な振袖である。技法は先ず熨斗の模様に縫い絞って、紅に染め、それから熨斗の一つ一つに友禅、刺繍、摺り箔、摺り疋田などの各種の技巧を用いて、それぞれ違った模様を細かく置いたものである。その各々の念のいった仕事もたいしたものであるが、本品の特色はなんといっても、その堂々とした意匠構成にあるといえる。明和前後の最も友禅の技巧が精緻に高度に発達した頃の作品と思われるが、それと同時に本品は小袖を中心とする江戸時代の染織の頂点を示すものといえよう。ちなみに本品は明治初年、アメリカのロックフェラー氏が一度手に入れたものを、伝えきいた当時の京都の染色界の主だった人々が、日本に止めておくことを願い、高額の金を集めてロックフェラー氏から買いもどしたという、いわくのあるものであって、個人の所蔵にすると再びこうした事態のおこる可能性もある処から、保存会を作って保管してきたのである。友禅史会はこの一領の振袖の保存のために作られた会であって、これを意図された方々に私共は大きな敬意と感謝を捧げなければならない。江戸時代の染織品中唯一の重要文化財に指定されていることもゆえなきことではないほである。

    また、余談で、私の先祖が結城紬の三要件絣括り部門茨城県代表としてほか各要件茨城、栃木と6名が人間国宝とされ、6名故人のあとに次の6名が決定された。(正確には技術保持者とよぶ)こうした職人は勲7等の天皇勲章受賞など、他職人とあまりにも不公平として、人間国宝は解除されて団体指定(国の重要無形文化財の技術保持者多数:当時の生産者が認定、内訳は糸とり60名、絣括り50名、織り50名、学識経験者11名:::これは昭和31年結城紬が重文指定、代表者指定6名から故人全てになった時点であたらに6名を再指定、そのあと、昭和51年4月の重要無形文化財保護法の改正により前記した計171名が認定という流れである。)となった。現在も団体指定であるために結城紬には正確には<人間国宝は存在しない>のである。結城紬とはすべての人のため、みんなの特産品という広域指定となった。そうした一面も結城にはある。万人が同じく、というかまえである。

     

    母と子のたのしい手織り教室

    宮沢郁子著

    上條滝子絵

    手織りはだれでも「テンから和尚」にはなれない。始めは織り目がゆがんだり、幅がせまくなったり、広くなったりしてしまう。当たり前ですがなんども繰り返していくうちに、きっと「糸が手についてくる」ようになる。そうなったらしめたものです。いいと思って買ったのに、身につけてみたらよくなかったというとき、出来合いの品だと、ただがっかりくるもので、それが自分の手作りによってつくったなら、よしこの次はここを直してみよう、ここをこうすればよくなるかもしれないなどの気持ちがでてくる。手織りを仕事にしても、不安がどうしても先行してしまう。それは私などの結城紬生産者も同じで、糸にはじまり織りできあがり完成するまで、またその先不透明な時代。でも、不安は誰もが消えないように努力を重ねていくことが大切なことなのだ。もし失敗したら、そういう危機感は確かに重要であるが、もっと重要なのは、私はここまで努力を重ねたけど失敗した、ということだ。やってだめだったらそれでいいじゃないか。そうしたことが生産において大切なのだ。努力の仕方がわからない、改善していきたい、時間がない、そうした時私は考えてメモして、少しでもチャンスをのがなさない、もしくは絶対に生き残ってやるという姿勢がいずれ自然体となってゆくと考えて実践している。どうしたらいいか、わからない、今の状況を打破したい、それにはどうすれば、そうだとにかく資料をみてみよう、他人と交流してみよう、はじまりはすぐ目の前に用意されていることもある。そうした意見は蓄積されて答えになることすらある。調子が本来ではないときひたすら浮き上がる場面までまつことも一つの技術である。

    井上陽水の歌詞作詞 「夢の中へ」 をみてみよう

    さがしものはなんですか みつけにくいものですか

    かばんのなかも つくえのなかも さがしたけれどみつかならないのに

    さがすことをやめたとき みつかることもよくある話で

     

    そう、ずっと不安で問題があっても答えがふとでるときが世の中にはある。

    母と子のたのしい草木ぞめ1 

    林泣童 

    アサガオやホウセンカの花をぐちゃぐちゃにして色水あそびをしたことはないだろうか。赤や紫の色水ができると紙や布をひたして染めてみたくなるものである。これが草木染めのはじまり、といえよう。草木染めというと様々な人が手間がかかる染めの話になってしまうがほとんどが経験をつんでいくことで習得し伝承していくものである。草木染の原料の染まりをよくするものを媒染剤という、そういうが金属類と反応させるわけだ。昔は金属類を多く含んだ水にひたしたり、どろなどの土中の金属と反応させた。大島紬の泥染とよぶものはその昔ながらの媒染剤の役割のもので知られる工程である。少しでもきれいな色、少しでも色のさめないようにと工夫を重ねたのである。野山の自然を紙や布に染めたものはオリジナルの一点ものの品になる。そこには自分でそめた自然布で草木染め体験などで参加して染めの醍醐味を多くの人に知ってもらいたい、そんな思いだ。

    草木染めは染める布や糸の重さをはかり、次に染めるものが100gならば草木染材料も同じ重さを用意する。乾燥したものは半分という。なぜ、染めるときに染液で煮るかというと色素と染物のタンパク質が結びついてよく染まるという科学的根拠があるからである。

    母と子のたのしい草木ぞめ2

    庭木や山野草で

    林泣童

    第1作目<母と子のたのしい草木ぞめ1>より、より技法書的なつくりになっているのが本書の特徴とえよう。草木染めのとっかかりには適したもの、というのは群馬の山崎氏や京都の吉岡氏の草木染の本は基本的に植物で染められるものを書物にした点は本書と一緒であるがやや専門家だけあって難易度が高いように思われるために個人差はあれど、こちらも購入するなり、草木染め本となんらかの併用することで、知識を広めるのが理想的に思う。

    一部紹介として<木綿の基本手順>をしるして終わろう

    絹や毛糸のような動物せんいとちがって、木綿は植物せんいで、タンパク質がないので、特別な下準備がいる。それさえすめば、毛糸(ウール)などの温度の注意はいらないので気楽といえば気楽である。木綿はタンパク質がない。そこでタンパク質を付着させ、濃い色を可能にする。染め液作りのほかに下準備とは下記のような方法もおこなう。

    豆汁(ごじる)のつくり方:

    カップ一杯の白大豆を一晩のあいだ水につける。その豆と200ccの水をミキサーで粉砕する。できた液体を布などでこす。(豆乳)。こした後の布の中の豆はまだ使うため、捨てないで、再度200ccの水をたしミキサーで再度粉砕。

    この豆汁と、染める木綿布を水にひたしてしぼった状態から豆汁につけて30分放置する。その後脱水し干す。天気の良い日におこなうことで成功率が高くなる。かわいてから3日後に使うようにする。その布をぬらし、煮染め15分、さます、ばいせん20分、煮染め15分、水すすぎ、脱水、日かげ干しという流れになる。豆汁が面倒な場合、市販牛乳を二倍にうすめたものでもよいため、こちらのほうが豆汁より使われる。

    ドウダンツツジという植物は公園や広い場所などに植え込みによく使われている。ドウダンとは<灯台>のことで枝わかれに特徴がある。枝わかれが灯明台の脚に似ているため比較的覚えやすい。春、花が終わったあとで、刈り込んでいるのを見かけたら、もらうのがベスト。ちなみに桜の枝も滅多に枝切りされて処分するという場面は遭遇しにくいがこうしたものは染色に使用できるため、ひきとるようにするとよい。私はドウダンツツジやヤシャブシなど様々なものをもらっては保存するように姿勢を整えている。仕事場に薪ストーブがあり、家族に薪のごとく、燃料にされたときの悲しみは計り知れない。

    母と子のたのしい草木ぞめ3

    漢方薬や旅みやげで  

    林泣童 

    包丁でトントンたたいて、お餅にヨモギを混ぜる。前掛けに茹汁がついてしまい、色がついた。そんなことから昔の人は草木染めを学んだのかもしれない。たくあんを白茶よりは、鮮やかな黄色のもののほうがうまそうにみえる。昔の人はクチナシの実をつけこみ黄色にした。栗きんとんも同じように黄色く鮮やかにした。いってみれば草木染めというのは食べ物にもいえることで、なにも布地だけに限ったものではなかった。草木染めを学びたい、そんなことこそ、肩の力をぬいて気軽にとりくんでいく、そんな姿勢でいい。本格化するのは経験を重ねながら、だんだんにこういう時はこれくらいの量、これくらいの時間というように勘を育てていけばいつか熟練された技術に変わっていく。

    花屋さんや花木センターで買えるもので染められるもの:

    バラ 

    ボケ(枝 葉)

    ネコヤナギ(枝)

    ツバキ

    コデマリ

    レンギョウ(枝)

    サンシュユ(枝)

    など

    毛糸と布のたのしい手づくり教室

    石井正子 著者は本からヒントをえて、楽しんでほしいということである。はじまりに、布を使って絵の具のかわりにベタベタとはりつけて絵をかいてみようと提案する。下絵をサッとかき、そこに布を切ったものをはりつけていく。これは、色を変えたり、大きさや形をかえたりして下絵にあわせていくことで、最終的にボンドなどではりつけて一枚の布絵を完成させる。ここでのポイントとして手触りの異なる布、模様などをその絵にはりつけ、異なるものを視野に入れるということで布ひとつにも、こだわりや独創性がそこでひとつうまれるということだろう。そうしたことを学んでもらいたいといったはじまりである。次に布地を好きな色の毛糸でざくざく縫う(ぬう)。それだけのテーマをあたえる。これはランニングステッチとよばれるものであり、針を自在にコントロールできるようになっていき、いわば運針(うんしん)練習となる。糸にあわせて針をかえてみる、選ぶなどの針選びもそこで知ることができる。針に糸をとおす、糸を複数にした複雑な色合いの糸をも使うことで、単純に針、糸を好きになるように指導したものとなっている。針を動かし、こまかく、長く、あらく、短くなどの変化で次第に縫うこと自体もうまくなる。鉛筆で下絵をかき下絵にあわせて布をきりぬき、絵がらを決める。ふちをおおってアイロンをかけ、しつけぬいをする。ランニングステッチやブランケットステッチ、またはアウトラインステッチでぬってみる。ステッチとは縫い方のことで、現代のネット環境では情報も豊富で、検索して縫い方を独学に近い状態で学ぶことができる環境にある。これは情報社会に感謝しなかればならない素晴らしい。インターネット上に多くの情報があり手縫い、つまり、針と糸があれば、縫い方を工夫して、様々な変化ある縫い方を習得し、ぬうことは楽しいことと思えるように構成されたものである。それらは数十種類もの縫い方が紹介された専門的なサイトもあるようである。私がうまれる前に出版されているこの本に興味があれば購入するもよし、また縫うことは、道具を使うことのイメージと現実をうめるものであり、あくまで手作業にこだわって縫う、てぬいの楽しさを知ることができる。現代はミシンという縫う道具(機械縫い)があるが、私は手作業による手縫いを推奨する側にいる。それは刺繍にもいえる。ヨーロッパでも現在に残る技術は手縫いによる伝統的な刺繍が世には存在している。着物と縫いを考えるとき、すべて原始的な技術に人はおちつく。本格的な日本の手縫い、和裁にかんする書籍を<古書現代3>で紹介しようと思う。

    日本の染織 紅型

    沖縄の心を染めた紅型

     

    紅型は沖縄の染物である。紅型の名はただちに、多彩で調子の強い染物を連想させるが多彩な紅型は沖縄の地理的環境の代弁者でもある。強い陽光が矢束となって降りそそぐ南海の彩りは、全ての色が鮮やかに見える。亜熱帯の島は常緑であり、四季、花が絶えない。丘の土の赤さ、浜の白さも、花や樹木の緑を深い空に浮き立たせる。陽光の豊かさは樹木の葉一枚一枚、さらにわずかな水深によって紅から紫、そして緑にと高い明度で微妙な違いを見せる。澄明な空気は夜空の星の遠近までわかるような気がする。海洋の気候は雲足が早い。空を眺めていると一瞬として雲は止まっていないし、本土の冬空のような硬い雲もない。湿気の多さは光の屈折を変え、夕闇の紅色、星空の淡緑や淡紫は膨らみがある色、それは紅型の地色そのものである。

    沖縄の地文な美を綴った。紅型の詳細等は後ほど<中間資料>で作成し、入れかえを行う。

    沖縄の染物の一つに、藍型と呼ぶ藍を主色としたものがある。紅型が沖縄の昼の世界なら、藍型は夜の世界を、また紅型が島の景色なら藍型は島を囲む海底の詩である。岩に揺らぐ藻、磯を縫う魚の群の影の濡色が藍型の色である。久米島紬の紬は、琉球多蚕繭とよばれる繭で本土のものとは異なった南中国系の蚕がつくる。やや黄灰色を帯び光沢は少ないが、上質の鞣皮(なめししたもの)のようなしなりがあり、紅型の染め味の潤いを持つ理由は糸質負うところが大きい。芭蕉布も特産的な繊維である。乾燥を嫌い、石灰質を好む植物で全域に繁茂するが、繊維を彩る芭蕉は糸芭蕉とよび、風を避けて斜面か屋敷内に植え風物的特色になる。広義の麻に属し、小麦粉の堅い繊維であるが、首里の煮綛とよぶ撚を利かせ、充分に灰汁処理をしたものは染め色が上すべりをしない。絵具ののりが良くないので紅型には使われないが藍の染付きが良い点もあって、藍型には深々とした染味がある。

    人間国宝シリーズ43 結城紬   

    戦前、戦後を通じ、10年にわたる統制が終わり、回復を見せた結城紬も、緯糸(よこいと)に強い撚加工をした縮織物が全盛で、古い伝統を持った平織りは、年間生産量が1500反と非常に少なく、近い将来消滅するのではないかといわれた。幸い、国はこの平織りの遺法と伝統を認め、久留米、小千谷とともに昭和31年3月31日付けで<国の重要無形文化財>として指定することとなった。昭和31年3月24日の、文化財の専門審議会説明資料中に、指定理由や要件が次の如く記されている。
    1、指定理由
    結城紬は常陸紬ともいわれ、古くより茨城県結城市、栃木県絹村を中心として製織され、慶長の頃から結城紬と称され、江戸時代初期には、相当大量の生産をみたもののようである。結城紬は同地方において製織りされているが、稀に見る古様を伝えるもので、織り糸は真綿から引き出した紬糸、絣くくりは手くびり、織り機は最も原始的ないざり機がもちいられている。近時染色は天然藍による染色を廃し、化学染料が用いられており、又大正の初期頃より強(キョウ)撚糸を緯に用いた<お召>風な製織りが行なわれ、柄も多彩な絵柄のものがおこなわれるようになったが、ここに取り上げようとするものは、これ以前の結城紬の本来の姿である。<平>の縞、格子、絣、杢等を主としたもので、これは近来、柄もの進出に押されて、次第に生産が下り坂になっているが、水を入れても洩らぬと、いわれる結城紬本来の姿と、独特な美しさの中に、渋い味わいのあるよさは、かえってこの<平>の中に認められ、わが国染織技術中、特に芸術的な価値が高く、かつ地方的な特色が顕著なものであると考えられる。

    2、指定の要件

    <イ>使用する糸はすべて真綿より手つむぎしたもののみとし、強撚糸を使用しないこと。

    <ロ>模様をつける場合は、手くびりによること。(スリコミ、直接染色法は含まれない。)

    <ハ>いざり機(地機)で織ること。(高機は含まれない。)

    3、保持者の認定

    (1)保持者の認定は、糸つむぎ、絣くくり、染色、織り、仕上げ等の工程に従事する者を代表者として認定する。

    (2)製織り地域が茨城県、栃木県にまたがっているので、保持者を認定する各工程について、両県より一名ずつ保持者代表として認定する。

    以上について審査の結果、次の6名が代表者として認定された。

    糸つむぎ部門 大里ふく 大塚いせ

    絣くくり部門 北村勘一 今井五郎

    織り部門   北条きの 増田かね

    その後、絣くくり部門の北村勘一と今井五郎が死亡したので、昭和49年4月20日付を以て次の2名が新たに認定された。 田中林次 谷島武雄

    昭和50年7月、国の文化財保護法の一部改正により、技術保持者の代表指定が団体指定に改められたため、茨城県栃木県両県合同で糸とり部門62名、絣くくり部門52名、織り部門52名、学識経験者5名の合計171名により、本場結城紬技術保持会を設立、昭和51年4月30日付を以て認定を受けた。従って従来の認定者は解除された。この技術保持会とは別に、関係市町村と茨城、栃木県両県の文化課及び両県の技術指導機関によって、結城紬の技術保持と精神的、物質的援護を目的に財団法人重要無形文化財結城紬技術保存会が設立されている。

     

    結城つむぎの歴史

    <結城紬の歴史>
    B.C.
    50年
    崇神(すじん)天皇の御代、多屋命(おおねのみこと)が久慈郡に機殿を造営して、織物をはじめました。これがあしぎぬで、結城紬の原形と言われています。


    A.C.
    714年
     常陸国のあしぎぬが奈良朝廷へ上納された記録がのこっています。また、奈良朝廷に上納された布が、正倉院に保存されています。


    807年 古語拾遺(こごしゅうい)のなかに、麻が好く生ずる所が総の国であり、穀木(ゆうのき)の好く育つ所が結城の郷である、と記されています。


    1332年 庭訓往来(ていきのうらい)のなかに、諸国名産の一つとして常陸紬(ひたちつむぎ)の名が記載されています。


    1601年 江戸時代にこの地を治めた伊那備前守忠次は、染色と縞の織法を技術導入するなど、紬の振興、改良に努めました。この頃から結城紬の名が広く全国に知られるようになりました。


    1638年 毛吹草(けふきぐさ)の中に、七産地十種類の紬が諸国の名産として取り上げられており、この中に結城紬の名称がでています。


    1712(年) 和漢三才図絵(わかんさんさいずえ)に最上品の紬として、結城紬が紹介されています。


    1866年 大塚いさ女、須藤うた女の両女により、はじめて紬の絣が織られ、ここに結城紬も画期的局面を展開することになりました。


    1956年 結城紬は、久留米絣、小千谷縮とともに国の重要無形文化財に指定されました。


    1977年  結城紬は、伝産法に基尽く国の伝統的工芸品の指定をうけました。
     常陸国のあしぎぬが奈良朝廷へ上納された記録がのこっています。また、奈良朝廷に上納された布が、正倉院に保存されています。


    崇神(すじん)天皇の御代、多屋命(おおねのみこと)が久慈郡に機殿を造営して、織物をはじめました。これがあしぎぬで、結城紬の原形と言われています。

    <紬生産の発展>
    明治2年3月政府は諸道の関門廃止を布達して、交通を自由にしたが、ほぼ明治5年頃までには各県は旧来の株仲間の特権を廃止し、諸営業の自由な発展を図った。結城地方でもこれを契機に諸産業が発展した。とくに、結城紬の生産では幕末すでに絣の製織法が導入されていたが、明治6年奥沢庄平が足利、桐生、伊勢崎の機業地を訪ね、7年さらに八王子を視察して各地の製織法を学び、すぐれた紬生産に成功した。
    市場では結城紬の評判が高まり、需要が急速に増加した。
    明治18年鈴木新平、奥沢庄平の提唱によって、結城物産織物商組合が組織され、検査員をおいて合格品に組合の商標を貼付することにしたため、生産品に対する信用を回復し、結城紬の声価はいよいよ高くなった。養蚕業の奨励はすでに幕末期からおこなわれていたが、明治5年鹿窪の宮田国三郎は明治6年から桑園造成に着手した。鬼怒川付近では桑園造成が急速に進んだ。

    <結城紬 木綿問屋>
    結城紬の歴史的な動き

    結城紬はすでに室町時代に関西方面に知られていた。結城氏が育成保護をはかったが、結城秀康の越前移封後、伊奈備前守忠次によりその改良がはかられた。彼は信州上田から織工を招いて染色法、織法の改良をはかった。
    これにより従来、無地紬であったものが、型付、模様染、柳条染もできるようになり、江戸方面に販路が開かれていった。
    水野氏が結城に入封してから紬問屋の保護策がとられ、問屋を士分待遇にしたり米を給したりしている。
    <和漢三才図絵>に、『結城に出づるものを上とす信州之に次ぐ』と紹介されているが結城紬は原始的な道具を使用しての織り方でありかなりの手間数かけるものであるから、値段もきわめて高価であった。
    1790年の江戸における結城紬の値段は信州紬の1.5倍であった。
    江戸幕府は、いくどか倹約令を出したが結城紬は一見木綿のようで取り締まりを逃れるのに利があった。
    結城木綿の歴史的な動き

    紬のほかに織物では木綿がある。これは関東では真岡木綿の名で知られているが元禄以降さかんとなった綿の栽培により、江戸方面に送り出された。木綿は茨城下館(現在の筑西市の一町村)地方がさかんで、文化、文政期にかけてが最盛期であった。歌麿が浮世絵でも描いた。

    <江戸時代の結城紬>
    豊臣秀吉が全国を支配したころ、茨城の地方には、二大豪族として、佐竹氏と結城氏とが存在した。17代結城氏は積極的によしみを通じ、秀吉の養子秀康(徳川家康の子)を養嗣子に迎えることによって結城家の存続をはかった。秀康は、天下分け目の戦といわれた関ヶ原の合戦に家康側にくみし、戦功を認められ、越前に67万石が与えられた。慶長6年、その引っ越しは家臣はもとより寺院、職人、商人にまで及び、結城ぐるみの大移動であったと伝えられている。
    十万石余を擁した結城家の去ったあとの結城地方は、すっかり変わり領地は大名領、旗本知行所、天領等となった。現在の結城市域は大部分が天領となり、初代代官として伊奈備前守忠次が派遣された。彼は治山、治水、産業などに、高い識見と技量を併せもった偉才であったといわれ、産業の振興策として、紬の改良発展のために熱意を示した。即ち、信州上田より織工を招き、染色と柳条の織法を技術導入した。そして陣屋に染織の作業場を設け、自ら指揮監督をしたという。

    結城家の越前移封は紬も存亡にかかわる危機に、遭遇したわけであるが、初代代官の善政に支えられ、その声価はますます高くなった。この時代の多くの文献の記述の中から、その真価を伺うことができる。

    初代の代官、伊奈備前守忠次より約百年の間、次々に代官の施政が続いたが、元禄12年(1699)水野隠岐守勝長が、能登より転封になったときは、知行わずか1万8000石に過ぎず、結城の周辺15カ村、戸数1036戸という小地域になってしまった。

    江戸中期の治政を見ると無事泰平になれた世人は、安逸に慣れ、町人文化が全盛をむかえた。幕府は、この悪弊を改め、人心を一新するため、数回にわたり節倹令や奢侈禁止令を公布し取り締まりを行った。第一回は八代将軍吉宗(1730年)の倹約令、第二回は老中松平定信(1789年)によるもの、第三回は有名な天保の改革(1841年)で、老中水野忠邦によるものである。禁止の対象は実に広範で細部にわたっており、忠邦にいたっては、菓子や玩具から肌着にまで及び、百姓町人は、いっさい絹物の着用は禁じられ、木綿のみ許された。ただし、紬は絹製品であっても、名主と百姓の女房だけは着用することを許されたので、自家用の紬が生産された。

    この時期に貫紬といって経糸に木綿、緯糸に紬糸を用いた織物が作り出され、これが時流に乗って普及された。

    水野忠邦の墓は、茨城県指定文化財として結城の地にあり、天保の改革を思うと感無量なるものを感じさせられる。

     


    <結城紬 明治時代 歴史>
    明治、大正時代、結城紬の発展にはどんなことがあったのだろうか、歴史をたどった。
    明治時代 結城紬の歴史

    1873年
    明治6年

    オーストリアの世界博覧会に結城紬が出品された。
    1880年
    明治13年

    東京に木綿呉服問屋組合が初めて設立され、下館、結城の問屋もこれに加入した。
    1886年
    明治19年

    鈴木新平(先々代)の主唱により、結城織物組合が結成され、同時に検査を実施することになった。
    1889年
    明治22年

    奥村亀三郎(結城最初の国会議員)の主唱により、常総野蚕業集団会が開催された。
    1900年
    明治33年

    明治天皇陸軍大演習のため笠間行幸の際、結城紬をご覧になりお買い上げ賜る。
    1902年
    明治35年

    結城紬織物史全一冊が結城市の坂本大次郎により刊行さる。
    1904年
    明治37年

    日露戦争の戦費をまかなうため織物消費税が定められ、39年には永久税となり、昭和24年まで続いた。
    1906年
    明治39年

    菊地貞之著きぬのほまれが刊行された。
    1907年
    明治40年

    陸軍大演習が結城市を中心に行われ、明治天皇結城行幸、結城紬をお買い上げ賜った。
    1912年
    明治45年

    本場結城紬織物同業組合を結成、認可された。
    1923年
    大正12年

    茨城県工業試験場が結城に開設された。

     

    <オリジナル ゆうきつむぎ歴史>

    本場結城紬の歴史(2012年改訂版)
    前656  ・このころ多臣命、(おおかみのみこと)が、三野(美濃)より久慈国(茨城県久慈郡)に移り、機殿を作って長幡部施(ながはたべのあしぎぬ)を織り、毎年神調として朝廷に献上した。この織法が結城紬の粗法といわれる。
    ・神武天皇5年、天富命、阿波の忌部を率いて房総に行き、椿、麻(木綿由布木という)を植えさせた。
    前50 ・崇神天皇48年、豊城入彦命を東国につかわして治めさせた。大桑神社(現結城市小森)は、その子孫大桑臣を祀る。
    199 (大和時代) ・仲哀天皇8年、融通王(弓月君)が来朝して、蚕種を献上、その後、桑栽培が盛んになった。中国人、百済人が多数帰化し製織の技法が進んだ。
    701(大宝元年) ・常陸の蚕影山で蚕種を製造し、結城でその市が開かれた。茨城県筑波郡田井村に蚕影神社があり、古くから養蚕家の信仰があつい。
    769(神護景雲3年) ・この頃、鬼怒川の沿岸は洪水に悩み、朝廷はその改修に務めた。
    807(大同2年) ・「古語拾遺」の文中に、結城郡の起源が見られる。
    1332(延元元年) ・「庭訓従来」(玄慧法師撰)が刊行され、その中に諸国名産の一つとして「常陸紬」の名が記載された。  
    1479(文明11年) ・この頃、鬼怒川、田川の水害は甚だしく、結城地方の養蚕は衰える。
    1601(慶長6年) ・結城秀康が、越前福井に移封となり、結城代官として、伊奈備前守忠次が就任、在任10年、結城紬の改良に功があった。「結城紬」の名称が定着する。
    1638(官営15年) ・「毛吹草」の中に結城紬の名称が出る。
    1712(正徳2年) ・「和漢三才図絵」に紬の名が出る。
    1748(寛延元年) ・「総鹿子」刊行され、その中に結城の名があり。
    1781(天明元年)  ・この頃、下館付近の農家から白木綿が織り出され、続いて真岡木綿の名もおこり、結城縞木綿も有名となり多く生産された。
    1866(慶長2年)  ・中河原の大塚いさ、須藤うたの両女によって、はじめて紬の織りが織られた。
    1873(明治6年)  ・オーストリアの世界博覧会に結城紬が出品された。
    1880(明治13年) ・東京に木綿呉服問屋組合が初めて設立され、下館、結城の問屋もこれに加入した。
    1886(明治19年) ・鈴木新平(先々代)の主唱により、結城織物組合が結成され、同時に検査を実施することになった。
    1889(明治22年) ・奥村亀二郎(結城最初の国会議員)の主唱により、常総野蚕業集団会が開催された。
    1900(明治33年) ・明治天皇陸軍大演習のため笠間行幸の際、結城紬をご覧になりお買上げ賜わる。
    1902(明治35年) ・「結城織物史」全1冊が結城市の坂本大次郎により刊行さる。
    1904(明治37年) ・日露戦争の戦費をまかなうため織物消費税が定められ、89年には永久税となり、昭和24年まで続いた。
    1906(明治39年) ・菊池貞之著「きぬのほまれ」が刊行された。
    1907(明治40年)
    ・陸軍大演習が結城を中心に行われ、明治天皇結城行幸の際、結城紬を上げ賜った。

    1912(明治45年) ・本場結城織物同業組合を結成、認可された。
    1923(大正12年) ・茨城県工業試験場が結城に開設された。
    1929(昭和4年)  ・天皇陛下、水戸に行幸の際、結城紬を天覧、お買い上げ賜わる。
    1933(昭和8年)  ・結城紬の県営検査がはじめられた。
    1944(昭和19年) ・本状結城織物同業組合解散、茨城県工業試験場が廃止された。
    1946(昭和21年) ・茨城県、栃木県それぞれ個別に「本場結城紬織物協同組合」が設立された。
    1948(昭和23年) ・茨城県工芸指導所繊維支所が結城に開設された。
    1950(昭和25年) ・茨城県繊維工業指導所が設置された。茨城県、栃木県合同で本場結城紬織物協同組合(6部制)が設立された。
    1953(昭和28年) ・6部制の組合がそれぞれ離脱、専門別の組合となる。茨城県が結城紬を県の無形文化財に指定する。英人陶芸家バーナード・リーチが柳宗悦氏、浜田庄司氏とともに結城紬を視察。栃木県紬織物指導所が小山市福良に設置された。
    1956(昭和31年)
    ・本場結城紬「平」が国の重要無形文化財に指定される。
    1958(昭和33年) ・茨城県本場結城紬織物協同組合が設立された。
    1961(昭和36年) ・結城市を中心に、関係各市町村により財団法人重要無形文化財結城紬技術保存会が設立された。
    1962(昭和37年) ・茨城県本場結城紬検査協会が設立され、紬買取後の毎反検査が実施される。
    1967(昭和42年) ・栃木県本場結城紬織物振興対策協議会が発足する。
    1974(昭和46年) ・結城紬の買取後検査を、生産者検査に移行する。
    1974(昭和49年)
    ・茨城国体の際、鬼怒商業高等学校において、結城紬及び真綿かけ、糸つむぎ、絣 しばり、はた織りの実技が天覧に供せられた。

    ・NHKの連続テレビドラマ“鳩子の海”の舞台が結城に移され、結城紬の人気が高まる。

    1975(昭和50年) ・茨城県本場結城紬織物工業組合と、本場結城紬織物協同組合が合併して、新たに茨城県本場結城紬織物協同組合と改称。栃木県本場結城紬織物協同組合設立さる。
    1976(昭和51年) ・文化財保護法の改正により、保持者の認定が団体となり、171名によって本場結城紬技術保持会が設立された。
    1977(昭和52年) ・結城紬が伝統的工芸品の指定を受ける。結城紬伝統工芸士が認定された。染2名、 絣くくり6名、織り8名。
    1978(昭和53年) ・本場結城紬検査協会を法人化し、本場結城紬検査協同組合が設立された。 
    2010(平成22年) 本場結城紬がユネスコ無形文化遺産に登録される。

    2012年改定、なお、現代編集として資料作成にあたり、茨城繊維工業指導所所長だった望月政夫氏と、結城紬のもっとも良い資料として、この<人間国宝シリーズ43結城紬>ということで、私とはじめて意見が一致したため、望月氏に資料訂正等を含む、資料づくりをおこなった。これはヤフージオシティーズ無料ホームページ内で紹介したものとほとんど同じ内容のものがここに再掲載されている。マニアックなファンは気がついたかもしれない。また、上記内容を引用し、

    以上について審査の結果、次の6名が代表者として認定された。

    糸つむぎ部門 大里ふく 大塚いせ

    絣くくり部門 北村勘一 今井五郎

    織り部門   北条きの 増田かね

    その後、絣くくり部門の北村勘一と今井五郎が死亡したので、昭和49年4月20日付を以て次の2名が新たに認定された。 田中林次 谷島武雄

    私の知る範囲では北村勘一の代表作200蚊絣は私の父の談話では、私の祖父が絣制作をおこなった、という話はきいている。栃木県側の保持者の第二認定時の谷島武雄氏については240亀甲の概念をつくったことで知られている。本書、人間国宝シリーズ43結城紬>は絣括りの絣の基礎になるものは、蚊絣と亀甲絣であるが、それらを自在にあやつっている細工のもはや国宝クラスが圧倒的な世界を醸し出している。

    さらに、私が常日頃、おしている絣、蚊絣は、本書内でこのような専門家の意見があるため、情報補足を引用する。

    蚊絣はやや単調であることと、繊維の繊度斑が絣の部分に出やすいため、技術的には亀甲以上の緻密さが要求される。戦後にかけての結城の絣は発展をとげている。すでに100年の歴史を経過している結城の絣の伝統はここまできた。

    また、審査の結果の証明書は補足情報までにこちらに初公開を行う。昭和写真家島田謹介とつむぎ、保持者6名の証明画像と補足情報はこちら

    日本の染織 縮と上布

    心で織る素朴な布

      江戸末期、越後塩沢に住んでいた鈴木牧之は、著書『北越雪譜』にこう書いている。「雪中に糸となし、雪中に織り、雪水に洒ぎ、雪上にさらす。雪ありて縮あり。されば越後縮は雪と人と気力相半して名産の名あり。魚沼郡の雪は縮の親というふべし」 越後の山間部は寒冷地で、しかも肥沃な土地という苧麻の生産に適していたこともある。しかし、それにもまして冬季は豪雪に見まわれ、隣家との従来も不可能になるというふうであったことが、逆に上布を栄えさせたのである。つまり、家の中が暗くなるほど降り積もった雪の中で機織りに集中できたわけだ。お互いに技をも競い合ったことだろう。麻は湿度に敏感な繊維だから、冬場のほうが仕事がしやすい。まして、雪晒しによって麻の漂白もできる。自然まかせの時代にあって、麻を織るのは冬に限るのであった。こうして糸質の良し悪し、出来上がりによって、下布、中布、上布という区別もうまれた。上布とは文字通り、上等の麻織物を意味していたのである。
    森田空美のシンプル美着付け 森田空美 女性が着物を着る、もしくは着てみたいとなると、本書に必要なものが掲載されているが、結構な数のものものとした小物が必要となる。極力無駄をはぶき、そのなかから美しさをひきたてる着付けを目指した森田空美さん。試着の重要性をとなえつつ、それぞれに独自性の強い美のポイントはかなり細かいというか、本当にこだわってチェックしないと気がつかないような加減によってそれらのポイントをおさえれば全体にバランスがうまれることを伝えている。着付けは大切なことですが、それより着物をきていく場所が少ないことがより着物姿をみる機会すらないといった感じがする。そういう意味では浴衣などの着付けをみてみるとひとりで浴衣を着ることを学べるようなつくりであり、まして月謝も発生しないから雑誌感覚でチェックしてみてもよい気がする。結城では、先生というとその人の母や近所の方々だったりしたのであるから着付け師の概念は獲得しにくい土地柄にある。実際には、着付けひとつ、先生も多いということが着物を仕事にしたい女性を代弁しているように思う。

     

    きものおめかしノート

    しゃなり2003冬

      普段着きもので歩く。きもので街にでかけてみよう など現在もしゃなりという雑誌はあるのか確認はしていないが、着物雑誌の七緒 にコンセプトはぐっとちかいとでも表現すれば伝わりやすいのか。着物歴まるまる年とあって、アドバイスやオリジナルの小物や便利アイテムなどいつの時代も変わらない工夫がある。その紹介数が結構な数があり、ふむふむなんて納得共感しながらよんだものだったのだろう。徹底してスタイリングしたものものはじつに木造建築が似合うものだと勝手に解釈している。ただ、洋服から着物へとなるにはそれなりにきっかけはいるような気もする。働く日本人にはたしかに洋服のほうが、便利は便利である。快適性を捨てたものとまではいわないが、私は骨董収集するきっかけは、なんでも鑑定団のチェックと、やはり自分が知らないものへの興味、時代への興味である。食べ物をひっくりかえすためにあるかのような、あつかいにまでなった昭和ものの机、ちゃぶ台は私が知る限り、自宅にはもうすでになくてコタツのつくえも四角であった。なんらかのそうした漫画などの影響、映画の影響で、ちゃぶ台は丸くてひとりかふたりくらいの小さいもの、のようなスリコミ知識はあった。着物となるとファッションの興味と国の衣装、時代へのあこがれなどやはりそれなりに、きっかけは用意されている気がする。私はそうしたアナログがゆえにこうした資料も好きなのである。

    装道きもの学院テキスト

    入門初修課程実技編

     

    上記紹介の2冊も平成初期となると、すべて手描きのイラストと文章で、構成されているようである。写真を用いないでいかにわかりやすくするかに創意がある。着付けに関しては私がいえるのは、結ぶまでの動画をコマ送り状態にした感じで説明していくものだと思うので例えば1のようにしてください。次に2です。とあったとしてその中間がどうなって2になるんだという、説明不足をいかに少なくしていくか、が着付け書物の課題であったと推測する。あながち間違えていないように思う。イラストをさーっとみてみると、黒柳徹子さんのヘアースタイルはあたりまえのようにすでにあったとの想いもして不思議な気持になる。

    織 華麗なる手技の世界

    淡交 1995 別冊

     

    有職織物(ゆうそくおりもの)、羅、経錦、西陣絣御召、西陣着尺、西陣織帯、緞帳、綴帯、丹波布、置賜紬、精好仙台平、結城紬、唐桟織、越後上布、小千谷縮、信州紬、郡上紬、倉吉絣、阿波しじら、博多織、久留米絣、花絽織、読谷山花織、芭蕉布、などの1995年当時の思いがつまっている。昔のものはほんとうによくできている、それは生産者、職人の世界観だけではない。飛鳥、奈良時代の中国の憧れや、平安、鎌倉、室町時代の日本美の発見、桃山時代の華やかさ、江戸時代の近世の精華、明治時代の近代を迎えて、などの時代時代での考察と検証は、古布再現への企画へとつながっている。蘇る能装束の企画では足利義満以来、将軍家や大名家の庇護のもと能役者は拝領された装束を身にまとい舞台にたった。それらは「珍しくてさらに貴重」ととも評価される輸入品であり、日本の織技をつくした美しい装束であったという今に伝わる装束は現代の織の世界にも多大な影響と創作へ向けての刺激をあたえるものとなった。華麗なる和様美の女役の装束、たけだけしい唐様の印象の男役の装束は必読である。いまの能装束の復原は現在となってはとくに面白いインパクトなる記事となった。是非、目を通してもらいたい。

    KOSODEvol.42

    リニューアル記念号

     

    特筆すべきは記念号とあって高級な織物群が存在感をしめすものだが、結城紬の生産者からすれば、やはり気にとめるならば結城紬記事となってしまう。手つむぎ糸生産の写真は祖母が掲載され、織は私の母が掲載されている。手つむぎ糸は記事になているが、袋真綿から適度な湿気を与えながら、指先で細く均等に手で引いていく。一反の結城紬の糸は緯糸で14km必要で、経糸は16kmの長さがいるという恐ろしくも細い糸を緯糸に使用するのである。緯糸のほうが断然に細い織物が結城紬の特徴で繊細で精緻な織物は、糸に起因する部分が大きい。織は地機織りであり1000年以上前から伝わる原始的な織機を使用する。経糸を織手が腰あてにした紐で経糸のテンションを強弱させるこの織機で織られた結城は最上最高至極の織り上がりをみせる。ほとんどが手作業を貫いた現代の結城紬もそのスタイルは変わっていないが機械織りの結城紬とは、比べるまでもなく生地質がまったく違う。

     

    日本の染織 中形

    江戸情緒の再発見

     

    きものに夏姿ということがある。そして秋姿、冬姿、春姿ということはない。これはわが国の高温多湿の夏の季節から生まれた、風土的なきもの美をいうものである。夏姿には絽や紗、上布を着た姿もふくまれるが、夏のきものはマテリアル、織り方、文様、色彩にいたるまで、他の季節とがらりと変化がみられる。きものの形が一年中同じで変化がないことが、必然的に視覚的に涼感をだすことに、工夫がこらされてきた背景がある。浮世絵には美人画の外にも、北斎などが描く風景画の空の色、水の色に藍からつくった藍蠟(あいろう)という絵の具が用いられていた。藍ガメの中の藍液は黄土色を呈している。この中に糸や布をひたして空気中にさらすと、藍は空気の酔素と化学反応をおこしてはじめて青く発色する。紺屋のものは、これを風を切るという。藍はかつて世界中の暖かい地方で用いられたが、現在、植物藍を用いているのは日本と数カ国を残しているのみである。きょくちてきにはその民族が藍染めの技法を昔ながらの染色をおこない、なおのこるといった感じである。藍の色は日本の風土によく調和する。藍の色をアメリカの人は「ヒロジゲブルー」「ジャパンブルー」と呼んで珍重するのも、日本人の生活に密着した藍色に対する魅力によるものがある。中形には、地色が藍で文様を白く染め抜いた地染まりの中形と地が白のままで文様を藍染めで表した地白中形がある。昼間は地染まり中形をきても、夜ともなれば地白中形が粋に見えて調和がよい。三遊亭圓朝の人情話『牡丹灯篭』にカランコロンと下駄の音をひびかせて出てくる幽霊は、地白中形でないと凄味が出ない。また「生き堪へて身に沁むばかり藍浴衣 橋本多佳子」の句には、紺の地染まり中形が連想されるといふものが多いという。歌舞伎役者によって流行した中形をあぐれば、

    仲蔵縞:仲蔵が毛剃九右衛門にふんしたときに元船の場面できた変わり縞 

    芝翫縞(しがんじま):四筋に釻つなぎ(かんつなぎ)を配し、芝翫に通じさせた模様

    鎌輪ぬ(かまわぬ):鎌の絵のなかにぬの字を入れた図を三筋縞の中に配し、「染めもかまわぬ江戸自慢、、、、」の長唄の文句に合わせたもの

    市村格子:十二代派左衛門好みで、白地に紺で破れ格子に片仮名のラの字を配した柄

    その他、歌舞伎芝居にゆかりのある粋な中形も多い。以上、ふれた中形は、重要無形文化財として指定されている江戸中形(長板本染中形ともいう)主としたものである。中形には明治年間に大阪からはじまった注染中形(折付中形、手拭中形の名もある)がある。現在の中形の大部分は、この方法で染められる。

    こちらは中間資料集か、もしくは人間国宝シリーズ中形などの資料にてのちほどさらに情報補足等をおこないたいと思う。

    波乱を越えて八十路へ

    斎藤政治 

    斎藤染工の発展の道をつづる。苦労人である。天の章という序章から、すさまじい修行道と生き方であった。貧乏な窮地が自身のちょっとやそっとでは折れないこころをつくったと本人もいう。無性に悔しい気持ちが、振り返ったときそのときの思いが私を奮い立たせ、容易なことではへこたれないようになったという。斎藤栄次郎氏のもとへ丁稚奉公(でっちぼうこう)に入った。政治氏の父から「政治よ、お前には大工か左官の道を歩ませようと考えてみたけど一人前になるまでには四年も五年も年季奉公をせならん。なにしろ今は家の新築などで借財が残っている状態だから、すまんけどすぐに金がもらえるところへ行ってくれんか」といわれ小学卒業から進学をあきらめ、丁稚奉公に入った。そこで出された食事にまず驚いたという。いわし麦といってある程度ついた麦を炊き上げたのち水でさらした粗末なもので、女中が大きな釜で炊いている時は、牛に与えるものとしか思わなかったという。米の飯しか食べたことがないのでとてもくちに入らなかったという。約4km離れた菓子屋の一個2銭の栗饅頭を三個食った。墓場の側を通らなければならない真っ暗な山道は、髪の毛が立つほどに恐ろしく心細かった。「えらい麦飯や。もうよう行かん。」家につくなりそういったが、政治氏の父に連れもどされた。「清やん、あんたのような貧乏人が子供に麦飯を食べさせていないとは、、、、」と当主のお婆さんから厳しく叱られたという政治氏の父は「男一人、女一人の子供であるから、買い米を食わせて育ててきた。不調法は申し訳ないがどうか冷飯でもいいから子供に米の飯を食わせてやってほしい」と頼んだという。丁稚奉公の朝は厳しい。午前五時になると、女の子たちが機場に入り織機が動き始まるので、午前二時に叩き起こされたという。その頃の動力は電力ではなくガス発動機だったので、まず石炭をたき、動かすことから始めなければならなかった。発動機の方が済むと、五つも六つもある染工場の釜を焚きにかかって、職長や職人が出てくるまでには終えていなければならなかった。染といってもこの頃は白と黒しかなかった。それで絣用の糸を整経するのが染工場の仕事であった。真冬の川の水を素手素足で仕事する。寒中の水は言語を絶した。ゆっくりと水に入ると冷たく感じるので勢いよく飛び込むのが、真冬の川の水の入り方だという。川の水と竹を用いて染め上げる絞り竹という工程は、持ち場ではなかったけれどなんど先輩にどつかれたかわからないほどだったという。負けん気が幸いして二年目の丁稚奉公は給金は倍の百二十円になり、三年目には二百四十円になった。年ごとに給金が倍増する丁稚は過去にいないこと、と言って主家の娘のマキエさんに驚かれた。この先波乱万丈がある。本書を手に入れて読んでもらいたい。

    まず、本当に波乱万丈で苦労したら書こうと思わないだろうし自費出版するという、まったく面白い野郎だ。あっぱれ。

    日本染織芸術叢書

    紋織1

    西村兵部(シリーズ全10巻)

    地組織の糸がそのまま文様を構成する糸となる紋織物は総称して一重織物といわれるように、その断面は経糸一と緯糸一から成っている。これは紋織物としてもっとも基本的な姿であり、また原始的な構成ということができるであろう。平織物、綾織物、繻子組織の基本的な構成が三原組織といわれ、また綟織(もじりおり)をふくめて四原組織ともいわれるものであって、平組織は経緯とも一浮一沈するものをいい、経緯糸のいずれかが帛面に浮いて、経緯のまじわる組織点が遠ざけられるが、その組織点が三本(あるいは三越)おき、四本おきあるいは六本おきというように一定の間隔をもつとともに、その交点が斜めに連続するものを綾組織とよんでいる。繻子組織は経緯の交点をできるだけ遠ざけながら、その交点を帛面に散らせたものであって、散らすといっても不規則、恣意的(しいてき)ではなく、五本おき、七本おき、八本おき、さらには九本おきというように数種のものがみられる。綾組織なり、繻子組織においては、糸の浮きが長くなるにしたがって、織物としての強度はおちるが、他方、帛面は経緯のどちらかが多くでて帛面を平滑ならしめ、絹のもつ光沢が強められ、柔軟さを増す利点がある。これら綾組織、繻子組織の織物においては部分的に織り方をかえることによって文様があらわされることになる。これを一重紋織物と総称するが、そのなかには文綾(略して綾という)、紋繻子、緞子、綸子、紋羽二重、紋縮緬、紗綾、紋海気などがふくまれる。なを、一度中間記録にて織物の組織は勉強して記録してある。そちらを参照していただきたい。中間記録

    一色一生

    志村ふくみ

    一色一生という本のタイトルは藍染めには10年かかると思うとしていたがどうやら一生かかると人間国宝志村ふくみが若かりし頃さとった言葉がタイトルとなった。白洲正子の衣匠美という本に白洲正子の愛すべき染織家というらんに登場する幻の絣<ゆみはま絣 弓浜絣>の伝承者の嶋田悦子さんが登場しているが、志村ふくみ氏の一色一生の著書の中盤で、弓浜絣の産地訪問の記事がある。<民芸144号>に稲岡文子さんが<弓浜絣>の再現の悪戦苦闘と再生について記述されている。稲岡文子さんの長女のご主人が嶋田太平さんといい<ゆみはま絣>の嶋田悦子さんの関係筋とおもわれ、伝承が続いていたと考えられる。

    志村ふくみ氏が草木染めと藍染めによっての自伝と染織回想である著書といえる。特に志村ふくみ氏の思いが伝わる部分とエピソードを引用してみよう。<片野さんに(藍染め)を断念するほかないと申しでたところ「私はいつ死んでもいいように娘(藍染めと藍がま)に伝えてある。ただ繰り返しやる以外はない。自分も一夜にして腐敗した甕(あいかめ あいがめ)の側で涙を流し、こずみこむあわれな日もあった。この藍建ての秘儀は教えておぼえるものではなく、藍と自分とが一体になる時点を掴むまで繰り返す以外はないのだ」と諭された。また志村氏は陶芸界の重鎮、河井寛次郎先生に伺って相談しようとすると「この道は厳しく生半可な決心でやっていける仕事ではない。子供を抱えながら、の片手間では材料の浪費、時間の浪費。創作の道は広いようにみえるけれど、一歩踏み入れれば、大変なものだから」といわれ、落胆して家路に帰ったという。最後の思いで、木工の黒田辰秋先生に相談にいく。黒田先生は「自分は怠け者で、好き嫌いが激しいから、木工、これしかできない。だが、自分が本当に使いたいもの、人にいつも愛着をもって使ってもらえるものをつくりたいのだ。その道のりは厳しく地獄同然の時もあるが、そこに又、本当の喜びもある」と。工芸の道はひたすら「運 根 鈍」であるといわれたという。

    また西陣の染織探訪では、西陣の浅野織物の浅野宏氏は「10年ほど前からインカ、正倉院などの古い裂(きれ)を集めて組織図を集録し、わかったことはその国の風俗、宗教、文化等その民族の違い、それらすべてが織物にこめられているということだ」と志村氏は激奨の言葉をうける。昭和の染織文化の背景が伝わる書物といえる。

    きものという農業

    - 大地からきものを作る人たち -

    中谷比佐子

    着物ジャーナリストとなった中谷比佐子さんの10年前の生産者の現場をうつす編集記者の薫り漂う一冊。こうして10年の経過と書き残したものと実際に現在でも通用している思想はどういったものかを汲み取ろうとするならば有意義に違いない。きものという農業、この書にある生産者は原料に生産にこだわりや責任をもった結果、まさか農業をやるとは思わなかったという感じで農業、木綿ならば栽培、絹であれば、飼料の桑の葉を育てるところから、基本的に衣食住の原点をみつめ苦悩の中にみをおいて充実したものづくりを著者がそっと引き出してゆく感じで紹介される。私はてっきり農業の歴史などの接点をより濃厚なものとした書かなぁと踏んでいたが、あながち本のタイトルにもあるようにきものは農業にちかいものであり産業であるとあらためて感じるものとなって気が遠くなるわけではなかった。染めの現場でも草木染めであれば染料を育てて染めるために独立し、土地を耕して育てている。現場取材に関しては実際にどんな感じで原稿を記者は書くのかわからないが、中谷比佐子さんは、文章が綺麗すぎて編集長などにしてみれば、風景画に詩をかかせるような記事をつくらせたくなるだろうことは察しがつく。現在はきものDAY結城に足を運んで尽力されているので、きもののことはもういいやというくらい記者として燃焼したわけではないようである。

    日本の染織 友禅

    日本の伝統的な模様染め

     

     

    一体どのようにしてあの華麗な友禅染めが生まれたのでしょうか。これについてふれる前に、友禅染めの技法や種類について述べてみましょう。友禅染めは非常に色彩が豊かで、しかも複雑精緻な模様は、絵画的とってよいほどです。あたかも一枚のきものをキャンパスに見立てたかのごとき趣があり、それだけに要求されるのは色と色とが混ざり合って濁ることを防ぐ技術です。この技術を「防染技術」、あるいは単に「防染」と呼びますが、おもしろいことに、この技術を生み出したのは、ほかならぬ日本産のモチ米で作った糊でした。糊で防染することを「糊置き」といいますが、友禅染めの基本となる技術は、その糊置き、つまり糊で防染することに加えて、模様に色を染料で挿していくこと、地染めすることの三つです。手描き友禅は、いきなり白生地に模様を描き染めるものですが、そうした点ではきわめて原始的な染法といえましょう。しかも三つの基本技術をはじめ、どれも手しごとで、江戸時代からの技法と大差はありません。しかしながら三つの技術を駆使すれば、どのような柄でも染めることができるのです。手描き友禅のプロセスを簡単に説明すると、下絵→仮絵羽→糊置き→地入れ→挿し友禅→伏せ糊→地染め→蒸し→水洗→湯のし→仕上げ(印金、刺しゅう)→あげ絵羽となります。この糊置きは、模様の輪郭線に糊をつけたり(糸目糊)一色ごとに彩色した部分を糊で覆い(伏せ糊)ながら、色が混ざり合わないようにするためのものです。たとえていえば、ロウケツ染めのロウがモチ米の糊に代わったもの、と考えてよいでしょう。ロウ染めで有名なのは、ジャワの更紗ですが、しかしモチ米の糊を使ったようには精巧にできないということです。このモチ米の糊を用いる防染技術なしには、華麗な友禅は発達しなかったでしょう。ひとくちに友禅染めといっても、技法の上から大別すると、手描き友禅と型友禅とに分かれます。手描き友禅は文字通り、白生地の上に絵模様を描き染めていくもので、完全な一品制作の手法といえますが、この手描き友禅も本友禅と無線友禅とに大別されます。本友禅は糸目友禅ともいわれ、江戸時代の技法をほとんどそのまま伝えています。つまり、白生地の上に青花で下絵を描き、この模様の輪郭に糊を細い線状につけ防染するわけです。「糸目」の名の由来は、染め上がったとき、この糊の線が糸を引いたように白く残るところから、呼ばれるようになったといわれます。糸目糊を置いた内側の模様に色挿し、つまり彩色をほどこしていくのですが、さらに金銀箔や刺ししゅうなども使って豪華に飾られます。したがって本友禅は、振袖や留袖、訪問着など、品格の高い、優雅なきものに用いられるのです。無線友禅は、本友禅のような糸目糊の線はありませんが、やはり手描き友禅なのです。明治末期ごろから、合成染料の普及によって開発された技法で合成染料を用いるために糊の防染を必要とせず、水彩画でも描くようにして模様を描き染めたものです。本友禅よりもさらに自由で、のびのびとした表現ができます。こうしたところから描き上げ友禅、仕立て友禅とも呼ばれます。また、無線友禅の一種で、濡れ描き友禅というものがあります。これは模様の輪郭が、ぼかしたような感じになっているもので、斬新な味わいがあります。

    おそくなりましたが、友禅はどのように誕生したのか、「扇のみか小袖にもはやる友禅染、、、、」これは貞享四年(1687)の春に出版された『源氏ひひながた』の一節です。すでに当時、友禅染めが流行していたことは明らかですが、その起源となるとあまりはっきりしていません。ともあれ技法と名称との二面から歴史をさかのぼってみよう。まず技法ですが、これはかなり古く、奈良時代(710〜794)の「臈纈 ろうけち」にまでさかのぼることができます。臈纈は現在のロウ染めで、ロウで防染するわけです。友禅染めというのは、このロウの代わりにモチ米の糊を使ったもの、といって過言ではありません。奈良時代は模様染めの第一黄金期といってよく、臈纈のほか、現在の絞り染めの「纐纈 こうけち」板締め染めというべき「夾纈 きょうけち」(模様染めの一種 板締 天平の三纈にあてはまる)の三種が生まれていました。さらに染料や顔料を使って筆で模様を描き染める「描き絵」、木版に染料や顔料を塗って布に摺りつける「摺り絵」など、模様染めの原型がほとんど出そろっていたのです。また、現在でもよく使われている「繧繝 うんげん」とか「村濃 むらご」「裾濃 すそご」といった、ぼかし染めの技法も生れ、繊細な染めの味を出していました。繧繝というのは、ぼかし、くまどりのことで、濃淡の変化に段層のあるぼかし染め、とでもいえばいいのでしょうか。模様に立体感がでて、色が生き生きします。村濃は班濃とも書き、同じ色で濃いところと薄いところがあるように、むらをつけて染める技法ですし、裾濃は裾の色が濃く、上部にいくにしたがって次第に薄くなっていく、ぼかし染めの一種です。美しい季節の花や草を布に摺りつける、といった染色技法は、恐らく縄文時代におこなわれていたことでしょう。奈良時代には、これが型染めの一種へと進歩していきます。つまり、木を用いた凸型を作って、それに染料や顔料をつけ、布に摺った、と考えられているのです。

    つくってあそぼう 草木染の絵本

    やまざきかずき へん

    かわかみかずお え

    現在のこどもたちに自然とふれあえる場をつくる必要があると編集の山崎氏はあとがきで語る。そのひとつの場としてあげられるのが草木染めだという。土を耕し、種をまき、水や肥料をあげ、染料植物を育てることからはじめるといいと指導する。現代は多忙きわまる生活が多いが述べていることは確かにすじがとおったものである。染めをはじめると工程ごとに布の色が変化するので「なぜ染まるのかな?」、「媒染剤のはたらきは何かな?」などの素朴な染の疑問がうまれわき、その理由を知りたくなる子供の好奇心を大切にしていることが伝わる。そして、「日本で藍染が始まったのはいつごろなのか?」、「日本に木綿が普及したのはいつかな?」などの歴史的、文化的興味も同時に発生して好循環たる疑問と不思議に興味がむけられる。また、「絞り染めでTシャツをつくってみたくなりつくってみる」、「型染めで絵葉書をつくってみる」から美術的興味が生まれるとした。興味が四方八方に広がりをみせると説いて、きっかけをつくり出した資料といえる。情報補足等、草木染めは古書現代2中間資料にて強化をこころみたい。

    草木染野帖

    大場キミ 「草木染野帖」は草木染めをこれから手がけようとする人のために書かれたものだが、くどくどしい解説はいっさいなくて、さっぱりした随筆風の手引き書になっていると思うと本書の初めに真壁仁が「自然のいのちを染める」と題して解説している。著書のはじめにかかれている言葉で奥深い味わいのある言葉を引用しよう。「春の新緑、そして開花、秋の紅葉、この自然の移り変わりを見ていると、あんな色が採れたら、と思うのは私だけではないと思う。そんな素朴な考えが、私の草木染のような気がする。そして自然から学びえたものは始めがあって終わりがあるということ、生命をもっているものはみな同じであるということであった。としている。さらに、「それに草の一生をあてはめてみると、最盛期に色を採ったほうが一番円熟した、しかも最も鮮明な色が採れるということである。それでは草の最盛期はいつか。花が咲き、実を結び、やがて種子を土に還して、枯れていく。その実を結ぶ、そのころを最盛期と私は呼んでいる。」ということである。昭和の終わり頃の草木染めを楽しむものは、美しい紫色を出す紫根は材料店からでないと入手できなかったため、あまり使われない、使いにくい色であった。もしくはあえてその紫色を出したい場合は素材を自分で育てなければならなかった。著者はどうにか、どうしても紫色が欲しい場合、梅干しのときに使う赤紫蘇から採ったという。紅花と栗のいがとの二色染めもいい色を出したという。染料植物を再度、知識として取り入れたい場合最適な染色資料である。

    日本の染織 正藍染

    爽やかな日本の色

      この本のシリーズで組紐や博多織なども別冊であとからまとめられたのかその3冊のうち1冊が何かわからない。しかし安定の内容の濃さは御墨付きという感じもするシリーズである。藍染に関して、多々、資料もまとまりをみせている現代で、この本は実はまだ中身を確認していない。今言えることは、藍染の複雑で何度も繰り返し染色することで深い紺色などの青を染めてきた人類において化学のチカラによって、藍染は遠く昔のものになってしまっていて、あえてまわりくどい手法を駆使して紺色を染めるのではなく、化学のチカラで簡単に染めることを発見してしまった人類は、その化学のチカラを借りている。藍染による深みに関しては、私はこれからあとに自分も藍染をやる方向にいるのでそのときに藍染がなぜいいかというのを記したい。さて、藍染で有名な日下田さんという栃木に藍染のあり方を残す建物や藍染の技術があるが、その日下田さんが結城紬の講習会でこんな言葉を残している。藍染は滅びゆく運命にあるのではないでしょうか。この言葉は要するに、苦労して作り出した色が、簡単に出せる世の中になれば、苦労して作り出した色を簡単な方法を人類は選ぶようになるので藍染は滅び、化学が残るということを示唆したものだった。私はこの言葉が本当であっても藍染のまわりくどい手法を私は選ぶ。色に関して、たとえまったく同じ化学式である化学と草木染め、という結果であってもそのなかで色に苦心しなければ、つむぎの未来はないと思うし、つむぎで生き残ることは難しい、成長もない、と思っている。草木染めははるか昔の茨城の常陸紬という原型とされるものが残されているのにその頃の時代の染色の意図するものをくまなければ、常陸紬をつくった人はがっかりしてしまうだろう。そして化学でよかったといえる人はおそらく、草木染めが消えた本当の意味や、この世界のものはなんでも理解できるものだと勘違いしている。1+1=2が化学の染色の理論、1+1=-1 , 0 , 3になるのが本当の染色においての化け学であるとすれば1+1=3になる染色を目指すのが人間ってものでないかな。

    きものと着付け91保存版

     

    古書現代と名をつけて200冊の染織資料を読みあさるという企画をたてて、間違えて同じ本を2冊買ってしまったり(そういう場合、織物教室の生徒さんにプレゼントしたり)、資料の写真をとってそのあと行方不明になったりした。この本もどこかにいってしまい、紹介不能となった一冊。これはとなりの小山市のブックオフで購入し、その道の求道者くらいしか1990年代の着付けに関するものは読まないのではないだろうと思うと漠然たる思いのなか購入に至ったのであるが、まったくもって魂の抜ける買い方をしたから当然のように行方不明になるのだ。ブックオフにひっそりと陳列されていた。25年の月日は何かをガラリと変えてしまっていて、本質的には同じことであっても誰しも新しい情報、最新の着付けに興味がうつり、最新の情報は興味があっても、好き好んで流行り廃りを経過した古いものをわざわざ読んだりはしないかもしれない。私は着付けに詳しくないので現在とどう違うかなどの内容は知ってもその後は活用できないし、とりわけ説明もできない。90年代の保存版、それはいまどれほど通用して保存価値があるのだろうか。ただ着付けの本をどう移り変わりや構成が違うのかなどで考察するという誰も試みないとこを記事にするとそれはそれで変わった視点が持てるかもしれない。昔の文章や構成をみて、着付けのポイントはそこから発見できたり、また最新と今も昔も変わっていなかったりしている点もあるとも考えられるし、そういう意味においてまったくこれを目を通すことが無意味、とも言い切れないのが着付け、着物の資料、ともいえることではないかと密かに感じている。画質がよくなった、みやすくなった、ポイントは同じだったとなれば着付けの世界はそれほど進化や変化をしていないということになる。

    草木染め手織り紬

    高橋富葉作品集 

    高橋富葉 紬の道、染織の道を目指して、この道決めたらとにかく苦労をすること。これが私のメンタリティである。この資料の作者著者は親切なことに秘密をもたない。紬の世界ではどうしても作品に秘密持させたいと考えて、それがどんな技法を使ったのか、といった技術の解説は極めて少ない。であるから紬の世界を読み解くのであればこの資料は優れているといえる。作品は作者が自分で着たいと思ったものを表現してきたので、この紬の生き方がきついとか厳しいとかつらいとかそういう思いよりも、楽しいという感情が強かったという。私との紬の道とはイメージが違う。私は作品に関しては、確かに自分が作りたいものを作るという点は同じである。しかし、つらい思いや厳しい思いが楽しい感情を下回ることはない。楽しい感情は必要なことだが、作品をつくるには、厳しさやつらさをとことん考えてその先にみえた心象風景が私の作風であり、残すべき作品たちだと私は考えている。紬の道は厳しくけわしく、時には人生をゆさぶられる。その思いが紬への愛着であり、この道を進んでよかったとひととき感じれればそれでいい。前途したが、紬の資料価値は高いのでおすすめできる。私は資料を自分でつくっても、本にまとめようとかそういう感情はこれからもない。ただ、記録していったものがある程度まとまれば、この人は本気だ、って感じてそこで人と人のつながりができることがある。私は資料を記録してきて、たくさん読まれている人がすすめる本は、買いたいという意見をきいて、この世界に書評家が成立つのがわかった気もした。

    日本の染織 民芸染織

    暖か味と地方色の美

     

    この著書の目次をみて現在の統計では生産者及び従事者がいないもの、もしくは技術が途切れてしまった地方の織物があることに気がつく。では目次を引用しよう。出羽の古代織物/科布・ぜんまい紬など 山村精 暖か味のある津軽こぎん 大林しげる 素朴な美を持つアツシ(これはアットゥシといまは呼ばれている)米村哲英 愛情こめたアイヌの織物 中江克己 信濃露の民芸紬 本吉春三郎 楽しい紬との出会い 浦沢月子(こちらは浦沢月子さんの文はあとで特別ページで紹介します) 私が着た手織紬 佐々木愛子 ふるさとの味を持つ民芸紬 中江克己 摺り染めの美 吉村貞司 泥染が生む素朴な色 遠藤靖夫 紫草の匂える染め/紫根染め 中江克己 黄八丈のふるさと 中谷寿志 黄八丈を織って六十五年 奥山おなよし 黄八丈の染めと織り/工程と技法 日野英司 黄八丈物語/歴史と風土 遠藤靖夫 民芸染織の事典 となっている。とくに黄八丈の資料が目立ち、また北海道の織物は従事者が統計上ではいなくなっていたりしている。民芸紬として上田紬などの郷愁のただよう織物を中心として出版された頃であれば、実際にその製法などにふれることもできたかもしれないが、いまはそれも難しい田舎の風景も近代化でみることができないような文章になっているので、まだ町が不便であるがゆえに残されていた郷土の織物の資料価値はある意味、珍しい封印をされているといった気が私にはある。

    下記、資料はデザイン勉強資料

    として特別枠とする

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    原色日本植物図鑑 

    北村四郎

     村田源 共著

    植物をデザインのモチーフにする着物の世界では植物は染色のときも天然素材からの染色がされてきた歴史もふまえ、無関係でもないというのが染織資料として追加した理由となる。そして2015年から植物に焦点をあて、デザイン独学を開始した。その資料はこちら2015植物学Design独学 また、ひきつづき2016年もおこない、カメラを花に向け続けていると、ある種、こころがリセットされてほっとすることが多いので気分がよくなりいまだにつづけて撮影中である。それはホームページで詳細を更新で書いているのはそのためである。参考の一部資料はこちら

    京都国立博物館編

    日本の染織 技と美

      未読の状態で織物教室の生徒さんに借したらすごくよかったといっていた。さて比較的、出版が新しく、日本の染色の歴史が活字でよみやすく素晴らしいまとまりをみせている。ここでは、それらをつづりより、「日本における天然染料の流れ 吉岡常雄」より抜粋を行うものにする。なかでも色別の解説で緑色系が珍しい資料なためそこを抜粋する。緑色系・自然界にはいたるところに緑が存在し、どこからでも緑の染料を得ることは簡単だと思われがちであるが、それらの成分は葉緑素で、染色性をもたず、およそ天然染料で単に緑の色素を呈するものはきわめて稀である。染め色としての緑は、単独ではわずかに山藍の摺り染などに見受けられる。山藍は山野の日陰に自生する植物で、その名から藍の色素をふくむように思われるが、実際にはもたず、この生葉を布に摺りつけると緑色を呈するものの、時間たつと黄褐色に変化し、実用的なものとはいえない。一般に緑を染めるためには、藍と黄檗刈安など黄色系の染料とを染め重ねる方法が用いられる。 となっている。その他、この著書は辞典、事典としての染織資料とも活用できると思われ資料価値は高い。

    日本染織辞典 

    上村六郎 辻合喜代太郎 編

    辻村次郎

    日本の染織に関するものをできるだけ多くの題材をもって、さらには埋もれている重要な事項をも取り上げようと考えながらも、2016年は景気は最悪になる予兆で、私自身、強烈な閉鎖性と孤独にして孤立したかのような状況でしばらく染織資料とは向き合いたくはないというほどコンディションが整わないものだったため、しばらく時間を置いていた。上村六郎さんに関しては古くからの染色や色彩に関するものはいままでの功績、資料からも現代にまで通用する素晴らしき資料を残されている。古くからの伝統ある織物に関しては辻合喜代太郎さんは芭蕉布をはじめとした残されている著書は超高額で貴重な著書ばかりで現代では芸術、美術書にも位置する完成度みせている。また二人は、以前、私は本紹介を兼ねて述べたように古くから伝わる古典から染色文化を現代によみがえりみせる染織文化の研究で二人は競いあうかのように研究成果の功績を残し、ライバル関係にありつつも協力している著書が残されており、今回においても無視して資料収集するわけにはいかないという結果である。二人チカラもってして、技術の面からしてそうした技術史をつくることも可能であったと思えるが、そういう専門的な技術史ではなく、むしろ染色と人間の生活というような、いわば文化的な問題を主軸とした染色文化史に位置づけられて、刊行されている点が最大の特長といえる。文化的な考究をこころみているのは、そのあとに続く染織資料の殆どが、技術的な面から制作などの解説を行なう資料が多いことからもこの資料の目指した目的は、染織資料の内容より濃くしているためそうした研究者がごく一部しかいない背景も、現在、染織に関する研究学者が増えた要因とも見受けられる。研究すべき分野の開拓にあたっていたともいえよう。本来本紹介は興味をひくように書かれていくべきでるが、今回はそうした珍しい背景のみなぞって紹介する手法をとらせていただきたい。上村六郎氏による万葉集から染色考察するという当時画期的な着眼を一部取り上げれば、万葉集の中に登場する、つきくさ、からあい、かきつばた、はぎ、その他各種のものが草や実などの名称が登場するのである。そのなかで、クチナシ、くさぎ、あるいは、つるむらさき、といった植物の草木染めのものは、通常であれば、こすりつけて煎じたりすると緑色が出るのであるが、そうではない美しい色をみせ、そうしたことから出発して、古代における藍草の発見というようなことがはじめて可能になったとみている。万葉集にかかれ記録される前後の人間が、いろいろな草や木や実を煎じては、こすりつけて染色のような行為をしているうちに、やがて緑色ではない他の色となって、緑色にならずに藍色を帯びてくるということが分かり、その草や木などの材料を特別な色の染色のために使うようになってきたというわけである。こうした研究成果を上村六郎氏がおこなったのが、じつは昭和三年(雑誌 奈良文化)というわけである。現在では多くの草木染めの染色家がこの意見に賛同しているというわけである。それぞれ世界各国においても藍と一括りとしたものの発見、大和民族と山藍との関係、あるいはその染色のことについては昭和六年に「万葉染色考 上村六郎著」に記録されている。(ヤフオクにて私はこの著書が出てきたが競り負けてしまって手に入らなかった。)
    宗廣力三展

    宗廣力三

    郡上紬(ぐじょうつむぎ)の人間国宝、宗廣力三(むねひろりきぞう)氏であるが、彼については私の調べた範囲については商用サイトに掲載したので、時間があればチェックしてください。情報が多くて発見しにくいとの声をいただきましたが、私個人としましてはスタイルを変更させる方向にはないことをお知らせします。この方のすごさは作品集をみれば一番わかりやすいのですが、どうすごいかというのは絣の職人としての目線からも、あまり織物やつむぎを知らない人もすごいというのはなんとなく作品をみていくとその端々の技術力の高さのようなものは垣間見れるので、それに彼の作品は展示している現状からして現代の人は大変ラッキーだと思います。話が変わりますが、地球というのは太陽がいつかなくなり宇宙がすべて闇になってしまうときがくるそうです。そうしますと、宇宙人などが光をもって文明を探っていたら、日本の郡上で宗廣さんの作品をライトアップしたら宇宙人も人間はここまでやれた生物なのかと思うという感じが致します。今年はなんといってもブラジルのリオでオリンピックがあってサッカー男子ブラジル代表が初の金メダル獲得ということで代表選手のネイマールが決勝戦最後のキッカーとなり、決めて金メダル獲得しブラジルがいままで優勝していないことにも驚いたものです。さて話を戻しますと、宗廣氏の絣についてですが、これはさらに資料集と解説をあとで私なりの解釈としてページがつくれればいいと思っていますが2016年は不景気という背景で、資料集の資金が工面するのが最も困難で数冊を増やしただけでした。商用サイトからブログへ一時期に掲載を始めたのはホームページの契約会社を変更したためです。更新が8月の末から11月末までできないもどかしい日々でした。そしてオリンピックですが次の開催が東京というのですから、現代の日本人は幸せなものです。

    着物の織りと染めがわかる事典

    滝沢静江 この本のはじめに、をよんでみてなるほどそうかもしれないと思ったくだりを引用してみましょう。「きものは、儀式や行事、日常生活の中から必要に応じて生まれ、長い年月をかけて育まれてきたものです。その時々の場で呼びやすい名で呼ばれ、それが習慣づけられて伝わってきたため、学問的に体系づけられたり整理されてこなかったために、さまざまな呼び方が生まれたのでしょう。」私のみじかな結城紬という地名がくっついた名前の紬と鹿児島の大島紬などもそうですが、たとえばこの二つは紬で絣の名称も呼び方が同じでもあて字になる漢字が少し異なることがある。絣のよこそうという、よこ絣糸のみで絣を織ったものをそう絣のことをよぶが結城紬は「緯総」とよび、大島紬は「横双」といったりするのでどっちが正しいのかわからなかったときがあった。それでこの説明で納得してしまったのである。染めと織りの産地の地図などはわかりやすくイメージしやすい。それからその織物の解説と着こなしのアドバイスがかいてあり、どうしたらいいかわからない場合はそれをよみ、上級者を目指していくつくりとなっているが基本的には、きものをはじめて着る人がはじめに勉強しておきたいことが中心のつくりで、その織物に興味があれば産地に行って見学を重ねるなどの情報あつめをして研究しそのうえできものを買うようにすればそれほど道からそれてしまうことはないのではないかと私は思う。きものは文化の中で磨かれていったりしたものであり、蓄積されているものが結構あって、それを理解しようとすれば10年20年の月日もあっというまである。

    日本美術大系(全十一巻)

    第五回配本第八巻 染織

     

    著書は8つの階層別に従って項目を分けている。

    1上代の染織

    2公家の染織

    3外来の染織

    4武家の染織

    5小袖の染織

    6芸能の染織

    7庶民の染織

    8近代の染織 である。

    なかでも7の庶民の染織と8の近代の染織がもっともなじみやすいものであったため、7の庶民の染織をとりあげる。いつの時代にも庶民がいて、その庶民の知恵や工夫によって発展した染織品があって、個性に富むものも庶民の染織であったりする。たしかに上流階級の染織にしかない華やかなものもあるのも確かで、沖縄の紅型も、王様へ上納し、色もその国の王様しか着られない色などや模様もあってそれはそれで面白い。では庶民の染織をとりあげる。庶民の染織が主材料が絹以外の雑繊維、主として麻、近世以後は木綿に依存したものであるという結論があらかじめ予想されていたといわなければならない。この事は、しかし、庶民の染織材料がすべての時代を通じてことごとく雑繊維のみであったというわけではもちろんない。近世に入って庶民、ことに商工町人階級が経済的に富裕化してからは、庶民といえども必ずしも麻や木綿ばかりを着ていたわけではない。それどころか中には、封建社会の位地づけでは士農工商の再下級にある商人でありながら、大名も及ばぬような豪勢なくらしをしていた町人貴族ともいうべき豪商もある。たとえば染織資料で藍染が盛んな地域にはそうした豪商についての記録の資料も少なくない。もしかしたら染織が盛んであった地域にはやはりなんらかなる形で豪商が出現し富を集めやすかった環境があったといえるのではないか。過去のいずれの時代でも、庶民階級というのは、公家にも武家にも属さない階級で、社会的には、それよりも低い地位にあり、比較的少い経済力をもって、みずから生産的な仕事、もしくはそれに準ずる様な生業を営んで生活していた人々の階層である。肉体労働が基本にあるために、どうしても丈夫で消耗に堪え、しかも安価な、自家生産的な衣料が必要となってくる。かくして中世以前の一般庶民の衣料というものは、実際には何一つ実物資料は残っていないのだが、おそらくそのほとんどが布、すなわち麻もしくはこれに類する絹以外の雑繊維であったと考えられる。公家や武家につかえた関係にあった非公武階級の人々の着物、それは今日、正倉院にも身分の低い人々のおしきせであった麻の浄衣が残っているし、また公武階級に召使われた下級者の衣料としては、白張や退紅というような麻製の召具装束があり、大名や貴人の駕籠を担った陸尺の用いた麻や木綿の陸尺看板といったものが残っている。これらは公服に類するものであり、純粋な庶民の服装ではなく、むしろ広い意味での貴族、公家、または武家の服装に入るべきであろうが少なくても材料の上では庶民性というものを強く表しているものといえる。

    染織標本集 基礎篇  長沼静 監修 染織標本集の基礎篇では、この長沼静(ながぬましず)さんの生徒さんとおぼしき生徒さんの名前が最後に書き込まれている。この教材シリーズは3000円前後だったようだ。キモノの教育という意味では基礎をしっかりみにつけるというのは他の事柄を考えてもみにつけて当然、完璧にしていればそれなりに応用力もついてくるものだと思う。この基礎教材ではTwitterで紹介する程度の短い文章で実布をはりつけているが、その単純明快さが素晴らしいと思う。私にしてみれば、文章をよみとるちからが不安な生徒さんだとこのさきが思いやられてしまい、基礎を学ぶどころの話の前に挫折もおこりうるからその点は気配りしたといえる。目次に一覧がありそれを紹介して終わろう。これは知らないという点もTwitterで情報収集するくらいの手軽さがまさにキモノにおいての栄養補給のベストな状態といえる。縮緬、紋綸子、羽二重、塩瀬羽二重、紅絹、御召、紬、紗、絽、上布、久留米絣、阿波しじら、唐桟、琉球紬、米琉、黄八丈、秋田八丈、大島、村山大島、斜子織、博多織、仙台平、型友禅、江戸小紋、紅型、ろうけつ染、匹田絞り、有松絞り、中形となっている。この本紹介は以上である。最近、昼夜逆転ぎみであるが、私はコンビニ夜勤をしていたころ、どうしても体調が悪いとき、しじみの味噌汁をのんでいた。リポビタンやRAIJINやレッドブルなどのエナジードリンクでもダメなときに摂取していた。この話題で、しじみが好きな方が、このしじみの裏切ることない安定感の味を<しじみは攻撃してこない。>というので納得してしまった。その人によって、最後の切り札の食材は違うかもしれない。私はしじみである。余談も以上である。

    日本染織文様集1

      社寺、個人の収集家の方々の深い理解と協力がなければ、到底、日本染織文様集シリーズを完成させることは不可能であったという。日本の染織文様の性格と特色を明らかにするためこうした資料をいかに分類して編集する、それは従来この面における研究が皆無に等しいため、資料収集とともに困難な課題であったというが、幾多の検討の結果、日本の染織文様を原則的に、自由構成、幾何構成という繊維意匠の本質に即して把握し、なお別に特殊なものとして琉球、アイヌの染織品ならびに日本染織文様の発展、あるいはその形成上重大な地位をもつ外来染織品という、大観の方針を決定したという。このシリーズは日本染織品の紹介において、画期的な意義をもつものといって過言ではないと編集者はいう。本書の刊行が、広く日本の繊維意匠に対する認識と理解への一助となり、今後真に日本的な創造精神の発展へつながれば幸いとのことである。私はこのシリーズを高額で落札し収集したが全3巻を資料の完成とともに結城図書館への寄贈を視野に入れている。昭和30年代に刊行されている、それは結城紬が国の重要無形文化財の指定をうけるなど、文化的な法律を、文化的価値を、国が整え始めている時代のあたりのもので、その姿勢がよく出ている良書といえ、資料内容もカラー写真の撮影がまだ充分自由にとれる環境下にないもとでつくられているため、苦労は計り知れないものがある。

    日本染織文様集2

      財団法人日本繊維意匠センターの設立当初から長期事業として計画していたシリーズ2作目。第一巻は自由構成を主とした文様において、日本人特有の自然観照の精神の発露とし、絵文様的なまでに発展を遂げた染織文様の世界を眺めてきたが、2作目は、従来紹介されることの少なかった幾何学構成文様において、わが国の染織文様がどのような発展を示しているかを把握するには欠かせない資料編集といえる。幾何学文様(きかがくもんよう)は、世界の国々において、自然発生的にみられるもの、いってみれば日本の、日本人だけのものというよりは、人間であれば、共通のものといえると私は思う。そういう意味では国特有をそこから見出すのは難しいものともいえよう。しかしながら、センターは、そこに古くから文化の交流につれて次第に普遍的なものをもつに至っているという。自然を愛し、優雅を求める日本人の感性は、純粋幾何図形のもつ冷厳非情の性格に満足することなく、図形的にも色彩的にも、やわらかい暖か味を求め、またその用い方にも種々変化 に富んだ、我が国独自の世界を発展させたものという。そうしてさらに、別の本や絣の本を再読してみると、日本の絣の始まりに沖縄の琉球絣を中心としたものにも、世界を通してみた場合、それが大きな視野で見たときに日本特有となっている幾何文様、幾何学を感じることができるといえるものがある。中国などの日本に近い国から伝わって、それが日本特有の文様に変化していったものがあり、国独特ものを幾何文様から確認できるといえる。引き続き、日本特有の幾何を調べて、まとめ、中間資料に公開していこう。

    日本染織文様集3

      昭和30年以来、6年の長期を費して編集を続けてきた日本染織文様集3、第三作目。第三作はアイヌなどの北海道の昔から伝わる独自の染織文様、沖縄の琉球王国の染織文様、それから外来染織品の文様の刊行が主になっている。激しい国際的な文化交流のなかに、常に伝統と現代、地域性と世界性の問題に対しているものであり、我が国の歴史は、古来常にこの問題に直面しながら、世界に独自の文化を築きあげてきたのであり、我が国の染織文化は、飛鳥奈良時代に続く平安時代において流麗優雅な日本美を創造し、江戸時代において、三百年の鎖国の間に、こんにちにみる近世の日本美を確立してきたのであるが、そこには目に触れ身に感ずるものすべてを消化し発展させていった、優れた芸術感覚と不断の創造精神の流れを感じることができる資料は、おおくの染織資料から読み解くことが可能なまでの環境が現代には、整えられつつある。このシリーズはそうした染織資料の大先輩といまではいえよう。以後、新しい国際環境のなかにあって、すでに百年以上の消化期ともいうべきものを過ごしてきたが、傍観的な伝統美の自賛や単なる郷愁をもってしては、新しい日本的なものを創造していくことは不可能であり、飛躍的な科学の発展のもとに、すべてをひとつの国際的な視野のなかに融合させ、共通にして総合的な国際文化の確立を求め、シリーズは過去一千年にわたる長い染織文化の伝統とその精神的基盤を探求することによって今後の展開のあり方を考えている。それは昭和の偉人に感謝しながらも、常に念頭に置きそのうえで現代織物に高度な技術をよみとき活用し、さらなる発展を考えなければならない時期になっている。そういう意味では私は出発地点にすらたっておらず、まだまだこれからの身なのだということであろう。
    日本の優れた染織品があることは世界に知られるようになっているが、昭和30年のこのシリーズ刊行前は、世界の認知度は極めて知られていないものであったといえる。日本の文化的な染織品は、その他の芸術的な陶芸品や美術品と比べると知られていないも同然に近いのだったという。染織文様の全貌が明らかになって、認識と理解をより深める環境が昭和になって完成されたといいかえることもでき、昭和の中頃から世界に少しづつ知られていったともいえる。現在では日本の文化を愛好する海外の一般人が東京を観光している姿は日常的な光景となっているが、日本の映画をみて、日本の風景があまりにも美しいので一生に一度は自分のめでみて観光してみたいと思われる国になっているという。

    日本染織芸術叢書 紋織3

    北村哲郎 (シリーズ全10巻) 応仁元年正月早々、京都は主戦場として火蓋切られた応仁の乱は、以後11年長きにわたって全国を戦乱の渦に巻き込む形となった。その結果は足利幕府の支配体制を根底からつき崩し、戦国時代をむかえることになる。応仁の乱は、伝産センター、青山スクエアさんの伝統工芸士の試験問題に重要ポイントとして応仁の乱をあげている。それもそのはずで政治史上、中世から近世への大きな変革のあった時点だからである。それは染織史でも中世と近世の染織の二つをわけてしまうほどの大きな分岐点であったからである。高度な技術を要する紋織物類の生産全く不可能にし、紋羅のごときは以後、製織不能の有様としてしまったのが応仁の乱であり、また応仁の乱のあとに、これを契機に、唐織や金襴、緞子、縮緬などの各種の新規な織物の生産が、開始されてわが国の織物の技術や意匠は新たな発展を遂げるに至ったのである。中世と近世では著しい相違がみられ、とくに紋織物においては、全くその様相を異にしているのである。紋織物は江戸時代に一層の発展をみせ、わが国の優れた近世紋織を形成したのである。近世の紋織物のまとめは本書にゆだねるが、この資料シリーズが3冊におよんでまとめられているが、あくまで研究は甚だ意義あるものと考える、しかしその調査、研究実情は極めて不充分であり、今後にまつところが多いという。まとめられた資料の一部を引用し、今後の染織家の参考残す 福本誠「筑前志」・竹内理三編「福岡県の歴史」・福岡県史料第6輯・「糸綢之路一漢唐織物」1972年中国文物出版社  
     
    なを 紋織1は古書現代3へ掲載する(2ndで枠外 100冊をうわまわったため)

    日本染織芸術叢書 紋

    北村哲郎 (シリーズ全10巻)

    紋は友禅や小紋、プリントなどの平面的な染色とは違い、その技法上の必然的な結果として、布面に生じた凸凹や縮皺を第一の特色としている染物である。こうした立体的な効果を表した染色品は、現在でもエバグレーズのように樹脂加工によるもの以外にはなく、染物の中では特種なものである。しかもこの紋は豪華な振袖や訪問着、絵羽羽織あるいはしゃれた浴衣をはじめとして、帯、帯揚げ、長襦袢、半襟、兵児帯、風呂敷などいろいろなものに広く利用され、愛好されているところからユニークな日本の染色工芸の一つとされているのである。事実日本程絞染の盛んな技法をもっている国は、他にないといっていい。しかし、この絞の技術は日本でこそ極めて高度な変化に富んだ発達を遂げたが、その布の一部を括ることによって防染をするという基本的な技法は甚だ素朴な考え方に基づくものであって、決してわが国独自のものではなく、他の国でも行われてきたし、現にわが国同様その仕事のなされているところがある。たとえば、中央アジアのアスターナの古墳からは小菱文様を鹿子絞で染出した絹の断片二枚が出土しており、それが6世紀頃の中国製であることは疑いないし、また南米ペルー古代文化のチャンカイ遺跡などからも10〜15世紀の製作にかかる幾何学的な格子などの文様を鹿子絞とした木綿や毛織物のベールなど、多数の遺品の出土をみているのであって、これらの国々において絞染が行われてきたことは明らかである。更にインドにあっては、従来東洋の絞染の根元地と言われてきたように、古い歴史を有しており、現在でも北西部ラジャスタン州のジョドプル、アジメール、ジャイプル、パリ、アルワル、中西部マドヤプラデシ州のインドールなどはその産地として知られているし、「バンダーナ」と呼ばれる鹿子や巻上、縫締などの技法による美しい絹ショールは、特に新婚の婦人に愛用されるものとして有名である。また西アフリカのナイジェリア、ダオメー、ガーナ地域のいくつかの種族間でも、現にこの仕事がなされていて、根巻絞あるいは三浦絞とほとんど変わらないものがつくられている。特にナイジェリアのアベアクタではその技術が発達していて、ヨルバ族ではこれらを「アディレ」と呼んでいる。このように絞の技術は世界の各地に分布しているのであるが、基本的には簡単なものであるだけに、おそらく自然発生的に世界で始まったものと考えられる。ただ他国におけるその後の発展はそれ程著しいものではなかったように思われるのに、独りわが国ではめざましい技術の発達、発展を遂げ、染色工芸の一つとして独自の領域を確立したのである。これは日本の絞は最も優れた、多様な変化を有する独特の染色工芸として、世界に誇り得るものなのである。

    日本染織芸術叢書 縞

    山辺知行 (シリーズ全10巻) 日本の縞その特性、縞が織物の組織に最も自然に順応して生まれた模様織りであること、したがってその起原は非常に古く、しかもその後染織技術が進んでくると、それにしたがってあらゆる技術の分野においてこれがおこなわれてきたこと、そしてそれは一方に色と形に複雑多様をきわめた染織文様の発達する反面、つねにわれわれの素朴なものに対する郷愁のよりどころのようになって、今日まで続いている。そしてその縞にもこれを構成する直線の太細、広狭、配色の組み合わせによって千差万別があり、さらにこれに他の文様が加わって加飾されてくると、そこに数かぎりない多様の縞柄が生まれ、これが一見最も素朴なものに見える縞模様に各国、各地方の特長をあらわし、また一地域のものでも、時に各時代によるいちじるしい変化を作り出していく。今ここで日本の縞がこの地理的にも風土的にもまた文化の上でも特殊な性格をもった一地域の中で如何に生まれ育ってきたかを考察するに当たって、近世とそれ以前とで、その間に著しい違いのあることを考えてみなくてはならない。そこにはもちろん、現存する実物資料の数の上での甚だしい(はなはだしい)違いもあることではあるが、それを充分考慮に入れて見ても、日本人がその衣生活において縞というものに対して持った近親度において、近世はそれ以前とは比較にならないくらいの強さを持っていたといっていいのだろう。縞の名称にしても、近世前まではほとんど見るべきものがないが近世、特に江戸時代中期以後の縞の名称の豊富なことは、たとえば縞の構成による、千筋、万筋、微塵縞、三筋縞、子持縞、やたら縞、形や色を擬物化した障子格子、天井格子、棒縞、碁盤縞、味噌こし縞、鰹縞、ごぼう縞、地名から来るサントメ縞、ベンガラ縞、セーラス縞、八丈縞、上田縞、越後縞、はては芸術や能に関係した翁格子、童子格子、弁慶縞、金春縞、菊五郎格子、璃寛縞などと、一々枚挙にとまがない。これはいかに縞柄というものが豊富になってこれを区別するのに細かい名称がこれを作る側にも、また使う側においても必要になってきたかということを示しているといっていいであろう。日本の縞というものを考えてみると、それは原型となる縞柄があって、それが染織技術の発展に伴って伝統的に多少変化しつつ伝わってきたというような生やさしいものでなく、その重点は近世以後に圧縮集約されていてそれ以前はここに至るまでのきわめてゆるやかな準備期であったといいい得るのではないだろうか。

    日本染織芸術叢書 絣

    山辺知行 (シリーズ全10巻) 日本は現在世界一の絣王国だといわれている。たしかにその生産量やその技術の多様さ、さらにその多様、多量の生産をこなして、これが人々の衣生活に使われている点からいえば、おそらく世界にその比を見ない、まさに世界一の名に恥じないものであろう。この日本の絣織というものが、世界の絣織の中でどのような位置にあり、どのような特長を持っているものか、端的にいえば日本の絣の世界一といわれる基盤を支えているものは一体なんなのか、ということを、主としてその技術、特に絣織の中で最も中心となす絣糸作りの手法という点から検討すると問題が大きすぎて徒らに不完全な技法記述の羅列に終わってしまう。一向要を得ぬことになってしまったが技術的に日本の絣織というものを分解してみると大体次のことがいえるのではないかということである。(私自身、絣括りや絣ロジックという絣ページをつくっているがどう説明していいかわからない。というのも生産するさいに一から十を説明しても、生産の流れをおうものであって一向に解説できないという壁にあたってしまったのである。)さて、第一に、世界的に見ると絣の歴史というものは、紀元前にまでさかのぼり、古いものである。日本の染織は、その主たる技術的な発展、というよりも絣織自体すらが近世以後、特に江戸時代後期以後に押しつめられていて、それ以前には技術的に大した伝統というものを持っていなかったということが考えられる、というとんでもない事実があるように思われる。日本の染織史に飛鳥奈良時代の現存資料として、其の多彩な経絣の姿を残している広東錦は、今日尚、其の産地も謎につつまれた外来品であり、それから2世紀余りを経た延喜式にも何の記載もなく、当時その技術はおそらく我が国には根をおろさなかったのであろうと考えられる。その後の唐組のだんも、中世末に最も古い遺品を残す締切の段にしても、絣糸を用いてはいるが、近世の模様絣としては異質のものといわざるを得ない。ただ段の縞切に経緯絣の祖形である経緯の糸合わせという技術の用いられていることが問題として残るけれども。いづれにしても今日われわれが考えるような絣織の伝統は、各地の伝統的な創始年代を考えても、たかが2世紀から3世紀にすぎないというものである。第二に、この短い日本の絣織の歴史の中でその技術が目ざましく発展するのは、またその後半部である、江戸時代末期から明治、大正の間につめられてしまうので、いわば非常に短い期間のあいだに、様々ないわゆる日本独特な技術が発達したことになる。そしてそれはちょうど明治の機械文明と資本主義経済をバックにして量産と合理性とに結びついていったので、絣の原態である<括り>を離れたものがあらわれ、遂には圧力防染の世界からも脱け出した、摺り(スリコミ、直接染色法)やプリントによる絣糸作りがおこなわれ、これが又逆に、圧力防染の機締めや板締め<括り>の領域にまで、部分的な色つけや抜染等の形でどんどん取り入れられて、そのもとの形を全く変貌させてしまうようなものさえ現れているのが現在の姿であろう。今日世界の先進国といわれる国々では絣織というものはほとんどおこなわれていない。ヨーロッパでは半ば観光的な土産品化してはいるが、地中海のマジョルカ島と北欧のフィンランドにしか残ってないとまでいわれている。これはおそらく伝統的な手括りの絣織を指して言っているものであろうがいずれにしても非常に少なくなっているのは明らかである。絣織がおこなわれている大体において従来、文化的には中央を離れた南の島々やアジア、中南アメリカなどの僻地とも言える国々に多い。そして其処では材料も、技術も文様もすべてが昔のままの形を伝えている。ただ、ここ半世紀ほどの間に、染料や繊維などに輸入品が用いられ始めてから、素朴な原地の人々は、次第に骨の折れる手つむぎの糸づくりから安易な機械製の糸にのりかえてしまい、又化学染料のもつ華やかな多彩さに惹かれて、一部では昔ながらの姿が次第に失われつつある傾向がみられる。日本の場合は技術的な伝統も浅いし、特に絣の文様といったものに非常に古い時代からの伝統や原始的な信仰の表現があるわけがない。日本の絣織の伝統の浅さを知らない外国の研究者は、たとえば井桁絣は、水に対する日本人の原始的な信仰心をあらわしたものであろうか、米の字の文様を日本人の主食に対する感謝の気持ちだろうかと考えるようだが、これらは唯織りの組織から表しやすい形が出たものであえて原始時代へ遡るものではない。もちろん絵絣などには数かぎりない瑞祥模様や古代の物語の伝説などに取材したものがある。これはなにも絣だけの模様でもなんでもない、またこうした技術によらない沖縄の絣それも今日ではごく少ないがそこにはこうした形象表出上の自由さがないのでたとえば精霊である鳥や蝶の模様や水、雲などの形が始めありし如くに伝承されているものがみられる。日本の絣はその点で歴史が若いだけにやかましい伝統の枠もなく、はじめから非常に自由なところがあったということができるだろう。貴族的な長い伝統を背負った織技にしても文様にしても一定の範囲からはみ出すことは容易なことではない。最も庶民的な染料である藍で染め上げたようなものが多かったから技術や文様にもこれといって制約もない。各地の絣の始祖とか創始者といわれる人やこれに続く功労者と目される人たちは殆ど例外なしに新技術の工夫発明、開発を熱心に試みている。こうした自由さがあったからこそ上述したような短い期間で目ざましい発展がおこなわれたともいいかえられる。自分たちでつくるものはよりよくしようと努力する。井上伝、鍵谷カナといった江戸時代に各地の絣織を創始したといわれる人々は、極めて素朴な技術を一つの完成形にまでまとめあげた人たちだと思われるし、またかならずしもそうした創始的な人物がいなくても自然と伝統のねは育てられていったのであろう。かくして各産地特有の繊維素材を用い、技術にも模様にも其処の特長を生かした日本の絣の伝統がはぐくまれていった。絣というのは、実は思ったより浅い歴史の上に、しかも短期間に異常な発展をとげたものであることを考えて、そのはじめに先人たちが骨をおってつくりあげた各地の特質をもった絣織の初心と伝統を、その多様な技術の中でももう一度反省してみるべきではないだろうか。

    日本染織芸術叢書 綟

    北村哲郎(シリーズ全10巻) 現在うすものと言えば夏衣裳を意味しているのが普通である。この夏衣裳の条件の第一は申すまでもなく、涼しさにあるが、それには着た上での涼しさと、見た目の涼しさがある。着心地としての涼しさは専ら生地、つまり材質の織組織にあり、視覚的な涼しさは織の風趣や色、文様にある。盛夏に帷子が着られるのは、麻の冷ややかな感触、肌に添わないある程度の硬さと張りのある地風、水きりの良さというような材質上の特色によっているし、縮やしじらは皺(しぼ)を作る糸の扱いや組織によって、布が肌に付きにくいという特長に基いてのことである。また紗や絽は、組織の上から隙間のある地風となっているので、薄地で通気性がよく、涼しいわけだが、それは同時に透けて見えるという点で視覚的に涼味も感じさせる。一般に紺や浅葱など寒色系の色合いや白や黒、灰の如き無彩色の色相が主調となり、流水や秋草等が文様とされるのも、みな視覚上のことである。このように、衣服の上での涼味というのは、材質、地風にもよるが、見た目の上での心理が大変大きな要素となっているのも事実である。一方、薄地であり、隙間のある生地は、涼味だけでなく、軽快で優美な趣も感じさせる。西暦紀元前の中国漢代において、高度な技術を要する羅が、多くの彩糸を用いた華麗な錦に先行して織られていることは、うすものの文羅の美麗さに魅せられたからに他ならないと言えるだろう。数年前日本でも大きな話題となった中国の長沙で発掘された馬王堆一号漢墓出土の彩絵羅の綿入の袍はそれを実証しているといえよう。綿入の袍であるから当然冬物であるのに、その表地が文羅であることは、羅を実用的な生地としてではなく、明らかに薄く透けた美しいうすものとして扱っていることを如実に示していると言ってよいであろう。こうしたうすものに対する考え方はわが国にもあったのである。「紗の狩衣は四季通用して用いらる」と中世の文献にみえているように、色目や文様の自由な狩衣などは紋紗や顕紋紗に裏を付けて夏冬共に用いられたのであろう。また紗の直垂が冬の最中に着用された例もある。近年の紋紗やレースのおしゃれ羽織も、伝統をつなぐものと言えないこともないが、海洋性気候の四季のはっきりしている日本では、夏の衣裳が占める割合は、極めて大きいので、うすものは主として夏の料とされて特色のある発達をみてきたのである。

    日本染織芸術叢書 友禅

    今永清士 (シリーズ全10巻) 江戸時代の前期(17世紀)、大体慶長末から元禄にかけての頃、工芸の世界に一つの注目すべき現象を認めることができると著者はいう。染織、陶磁、漆工、金工とそれぞれ用途や材質、技術の上で独立性を主張しているものの表出の面ではこれを超越したある意図、共通した蓋然性の存在が設定され得るように思われる。染織における友禅染に代表される多色な模様染と陶磁における仁清、柿右衛門、九谷などの上絵付による色絵磁器との間に創作の契機の面で何か潜在的、内的な要求の附会が感じされるように思う(人間国宝シリーズにもそれらは確認できる)宮崎友禅斎が絵画の手法を染物に応用したという、また柿右衛門が苦心惨憺の末、赤絵の秘法を完成したというエピソード(最近ではドイツの高級メーカー、マイセンが柿右衛門の赤に美をみいだし真似てスタートするなど世界的な動きがった。)、その背景には単にこういった個人の才覚ではすまされない普遍的な時代の息吹きを想定しないわけにはいかない。友禅染にしても、柿右衛門の赤絵にしても、カラフルで対象の自由な抽出、即ち色彩における絵画性の強調ということがその根底に横たわっているといえる。歴史事実の解釈とか、歴史材料からその材料のよりどころとなる非材料的な前提内容を推理すること、つまりわれわれのもつ前提ではどうしても理解できないような不可知な暗黒の世界に突入していく認識活動である。「歴史は出来事が実際に如何なるものであったかということの生写しでしかない。これはかって生きた現実を改造したものにすぎない」というメンジルの言葉は歴史的真理と歴史的真実とは一致しないことを意味しているのだが、それを洞察する力の養成にはこの認識活動が不可欠に思われる。この著書の意図するところは友禅染の生成の必然性を桃山から江戸初期への様式史的発展の中に意義づけ、その技術の存在理由を色彩主義と絵画性の強調ということによって見出そうとするものである。また以前、日本の染織友禅に記したように、友禅は自由奔放なまでの技術の中にいきるすぐれた染織であることはいうまでもない事実であろう。

    日本染織芸術叢書 刺繍

    山本らく (シリーズ全10巻) 刺繍にこめるものはいろいろあるかもしれない。思いもそのひとつであったり願いであったりする。こめるものは刺繍をする前より刺繍をした後のほうがよいということと美意識を表現し、さらにはこめられた暗号をよむなどのロマンがみえかくれしているというのが私の意見である。刺繍というのは通常裂地、必ずしも織ったものとは限らないというのだ。編物、組物、時には革や紙の上に行われることもあるという。それらの上へ針と糸で模様を繍って加飾すること、又そうして作られたものをいう。裂地へ糸と針で細工をするのはもちろん刺繍だけではない。恐らく刺繍というもののできるもとになったものに「縫う」という技術があった筈である。縫うというのは通常二枚以上の裂を一つにつなげる操作である。今裂をヨコにつないで行く場合と、上下に重ねて綴じて行く場合とがある。前者を縫う、縫い合わすというのに対して後者は刺す、刺し綴じるという。「縫う」「刺す」という言葉のは、裂の上に針で糸を通してつけるには違いないが、それによって裂を装飾するというよりも、 裂そのものを加工するという実用的なひびきが感ぜられる。然し縫うと刺すとでは前者がつとめて縫目、つまり糸を表へ出さないようにするのに対して、後者はその技術的な性質からどうしても刺した糸が裂の表面へ現われることが多い。そこでこれが次第に装飾化していく傾向を生じてくる。雑巾に麻の葉を刺したり、刺子だとか遠山袈裟といったように裂地をとじつけること自身が、実用のみでなくアプリケ風な装飾的なものになり、更に細い刺しの針目自体が装飾として働くこともあり得る。又刺しは必ずしもキルティングの様に二枚以上の裂を刺し綴じることばかりではなくなり、こぎんや菱刺しのように裂に厚味をつけたり補強したりすることから、しまいにはこれが絽刺し、紗刺しというような純粋な装飾的なものにまで発展していく。今日使っている刺繍という言葉は、それほど古くから用いられていたものではなく、多分外国語のエムブロイデリー(Embroidery)という言葉に対して新しく作られたものであろう。エムブロイデリーというのは一つ一つ縫目(stitch)が集 って模様を表したもの、つまり我が縫いに当る。刺しというのは、元来、串刺しなどというごとく、原則としてはいわゆる串縫いで縫い進めていくものであるから、縫いと同じく先へ進む一方で後へ戻ることがない。そしてもともとが裂地を刺し綴じる針目が装飾化したものであるから、その一針づつがきちんと同じ幅で揃わなければならない。このことから刺しものでは裂の織目を拾って刺していくということが多く行われている。こぎんや菱刺しから絽刺し、紗刺しに至るまで精巧なものになるほど裂の織り目を拾うという数理性といったものがついてまわる。こうした刺しものに対して繍いものというのは、はじめから実用的な裂地の加工などということとは全く関係なく、ただある形象を種々の色の糸で繍って装飾するためのものであるから、裂地というものは単に糸を留める台として役割しかない。これをタテに使おうがヨコに使おうが斜めに走ろうが先へ進もうが後へ戻ろうがまったく自由である。もちろんそうはいっても刺繍の素材である裂の材質、特に糸の繊維の種類、絹、毛、植 物性繊維などその加工方法の相違、太細、撚りの強弱などによっておのずから繍法というものも決まってこようし、或る地方、或る時代によっては或る程度の制約もありきまりも出来てくる。けれども元来は全く自由であるべき筈である。即ちもともとが裂一枚に針一本、糸一筋以外には何の仕掛けもない仕事であるから、作業上の制約などあろう筈がないので、他の模様加工の方法である織りや染めに対しても、色と形の上の自由な点では問題にならない。仕事が針の一針づつの動きに頼るのであるから制作過程多くの時間と労力を必要とすることはまぬがれられない。刺繍を織りと染めによる模様加工の方法と比較してみると、まず織りに対しては、色数に対する制約が全くない。織物で刺繍と同じように色の自由な変化と種類持っているのは、タペストリー(綴れ織り)か唐織系の繍取り織又はカーペット以外にはないであろう。次に形象的にも織物のように織機というものの制約がないのだから、文様の反覆の必要もないし形の大きさにも関わりがない。即ち刺繍は織物が染物に 対して持っている制約から完全に解放されているといっていい。染物も元来は、形や色のついては多くの制約を持っていたのであるが、友禅染め系統の塗り染めや、プリント染めの発達によって一応形と色に対する制約は解消している。織り模様染め模様を比較してみると、いわゆる先染めと後染めの違い、色糸の立体的な重なりと、単なる裂地の上での染め色の交錯による文様表現の重厚さの相違は、覆うべくもない。染模様の薄く軽い味はいわばペラペラで、織模様のどっしりとした感触には及ぶべくもない。ところが刺繍はその厚く重い質量感では、いかなる織物にも対抗し得るものを持っている。結局、刺繍は織りと染めの間にあって、少なくとも形と色の表現に関してはその何れもの持っている性格を独り占めしているといっていい。

    日本染織芸術叢書 型染

    神谷榮子 (シリーズ全10巻) 結城紬をやっておりますと糸を染める場合ですので布地を染める場合の型染という分野は少々、その気になって勉強できない部分はありますが、その布地を染める場合について書いていきましょう。染とは織りあがった布地を染料で処理して加色することであり、つまり色をつけるのが第一の目的である。しかしこれは、織というものが糸を組織して布をつくるというのと同じことであって「如何に色を着けるか」ということが問題にされないとならない。ここに無地染と模様染の二つ世界が生まれる。無地染は色だけの問題である。模様染となると表現するために種々の模様染めの技術が生まれる。大きく分けると彩色法は布地に直接色を加えてその原理は顔料によって彩色を行う絵画の制作過程と同じである。(結城紬でいう直接染色法、スリコミも彩色法である。)プリントもこれに相当する。防染法は布地に防染施し染めの過程における染料の浸透しない場をつくり、これによって形象をあらわす方法である。(結城紬でいう絣括りも防染法である。)この防染法は圧力によって防染する絞り、板締めなどがある。それから物質で覆って染料の浸透を防ぐ方法でバチックや糊を用いる友禅染・小紋・中形がこれにあたる。切った紙や木の葉を置いたり貼りつけたりして色を吹きつけたり刷り込むものもこの方法である。この二つは友禅染の色挿しのように互に併用して行われることもある。さて問題は型染はどちらなのかということだが神谷榮子さんによれば防染法にあたるとしている。詳しく知りたい場合はこの本を読むしかない。もうひとつつけくわえれば彩色法、防染法、地染(浸染・引染の二種)と大きくは三つに模様染めは分類されている。

    日本染織芸術叢書 紋織2

    西村兵部 (シリーズ全10巻)

    原史時代の紋織・わが国古代の織物については、縄文晩期における布目文土器の出土以後、弥生時代においては中部(静岡・野呂)、近畿(奈良・唐古)、九州(大分・安国寺)などから紡織機が発見されていて、織技のさまを知らしめるが、なお当時においては麻布生産が主であった。絹については古墳時代にはいらなければその遺品は見られないが、それにしても平絹であって、紋織みとめ得るものはごくわずかである。いま『魏志倭人伝』によって古代日本の織物事情をみるに、当時わが国においては、「禾稻、紵麻、蠶桑緝績。出細紵、縑綿。其地無牛馬、「禾稲、紵麻をうえ、蚕桑緝績し、細紵、縑綿を出だ」していて麻布と絹帛が生産されており、それは朱崖(華南・海南島)と同様であるともいっている。また麻布のうちには班布があり、絹には帛布等があった。班布は『太平御覧』820所引の「南洲異物志」の文から察すれば、模様を具体的に把握しがたいものであるというから、絣の一種と思われる。ただ南方の糸が木綿であり、わが国は麻である点だけがわかっている。当時わが国において、錦織のための操作を要する複雑な織機があったともおもわれないから、これも地機を用いつつも、綜絖の数をふやして織られたのであろう。異文雑錦もまた倭錦と同様のものとかんがえられる。3世紀のわが国においては、固有の技法によって紋織も行われていたことを知るのである。

    人間国宝 佐々木苑子

    絵絣紬に生きる

      この人間国宝に位置する染織家に共通している点は、制作意欲を最後まで失わないものといえる。では佐々木さんとはどんな方なのか、ということで本書からわかりやすく順をおって説明し、あとは読者の判断にゆだねるのがベストであると思う。佐々木苑子は1963年に桑沢デザイン研究所ビジュアルデザイン学科を卒業する。デザインの勉強をもとに織物の図案を描き、織元に制作を依頼していたが、イメージ通りに仕上がってこないことを深く思い知る。ここがまず、生産者としての第一の開眼といえる。自分のイメージを表現するために、自分で糸を染め、織ることを決意して織物の道を志すこととなった。染織研究家の佐々木愛子を母に持つ佐々木は、幼少期から身の回りで優れた染織品にふれる機会に恵まれていた。しかし、織物制作の過酷さをよく知る母は、娘がその道に入ることを強く止めようとしている。佐々木は65年より、静岡県の手織り紬工房にて3年間織物(平織、縞、格子)の技術を学ぶ。また67年より7年間にわたり重要無形文化財「衣裳人形」保持者、堀柳女(1897-1984)の指導を受ける。71年、第11回伝統工芸新作展に<紬織着物「早春」>が初入選、72年には第19回日本伝統工芸展に<紋織着物「水葵」>が初入選し、伝統工芸展での奮闘が始まった。1972年の第19回日本伝統工芸展に佐々木は初入選したが他の技術者の水準の高さを目のあたりにしてより高度な表現を必要を痛感する。自由に絵を描くように曲線的な模様を織だしたいと望んだ佐々木は鳥取県の米子に通い、弓浜絣を学ぶ。このとき絵絣の基礎を学んでいた。さらに鳥取県の広瀬で経絣の広瀬絣を学ぶ。佐々木は艶があり細くて強靭な性質をもつ紬糸に植物染料による華やかで繊細な色を与えて絵絣の紬織をつくることを思い立つ。緯糸が一本一本絵絣がずれないように調整しながら数ヶ月もかけて織っていった。品格を高めていった結果、1975年第22回日本伝統工芸展に出品した作品が日本工芸会総裁賞を受賞し洗練された芸術性の高い絵絣紬という新しい表現の可能性をひらいていくことになる。私が一番、彼女のことで印象深いことは、外国の王室の方に自分の作品をひざまづいて、渡すというものでそこには生産者として腰がひくく謙虚であったことである。美しいキモノに掲載されていた。
    琉球布紀行  澤地久枝

    沖縄を中心に奄美大島の諸島まで自然条件による「孤島苦」と政治的処分の過酷な歴史にさらされた亜熱帯の島々の辛酸のなかで高い文化を生み出してきたこれらの琉球とよばれる島々を四半世紀をかけて旅を続け、澤地さんがそれらの高い文化を布を通じて学んだものを330ページでまとめる。奄美大島紬に心ひかれ、奄美をふくめての琉球ににげたという。はじめは沖縄に生活をうつし、身をおいてみて、琉球の染織家の言葉を会話を聞いていくだけでいいと思っていたというが、その漠然とした旅は、焦点を与えられたときに、旅や生活をふくめて一つの物語になっていったという。琉球の布は手しごとによっていまもつくられ、作り手たちの長い沈黙と語りかけが布にはひそんでいることを知る。首里の紅型という題目では、沖縄本土にいて紅型のきものをきている人に出会うことは滅多になく、静かな骨董ブームという古布のなかに紅型をみかけたことは一度もなかったといい、厳しい試練をこえてよみがえった沖縄独得の紅型は愛されはしても大切に箪笥にしまわれているのだろうか、そうだとしたら悲しすぎるとのべ、60ページにわたり独自の調べと足でかせいだ情報を披露する。次に読谷山花織について同じくのべていく。私がまとめた読谷山花織をより緻密に描写していくかのようで、澤地の視点が際立つ。冒頭から知らない自分から勉強をして学びより深く知るためにかけてきた生き方がまとめられていくもので着物の著名人が旅と独学の世界から物語がまとめられていく様を文学でみるという感覚で染織資料を記録していくが、私もただその著書をまとめるだけでいいのか、沖縄にいって調べてみたいとも思わせるものがある。希望のきらめき点絣、奄美大島紬と続く題には、旅を重ねての旅ならではの文章、表現がひかり、本をめくるたびに高揚感と絶望の波長に静かに澤地の世界へひきこまれていく。澤地は奄美大島紬にモダンを追求してきたせいか、島でみる奄美大島紬といままでみてきた奄美大島紬とに違いを感じる。イメージは産地におもむくことで変化するというのは私も経験している。旅でありながらも実際には市場に出るまでに濾過しきれなかったものが産地には忽然とあったりしてそれが新鮮なまでにあたりまえのこと、ではその布の産地であったりする。久米島紬についても、特有な焦茶と絣が必ずしも一定ではなくある場所からはみだしたりそれが「自由」で布に動きをもたらしているという。久米島紬の章の最後に佐多稲子さんが1998年10月に亡くなられて、著者が最後のわかれをとむらうときに、焦茶の長年愛用された久米島紬がきせられて、彼女の人生の哀歓すべてを吸い込んで「終の衣裳 ついのいしょう」はこれ以外一枚はないというものだったという。佐多稲子さんの文学を私は図書館で読んでいると私の曾祖父、北村勘一が人間国宝扱いされいた時期をインタビューしており、私の生まれる前に勘一はすでにこの世にいなくなっていたので、貴重な資料にも思えた。今は懐かしきひとつの記憶である。このようにして宮古上布、喜如嘉の芭蕉布、八重山上布、 琉球藍、琉球絣続いていく。この旅のなかには人間国宝、平良敏子や久米島紬の優れた織り手、玉城カマドなど、沖縄の名人が多く登場する。いま、沖縄へ旅をしてもここまで染織の重要人物に巡りあうのは難しい。

    澤地さんというと私は『このお仕事(絣くくり)好きですか?』『きらいです』『好きとこたえたら本に登場させたのに』という実際の会話をおもいだし、ピーマンの炒め物なみにほろにがい思い出がある。今回、私は逆に彼女を登場させた。

    そだててあそぼう アイの絵本

    ひびあきら へん

    やまだひろゆき え

    内容はこのシリーズは前に述べたように充実の内容となっており大人も楽しめるものとなっている。古書現代シリーズで藍染についてのべてきたがどのような流れで数少ない藍を栽培している国日本なのか、また植物学的なことなどもろもろ知ることができるものになっている。あとがきについてのべているものが本書の詳細と舞台裏を知ることができるのでその部分を引用してみよう。藍は木綿の普及とともに江戸時代から盛んに使われてきた染料植物であり、とくに藍、木綿、麻の三種はかかすことのできない栽培植物の代表的なもので、これを三草といって栽培が奨励されてきた。大名たちは、衣生活で着物中心であったためにそうした後押しをしてきたわけである。江戸時代から明治時代のころはどこの町や村にも一軒はあったほどであった。19世紀の終わり頃、合成藍(インディゴピュア)が発明されて工場で大量に安くつくられるようになり染色も工場でつくられるようになり、天然藍の栽培は激減していった。藍の栽培では阿波の国(徳島県)では良質の藍が栽培されてきました。また阿波の藍では藍染の研究成果として「阿波藍譜」という名作や「阿波藍史」といった藍染めに関する名著が残されているほどです。それらは現在でも高額な貴重資料として取引されています。徳島県ではそのほか、藍住町(あいずみちょう)、藍場町(あいばちょう)、藍畑(あいはた)などの地名がのこされているのでいかに藍染に有力なちからをもって親しまれていたかが伝わるほどです。その名の由来は藍染というのだから藍に関して親しまれ素晴らしいものであったかが伝わりますね。またそのほか藍神様として親しまれた「愛染明王 あいぜんみょうおう」というのは藍染に通じることから信仰されてきたもので、日本の各地にある愛染堂(あいぜんどう)、愛染庵(あいぜんあん)、愛染寺(あいぜんじ)などのお寺は藍染に関する信仰のあったものとされているのでみつけたら面白いと思います。長い歴史で藍染が親しまれてきた藍染ジャパンブルーは藍を育てるのは難しいことではないので(プランターでも畑でもさいばいできるほど)チャレンジしてみてはいかがだろう。

    そだててあそぼう ワタの絵本

    ひびあきら へん

    やまだひろゆき え

    あなたはジーンズを何本くらいもっているでしょう?さてと、汚れを気にしないで洗うときは思いっきり洗っていいという繊維の丈夫さ、そして栽培が盛んであることから安価で世界中にその素材、繊維、普及度は説明の余地はあるまいが、ワタの木にできる綿花(めんか コットンボール)は花ではなく実であり、その綿花を丁寧につむいだ糸を織ってつくられる。いたって原始的な方法によって糸づくりから製織りまで繊維的な丈夫さでそのポジションを不動のものとしたのが、日本でも爆発的に拡張し、きものの素材は、麻や絹などの素材より安定して供給することができたため、木綿織物は日本でも布地の布持ちの良さも手伝って広まったといえる。庶民にとってその木綿の栽培から織物にするまで比較的、妨げる要素があまりなかったことも、広まった要素といえる。とくに当時の日本の大名は木綿の栽培をおしすすめて手厚い保護(推奨しすぎたともいえる)をしたこともあり一気に木綿織物の栽培から大衆にうけいれられ容易なまでに普及した。丈夫で洗濯もいいとなれば、絹や麻などの素材の扱いにくさと比べればそれもそのはずである。話がそれるが私は、栃木県の小山市にあるイオンが好きで、休日をイオンで過ごす人をイオニストとよぶそうである。茨城県の下妻にもイオンがあり、そちらにもいく。私は、普段着は安いものが好きで、高いものは買わない。しかし木綿などのシャツ製品の多くは、結城紬のデザインを考えるときに参考になる。そのためにイオンに、わたしは目をくばらせている。とくに格子柄のシャツがお目当てである。そして、だいたいにおいて綺麗なあがりの格子柄は紳士売り場で高額なのである。しかも田舎には珍しく、そういった高級品売り場は、接客してくれる売り手が、よってきて説明してくれる。最近だと、木綿ことコットンでは、スノーコットンという素材ですから他社と木綿が違いますとかいう。また話はとんでしまうが、テレビでタオルについて取材している番組をわたしは、たまたまみていた。その製品はおそらく化学繊維(かせん)ではなく木綿だと思う。その企業が開発して人気爆発になった商品名は<一秒タオル>というそうだ。吸水力がそのほかのタオルとは別次元のものであるといい、実際に、その具合はわたしもびっくりする吸水力であった。糸の太さ、ぬくもり、やわらかさのなどの重要要素もクリアしており、繊維の多くは毛羽が特徴を決定づけるといっていい。毛羽はいとをよったときにはみでた、短い繊維で、木綿や絹などに多く確認できる。しかし一秒タオルにしても、企業秘密なんだろうけど、もう少しその秘密をえぐってもらいたいという感想がわたしに残った。研究のすえに獲得したのであるから、たやすく教えられないのだろうが、日々、木綿や絹は、使い方次第で、私たちの生活を豊かにしているアイテムであることをつけくわえ本の紹介を終えたい。

    つくってあそぼう 藍染の絵本

    やまざきかずき へん

    じょうめはやと え

    人間はいろんな植物や動物、鉱物を利用して染色したが、圧倒的に植物による染色が多かった。植物をこすりつけて染色することから始まり、やがて青や赤、紫といった鮮やかな色に染めるために苦心し、研究を重ねて、染めることを可能にしてきた。古い時代のうたを集めた「万葉集」に「鴨頭草(つきくさ つゆくさの別称)に衣色どり摺らせめども うつろふ色といふが苦しさ」という歌があり青い色がすぐにあせてしまうことをうたったものである。さて、藍染についてふれておきたいのがどういった始まりがあるのかということについて記すると、藍草の汁が服についたときに青いシミができ、そこから沢山の布を染めるために藍の葉から染料をとりだす方法が工夫されたのではないかということである。藍建て(あいだて)は、絹、麻、木綿ともよく染まるし、染料は運搬や保存もできて沢山の布を染められる画期的な方法となった。藍染で染めた青は、うすい青色から中間色、濃色の順に、色名(しきめい)が江戸時代にふられ、瓶覗(かめのぞき)→水浅葱(みずあさぎ)→浅縹(あさはなだ)→花色(はないろ)→千種草色(ちぐさくさいろ)→縹(はなだ)→深縹(ふかはなだ)→紺(こん)→褐色(かちいろ)などと呼ばれるようになった。瓶覗は水色よりうすい色であり、使い込んでうすくなった藍甕にちょっと浸す(一寸浸す)、一染(いちせん)の意味でこれを「覗く のぞく」と表現した。この絵本シリーズは大人にも役立つ充実の内容なので是非手に入れてじゅくどくしてもらいたい。

    藤本均コレクション 絣の道

     

    2016年年末、もうじき2017年が始まろうとしている。絣の資料をある程度、集めてきたのであるが、幾ら調べてもわからない、という点に落ち着き、かの結城紬技術保持団体の指定者、北村勘一が人間国宝として君臨し、そのあとに田中林次が指定者になった。しかしこの指定者にしか恩恵がないために人間国宝という枠は結城紬にはなくなり団体指定となった、という説明の繰り返しになり、絣に関して、一定の理解と説明として法隆寺に伝わる太子間道が年代を知ることができる絣として世界最古という点になる。これは私が調べてきた資料に再三かくことになって、バカのひとつ覚えのごとき連呼になるが、それが大筋でマトをえていてこの絣は日本でつくられたものではない、ということである。ではどこかといわれるとタイ、インド、インドネシアが現在ではそれにもっとも近い絣を生産している。ただし、現在といっても、いまは観光主流でおおもとの生産が観光向けになっていればそれも変化して自然淘汰をなぞっているおそれがあり、一概に決め付けることもできないが、タイ、インド、インドネシアが太子間道の絣の生産された織物に近い、のではないかということである。さて、沖縄織物の研究という田中俊雄氏の定説が有名であり、引用されているのはご存知であろうか。現在は高額図書で借りて読むのが最も経済的であるが、その説は、絣のルーツはビルマ、インドなどの南方が基点となって絣の生産はインド、というものである。インドのアジャンタに壁画があり、そこに描かれている女性たちは絣布らしき衣服を身にまとっている。このことは壁画が7世紀ごろのものとされている点からするとインドの絹絣の歴史は古くから技法もかなり複雑で多彩なものが多い。インドに端を発した絣の技術は、一つは北と西に流れてチベット、アフガニスタンからシルクロードを経て中国北部にまでおよび、他方は南に下ってインドネシア、フィリピンに達し、やがて14世紀末から15世紀にかけて沖縄に伝わった。絣のことに関しては続きは柳悦孝さんの言葉も借りて中間資料集に調べをつづりたいと思っている。

    千年の色 古き日本の美しさ

    吉岡幸雄(七冊目紹介) 古法というのは古法による染織の仕事をしてはじめて精神的な伝承を勉強することができる。私の書いたものは一元的で底浅く、幼稚にみえることも否めないがいまやっていることが、最善、最良の選択であるという自負も同時に私にはある。ノーベル賞で、日本人の研究者が、そうした素晴らしい成績が残せたのは、研究というのは30年、40年と研究結果が出るまでにかかり、すなわち30年前、40年前にやっていたことがいま、なのだといったそうである。そうするとほとんどの紬従事者は出発地点にすら立っていないのが厳しい言い方でいえば、そういうことになる。日本の歴史をさまざまな分野から勉強して、とくに先人の残した佳品(かひん)をじっくりとみる必要がある。私には北村勘一という曽祖父がいる。北村織物の二代目にあたる人物で、祖父が頑固一徹の北村敏雄、その子に私の父である。先祖の残した佳品に蚊絣という古法の絣がある。これは到底、たどりつけないであろう技術が込められており、結城市が200蚊絣を保存していてまれに公開される。それをみたとき自分のいまに失望を覚えることさえあった。そうしたときに、さまざまな分野から角度を変え、勉強することで、より良き未来を描こうとそのとき私は考えた。吉岡さんのこの本は実は2016年のような、ご時世にこそ再読する価値がある。この言葉の底流をだれも振り返らない。彼のいいと思った文章や印象深いものは商用サイトの中間資料集に追筆を試みたい。模倣は手段であり目的ではないのだ。
    日本人の愛した色  吉岡幸雄(八冊目紹介) 著者、吉岡幸雄氏がまだ若い頃の原稿である。源氏物語から古典としての教養だけを吸収していくのとは違い、本当に源氏物語が彼の支えであると思う。シルクロードブーム到来によって染織の世界が見直された時期がかつて日本にはあった。それは丁度、日本が戦後処理をはじめてから高度経済成長をとげて、大量生産、大量消費の世界はむなしきことこのうえなし、といった民藝活動が東京の至るところにその志がかかげられて手仕事の尊さに目が向けられる。シルクロードの歴史から絹産業が発達していき、東の終着地、日本までのはるかなる道の長さ、染めによってできあがる天然の染料の風合い、日本は忙しさのあまりに見逃していたものをシルクロードの歴史から再びくみとる動きがあった。こうした世間的なものも見方にしている染織の世界は当然、活気が戻ることであり、再びのふたたび、染織またはシルクロードブームがおこるのかときかれれば、これは私が生きている間の時間くらいではおきそうもないが、染織の世界はブームがおきようがおきまいがあくまで自然のいとなみの中で繰り返されている仕事でありさして影響はない。染織の世界は、専門知識がいると思われている。専門知識は、厳密な手仕事をするときに必要な知識であってはじめて有効的な知識、かつ技術となる。そのために専門知識をつぎからつぎへと吸収しては、技術へと還元していき、他者へ伝承か刺激になり、それらがどんどん好循環していくのが染織ブームである。生産者がよりよい環境にいるためにはブームの追い風は、ちからになるが、すぐに簡単に、といった具合では技術者というのは実力もつかなければ、考えもしなくなる。これでは自然淘汰をまつだけのものになってしまうのであるから、そうならないように努力する。一概にブーム歓迎、というものではない。吉岡幸雄さんの著書をぜんぜん説明しないで終わってしまった。
    和更紗の文様  吉岡幸雄(九冊目紹介)

    図譜 和更紗の文様 は文様に色彩に魅了された日本人がたくみに更紗の真髄を他国から吸収しようとしたものである。さらさ とはジャワの古語「セラサ」(花の模様を撒く)からきたという。インドで生まれた華麗な色彩の木綿布が室町の末期に日本にもたらされ、異国情緒な文様で人々を驚かせたことであろう。江戸時代になると舶載品を模して京都や堺、長崎や鍋島などを中心に「和更紗」がつくられるようになる。技術も意匠もしだいに巧緻をきわめていくことになる。万華鏡をのぞいているかのような色とりどりに、具象、抽象、幾何学、インド風、西欧風、中国風など、和様の文様が弁柄、黄土、藍蠟、群青の色彩が多彩な世界を構築している。ページ数250に近いビジュアル和更紗生地の文庫である。直感的雑誌のような構成で著書は成立している。

    では、著書の最後の著者吉岡幸雄氏の解説にて紹介を引用して紹介を終えたい。

    インドから日本へ 和更紗の誕生 吉岡幸雄

    さらさ。というここちよい響きで呼ばれる華麗な色彩綿布は、木綿の国インドで生まれた。木綿のような植物繊維はタンパク質を含まないため赤系統の染料が染まりつきにくく、日本でもヨーロッパでも、木綿といえば藍を中心に茶色や黄色といった染色にとどまっていた。ところがインドでは、この地に生育する茜系の染料を用いて、鮮やかな赤を染めだす技法が開発されていたのである。それは、まず、木綿布を水牛の乳に浸けることで繊維を動物性に近づけ、つぎにタンニン酸を多く含むミロバランで下染めして、媒染剤の定着を促す。そして、赤く染めたいところへは明礬液(みょうばんえき)を、黒く染めたい部分には鉄塩を、紫はその混合液を塗る。そのあとで沸騰したインド茜の染液に浸けると、それぞれが反応して赤、黒、紫の文様があらわれ、媒染剤のついていないところは白く残るというものである。さらに藍色や緑色を加えたいときは、蝋伏せのあとで藍で染め、緑は黄色の染料ミロバランを重ねる。高温多湿の風土のため、インドには歴史を探る遺品がほとんどなく、更紗がいつの頃からあったのかは詳らかではないが、紀元十世紀頃の製品と思われるインド更紗がエジプトのフォスタート遺跡から発見されており、古くから交易品であったことがわかる。やがて十四、十五世紀の航海術の発展にともなって交易もさかんになり、更紗も世界各地にもたらされて、その華やかさで人気を博した。日本には室町時代末期から桃山時代に、南蛮船により舶載されたと思われる。これらの裂々は珍重され、武将や数奇者の競って求めるところとなり、陣羽織や仕覆に仕立てられて、その富や権力を誇示するものとなった。その後も更紗の輸入量は高まり、富裕な町人たちの小袖や下着、風呂敷、煙草入れなどに仕立てられて彼らの身の回りを飾るようになった。江戸時代になると、インド更紗を真似て日本でも模造更紗が制作されるようになる。インドで染めたシャム(タイ)向けの更紗が日本へ運ばれて「シャムロ染め」と呼ばれていたが、正保二年(1645)に刊行された、発句付句の作例のほか諸国の名産なども記した「毛吹草」に、京都山城の特産として「紗羅染」(シャムロゾメ)を見ることができる。このような京都、堺、長崎、鍋島などを中心に各地で生産された更紗を総称して「和更紗」という。(続略)

    よしおか工房に学ぶ

    はじめての植物染め

    吉岡幸雄 監修(十冊目紹介) 本書の企画は、染色にまったくふれたことがない若い人たちの植物染めに挑戦する、それも1年間にわたって工房で伝統の技を学ぶ。草木染めなどは確かに高度な技術、複雑な技法によってはじめて染色されるものも存在するし、それなりに技術は必要となってはくる。それらは本書にもあるように<基本>をおさえ、しっかり学びワンステップづつスキルアップしていくことによって<可能>になるとしている。誰でも<基本>を覚えて学べばできるということは、染色にまったくふれたことがない若い人たちの一年の成果をみれば、まんざらとっつきにくき染色ではないといった理解も深められよう。また吉岡幸雄氏に実際にあって工房見学したという方は、気さくな方だという意見は少なくない。若かりしころは確かに誰をもよせつけない印象はあったともいわれている。長い歴史の流れのなかで日本人が育んできた伝統的な美しい色彩を本書を参考にして再現できる。ただし、活字をよむ習慣があまりない人は、若干初心者向けでも厳しいものもあろう。話は変わり、結城紬は専門的で高度な技術職といったイメージがある。しかし、これもこの本と似て、それぞれ<基本>があり<基本>を覚え、<基本>をつかって習得するという<基本姿勢の繰り返し>によって習得する。伝統産業は衰退しているが、姿勢は同じであろうこと私の知る範囲はどこの産地もそういえると感じる。12年の従事歴とその12年の証明者がいれば伝統工芸士という、次世代の従事者の励みになる資格制度も用意されている。私は2016年4月でその許可がおりるが、取得は自信をもたらすだろうとは思うが、資格が全てではないとも考えている。実際に私は、しばらく受験はしない。本書に目を戻そう、たまねぎの皮やどんぐりや紅茶や栗のいがなどの自然物を染色の素材として、みのまわりを探してみて染色素材になるものを中心に染色の面白さを<探す>ことでまず読者のこころをつかむ。表装から中身も女性中心というか女性目線でつくられていることから編集者は女性がターゲットである。実際に何かを始めようと考えるのは男性より女性の方が多い。とくに子育てを終えてひと段落となると、夢や希望をすてないで生き抜くのは、あきらかに女性のほうが多いように感じる。男性は常に経済的中心の存在をにないつつ誰かを養わなくてすむと、役名を終えたかの如く、ぼーっとして何もしなくなるように思う。そうした性別間の心理をついた染織資料としても私は評価、いやある種の2011年出版物という現代のストレス社会を反映している点は興味深い。とくに私も古書が中心であったせいか書物というものは時代をうつし出すものであると改めて感じた。またもっと染色したい向上心がつきなければ「自然の色を染める 家庭でできる植物染」吉岡幸雄、福井伝士、監修の出版物を推奨しよう、これは工程写真1200枚によって植物染めを家庭でできるスケールに置きかえた染め方、染色の書物である。台所でできる染色というのは、染色のプロでも利用者が多いのは最小限の設備であり、キッチン設備、それだけでも主に技法があくまで中心で充分染色ができてしまうためである。
    野草の染色 上村六郎(三冊目紹介) 染料の製造の化学研究が専門だった上村六郎(うえむらろくろう)は、喜多という偉い先生をこの業界で追い抜くことができないと思い、文科からの仕事によって<染織文化>という専門を志すものなしの道へ進んでゆく。<染織文化>という言葉は上村六郎がつくりだしたいわば造語であった。中国の<四書五経>からはじめてさらに<大蔵経>をよむ。古事記や万葉集から染織をえぐりだしていく手法は勿論、中国のそうした古いものに手をつけて、文化、染織はインドとの関係を無視することができないと<大蔵経>などを勉強する。さらにローマギリシャなども勉強する。一般に現在の染織家が染織文化をなぞる上で辿った道を全て日本訳で猛勉強する。博学でないにもかかわらず、内藤湖南先生に<本を一生懸命に読んだことだけは認める>といわしめた努力家である。<古事記>や<日本書紀>からはじめるとどうしても<万葉集>にいかざるをえないとし、当時<万葉集>からの染織の考察は着眼するものがなく、極めて画期的な発表となった。明治のロマンチストといわれた。(のちに家族の人はなにをいい加減なことをいうかと思ったでしょうが と上村氏は振り返った。)さらに正倉院の政府から任命された調査員としてでた上村氏は、何万個というおびただしい数の名物裂をみて、こりゃあ百年はかかると表現するものであった。野草の染色は、そのあたりで採取可能なものをそのとおり染めるというみじかな染色方法を再確認する、という染色書物である。平安時代から藍染めに黄檗(きはだ)などを混ぜて(この混ぜるという概念は中国になく、中国から日本に染色が伝わったが、中国は混ぜることはその後もしない、日本は平安時代に混ぜる染色をはじめる)染色するという文化は日本特有の染織文化とし、この発表は強烈な注目をうけた。そしてこの染色の<混ぜる>という日本特有の染色技法は今日の世界の複雑な染色を支えているのである。
    日本の色彩  上村六郎 (四冊目紹介) 浮かんではすぐに消える記憶や自我を人は文字を書くことで、忘却を逃れ、記憶を鮮明にするようになったように上村さんの哲学的な生き方が、文章を原始的な思想というか現代では、なかなか残せそうにないような思想を当時もって生きていたので、生きにくい人生だっただろうし、理解も凡人をこえていた。以前上村さんの本紹介に記したように万葉集から染色を読み解き、当時そういうことをやったものがいない取組、もちろん万葉集の記録から推測するなどの古法の再現や関連付け、現代の草木染めを尊重する染色家は、ただ草木染めといっても万葉集から続いている技術で現代にまでつながりのあるものだという目に見えないつながりや時代時代で隠れてみえなくなったものを上村さんは記録することで、迷いのあるのこされた染色に関わる人へ何らの手段で伝えたかったのだと思う。それがこの本や彼の染色テーマだ。それに彼はもっともっと記録したかったんだろうな、という思いが私には伝わっている。当時、古代染色で考察などが食い違うなどの解釈でもめていたという有名な人にありがちなエピソードも多々記録されて残っている。前田千寸さんとの解釈の違いはいい例で、やりとりはいまや知るひとぞ知るものになりつつあるが、やがては二人は互いにその研究どうしを認めあうようになっていた。成熟のなせるわざであろう。色に関してのうるささときたら平安時代の有名貴族に匹敵し、視点に慈悲深いところもある。草や木は生命の断片であるが色に生命があることを上村は伝え、教えてくれる。ときは流れ、前田雨城さんの著書、色という本はいままでの思想からより近代的な哲学になったものでよみやすく、そうした色に関しての哲学的な出版物の厚みが増した形になった。先人の哲学的な色の著者、上村さんに敬意を示そう。
    ものと人間の文化史 絣 福井貞子(二冊目紹介)

    木綿絣は、無名の庶民たちが育てた文化遺産ともいえると著者はいう。江戸末期から明治にかけて急速な発展を遂げ、その技術と絣文様は世界に誇りうるものであった。しかし昭和40年代の高度経済成長と新繊維の出現によってオートメーション化され、手織りの技術はすたれたという。明治時代から愛用しているという高機で手織りを楽しんでいる老女たちに出逢い、彼女らからの聞き取り調査を続け、郷土の倉吉絣を研究の第一歩に踏み出して<40年もの長期間記録>という凄まじい研究心によって記録され続けた。残存する絣の遺品や使い古されたボロ布を収集し、本書に一部本書に収録されている。調査を通じて絣文様の多様性に強く衝撃をうけたという。西日本の絣(九州 四国 山陽 山陰)を数回にわたり現地調査をして、同地の工業試験場や工場経営者と後継者、紺屋(こうや 染屋のこと)と古老、元女子従業員の技術保持者らから、絣見本帳や縞帳をみせてもらい、その他の諸記録を実地に記録を重ねつつ、さらに無名の名人の意見を採録するとともにそれらの人々の生活も記録した。手元に収集した資料と記録をもとにして、不満足ながら絣文様を分類し、移り変わりと特徴を整理し発表、出版したという。2015年現在から40数年前の同著者の名著『図説 日本の絣文化史』(京都書院)に、その後の調査研究の成果をつけくわえ、大幅に増補、改訂したものとなった。絣の体系的研究として文様史として活用されることを念願するとしているが、読み応えは抜群であり、同著者の名著『図説 日本の絣文化史』とこの著書であわせてよみ解くことで発見と見方も広がることであろう。さらにはビジュアル文庫『出版社:青幻舎SEIGENSHA 日本の染織1 絣<かすり>』の三冊で、絣読本の鬼に金棒、腰巻きにはきびだんごつき、といった感じである。西日本の絣研究者、いや絣研究者として右に出る存在はいないほどの研究成果となっている。

    また、シリーズ『ものと人間の文化史』では今後、「染織」「古着」「裂織」「藍」「藍2」「紫 紫草から貝紫まで」「草木布」「織物」等々、なども追加の方向でいる予定である。

    染織標本集 組織と技法  長沼静 監修(二冊目紹介) 染織資料では織物の組織が三つあるんだよ、ということが多い。この本も同じく織物の組織は多いがその基本となるのは平織、斜文織、繻子織の三つが織の三原組織だよ、という説明がある。こうした基本が三つあってそれを応用したものや変化させたものが他の組織のほとんどということで、基本は三つである。ではどういうものが紹介されているのか、目次をみてみると、縮緬、一越縮緬、絽縮緬、錦紗縮緬、紋綸子、羽二重、塩瀬羽二重、御召、紋御召、紬、紗、絽、縦絽、駒絽、上布、宮古上布、小千谷縮、絣、絵絣、阿波しじら、唐桟、黄八丈、大島、村山大島、斜子織、博多織、仙台平、紅梅織、八橋織、染色の技法の解説があってそのあとに、型友禅、手描友禅、糸目友禅、江戸小紋、紅型、南部型染、鹿の子絞り、匹田絞り、有松絞り、三浦絞り、くも絞り、嵐絞り、桶締め染、長板中形、折付中形、ろうけつ染となっている。それらに織物の組織の基本は何かがかいてあり、短文でわかりやすい説明がある。これは長沼静さんの教材で生徒さんは、基本をおさえる勉強で使っていたと思うし、実布がついてわかりやすくしてある。そして生徒さんは勉強したあとに、自分の好きな織物を専攻していったのではないかなんて思う。今はインターネットで手軽に検索できるので、便利にはなった。着物が好きな人はいまも勉強を続けて新しい境地にいるのかもしれない。
    染織標本集 上  長沼静 監修(三冊目紹介) 長沼静さんというと、彼女の指揮する学校に実演をみせてきたのではあるが、本人に会ったことはない。しかし、着物低迷はこうした着物学校の生徒の数からはとても衰退しているという実感をその時代でよみきることは不可能であった。バス二台で生徒をじかに結城紬の作業している職人をみせて、そのあとはどうなったのかというのは聞いてないけない暗黙のルールがあったように感じられる。その共同体にいていまは離脱している、という着物関係者は少なくないと私はみているが、それはバブルのころから、牽引してきた先生であり、どのような結末であろうが、ただ静かに時代の流れにのっていくほかにない、という時代のいわば影があったわけであり、さして長沼静さんをせめることはしてはいけない。少なくても、彼女の残している染織資料は完成度が高くしかも実布で標本集にしているのであるから、根底に流れているものは着物への愛と興味であったといえる。私が2歳のときにすでに標本集が世に知れわたっていた、という事実が残った。そして標本集にはしっかりと着物は全国単位でみるめをもつことの大切さをこんにちに伝えている。木をみて森をみず精神では、この世界を生き抜くことが困難であるという教訓を残した。
    染織標本集 下 長沼静 監修(四冊目紹介) 染織標本集の下であるが、前回、上の標本集では結城紬はそれは機械織のもので実布や標本であるから、まぁ微妙だがそれも許容範囲だろうといった箇所がみうけられたのも事実ではあるが、こんにちの全国の産地をまとめたものでこの2冊から、現在はたった布の端切れ、ハギレ一つでこの標本集の価値(いくらで販売された教材か不明であるが)のもとを充分にとってしまえる織物標本があるのも事実である。とくに絹織物では国の重要無形文化財の指定の久米島紬にもそうした真贋をこえて伝える何かがあるようにも思えるし、絵絣といえば伊予の伊予絣を思う、備後にわたりやがて鳥取県に絣が伝わる江戸時代中期に弓浜絣が誕生している。弓浜絣も実布がある。絣に関して私がまとめてきた記録を含めて言えば、きわめて日常的にあった生活用品に多くみられたものだったという点がこんにちにはもう日常的というより意図的に絣を追求していかないと発見できないものになっているといえる。絣にあなたは何を思いますか、という問いがあったとすれば、その人と織物を考える上で参 考になるだろう。語ることができなければ、知らないですむかもしれない。しかし織物と絣の関係は日本の着物を考える上では無視できないものであるという結論にいきつくことではないだろうか。機械と人間と織り機、それから近代化にせまられた結果、合理性と大量生産大量消費の時代を経過して残ったものが、現代の人が日常の贅沢を考えると、はるかに昔より貧しい日常にいることに気がつく。それは白洲正子さんなどの随筆家がすでに未来を予想して予言したかのごとく記録されていたことであったりするのであるから、奇妙な世界の国にうまれたものだと感じてしまう。
    続草木染野帖 大場キミ(二冊目紹介) 昭和58年1月10日の第1冊目の草木染野帖の続きになるものである。自身のみのまわりの草木や友人から届けてもらったものなどあわせて51種類。欲しい草や木があれば苦労して自分の足で一日がかりで70kmも離れた山にはいりこみ、染料にする実をがくからはずすのに一週間もかかってしまうこともあったという。染め上がったものは、わずかに反物一反となれば、染料代は計算できないものがそこにはあるから、現代の草木染を入手できる環境に感謝せねばなるまいところ。読者カードに、木綿染を是非とか、人形や書道をやっっておられる方からは和紙染をなどの申し入れがあったので前回載せられなかった染草もあわせて第2冊の今回になったというわけである。1冊目は少々、短文ですませて、爽やかな作風だった、まわりくどい技法はないといった書評とは、今回は言いがたいがその反面、濃厚なタッチの文章であつみがあるとでもいえばいいのか、それでいて1冊目の爽やかさをやはり引き継いでいる面があるように思える。草木染の媒染剤は薬局で購入していたということからも、草木染ブーム前の、ささやかな娯楽で現代ほど、環境が充分でないことが伝わろう。
    日本染織総華  紅型・藍型 浦野理一(二冊目紹介)

    てんさこ(鳳仙花)の花

    や ちみさち(爪先)にす(染)みて

    うや(親)のよせことや

    ちむ(肝)にす(染)みれ

    てん(天)ぬぶり星や

    ゆみ(数)ばゆまりしが

    うやのよせことや

    ゆみならん

    (寄せ事=教訓の意)・さて解説はシリーズすべて著者のことばをなぞり、模倣したい。鳳仙花の赤い花を爪先染めるように、親の教訓は肝に染めよ。美しい天の星は、数えれば数えられるが、親の教訓は数えられぬほど多くよいことをいうものだ。意訳するとこうなることであろうか。私は偶然の機会から、ある若く美しい沖縄の女性が、低い声でこの歌を口ずさみ、内容を説明してくれたとき、ちょうど本書を編集中であったことから、たちまちにその美しいメロディと素直な歌詞に魅せられてしまったのである。聞けば、沖縄にむかしから伝えられている有名なわらべ歌の一つとか、あの強烈な美しさを誇る紅型や素朴な藍型の底辺にあるものは、実はこの歌にあるようなてらいのない、心豊かな人間性ではないか、と改めて感じ入ったしだいである。てんさこの花は現在でも咲きつづけているであろうが、沖縄独特とされている風物、たとえば、しっくいでとめられた赤瓦の屋根や石垣、石畳、緑したたる亜熱帯の植物など、今次大戦を境にしだいに姿を変えつつあるようである。そして、本書の主題である紅型、藍型もその姿を失うかのように見えた一時期もあった。幸いにして、最近にいたり、心ある人々によって、伝統をふまえながら紅型、藍型の製作がなされるようになったのは、とりもなおさず、その本質にかえろうとしていることで、むかしながらの心豊かな人間性が、現在の沖縄にもなお脈々と承けつがれていることに、深く感動する者である。昭和46年の本土復帰により、紅型、藍型はもはや沖縄という一地方の染色ではなくなったのであるから、他の染色同様、その将来を全国民で暖かく見守ってゆきたいものである。 紅型、藍型の決定的な価値のある資料の発見されるまでは、紅型、藍型の発生の歴史を謎のベールに包むことにしたいのである。浦野理一

    日本染織総華 刺繍  浦野理一(三冊目紹介) はじめに・浦野理一・「日本染織総華」の一巻として「刺繍」を加えたことに疑問をいだかれる方も多いと思われるので、まず、その釈明からさせていただくことにする。たしかに、刺繍は染めや織りとは明らかに区別されるべきものであろう。それにもかかわらず、本書を通してごらんいただければおわかりのように、日本の刺繍はさまざまな用途のなかでも、とくに、日本独特の衣服である小袖等の服飾において、染織と完全に融合し、世界でも類を見ない服飾美をつくりあげてきたことに、注目いただきたいのである。刺繍は染織ではないが、あるときはそれらを補ったり、効果づけたり、あるときは刺繍だけで模様を出すなどして絢爛目を奪うばかりの服飾美を打ち建てたのである。今日、諸所の博物館や資料館には、数多くのすぐれた小袖、りょうとう、能装束などが残されているが、それらが衣服という用の美をこえて芸術品として鑑賞できるものも少なくないのを見ても、その優秀性はうなずけよう。刺繍は、本来、衣服の装飾が大きな目的の一つであるとされているが、日本においてはとくにこのことが顕著で、衣服の染織と一体となり複雑至妙な発達を遂げたところに、日本刺繍の大きな特長があるので、あえて刺繍をして、日本染織の一分野となしたしだいである。古くから行われている刺繍は「日本刺繍」と呼ばれて、中国刺繍、フランス刺繍、デンマーク刺繍、ノルウェー刺繍、南米・中近東の刺繍などと区別されているが、その起原をたずねれば、他の文物と同様に中国よりの渡来である。ただし、手工芸の常として、同じ材料、同じ技法を用いても、そこに表されたものは、民族特有の性情によって、始祖の国の刺繍とは、大きく様相を異にするものであったのである。ここに、私たちは汲めどもつきぬ興趣を感じるとともに、日本民族の優秀性改めて認識するしだいである。 本解説においては、日本における刺繍の歩みをたどることによって、その独自性と意義をごいっしょに考えてみたいと願っている。ーーー
    日本染織総華 更紗  浦野理一(四冊目紹介) はじめに・浦野理一・現在、私たちが更紗ということばを耳にするとき、友禅や小紋、紅型などと違ったひびきをだれしも感じるはずである。この違ったひびきを感じる更紗という染色は、これら友禅、小紋、紅型などとどのように違い、区別されるものであろうか。また唐草、印花布などのなかには、その色彩、図案などにより更紗と往々混同されるものもないではないので、更紗を解説するにあたり、更紗とはどのような染色であるか、また、まぎらわしい他の染色とどのように区別したらよいか、などから考えてゆきたいと思う。はじめに記したように、更紗ということばを耳にするとき、友禅や小紋などと異なったひびきを感じるのは、更紗という染色が外来染色であり、いまだに外来的な染色であるからである。日本の染織において、厳密な意味では国産の染織はないといってもよいかもしれないが、友禅や小紋、辻が花、茶屋辻等、世界に誇る日本の染色の多くは日本独自の発展、完成示した。また、織りにおいては、中国や朝鮮など諸外国から学んだものを基礎にして、金襴や錦をはじめ縞、絣にいたるまで、師祖の国々と同等、もしくは、はるかにしのぐ優秀かつ独特なものを完成しているのにたいし、更紗は伝来以来、和更紗という独特のものをつくりあげてはいったが、それはきものに完全に消化された染色とはいいきれぬものである。この意味で、更紗は舶載された時から現在にいたるまで、いまだに外来染色という印象を拭い去ることができず、これを裏返していえば、更紗は日本に同化しきれない異国の染色であり、多分に未来性を込められた魅力がある染色である、ともいえるようである。
    日本染織総華  縞・格子  浦野理一(五冊目紹介) はじめに・浦野理一・むかしから、日本人は清く明く直き心ばえの民族である、とされていた。第二次大戦中はとくにこのように鼓吹されたので、ご記憶の方も多いであろう。今、ここで、この事実について云々するわけではないが、たしかに私たち日本人の一面の性格をうがっているようである。こうした日本人の心ばえを、最もうつしている日本染織は何か、と問われれば、だれしもが縞・格子をまずあげるのではあるまいか。そして大部分の人々が、縞・格子こそ日本民族特有のもので、世界に誇る日本染織の一つである、と信じているのではあるまいか。日本の縞・格子は、たしかに世界に誇るにたる日本染織の一分野である。そして、縞・格子持つ表情は素朴で明快であり、てらいのない美しさがある。しかし、けっしてそれだけのものではない。それは、さきにあげた私たち日本人の性格が、もっと奥深く複雑であるように、縞・格子にはもっとひねった味わい、いき とか いなせ と呼ばれる渋い面も持ち合わせている、きわめて変化に富んだ多様なおもしろさを、その平明さのなかに秘めていることに、注目すべきようである。と同時に、この縞・格子も他の染織と同様に、遠く異国から将来されて、日本で独自の発展を遂げた、近世の織物であることをまず申しあげて、縞の歩みと、それと密接なかかわりを持つ木綿、江戸時代の庶民などとの結びつきに焦点をあてて、日本の縞・格子ごいっしょに考えてみたいと思う。ここで一言お断りしておきたいことは、本書は「縞・格子」編であるが、そのすべてを採り上げることは、あまりに多岐にわたり、かえって煩雑のそしりをまぬがれぬように思われたので、「絣」編と同様に、縞本来の姿である木綿縞それも、江戸から明治にかけて日本各地の農山村で手織りされた地縞(じじま)と呼ばれる縞・格子を主として採りあげてあることをご諒承いただきたい。また、縞と格子は今日でははっきり区別されているが、かつては「格子縞」ということばもあったように、格子も縞の一種と考えて、ことさらに、格子も縞の一種と考えて、ことさらに縞・格子と並べて解説せず、単に「縞」として話をすすめた個所も多いことをお断りしておく。浦野理一
    日本染織総華  金襴・緞子  浦野理一(六冊目紹介) 本書は題名を「金襴・緞子」とし、室町時代以降の渡りの裂から明治、大正までの、各時代の特色をよく表わす高度な織物を採り上げて一書となしたもので、金襴、緞子をもってその代表とされたのである。掲載裂のすべては、小生所蔵のもののなかから選択したもので、未公開のものである。渡りの裂を日本染織のなかに入れることについては、懸念をいだかれる方も多いであろうが、日本染織、とくに織りの分野は、ほとんどそのすべての源を外国、わけても中国に発しており、これらは、日本染織に大きな影響与えただけでなく、渡り裂とはいえ、長年月日本の風土になじむことによって、全く日本の裂となったものである。その代表的なものが名物裂であるが、本書においては、名物裂は蝦夷錦(えぞにしき)程度にとどめ、それと同程度の価値を有する古裂の優品を収録したものである。なお、奈良〜平安〜鎌倉時代の織物については、種々の専門書によりすでに紹介されているところであるので、図版の掲載は割愛し、解説においてのみふれることにした。また、解説にあたっては、時代により織物の種類や趣がどのように変化していったか、を重点的に述べ、各織物の織技については、必要以上にわたることをさけてある。技術的な事がらは、専門の方々はすでにご承知のところであり、一般の方々にとってはいたずらに煩瑣になるばかりであることを恐れたからである。日本染織のなかでも最高峰に位置する金襴、錦、緞子等の織物が中国より技術を学びながら、きわめて日本的にこれを消化し、師家以上に発展させたその道程をたどりながら、高度な織物が現代の私たちに語りかけてくるものは何かを、ごいっしょにさぐりたいと思う。浦野理一
    日本染織総華  唐草・印花布  浦野理一(七冊目紹介) 唐草といえば、ゆたんやふろしきに多く用いられていた蔓状のごくかんたんな模様を唐草と思い込んでいる向き見受けられるようであるが、唐草の需要が増すにしたがって、夜具地などに見られる菊唐草、牡丹唐草、あるいは他の草花、鶴、亀などをあしらった複雑な唐草が染められるようになって、改めて唐草というものが注目浴びるようになったようである。「唐草」と日本で称されている文様は、洋の東西をとわず古くから存在し、現在でも全世界の人々に親しまれているもので、文様のなかでは主流をなすものということができるであろう。蔓によって互いに結び合い、軽妙にくりひろげられる文様は、流動、発展、願望などの人間の心理をそのままに表象している文様ともいえようである。唐草は、表されている文様の題材や様式によって、アカンサス、パルメット、ロータス、葡萄唐草、牡丹唐草等々または、ギリシャ様式、アラベスク様式、ゴシック様式、ビザンチン様式、ロココ様式などと呼ばれている。これら唐草の細部にわたる説明は省略させていただくが、日本にも「唐草」として、他国の唐草文様とは歴然と区別される様式のものが存在しているのである。それらが本書で紹介されているので機会があればご覧いただきたい。
    日本染織総華  友禅  浦野理一(八冊目紹介) 史実=友禅・浦野理一・江戸初期の末に出現して、染色界に新しい道を開いた「友禅」。この友禅が、江戸初期の末のいつ、誰によって創案されたか、ということになると、きわめて漠としているのである。一般には、友禅は元禄のころ中心に活躍した画工宮崎友禅斎の創案と伝えられ、友禅という名称もこれに由来するといわれて、今日残されているが、私はこの通説にもとずいて、今日残されている当時の文献や実物資料について、 長い時間をかけてあらゆる角度から研究を重ねるうちに、この巷間の通説を裏づけるよりも、むしろ否定せざるをえなくなったのである。それなら、友禅はいつ、だれによって創案されたか、という史実のなると、残念ながら断定を下すだけの資料にとぼしいものである。むしろ曖昧模糊としたところにこそ真実がひそんでいるのではないか、つまり、友禅という染物は、日本人庶民のすぐれた感覚によって大成された染物ではあるまいかという、いちおうの結論にたどりついたので、このたび「日本染織総華」の一巻として「友禅」編を発刊するはこびとなり、ここに自説を記して、友禅という染物の解説に代えるものである。多くのご批判をお願いするとともに、染織に関心あるか方々に、なんらかのご参考になれば幸いである。
    日本染織総華  小紋  浦野理一(九冊目紹介) 技によって支えられている美・浦野理一・日本の小紋の概略を述べるにあたり、冒頭でぜひお話ししたいのは、私の脳裏に焼きついてはなれぬ、小紋の技術者たちの仕事姿である。型彫りにしても、型置き、染めにしても、いささかの乱れも、いささかの無駄も見せず、確実な手さばきで、リズミカルに仕事を運ぶ職人たちの仕事場は、ピーンとはりつめた空気の中にも十分な余裕を見せたものであった。それは、約400年に及ぶ日本の小紋を支えつづけてきた至芸ともいうべき仕事であり、今日のように安直な労働意欲しか持ち合わせない一部の人々には、とうてい理解できないきびしい世界であった。先輩の罵声のもとに、ときには刷毛やさしで叩かれながら修業を重ねて、一人前になりえた人々、もうその人たちは70歳以下では見当たらないはずである。移りゆく時代といえばそれまでであるが、感無量のものがある。・日本の小紋とは・さて「日本の小紋」とはどのようなものを指すのか、例によって小紋の定義もしくは範囲から限定してゆきたいと思う。小紋とは、読んで字の如く小さな紋のことで、大紋(大形)、中紋(中形)ということばに対するものである。これらのうち、大紋は家紋を大きく染め出した素襖(すおう)の謂いであり、中形(ちゅうがた)は浴衣(ゆかた)の別名となっていることは、ご存知のとおりである。ただし、ここで留意したいことは、現在はかなりの大きさの柄、それも友禅とまぎらわしいものまで、も小紋と称していることである。これにたいし、本来の細やかな柄の小紋をとくに「江戸小紋」と称しているが、これは戦後、文化財委員会によって名づけられたもので、けっして江戸時代の小紋全般を意味しているものではない。 本書においては、江戸時代の小紋帳に見られるような小紋を中心にお話しをすすめている。・北村陵・
    日本染織総華  小袖  浦野理一(十冊目紹介) 「小袖」の呼称について・浦野理一・「小袖」とは、優にやさしく、禀としたひびきをたたえたことばだと思っている。私はこのことばが好きで、多くの作品のなかでも訪問着に類するものには、しばしば「〇〇小袖」という名称を使ってきた者であるが、私のように、「小袖」という呼称を現代のきものに使用している例は、きわめて少ないようである。「小袖」は博物館などに収められている古いきものだけに与えられている呼称で、現代のきものに〇〇小袖などと使うのは誤りなのであろうか。また小袖とは、いったい何を指すのであろうか、などからいっしょに考えてみたいと思う。現代の私たちにとって、「小袖」ということばが、耳遠い存在になっていることは事実である。「小袖」といえば、古い歴史的なきもののすべてを指すように漠然と考えがちであるが、博物館や美術書などの解説を注意深く見れば、「小袖」が古いきもののなかでもごく一部の限られたものにだけ用いられている呼称であることに、すぐ気づくはずである。現在、「小袖」と称し、絹でも袷仕立のものは袷、単仕立のものは単となっており、木綿の綿入は布子(ぬのこ)、麻の単は帷子(かたびら)という表示を与えられているのが普通である。染織や服装を専門にしている人々も、こうした分け分にほぼ同調しているようであるが、このような分け方はいつごろから行われてきたものなのか、また、当を得た分け方であるか、などを考えるために、つぎに古い文献を少々引用してみたいと思う。「貞丈雑記 三 小袖」小袖と云事、上古は装束の下に着する衣服をばうちかけとて、袖を大にしてひろ袖にして着したる也、そのうちきの袖の大なるに對して、常の衣服をば小袖と云なり、かたびら、單物、あはせにても、袖を小さくして袖下を丸くしたるは、皆小袖なり、わた入たるばかりを小袖とふは、あやまり也 「武家名目抄稿 衣服十三下」按、かたびらというは、〇中略 〇 昔は絹にもあれ、布にもあれ、ひとへの小袖を帷子といひて、5月5日より絹帷子、6月7月は布帷子を着用しけり、近世は絹帷子を單物、又は單などいひ、布のひとへに限りて帷子といふからに、端午の朝きのふの袷に頓て布帷子をぬぎかふることとなり、昔の小袖は、綿に袷に絹と布との帷子にて四種なりしを、今は絹帷子を單といひて、晴れて着る時なければ、唯三種のごとくなりたるにや 以上のほかにも、呼称について述べている文献は種々あるが、だいたい似たような記載なので省略させていただく。これらの文献は江戸中期から後期にかけて呼称にたいして確と断定できるものとは思われない。ここで紹介したいのが、神社仏閣などに残されている古い目録などの資料である。日本には、古くから人の死後、故人が身につけていたたいせつな衣料を神社仏閣に寄進する風習があり、これらの目録には「小袖一領」と記して麻の単にも小袖という表記が見られることに注目したいのである。著者が専門外であるため、だれかに聞いて書き記したという例も多かったであろう。とくに服飾や染織に関する事柄は、服制などを除くと、学的に明確に体系化されたものではないので、一部の慣行をもって全体を断定する場合も多かったようである。推論すれば、室町時代に小袖が成立してより、今日のきものの長着にあたるものは、すべて小袖と呼ばれていたのであはあるまいか。それが江戸中期ごろより呼び名に分化が生じ、絹の綿入をとくに小袖と呼び、その他は帷子、単、袷、縞、絣と呼んだが正式にはすべてべて「小袖」と呼ばれていたのではあるまいか。しかし、それは、たとえば麻の茶屋辻などは帷子であって、「小袖」の呼称はあたらない、というように考える向きがあったら、大きな誤りであるので、ぜひご訂正いただきたいと思う。
  3. 中間染織資料55

    中間資料集 染織資料

     

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    古書現代ZERO

     

    色と文献だより 

     

    本場結城紬 北村陵

     

     

    つむぎの歴史

    @中間資料を一度記録

    2015.9.16.

    つむぎ(紬)の原型といわれる<あしぎぬ 施 >と紬とはどのような違いがあったのかの探求は続いている。<日本後記 七 >によると、承和五年(838)十月甲寅、大政官處分、太宰府例進、緋綿紬一百端、今定紺紬十端、黒緋紬四十端、緋紬五十端、(後 略)とある。ここから九世紀のはじめに九州の太宰府(だざいふ)から都へ送られてきたのは綿紬であった。と記述記録上確認できる。綿紬とはなにかといえば追加として<延喜式 えんぎしき>(えんぎしきは昔の紬の歴史的資料と覚えてください。)巻二四主計上の調(物納税のようなもの)の規定によると、豊前国については、<綿紬十七疋(あし 単位数)、自餘輸絹、綿、糸、サヨミ、鳥賊、(略)との記述がありはじまり句読点まで綿紬の表記、その次に絹と思わしき表記で、綿紬と絹は別のものとして、判別されているために綿紬は、現在の糸とり道具つくしから真綿をひいてとった手つむぎ糸による織物、すなわち紬としてよみくだいてよしとしていいのではないだろうか。豊前国とは調としてとにかく糸を納める養蚕主要地であったといわれている。この養蚕もまだ技術的にすべての繭が上出来というわけにいかず、玉繭や出殻繭などの繭を使用して、真綿にしてから手つむぎ糸生産をおこない、紬をつくっていた。この過程として、あげるならば、玉繭や出殻繭などの繭もどうにか糸生産(製糸)をおこなう試みがあったが、いままでの歴史ではどうしても繊維学上からも糸は生産できなかった。捨てるにはあまりにも高級な素材の絹は、セリシンとフィブロイン(繭の構造)といった繊維学的研究といった学術があったかどうかは確認できないが、一般的には繭を真綿にするという技術は難しい問題ではなく真綿にしてから手つむぎ糸生産を行っていた。(私の独断的な見解は、養蚕での真綿にもどす繭は、現在の紬の産地といわれるところに集めていたのではないか と推測する。あくまで私の想像である。ただ実際には現在は紬の産地といわれないまでも全国に相当な数の織物産地が存在したと推測する。これも私の想像である。)

    平安時代後期「新猿楽記」には諸国の紬名があるという。その中に「石見紬」との表記があり「延喜式 えんぎしき」にも石見国の調、との表記から歴史的資料にも共通点をみいだせる。のちの資料「庭訓往来(ていきんおうらい)」から石見紬の表記から常陸紬(結城市のパンフレットはこの紬名をとっているがもともとは石見紬ともいえうる)とある。またしても私の推測であるが、鎌倉幕府の成立は強烈だったとして、鎌倉から近い常陸は重要人物の出入りが激しくなったために急速に知名度が常陸紬(ひたちつむぎ)で定着したとみて結城市パンフレットの表記は石見紬より常陸紬という解釈でよろしいと私も思う。ただこの鎌倉の人間、とくに武家は紬を普段着として定着させてしまうほど武家の間で愛好されたと考えられる。

    染織の日本史について @中間資料を記録二度目2015.9.22. 織物が税や労役の代価として農産物などと共に一般の人々の経済生活の基をなしていたことを忘れるわけにはいかない。10世紀のはじめには、ほとんど全国各地で布、生糸(きいと)、平絹、施、綾などが生産されるようになり、一方中央の官営工房では引き続き各種の高級織物が織り出された他、染色も例えば赤系統の色が9種類もあるように様々な色相に染め分けられていた。延長5年(927)に編纂(へんさん)された「延喜式」(えんぎしき)にはその情況が詳しく記されている。その後、11世紀12世紀の和風文化の華が咲いた平安時代の盛期になると服飾文化をうんだ貴族たちの要求に応えて、特に文様を現す緯糸を浮かして織った浮文の技術の発達をみるにいたり、また今日一般に有職文といわれる特色ある文様の出現もみるに至ったのである。貴族のつくり出したものはその他に社会不安もあった。絹一疋は米2石馬2匹と同じであり麻布でも米1石と5反が同値であったから決して安いものではない。このような経済情況の中で都の貴族たちは地方の広大な荘園から納められる富をたくわえ、ひたすら消費的な生活を送っていたから、やがてそれに反対する乱戦がおこった。社会不安が増して納税の織物も途中の強奪を恐れて、他のものに替えられるようになり、地方の機業は次第に衰えていった。こうして次第につのってきた経済的な社会の動揺は政治の実権が武家の手へ移っても止まず、織部司(おりべのつかさ)も廃止されて、機業は官業から民業へと移ったのである。しかし官業に比べて経済的な保障もなく技術練磨の便宜も少ない民営ではこれまで維持してきた優れた技術を伝えることも次第に困難となり、技術は衰える一方であった。しかし、また一方で常陸の紬等、特に品質の優れた染織品が商品として流通しはじめた。信濃の布、加賀の絹、京都の綾や染物もその優れた染織品として商品流通したものである。皮肉なことにもこうした基盤が確立してきた一方で応仁元年(1467)正月早々に火蓋が切られ、以後10年の長きにわたって都を焦土と化して争われた応仁の乱の勃発によって永い伝統を有する京都の機業は一時中断せざるを得ない状態となった。そればかりか、大乱の波及は地方にも及び社会の混乱は全国に拡がったから機業は全国的に衰えてしまったのであった。13世紀14世紀の間における国内機業の不振による高級織物への要求は、中国との私貿易によってもたらされた。15世紀のはじめには中国明との勘合貿易を開始し、生糸をはじめ金襴(きんらん)、緞子(どんす)、間道(かんどう)、錦(にしき)などの織物を輸入したのであった。京の都を焼け野原と化したが中国から生糸を手に入れた織物職人はそこから逃れるようにして移住し中国のそうした珍しい織物に接する機会を得、新しい織法等も学んだ。今日、名物裂と呼ばれる珍重されているものの多くは、この15世紀16世紀の間に渡来した優秀な中国の裂類であるが、現在これらの裂をみてその中に異質なものを感ずる人はほとんどいないといっていいくらい、日本人の意匠の感覚はとけこんでいる。16世紀中葉から末にかけての、室町時代末から桃山時代における染織は特に注目されるのは、刺繍と絞染(辻が花)と摺箔(金箔を押しつける 金箔を用いる)のめざましい進展であるといえる。この三つは、織物界の不振をおぎなって余りあるものがあった。しかし、織物も16世紀の中葉には再び復興し中国の新しい技術を学んだ製品がつくられるようになった。現在でもなお機業界の王座をしめている京都西陣が新しい機業の中心となって再出発したのはこの時である。この新規な織物の内、繻子(しゅす)は絹のもつ艶光り(つやびかり)を一層強めた滑らかな光沢のある織物として特異な存在であったばかりでなく、その組織は各種の織物に応用されて、織物の発達に非常に大きな影響を与えたのであった。この他、唐織、金襴、緞子などが織り出され、急速な発展を遂げた。また綿花の栽培が普及し、新たな利用価値をもった織物として木綿織物が盛んに織られるようになった。これに引続く17世紀18世紀の永い平和な時代は品質の向上と生産量の増大によって、一層の進歩発達をみたのであった。その原因は中国だけでなく、ヨーロッパ、インド、南方諸島の染織品の輸入が可能となったことにつきるであろう。幕府は生糸、綿花の生産を奨励し、原糸が安価となって、高級品の消費を暗にすすめた幕府の政策、経済力を得た町人が出現しはじめる。小袖が社会の主体的な衣服となった結果、その生地として、羽二重、綸子、紗綾、縮緬、絽などが新たに織り出され、その生産は非常に盛んになり、上質なものが織り出されるようになった。おどろくべき染織史とのつながりを随筆家白洲正子の言葉はここで私の中で一致した。幕府の式楽となり武士はもとより町人にまで普及するにまで至った能の隆昌は能装束の製作を盛んにした。各大名家はそれぞれ能役者を抱え、能舞台を設けて、しばしば演能を催すという有様であったから、能装束の需要は甚だ多く、競って優品が作られた。この結果、唐織、厚板、絽金、紋紗、錦等紋織物の大きな発達をもたらしたのであった。また西洋に倣ったものにモール、ビロード(天鵞絨)があり、毛織物の織法もオランダ人によって伝えられ、兎の毛を交ぜた織物も試みられた。更に舶載(はくさい)されたヨーロッパのタピストリィや中国の刻糸に刺戟されて、綴錦が再び織られるようになった。文様染は南方から輸入された更紗をまねた更紗染がいちはやく行われたが天和3年(1683)の刺繍や鹿の子絞(かのこしぼり)や金紗に対するきびしい禁令は各種の染技法の急速な発達を促し、染色の新しい世界を出現したのである。その中の一つである友禅染は今日なお文様染の主流として続いているが、自由な文様表現や華やかな彩どり、軽快な仕上がりに染技法は元禄以後の小袖の文様加工の中心となってきたのである。型紙を使って染める小紋や中形も、それぞれ裃とか浴衣などの別の用途と趣をもつものとして発達した他、摺や絞の技法にも種々の工夫をこらしたものが作られるようになった。木綿は民衆的な織物として、急激に各地方に発達した。松阪、三河、河内、真岡、久留米、伊予、備後、山陰、川越などである。この木綿の普及と発展は永いこと大衆に親しまれてきた麻の織物を暑中の高級織物にするという土台をつくった。麻織物は越後上布(現在 国の重要無形文化財 ユネスコ無形文化遺産登録 織物)や奈良、近江、薩摩などがある。このようにして19世紀の中頃まで染織界にもしばしば奢侈禁止令(しゃしきんしれい 贅沢をさせないきまりをつくった)、倹約令などによって若干の消長はあるものの、明治の新時代を迎えて、西洋文明を全面的に受け入れた結果、ここに現代染織の基礎が築かれたといえよう。

    2012年社会の側面を追う

    俺は、中小企業のおやじ-鈴木-修

    @中間資料三度目の記録2015.9.27.

    2012年に作成した記事であるが、ちょうど2012年あたりから経営者とはどうなるべきで、どういった舵取りをしていくべきだろうかと日々苦心しながらも考えていた。そのときに一度ネットに反映させてある程度の手応えがあったように思う。

    2015年社会の側面を追う

    老後の真実 不安なく暮らすための新しい常識

    文藝春秋 編

    老後のお金 絶対減らさず少しだけ増やす常識

    文藝春秋 編

    @中間資料三度目の記録2015.9.27.

    同上資料と同時追加

    染織資料おこし作業で、社会の現代人とは別世界で仕事をすすめられていると思われても私は困る。掲載の資料は出版から離れてはいるが大変実用性や応用性にたけたものであるように思う。消費増税、ブラック企業などの2015年のかかえる社会問題は常に私の今後とのつながりがあってかならず自分にも巡ってくるものだと私は考える。好循環も悪循環もほとんど巡ってくるタイミングは都会とは時間差があるかもしれないが基本的には田舎にも到達する問題であり、そうした社会問題等を含む危機管理は、とくに不景気の経済では、文藝春秋がチカラを発揮して、良書を出版する傾向があると、私は思う。予期して避けられる問題は私も早期にめをつみたい。また1000円でそれ以上の期待や効果、刺激剤となりうる出版物は貴重なものである。頭の悪い経営者は、満腹状態にいて、空腹感になることを無視してすすめていく傾向があるために、立場的に違うが相手の立場になって考えてはくれないのである。なんでもかんでもついていってはいけない危険を予測しよう。

    越後上布と結城紬のふたつの織物が織りなす不思議について

    @中間資料作成

    四度目の記録

    2015.9.29-30.

     

    伝統織物は日本各地で織られている。土地の自然風土や生活環境のなかから生まれ育ったものが少なくないというのが一般的な見解といえる。その典型ともいえ、いまだに自然環境と一体化して織り継がれている織物たち。越後上布と結城紬は、たぐいない価値を有する人類の無形遺産が集積されているとの評価より<ユネスコ無形文化遺産の登録>をこのふたつの織物はうけた貴重な伝統的な技法による織物であり、たぐいない価値を有する民衆の伝統的な文化の表現形式でもあるとの評価もされている。越後上布をみてみると、米どころとして知られている、新潟県の魚沼は一千年にもわたる歴史をもつこの地では、かつて江戸時代の最盛期には年間二十万反ものを産してこの地の多くの人々の生活を支え魚沼の地を潤し続けた。米作りの裏側で絶え間なく続けられた上布の製織が、国の重要無形文化財の文化財保持の指定がもっとも早かった。そしてこの環境とまったくといっていいほど同じような環境をもっているのが結城である。結城紬は農業が盛んな地域であり、冬の農閑期は農作業を一時的にストップさせてしまうために家内制手工業として結城紬を農閑期に農作業のかわりのように仕事にしていたのである。越後上布も結城紬にとっても、米の生産と織物はきってもきれない仲なのである。ともに年間生産反数は減少をたどりながらもなんとか昭和という時代をかけぬけた。ユネスコ無形文化遺産登録が一番早かったのが越後上布であり次に結城紬となった。

    越後上布の糸の原料の青苧(あおそ)は昭和村から送られてきて、その青苧の繊維を爪先で細くさいてつなぎ(熟練の技がいるといわれている)、糸としておくのが苧績み(おうみ)である。上布は慶長三年上杉景勝が福島県会津へ転封されると共に青苧の栽培も会津へ移り越後での栽培はその後減少した。原料は会津の昭和村から越後上布の産地におくられている。(慶長三年のことについては(a)文章にて情報補足を下記で行う)。結城紬も原料の袋真綿を福島県の保原にゆだねていて原料は福島産のものである。もともとは結城や小山などの結城紬産地で養蚕からの原料づくりはおこなわれていたが、鬼怒川(きぬがわ)の氾濫によって結城家とつながりのある福島へ養蚕の地を移動させた。

    青苧をその繊維を爪先で細くさいてつなぎ糸としていくのが苧績み(おうみ)といったが上布は薄く軽いほど上質になり、糸はできるだけ細いほうが望ましい。江戸時代越後産地の嫁は糸が汚れないように当時既婚女性の一般的風習であった歯を黒く染める<お歯黒>をせず白歯であったということが「北越志」や「越の山都登(こしのやまづと)」という寛政十二年に書かれた書物に記録されている。原糸を作るときは青苧をくちにふくんで唾液で濡らして繊維を爪先で細くさいていたからで上布の生産が彼女たちの生活にとって風習を変えさせる程重要な仕事であったことをそれは物語っている。この他、第二の要件、第三の要件がまたしても結城紬ににているのである。模様をつける場合は手くびりによることとあり、織りは地機で織ることとあり道具類も含めて同一のようだ。緯糸の管を入れる穴をもった刀状の杼(ひ)を使って手前の直線の刃型になっている部分で強く緯糸を打ちこむ。腰で経糸のテンションを加減しながらこの刀杼(とうひ)で緯糸を強く打ちこむところに高機織りとは違う、地機の独特の地風がうまれていくといわれている。第四の要件は「しぼとりをする場合は湯もみ足ぶみによること」とあり、結城紬の縮布にも似てこちらは「しぼ出し」と呼ばれている工程に同じくみることができる。第五の要件は越後上布の「さらしは雪ざらしによること」とある。これは結城紬の産地は豪雪地帯ではないのでおこなわれていない工程である。さらしの目的は漂白することにある。晴天の日を選んで雪上に布をひろげて天日にさらす。雪ざらしは水分が布目を通って蒸発するときのオゾンの作用と言われ、その 期間は一週間から十日ぐらいとされている。この越後上布と結城紬のふたつの織物に不思議なまでに共通点があると感じる。

    (a)慶長三年について:越後から会津へ国を替えることになった。会津百二十万石の地といわれている。関東平野へぐっと接近入り。上杉景勝を支えた唯一無二の家臣がNHK大河ドラマでご存知の方も多いかもしれないが、愛の兜をかざす直江兼続である。上杉謙信の後継者争いの戦いが上杉景勝と上杉景虎の間でおこり、身内に矢を引いて戦わなければならない身内同士のいくさを景勝を直江兼続は影でささえたという話は有名である。慶長三年にはすでに織田信長が幕府を滅ぼし勢力がかわりはじめてまたおちついてきたころかもしれない。歴史専門家のほうが詳しいだろうと思う。

    きもののきろく

    小袖にみる歴史のなぞり

    @中間資料記録

    五度目の記録

    2015.10.4.

    現代のきものの祖型である<小袖>は中世半ば頃から服飾の中心的な形式として浮上し、近世にはその装飾に独自の展開を示し、桃山から江戸初期にかけての小袖は特権的な武家階級の好尚を反映して、肩裾(かたすそ)や段替わり(だんがわり)のような左右対称で区画内に充填的(じゅうてんてき)に文様を配する意匠が主流をなしていた。しかし、17世紀も半ばを過ぎた寛文のころになると寛文小袖と呼ばれる自己主張の強い特権的な意匠が流行するに至り、江戸のファッションは町人主導のものへと移行していく。町人たちは、遊女やかぶき者たちの異装を健全な市井の装いと同化しつつ、小袖デザインを一気に拡大していった。

    きもののきろく2

    着付け、意匠のきもの変化

    @中間資料記録

    五度目の記録

    同上資料と同時追加

    2015.10.4.

    ファッションの主導権が特権的な武家階級から町人たちの手に委ねられる。伝統的な規範にとらわれない彼らは遊女やかぶき者たちの奇抜な装いに刺激を受けながら、あらゆるモチーフを積極的に文様の世界にとりこんだ。

    かぶき者は、流行するデザインをあんに先取りしている場合が多かった。

    たとえば、背中に橋をえがいたデザインを着て、遊女を誘う。その橋は、織姫とひこぼしが再会を果たすための橋であったり、天の川に織姫と彦星の架け橋を描いてしまうスケールのデザインであったり、京都の恋愛で有名な橋をモチーフにしたりしている。着物デザインを挑発に使うのである。

    きもののきろく3

    華から粋への志向へ

    爛熟の果てのきもの

    @中間資料記録

    五度目の記録

    同上資料と同時追加

    2015.10.4

    友禅に代表される染色技法の発展は、江戸中期の染織界に華麗な意匠の世界をもたらした。しかし、急速な流行の拡大の結果、意匠の創造性が消耗していったこともまた事実であった。江戸時代の後期になると、ファッション界を席巻したのが「粋」の意識に導かれた縞や小紋の流行であり、ここでは表面的な華やかさは敬遠され、見えないところに贅を尽くす感覚が尊ばれる。重要なのは見栄ではなく、質であり、生地の風合いや染の仕上げ具合など、装いの微細な部分がポイントとなる。流行の拠点も京都だけでなく、江戸の果たす役割が大きくなりはじまっていく。

    浦沢月子さんについて

    記事引用

    (日本の染織2 紬 

    素朴な美と日本的な味わい 

    p114 草柳大蔵 )

    より 引用

    2015.10.15

    紬とともに 浦沢月子 追加2015.11.4

    六代目「紬屋吉平」の着物人生  織り子の生命を伝えたい女 浦沢月子さん

    (日本の染織2 紬 素朴な美と日本的な味わい p114 草柳大蔵 )

    より 引用

    紬とともに 浦沢月子 追加2015.11.4

     

    多様な織物を生んだ数の文化

    中間資料作成 六度目記録

    2015.11.4

    織物の文化はエジプト、メソポタミア、中国など各地に誕生しそれぞれユニークな特徴をもちながら発達してきた。それらの土地で織物の文化が発達したのは、原材料としての麻、木綿、絹などがあり、それを糸にする技術があったほか、糸から布にするのに欠かせない「数の文化」があったからだ。かつて布や織物が未発達だった原始時代、人々は狩猟で得た動物の皮を着たり、草木の葉をつなぎ合わせたものや、縄を縫い合わせたものなどを着ていた。青森県から出土した縄文晩期の土偶を見ても、縄の肩衣と縄の袴をつけており、古い衣服形式の一つは「縄衣」であったことがわかる。その後、藤、楮(こうぞ)、麻などの植物を水に浸けたり、蒸したり、煮たり、叩いたりして、繊維質を取り出したうえ、糸をつくることを考え出したのである。こうして織物文化の第一歩を歩み始めた。織物というのは、いうまでもなく平行に配列された一組の経糸と、これと直角の方向に平行に配列された一組の緯糸とを、一定の規則にしたがって交差させ、その交差させる作業を連続して作り出したものである。経糸と緯糸とを交差させることを「織る」といい、その規則、つまり糸の交差のさせかたで、織物に美しい多様な変化があらわれるのである。規則とはいいかえれば「織組織」であるが糸を交差させて織物にし、そのうえ織物に模様を表現しようとするには、その織組織を考えなけれなならない。そのために数の概念が欠かせず、したがって「数の文化」があったからこそ、織物の文化が発達したのだといえよう。実際、現在も盛んに使われている和服地の多様な織組織は、それらの織組織を実にさまざまに組み合わせて生み出されいるわけである。

    織物の組織について

    中間資料作成六度目記録

    2015.11.4

    経糸と緯糸とを直角に交差させて織物をつくるが布を織る場合に問題になるのは、どのような織組織によるか、ということだろう。この織物の組織には多くの種類がある。しかし大別すると次のまとめのように7種類に分けられる。

    (1)原組織=平織、斜文織(綾織)、繻子織 <代表的な織り方の三原組織ともよばれる>

    (2)変化組織=変化平織、変化斜文織、変化繻子織 

    (3)特別組織=蜂巣織、模紗織、梨地織、ハック織、混合組織など

    (4)重ね織組織=緯二重織、経二重織、二重織、風通織

    (5)添毛織(パイル織)=別珍、天鵞絨、二重天鵞絨

    (6)搦み織

    (7)紋織

    とわけることができる。以上のうち、(1)の原組織が織物の組織の基本となるもので「三原組織」とよばれている。

    絣以前の絣の系譜

    中間資料作成七度目記録

    2015.11.4

    日本に伝来し、現存する最古の絣は太子間道の愛称で親しまれている法隆寺裂「広東錦」である。これは経糸の非常に密な絹織物で、紅地に黄、藍、白、緑、黒の五色で波状の杢がうねっている模様の、明らに南方系に属する「経絣」であるのに「錦」として分類されている。まだ「絣」というカテゴリーが未成立の時代であったからである。その意味で、室町時代の能装束の「しめきり」も、経絣とまったく同じ技法で、経糸を赤、緑、白等の段染めにし、緯糸も経糸が赤の部分には赤、白の部分には白で織り、装束全体に市松のような効果を出す。明らかに絣の技法であるが、これはあくまでも装束全体を引き立てる背景であるので、まだ絣とは考えられていない。さらに江戸時代の武士の礼服であった「熨斗目」にいたっては、袖や腰の部分にだけ縞や格子を表して、「しめきり」よりさらに絣的、いやまさに絣そのものであるにもかかわらず、熨斗目絣とは呼ばれなかった。しかもこの時代には、すでに「かすり」という日本語も生まれていたのであるから、これもまた絣以前の絣の系譜として考えるべきであろう。
    南蛮貿易による絣の系譜

    中間資料作成八度目記録

    2015.11.5

    御朱印船、南蛮船渡来等、室町末期から徳川初期にかけて、東シナ海から南シナ海一帯は各国の商船でにぎわい、フィリピン、ベトナム、カンボジア、タイ等に日本人町が誕生したほどであった。南シナ海を囲む国々は絣の産地でもあったので、これらの島々の物資、即ち「島物」の中には、当時数多くの絣織物が含まれていたに違いない。勿論琉球絣も十四、五世紀頃から南方系の影響を受けて芭蕉布に絣を織り込むようになり、この時代にはほぼ完成されていたし、南方貿易の重要な中継地であったのだから、これもまた相当量が日本に送り込まれたと考えられる。こうして縞ともちがう「掠れ」た面白い柄に対して、日本独自の「かすり」という名称がつくり出されたのも、1603年に長崎学校で編纂された日葡辞書に「かすり」の項があることから考えても、この時期であったといえる。この時期にカテゴリーとして「絣」が成立していた。
    麻布による絣の系譜

    中間資料作成八度目記録

    2015.11.5

    日本ではじめて絣が織られたのは麻布で、場所は越後であったと推測する織物研究者もいる。理由は色々あるが、基本的には裏日本の物資を大阪に廻送する西廻海運によって、越後と琉球がつながった。漂流したこともあっただろうが、鎖国以後は密貿易も多かったにちがいないとしているのである。帆船であるからすぐに帰るわけにはいかない。その風待ちの二、三ヶ月、越後布と同じ麻布や、よく似た芭蕉布に織り出された美しい絣をみて、船員たちがその技法を習得して帰ったという説である。しかもこの時期は薩摩絣が織り出されたとされている元文五年(1740)よりもはやい。渡辺三省著「越後縮布の歴史と技術」によれば北越機業史に「享保年間(1716-35)越後小千谷の織工カスリチヂミを織り出せり」とある。いずれにせよ、麻布は庶民の衣料として古くから日本の各地で織られていたのだから、当然これらの自家用や村々の市で売り買いされる麻布にも、次第に絣が影響し伝播していったと考えられるとしている。木綿が普及する以前には、庶民の衣料といえば、たいま、苧麻、葛、芭蕉、しな、藤、こうぞなどの植物の繊維を繋いで糸で織った布だけであった。これらの糸には薄褐色の色素のむらがあり、織りあがった布はこのむらが縦横にはしり、乱絣のようになる。これをとるには十日あまりも日光に晒す作業をしなければならない。自家用にそんな手間をかけることもないからそのまま着てそのうえに藍染して着た。このように布の中には、まだ自覚されない絣の赤子が、ねむっていたのである。日本の絣が麻布にはじめて表れたのは単なる偶然ではなかったとみられている。
    木綿織物による絣の系譜

    中間資料作成@

    九度目の記録

    2015.11.7

    インド原産の草棉が中国南、中部を経て、朝鮮で栽培されるようになったのは十四世紀後半である。この朝鮮綿布が応仁の乱(1467-77)前後に大量に輸入され、文明以降には一年に10万匹にも達した。やがて日本の綿布に対する需要が朝鮮の生産量をはるかに越え、日本でも木綿の栽培が始まるのであるが、それは「ほぼ明応、永正(1492-1520)以前と指摘できると思う」(岡野和子 高田幸枝 共著 「近世庶民衣料の一考察」)ただ木綿栽培の北限は三十七度、日本は棉作が可能な北限ぎりぎりにあるので、その栽培の苦労は大変なものであった。しかし棉花を手に入れれば、それ以後の製糸、製織の手間は、例えば麻糸の中程度のものでも、一日約九、十匁しか績むことができないのに、綿糸では約四十五匁も紡ぐことができる。製織にあたっても堅くてまったく伸びというものを持たない麻類の糸に対し、綿糸には柔軟性も伸び(伸縮性)もあり、扱いやすく効率的であった。その上染色性はよく、保湿性にも富んで柔らかい。さらに各工程が容易であるということは、麻類よりも安価であるということに通じるのであるから、木綿の伝来は庶民の衣生活を変化させた。しかもこの木綿の普及と、南蛮貿易による多彩な南方系の縞木綿の伝来が重なったということは、日本の庶民の染織文化にとって幸運であった。サントメ島によって代表される南方系の縞(サントメ縞)の柄は、それまでまったくといっていいほど縞柄を知らなかった日本人、特に庶民の心を激しくとらえた。藍は紺屋で染めてもらい、色糸は野山の植物を煎じて染め、縞を織った。唐桟縞には及ぶべくものではなかったが、それでも彼らは十分に満足したのである。この木綿縞の流れと、麻織物による絣の流れが十八世紀中期に合流したのである。その点を含め、以後の考察のために、ここで各産地に伝承された絣創製の時期にしたがって簡単な年表をおくことにしよう。

    文中元年1372年 琉球 芭蕉布

    寛文延宝1661年 越後 麻

    元文五年1740年 薩摩 木綿

    元文五年 同   河内 木綿

    宝暦年間1751年 大和 木綿

    宝暦年間1763年 米子 木綿

    安永年間1772年 近江 麻

    天明元年1781年 村山 所沢 木綿

    寛政十一年1799年 久留米 木綿

    寛政年間1789年-1800年 名古屋(佐々絣) 木綿

    享和年間1801年 伊予 木綿

    文化年間1804年 米沢 紬

    文政年間1818年 倉吉 木綿

    文政年間1829年 広瀬 木綿

    文久年間1861年 備後 木綿

    慶応年間1865年 結城 紬

    となる。こうして表をつくりみてみると、麻と木綿の絣の合流が前期にあり、中期には庶民の衣料が綿布にうつり、各地で一勢に木綿絣がうまれ、後期になると絹の紬にも絣が浸透してゆくのである。同時に一般によく言われる、絣は琉球(沖縄)から薩摩、久留米、伊予、備後、山陰という伝播は地図のうえでの、観念的で図式的、無責任な説であることが理解されよう。この俗説の根本的な誤りは、薩摩と久留米を同じ九州であるという点で、実に安直に結びつけたことにある。久留米が他国の絣の影響を受けたとすれば、博多、長崎等の古くからの貿易港に近いという地理的な条件と、隣接した甘木に久留米絣よりも以前に、絣と同一の技法の絞染めがあったということをむしろ重視すべきだろう。絣の伝播は、琉球絣にあるという点は同じである。琉球絣の日本への伝播の道は<ふたつの道>があったと考えてみようではないか。

    ひとつは、前記してきたように琉球から越後である。そしてこの絣の流れが西にむかって近江上布につながると共に、一方関東地方等にも影響をあたえた。米子絣(弓浜絣でこれが倉吉絣と広瀬絣の母体という説)海路の中継港であり、伯州棉の産地であったのでこの系列にはいる。

    ふたつめは、琉球から薩摩を経由し海路大阪へという道である。これが「河内絣の文様の基本型はいずれも琉球絣の文様を踏襲したものである」と辻合喜代太郎が著書「河内木綿譜」でのべるものであり、河内、大和、そして近江で越後絣の流れと合流する。

    さらにみつめは、久留米絣はまったく独自に創製され、(井上でんの説を久留米絣からみるとわたしはこの説は充分におこりえるとみている。)伊予、備後に伝播した。

    というものである。勿論、当時の日本の織物は各産地をはじめ自家用織物にいたるまで木綿布の普及にともなう染織技術の向上があり、以上の三つからはずれても独自の工夫によって絣の技法をうみだす水準にあったと考えることもできうる。さらには伝播は一方向でなく、しばしば逆流することがあることを頭にとどめたい。

    日本にある赤について

    赤染材料

    @中間資料 作成

    2015.10.11.

    日本にある赤、茜(あかね)、紅花(べにばな)、蘇芳(すおう)、臙脂虫(エンジムシ)の4種類について

    茜:日本古来より自生していた茜の根による染色 4世紀には遅くても染色されていたとされる。正倉院に収蔵されている染織品のなかで「平螺鈿背八角鏡」(へいらいでんはいのはっかくきょう)は、螺鈿(らでん)や赤い琥珀(こはく)、トルコ石が埋め込まれている印象的な鏡でこれを納める「漆皮鏡箱」の身の内面、ここが茜染による糸で綾地の唐草文が織られている。前後するが、国産ものとはいいきれない正倉院の収蔵のもので世界のいたるところの染織品を保存した可能性があり国産であるとはいいきれない。しかしながら日本茜の自生していた事実や中国から技術伝来などで、茜染めは日本に定着しやすい環境にあった。

    紅花:<日本の染織 紅花染 花の生命を染めた布 >評にて、技法等などを情報追加し、まとめたいとおもう。

    蘇芳:インド南部、マレー半島、インドネシアなど熱帯、もしくは亜熱帯地方に生育するマメ科の植物。そのみきの芯材に赤の色素がある。蘇芳には薬としても効果があり下痢や嘔吐をおさえる効果がある。気温の低い日本ではどうしても生育する環境にならず輸入して使用するしかない。正倉院の収蔵物「黒柿蘇芳染金銀絵如意箱」(くろがきすおうぞめきんぎんえのにょいばこ)があり、黒柿の木でつくった箱を蘇芳で赤く染めかさねたものであるという。さらにそのうえに金銀で唐花木文様をほどこすという装飾性の高い箱。平安時代になってからも赤色は高貴な色として人々を魅了する。

    臙脂虫 エンジムシ 紫鉱:カイガラムシともよばれる。昆虫であるが植物とともにいきる種類は一万種といわれている。運動機能を失った雌は、一部の雄とともに植物に寄生し樹脂で身体をおおう。カイガラムシの分泌物は赤の色素を含んでいるために染料や薬物として採集されてきている。ラックカイガラムシはよく知られる種類でオオバマメノキ(マメ科)、アコウ(クワ科)、ライチ(ムクロジ科)、イヌナツメ(クロウメモドキ科)などの樹木に寄生する。インド、ブータン、ネパール、チベット、ミャンマー、ベトナム、タイ、中国南部で採集できる。正倉院に「紅牙撥鏤尺」(こうげばちるのしゃく)「 紅牙撥縷撥 」(こうげばちるのばち)があり、象牙(ぞうげ)を研磨したものにエンジムシの赤、もしくは上記三種のいずれかの赤染材で染色したと考えられる。

    宮古上布の機織りの苦悩と歓喜、そして本場結城紬とにている運命

    @中間記録2015.11.25

     

    宮古上布と結城紬を私なりにおりまぜてつづりたしましょう。もともと宮古上布は、現在のような形のものではなく、無地もの、縞ものが多かったようです。(本場結城紬にも同じことがいえます。絣生産到来以前は織物はすべてにいえるでしょう。絣は海外から、まず日本には沖縄、琉球王国に伝来し、全国へ伝わっていく歴史のことから宮古上布のほうが絣生産は本場結城紬より、幾分はやかったことと思われます。)麻がたくさん栽培できること、琉球藍という染料が豊富なことで、独自の織物が栄えた島でしたが、今日のように貢納で発達するような土壌もあったのです。沖縄では、芭蕉布が民衆のふだん着として愛用されていましたが、その他にも木綿や麻の織物も着用されていました。とくに宮古では、宮古頭職に任ぜられた下地真栄の妻が、紺細上布(今の宮古上布の前身)を工芸品として、琉球王府に献上したのです。ところが、それがかえって悪い結果をよび、あまりにも素晴らしいものなので、それをみた薩摩政府が、わがものにしようと乗り出してきたわけです。また宮古では、機を織る女には「苦労米」といって米を支給した。家族には非常に喜ばれた。しかし、機織りの女たちの苦しみは想像を絶するものがあり、毛髪が抜け落ちる女は多かったということでした。ただ織るならまだよいのですが、ここに「貢布検査」という難関があります。一反一反につき、織った本人の前で、原料、染め方、織り方、量について検査をするのですが、織り傷や、染料のムラは絶対に許されず、糸も太さが全部揃っていないと、はねられたのでした。これが不合格になると、これまでの苦労が水の泡になるので、彼女たちはひざをつき神に祈りながら、検査結果を待つのです。(備考と参考文:本場結城紬のこんにちもにたようなところがあります。検査制度があること、織り手の心理も非常によく似ています。こうした想像は売り手側にも理解があればよいことかもしれません。上記ページ内の浦沢月子さん紹介記事を参照、参考にしていただけるとわかりやすいと思います。)糸の不揃いも(素人目にはまったくわからないのですが)、新案の意匠の前では、少し大目にみてもらえたようです。ですから、先を争って新柄を考案し、検査がよりスムーズに行くことを願ったのですが、この検査のおかげで、逆にすばらしい宮古上布の技術が現存している、ともいえそうです。自家用から献納布になり、明治の中期以降やっと自分で織ったものは、自分で売れる時代がきました。こうした織物の自分で売ってよい時代の到来をむかえた織物産地はたくさん全国にあります。しかし、その価格も、原料の買入れと、1人分の食費が出るくらいのものでしたが、監視されながら献納のために織るとは、もう雲泥の差です。(2015年現在時、本場結城紬は常に監視下にあります。こうした検査制度の確立が時代時代で厳格化を増し、非常に大変な思いがかさなっていっているのです。これは生産者にとって大変なる課題と宿命です。皮肉にも私(北村陵)が言わせてもらうなら、検査は2時間あれば一連の検査は終わるでしょうが、検査員は公平を保つために第三者(扱いは公務員等、学識者等)がおこない、落ち度が見当たらないようなものも厳しい目線で不合格となった検査依頼者が激怒してしまう場面はいまだにあるといいます。私も激怒した依頼主の気持ちは織元の人なのでよくわかります。学識者は頭がよい、らしいですが、ではいちからつむぎをつくった人の気持ちはわかんのかといいたいものです。場合によっては織るだけで約一年、また半年など長期にわたって出来上がったつむぎに数時間の検査で、あなたのつくったものはダメといわれれば、激怒する人の心は折れます。だから生産者にお前はなってみなさいといった激怒話になるのは当然なきが私はするのです。やけぼっくりにみず状態の激しい口論になるといいます。どちらの主張もそれなりにいいぶんはあるでしょうけど、検査員はそうした学識以外にも、学ぶべきことは多々あると私は思うのです。検査員は世の中学識だけではないことをも理解を深め、頭がいいといって優越感にひたって有頂天のままではいけません。頭がいいというのは脳みそのシワが年をとれば誰だってうすれてなくなっていきます。誰でもいずれ単細胞になるのです。その道数十年という生産者(いってみれば反物検査依頼者)にとって検査員の判断がただの屁理屈にきこえてしまう場合だってあると思われ、どうしても私は激怒する生産者の人の気持ちと同じようになってしまいます。)話がだいぶそれましたが、女たちは競って機を織りました。明治二十六年の生産反数は960反で、その前の献納布がだいたい1400反以上ですから、約3分の2の生産量です。数が落ちておるのは、身体を無理しない程度に織るからですが、この時代は機の種類が地機織りであったことも影響しています。高機織りになったのは、大正時代になってからといわれ昭和には生産量もかなり増えて3000反くらいの大量生産で、どっと市場に出まわりました。(こうした問題は需要と供給、さらには上布ブームなどに対応したものであり、様々な視点からは賛否両論でしょう。手織りの地機織りにこだわって欲しい、という人もいれば、供給が過剰時は、地機織りでは手に入れられる人も少数となります。商人にしてみれば、とにかく数をつくりたいのです。こうした時期は当然ながら品質は低下します。)薩摩上布(歴史解釈によって呼び名は多少異なる)が庶民が着られるようになったので、この言葉は戦前まで、宮古上布と改められずにつけられていたようです。そして宮古上布と呼称がかえり、いきいきとしてきましたが、東京の力の強い問屋が、またまた宮古上布をひとりじめして、高く売りさばき、ごくわずかな人にしか手に渡らないようになってしまいました。宮古上布は、大衆の手には渡らないような運命にあるのでしょうか。本場結城紬もまた同じようなカテゴリーに分類されている印象があるように私は思います。そして、後継者不足問題もかかえています。そうした問題に答えはまだでていません。

    中形

    @中間資料を一度記録

    (古書現代2の再掲)

    2015.12.5

    きものに夏姿ということがある。そして秋姿、冬姿、春姿ということはない。これはわが国の高温多湿の夏の季節から生まれた、風土的なきもの美をいうものである。夏姿には絽や紗、上布を着た姿もふくまれるが、夏のきものはマテリアル、織り方、文様、色彩にいたるまで、他の季節とがらりと変化がみられる。きものの形が一年中同じで変化がないことが、必然的に視覚的に涼感をだすことに、工夫がこらされてきた背景がある。浮世絵には美人画の外にも、北斎などが描く風景画の空の色、水の色に藍からつくった藍蠟(あいろう)という絵の具が用いられていた。藍ガメの中の藍液は黄土色を呈している。この中に糸や布をひたして空気中にさらすと、藍は空気の酔素と化学反応をおこしてはじめて青く発色する。紺屋のものは、これを風を切るという。藍はかつて世界中の暖かい地方で用いられたが、現在、植物藍を用いているのは日本と数カ国を残しているのみである。きょくちてきにはその民族が藍染めの技法を昔ながらの染色をおこない、なおのこるといった感じである。藍の色は日本の風土によく調和する。藍の色をアメリカの人は「ヒロジゲブルー」「ジャパンブルー」と呼んで珍重するのも、日本人の生活に密着した藍色に対する魅力によるものがある。中形には、地色が藍で文様を白く染め抜いた地染まりの中形と地が白のままで文様を藍染めで表した地白中形がある。昼間は地染まり中形をきても、夜ともなれば地白中形が粋に見えて調和がよい。三遊亭圓朝の人情話『牡丹灯篭』にカランコロンと下駄の音をひびかせて出てくる幽霊は、地白中形でないと凄味が出ない。また「生き堪へて身に沁むばかり藍浴衣 橋本多佳子」の句には、紺の地染まり中形が連想されるといふものが多いという。歌舞伎役者によって流行した中形をあぐれば、

    仲蔵縞:仲蔵が毛剃九右衛門にふんしたときに元船の場面できた変わり縞 

    芝翫縞(しがんじま):四筋に釻つなぎ(かんつなぎ)を配し、芝翫に通じさせた模様

    鎌輪ぬ(かまわぬ):鎌の絵のなかにぬの字を入れた図を三筋縞の中に配し、「染めもかまわぬ江戸自慢、、、、」の長唄の文句に合わせたもの

    市村格子:十二代派左衛門好みで、白地に紺で破れ格子に片仮名のラの字を配した柄

    その他、歌舞伎芝居にゆかりのある粋な中形も多い。以上、ふれた中形は、重要無形文化財として指定されている江戸中形(長板本染中形ともいう)主としたものである。中形には明治年間に大阪からはじまった注染中形(折付中形、手拭中形の名もある)がある。現在の中形の大部分は、この方法で染められる。

    郡上つむぎの蘇生 宗廣力三

    宗広力三

     

    @中間資料を一度記録

    2015.12.5

    郡上八幡は、岐阜から越美南線に乗り換えて、約二時間、飛騨山系の山塊にいだかれた小さな城下町である。人口は約二万人、町の中央を長良川の支流、吉田川が貫流し、紅殻格子の古い家並が続く、小さな町である。この郡上八幡町から、北に5kmほど山に入った小駄良郷に宗廣力三さんの主催する「郡上郷土芸術研究所」がある。大きな民家を改造したもので、一階が「郷土織資料館」となっている。自然の草木染絣として、独特の風合いを持つ郡上紬は、戦後、宗廣さんによって創始された。宗廣さんは、大正三年四月二十五日生まれであるから、62才になる。郡上紬の歴史は、宗広さんと共に始まった。もともと、郡上八幡は、源平の昔、平家の落人たちがこの地にわけ入り、村をつくったところであったから、郡上織と呼ばれる伝統絹織物が織られていた。柳宗悦とも交流があり蘇生を志す。郡上紬は野性の蚕糸を紡いで、草木染めしたもので、10世紀に醍醐天皇の命により編纂された「延喜式」にも『曾代糸』と記されており、伊勢神宮の神官の装束に用いられた。宗廣さんは、眼鏡の奥で柔和な笑みを浮かべ、苦労話を語ってくれた。それは、苦難と希望に満ちた、闘いの人生であった。宗廣さんは、農家の次男として、初音の町に生まれた。三男のものが家を継いだ。宗廣さんは、小さい頃から研究熱心で、一つのことを思い込むと、かならず完成させなくては気のすまぬ性格であった。郡上農林学校の生徒であった時にも、寒冷の地では作ることができないとされていた、西瓜やメロンをセロハン張りの室をつくり、実らせている。この成果が何事もやろうと思えば出来る、という自信を植えつけた。学校を卒業すると、県立畜産試験場に入る。ここで、羊毛加工などの技術を修得する。昭和14年、25歳の時に、留学生として、約六ヶ月、ドイツ各地の農場を視察した。このドイツ留学の経験が宗廣さんの視野を世界に向けさせた。郡上八幡地方は寒冷の地であり、貧しい土地であった。この貧しさゆえに、この地の人は、向上心に燃え、反逆の精神があった。また、幕末には、会津白虎隊と共に、最後まで官軍と戦った郡上凌霜隊が、よく知られている。この反抗の精神は、昭和12年になると、青年運動へと発展する。「凌霜隊塾」と呼ばれる修養道場の建設である。これは、郡上郡の次男、三男たちが、八幡町城山の山麓に、山小屋をつくり、荒野を開拓し、自給自足による共同村の建設を計ったものであった。農家の次男たちにとって、土地ではなく、働く場所をもたなかった。この青年達は、共同村の建設によって、理想郷の村づくりを計った生活革新運動であった。戦前の気風も、国策として、海外への飛躍を望んでいたし、県も、この「凌霜隊」に補助金を与え援助した。最初は10人程の小さな運動であったが、やがて、県内から青年達が集まり、満州開拓団、郡上村建設へと発展していった。共同作業によって、山地を開墾し、羊をかい、ホームスパン加工をした。宗廣さんは、この「凌霜隊」に入所し、やがて、広い知識と指導性をかわれ中心的存在となっていく。ようやく実りを結びかけたこの運動も、終戦によって挫折する。敗戦の焦土の中で、希望に燃えて旅立った青年達は、現在の中国東北地区から続々と郡上に引き上げてきた。失意と飢えに怯えた灰色の時代であった。宗廣さんは、これらの青年達に、生きる希望を与えようと、昭和21年、大日ケ獄山麓の国有林三百町歩を払いさげてもらい、五ヶ所に小屋をたてて、太平開拓農場を開いた。それは、山林から木を伐り出して建てたバラック小屋であり、食べるものとてない極貧の生活であった。宗廣さんは、妻とうきさん(55歳)と二人の子供をかかえ、生活苦と闘った。毎日、荒地でできる大根とジャガイモの生活であった。米粒など一粒もなかった。現金収入はゼロに近く、食塩を買うお金もなく、近くの農家にもらいにいったという。衣服は、特需物資を払い下げ、古着を直してあった。共に作業している人々の家を訪ねて見ると、陽がかんかん照りなのに寝ている。腹が減って働けぬというのだ。宗廣さんは困った。そして思い出したのが郡上織であった。織物のことなど全く知らぬ宗廣さんは、京都染色試験場を訪ね、インド原種エリ蚕研究家として知られる浅井修吉氏に面会を申し込んだ。浅井さんは、宗廣さんの情熱にうたれ、つむぎ制作の指導を約束してくれた。その時の心境はまさに藁をもつかみたい気持ちであったという。昭和22年、浅井さんから都合してもらったヒマと「神樹」(うるわしの種)を、農場に持ちかえり、植えた。だが、その年は、水照りが続き、発育せず、わずか10kgのまゆがとれただけであった。エリ蚕はインドのアッサム地方では、親子三代に着られるという上質の絹糸で寒冷の地で育てることは難しい。しかし、宗廣さんの不屈の闘志は、この難点を打破した。品種の改良を行い、やがてマユの木はすくすくと育つようになった。ようやく糸ができると、宗廣さんは、付近の農家から高機をかりだし(のちに地機織り、結城紬の織り機で日本最古の織り機で織るようになる)、浅井さんの指導で、織り方の勉強をした。自ら修得した織りの技術を妻に伝え、やがて、共同農場の人々に教えていった。染めは、山麓にある自然の草木を用いて草木染めした。黄色は、黄八丈と同じように刈安(かりやす)、淡黄色は渋木、茶は阿仙にクルミ、赤は蘇芳、紅花、(生涯の代表作の赤には日本茜をつかうあとあとである)、藍色は藍である。しかし、色調の度合や、かんが解らず、自分の考えていた色がでない。この頃化学染料などまだない。寒風の吹きすさぶ早朝に起きては、火を焚き、草木を入れて、何度も試験を重ねた。ようやく、昭和25・26年頃になると、紬らしいものが出来上がった。それまでの三、四年間は、まったくの無収入で、共同農場の人々など、「前途もわからんし、かってなことやってて…」と非難の声があがっていた。国から十万円の開拓資金をかり、どうにか飢えをしのいだ。また、繊維会社の社長をやっていた山田栄三さんも、販売、資金の面でバックアップしてくれた。こうして完成した郡上紬も、まがいものが出たりして、思わぬ災難にあったりする。商標登録したのは、昭和47年になってからである。郡上紬は、緯糸にエリ蚕のつむぎ糸、経糸は、玉糸とつむぎ糸を使っている。撚りは経糸を強撚りしてある。浅井さんの指導でここまで織れるようになり、本来の草木染めの美しさが郡上紬の評価をたかめている。白洲正子さんの著書に宗廣力三氏の記事があるのでそちらも参考にしていただきたい。

    原始布架空論(1)

    原始的織機について 

    2015.12.11

    記録

    作成 北村陵

    現代の日本の紬

    絣産地一覧表 作成 現代編集2015

    2015.12.21

    @中間資料を一度記録

    現代の日本の紬 絣産地一覧表 作成: 北村 陵

    現代編集2015

    上布が衰退した三つの理由

    2015.12.21

    中間記録

    なぜ、こうなったのか。まず第一に、木綿の普及があげられる。応仁の乱の前後から朝鮮を経由し、日本に普及しはじめた木綿は、やがて江戸中期には栽培の可能な日本中の農村でつくられるようになって、庶民の衣料の中心が布から木綿に移った背景がある。第二に、庶民から成り上がった武士階級は、麻布をその服制の中に取り入れていた。これが木綿以後の麻布の最大の顧客であり、このために上布の技術が発達したのであるが、この武士階級は明治維新で完全に没落した。第三に、今次大戦後の日本は工業化し、日本人の衣生活は欧米化して、仕事着、普段着、街着としての和服は激減し、特に夏の和装における麻布は、ごく一部の人々以外は使われなくなった。絹物の絽や紗の方が正装となり、しかも安価で、麻布のようにしわにならないということが主の原因であろう。このようにして上布は、社会的な存在理由を喪失したといわざるをえない。「縮は死のうとしている。が、まだ完全に死に絶えたわけではない。かすかでも息のあるうちはあらゆる手だてを尽くして、それを守ろうが、無理やりに、なにがなんでも生かそう、生き続けろというのは、かえって残酷ではないか。せめていくらかでも美しさの面影をとどめているうちに、やすらかに死なせてやりたいのだ。」:小千谷の西脇新次郎氏のことばである。彼は江戸時代からつづいている縮問屋の9代目であり、昭和45年には『越後のちぢみ』という、いってみれば越後上布の記念碑ともいうべき本を編纂されている越後上布の第一の理解者である。その氏にして、この言葉である。はじめてきいてみると喉がつまる思いであるが、しかし今、この言葉は素直に私の心におさまるのである。
    滅び去らせるには惜しい上布

    2015.12.21

    中間記録

    上布は、まだ死んではいないが、越後上布の場合には、上布の古格を厳しく守り、苧麻の栽培から苧積み、よりかけ、そして地機で織る技術さえも習得した、六日町の鈴木苧紡庵氏のような人もいる。機を織る人たちからは、例えば「自分は昔機を織っていたが、悪い糸にあった時は本当に泣かされたものだ。だから今、織る人が織りいいような素直な糸を績んで(うんで)あげたいと、それだけを念じて糸を績んでいる。」というような胸をうつ多くの言葉がある。たまたま切れた経糸をあっという間に繋ぎ合わせ、しかもそのつなぎ目が、まるで鋏で余分な部分を切り落としたかのようになっている。八十歳をすぎた老婆の手わざのさえである。こうした人々が数名残っている。宮古島にも石垣島にも同じことがいえる。一筋の糸を追って生き抜いた人々の心の深さは、外部からはうかがい知れぬ深い深いものであろう。そこには長い庶民の歴史がまだ息づいて、あたたかい血が流れている。滅び去らせるにはおしい。本当になんとかならないものかと非力な自分を責める思いにも涙もない。しかし、いかに美しくても、新しい社会に適応することができないものを、仮借なく、非情に滅びさせるのもまた、伝統というものなのであろう。

    沖縄県、読谷山花織について 記事作成 中間資料集

    2016.1.6

    中間記録


    沖縄県、読谷山花織について

    記事作成 中間資料集2

    絣括りとスリコミ(直接染色法)と逆スリコミについて

    2016.1.9

    中間資料 作成

    久米島紬草木染絣の制作の考察 北村陵
    久米島紬、八丈島紬の技法を吸収して改良改善をはかる、について

    2016.1.11

    中間資料作成

    久米島紬が古くから人々に愛好されてきたのは、その色調が草木染めであり、その上、泥染をおこなう染色技法に巧みな技法の日本の紬の染色をみる。そうした原始的な方法によってひきだされてゆく渋みのある落ち着きは着用をかさねてゆくとなんとも深い味わいがある。本土では琉球紬とよばれていたという。17世紀に始まった薩摩島津藩の支配下にあった寛政4年(1792)に江戸の人々の目に初めてとまり、重宝されたといわれている。久米島紬の推移については、琉球国由来記(1713)、琉球国旧記(1731)、仲里旧記(1706)、具志川旧記(1743)、更に具志川村上江洲家家譜等にそれぞれ述べられていることを辻合喜代太郎氏が記述されていることを現在確認した。それらの資料によると、久米島は中国と南方諸島との交易の中継地として船舶の往来が繋く、紬の原料となる絹糸の生産について、もともとこの島に古くから野蚕が存していたことが知られ、更に養蚕技法は15世紀半頃、堂比屋という人が明国に渡り、その地の技法を新しく学んで導入したことや、漂着した中国人から養蚕、製糸の技法を学んで、絹の粗布を製したことなどが、この島の紬の起源であると伝えている。上江洲家家譜、琉球旧記によると更に万暦47年(1619)に越前国の住人宗味入道が琉球を訪れ、国王尚寧王の茶道の指南役となっていたが、たまたま、彼は養蚕、製糸の技法に精通していたことから、王命にしたがってこの島に渡り、従来の伝統的な技法を改良し普及に努めたということである。崇禎5年(1632)<寛永9年に相当する。>に、島津藩の酒匂四郎右衛門(酒匂友寄親雲上)が琉球王府の招きに応じて久米島に渡り、八丈島紬の技法をこの島の紬製作法にとりいれ、大いに改良に努力した。その主なる点は、草木染<刈安(かりやす)、マダミ、椎、泥染)についての研究、オヤリ糸という紡糸法とである。この技法は繭をまず真綿状にし、これから手ひねりで糸を引き出し、その糸先を手紡錘を回転しながら撚り(より)をかけ、手錘に巻きとり紬糸を得るという方法である。このように久米島紬の技法改善に王府がなみなみならぬ努力を尽くしたのは、当時既に琉球は島津藩の治政下にあったため、貢布の制度が定められていたからである。
    図説 オサノカラメドについて

    2015.10.10

    作成日順列前後

    オサノカラメドについて
    図説 染色  ばいせん剤と助剤のイリグチ染色 

    2015.11.18

    作成日順列前後

    染色基本知識強化記事

    紬の昭和住み込み生活

    つむぎ風土記  

    2015.1.14

    作成日順列前後

    作成 北村陵

    本場結城紬の図案紙より考え抜かれた織物図案紙は日本に存在しない。

    考え抜かれて誕生した本場結城紬の図案について 

    2015.2.3

    作成日順列前後

     

    作成 北村陵
    絣の誤謬(ごびゅう)

    2014.10.7

    作成日順列前後

    作成 北村陵
    久米島紬の種別

    2016.1.13

    中間資料

    島内で紬糸は宇江城、比屋定で養蚕を行い、座繰生糸(ざぐりきいと)と手引紬糸とを生産しているが、到底、自給自足は困難であり、多くは那覇、鹿児島等から移入している。しかし、年々栽桑も増加して、自給自足も可能に近くなったという。久米島はそうした歴史もあった。 

    久米島紬の銘柄には

    (1)黒物 グール染、テカチ染に泥染を施したもの

    (2)色物 福木、クルボー、ヤマモー、ユウナで染め、その後、明バンの媒染によるもの

    (3)白紬

    (4)ユウナ染

    がある。これらの色調に必要な染料について述べると、グールはサルトリイバラの根を細かく切り、窯で煮て染汁を採る。テカチはシャリンバイともいい、その幹を細分して煮て染汁を採るものであって、久米島紬の最も特性とされている。赤染色という焦茶色のものはグール染十回、テカチ染十回、泥染八回の工程を経ている。福木は琉球地方の防風林として重要な樹木である。その幹の皮を煮て染汁を採るもので美しい黄色である。クルボウ(クロバイの皮)、ヤマモ・ユウナ(オオハマボウの灰)も用いる。ユウナはグーズミと呼ばれた古来からの伝承染色法があり、その幹を焼いた灰をサンゴ礁で作った臼に入れて十分に粉末化し、これに豆汁を加える。糸染を何回も繰り返して明バンで媒染すると灰色を呈し、すこぶる優雅な色調になるという。このように色調はすべて草木染めを原則としてこれに泥染を施す。泥は仲里村阿嘉地区から採集する。泥染は古くから内地でも行われていた方法であり、丹波布とよばれた布はこの方法によった美しい布とされている。泥染というのは泥のなかにふくまれた鉄分が媒染剤になり発色するものである。久米島紬の場合、テカチ染に泥染を施すとテカチ染のタンニン酸鉄と泥中の鉄塩が化合して、タンニン酸鉄が生じ、黒焦色を呈する。また、緑色は福木の下染に泥染媒染を行って得られ、赤紫色は蘇芳の下染に泥染を行って得られている。

    久米島紬、琉球布の図柄と文様

    2016.1.14

    中間資料

    図柄と文様は<御絵図帳>に基づいたものを原則とし、経絣、緯絣、経緯絣、経縞と絣、緯縞と絣がある。文様によって御殿柄(王、貴族によって用いたもの)、城柄(士族の用いたもの)、小柄(庶民用)と区分されていた。最もよく知られているものは杢糸(もくいと 二本の異なる色の糸のあわせ糸)を用いた色糸による格子縞、格子縞と絣文との組み合わせである。文様主題はトグワー(鳥形)、矢形、花形、亀甲形、番所金、カマシキ、犬足形、十三群、二玉、三玉、ゴーヌーイ、眉形、波形、十字形、雲形、菱形、餌箱形等が用いられ、二つ以上の主題が互いに組み合わされているのが通例である。このような文様は琉球で生産される織物に共通したものであり、いわば琉球産織物の特性といえる。

    首里紬について

    2016.1.14

    中間資料

    首里は旧琉球王府の地であり、古くから琉球の織物の中心地でもあった。旧王府頃には麻布、芭蕉布、トンビアン、花織、琉球絣、手縞、綾中、ランラミ、ロートン織などのすべての織物が生産されていた。したがって現在でもその伝統を守って高度の技法とその洗練された意匠を表現したものが見られる。首里紬は<御絵図帳>に示された図柄を基として織られ、紬糸は伊平屋、伊是名島(いぜなじま)で養蚕された繭から手引きした糸を用いる。色調は草木染によったもので、その主なる染料は福木、藍、テカチ、ヤシャブシ、紅花、ウコン、クロトン、クルボウ等である。文柄図柄は士族以上の人に用いられた多色の美しい格子縞と絣との組み合わせであり、これを手縞という。また、経縞(竪縞)に絣文の組み合わせのものを綾中という。これらの縞糸は二色の色糸を撚った杢糸を用いる。最も多くみられた絣文は鳥形、矢形、眉形、水雲形である。色調は赤、黄、青の三色を基とした美しい構成であって琉球織物の伝統意匠の特性を示したものである。

    きもの…ありがとう

     宮崎恭子

    2016.1.18

    中間記録


    きもの…ありがとう 宮崎恭子

    つむぎについて

    結城市史第六巻 結城市郷土資料

    2012.7.-2012.12.

    中間記録

    作成日順列前後

    結城図書館、茨城繊維工業指導所に保管してある結城市の郷土資料。とくに紬に関しては、結城市の市長をこの資料を編纂した時期、奥順の先代の社長が、過去の資料などからまとめたもので、産地問屋の社長としての輝かしい紬時代を一冊にまとめたのかと思うのである。産地問屋の社長が結城市長であったのだから紬業がいかに盛んな時代かおわかりいただけよう。私も何度か会話したり可愛がられたのであまり悪くは書けないが、2012年の6ヶ月でレポート化および電子化で、結城図書館では、この後持ち出し禁止重要資料となった。結城市史は第1巻から6巻まであり、最後の6巻にて先代が紬について義理でもまとめてくれていたので、作業にとりかかったのである。政治に結城市議会議員など政治に関わる紬業のものが数名いるが、私は紬業のものが政治に入っていくものではないと思って冷ややかな視線を彼らに送っている。政治特有のうさんくささが仕事にも出てしまうと私は考えている。収入は少なくても黙って紬業にうちこむのが本来の姿ではないのかと思うし、政治に介入する紬業の彼らは反面教師である。

    栃木県足利市 織姫神社へ

     

    2016.1.24.

    歴史と文化のまち 足利織姫神社

    レポート作成 北村陵

     

    足利織物資料館の八丁撚糸機について

    2016.1.24.

    足利織物の資料館内撮影(1)

    八丁撚糸機について

    ちぢみ(縮)の糸づくり

    結城紬産地の八丁撚糸機と杢糸生産機について

    2015.7.29.

    中間資料作成

    八丁撚糸機と杢糸生産機の画像と動画:取材先:くらもち撚糸杢糸生産店

    2015.7.29.

    縮織物の糸づくり(強撚糸)、杢織物の糸づくり(杢糸)について

    栃木県足利市 足利織物資料館

     足踏織機について

    2016.1.24

    栃木県足利市 足利織物資料館

     足踏織機について

    と 結城紬産地高橋式半自動織機のリンク
    結城紬産地の道具の変遷について 2015.記録 結城紬産地の道具の変遷について 上記の資料とかさねて勉強してみる

    組物機械(組紐機)の展示とそのほか

     

    足利資料館内撮影

    2016.1.24.

    組紐、座繰り糸関連道具の展示
    蜘蛛の糸と蛍光繭の議題

    2015.7.22

    中間記録

    2015年茨城の講習会のまとめ(1)

    iPadでリアルタイムに記録していった。よみにくい部分あり

    玉繭の養蚕の指摘と考察2015

    2015.7.24

    中間記録

    意図的に、遺伝子組み換えや玉繭生産できるというのは、あまり評価できないレポート

    2015年茨城の講習会のまとめ(2)

    現代の化学染色の時代、

    今後の草木染め時代、

    もう一度、古文献をみつめて

    2016.1.28

    中間記録

    1856年、イギリスのウィリアム・パーキンという青年がコールタールを原料とした赤紫色の色素を発見した。このウィリアムパーキン氏の色素の発見が化学染料開発のおおいなる化学染料および化学合成染料のはじまりをつげたものとなった。この赤紫色を彼はモーブと名をつけ、世界で最初の合成染料会社をつくり彼は大成功をおさめる。この合成染料の発見で、これまでの植物や貝や昆虫などの天然染料を抽出する時代から合成染料の時代へと大きく変わっていった。その後、アリザニン、インジゴ(インディゴ)といった、様々な合成染料が開発されてゆく。19世紀後半には人造繊維も開発されて、現在のようにカラフルな衣服をまとった人びとが街にあふれるようになった。現代の染色は化学染色といえる。しかし今後の<日本の伝統>を重んじるとなると、この化学染料を用いた染色より天然染料などの草木染めにこだわった天然染料、草木染色にたどり着く。古き<万葉集>を筆頭に登場する文献には天然染料のみの染色であることは広く認知されている。草木染めブームなどの染織ブームのときもこうした古い文献<万葉集><源氏物語><徒然草><延喜式>までさかのぼって草木染めが一時的に盛り返した。そしてまた化学染料時代へと戻ってしまった。そして私も着々とすすめているのが、こうした古き文献までさかのぼる従来の天然染料を用いた染色の技法のものであり、それは伝統を草木染め主流から化学染料主流、そしてまた草木染め主流になるものだと私の結城紬染色はあるべきであり、草木染め推奨派である。優しい色合いは決して化学染料にはない奥行きがあると私は思うのである。私の記録を参考に草木染めが、ふたたびのふたたび見直される日がくると思ってやまない。それまで私は産地をひっぱってゆく。

     

    文明、いにしえの色彩

    2016.1.28

    中間資料

    ところで、人はいったいいつから、服地を染めるようになったのだろうか。人類の歴史の中で自然に対する祈りや儀式のために、色彩の利用がはじまったといわれている。1万5000年以上前の遺跡、スペインのアルタミラやフランスのラスコーの洞窟では天然の顔料の絵が描かれている。衣服が発展する前には、どの民族も赤土などの顔料をからだに塗りつけ模様を描いていた。繊維を天然染料で染色するようになるのは、もっとあとのことで、紀元前4000〜3000年にかけてといわれている。世界各地で染色工芸の技術が確立されてからのことだろう。
    古代エジプト文明と染色

    2016.1.28

    中間資料

    現存する最古の染色された布は、エジプトのピラミッドから発見された藍染の麻布である。いまから約4000年以上も古いものとされている。古代エジプトでは、ツタンカーメン(紀元前1352年没)の墓から、茜染の帯も発見されている。紀元前15世紀ごろから、地中海で染色を行ってきた民族として有名なのがフェニキア人である。貝からとりだした分泌液で布を紫色に染める技術を発見したといわれる。1個の貝には、とても微量の色素しかふくまれていなく、1グラムの色素をえるために、約1万個の貝が必要であった。ローマ帝国時代には、この紫色は帝王紫(ロイヤルパープル)とよばれ豪華なくらしの象徴とされていた。クレオパトラの船の大きな帆が貝紫で染められており、その色で権力を誇ったともいわれている。
    アンデス文明と染色

    2016.1.28

    中間資料

    アンデス文明では、紀元前1万2000年ごろから織物が制作されたといわれる。南アメリカのペルーにあるパラカス半島では、紀元前1世紀ごろのものとされる、鮮やかな黄色と紫色の織物が発見されている。この時代には、アンデス地帯では、藍、茜、くるみ、貝紫も使われ、鉄分を含んだ泥、石灰、ミョウバンを利用して染色していたと考えられる。
    中国文明と染色

    2016.1.28

    中間資料

    中国では、4000年以上も前に、蚕から糸をとりだして織物にする絹織物の技術をあみだした。その絹は軽くてしなやかで光沢があり、よく色が染まることから、多彩で澄んだ色の布が生み出された。紀元前3世紀に中国を統一した秦の始皇帝のころから、絹の染織技術が発展したといわれており、中国からローマ帝国までの道が<シルクロード>とよばれているように絹を代表とする交易のための道が、その後の東西交流の重要なルートとなった。日本にも、このシルクロードを通って、西域ペルシャなどからの染織文化が伝わった。それらの影響は正倉院宝物(しょうそういんほうもつ)の染織品をみるとわかる重要な宝である。
    インダス文明と染色

    2016.1.28

    中間資料

    インドでは、紀元前3500〜2500年前にインダス文明がおこって木綿が栽培されるようになった。その木綿の布に華やかな草花文様を木版などで染色したものがインド更紗(サラサ)である。インド更紗は、高度の染色技術による染め布で、紀元前6世紀ごろに発展して生産されるようになった。インドは東西交流の真ん中に位置しており、その染織品が東西に運ばれるようになっていった。

    植物学に学ぶデザイン独学2015

    2015.4-

    中間記録

    植物モチーフのデザイン学、独学。

    レポート作成: 北村陵

    格子柄(チェック)に学ぶ格子のデザイン独学、研究と素材

    格子柄究極への思考

    2015-

    中間記録

    格子柄(チェック)のデザインを考える デザイン学、独学。

    レポート作成:北村陵

    本場結城紬九寸名古屋帯婦人用格子柄草木帯2015< 一品好>シリーズ第一弾 2015-2016.1

    格子柄のデザインをつくり、草木染め100%による染色の九寸名古屋帯

    たった一回での制作シリーズで世には一品しかないカジュアルエレガント

    のコンセプトの婦人用帯を制作し付加価値を追求。その第一弾の帯

    一品好第二弾草木染婦人用格子帯のデザイン考案

    2016.1.25

    中間記録

    上記の制作シリーズ帯の第二弾。草木染め100%による染色の九寸名古屋帯

    こちらも市場には一品しか出回らないまたしてもカジュアルエレガントの

    コンセプトの婦人用帯を制作し引き続き希少性の付加価値を追求。

    その第二弾の帯のデザイン

    絣の履歴と生産 過去の絣生産分

    絣括りによって絣が生産されていく記録をとった。結構なボリュウムであると振り返る。

    まず、こうした記録は生産者ならではと言えるものがそこにはある気がしている。

    図案がかければデザイナー、

    絣とはどんな世界か

    絣<蚊絣>及び

    <十の字>の示す、未知について

    2013-

    中間資料

     

    このホームページを立ち上げた時にこのページをつくった朧げなる記憶がある。調べれば正確な作成日はわかるが、絣を読み解く、語りきかせのページは当時存在しなかったと記憶している。作成:北村 陵

    糸、柄、織の進化の結城紬の柄の結晶<亀甲>、それと結城紬の産地ではなく、国が認めた柄の結晶<十字絣(蚊絣)>について と百年経過の結城紬(結城紬三代の謎)2013.11.22.完成、公開

    2013.11.22

    中間記録

    この北村織物の家宝<十字絣>は、絣ものの本場結城紬で最も古い資料として、全国の博物館から寄贈依頼があったがそんなのはどうでもいい、私がくたばったらもっていくがいい。しかし、正確なる図案がないころに、あらい十字絣ではあるがよく織られている。そこが三代を結ぶ丈夫さすなわち、結城の力かもしれない。
    蚊絣の伝承 温故知新 2012年以前記事

    こちらは蚊絣について書いた記事(ページ)でも旧サイトからデータ移動したもので2012年より前にすでに筆をとっていた。勝負師やヤクザが好んで着るといわれる全国の蚊絣と結城の蚊絣がむすびつくように私は書いていたような気がする。日本民藝館から奨励賞受賞で原稿というか感想文を書いてくれとのことで書いたがそれとは別である。たしか民藝という小冊子になった気がした。これも覚えているのは緊張していたことくらいで覚えていない。本当に古き記事で心境も覚えていない。

    定年サラリーマンの糸とりの考察と現実、手つむぎ糸生産

    2016.2.3

    中間記録

    手つむぎ糸について:北村陵

    60歳で定年退職した男性のサラリーマンが糸とり指導をうけて、手つむぎ糸、袋真綿50枚(袋真綿一枚 約2g)で1ぼっちという取引単位で糸の賃金は高額とされているもので、細く平らな使いやすい手つむぎ糸は一万2千円くらいである。私も毎日のように糸とりしているので、その糸が出来上がる速度というか時間はゆっくりなもので効率のいい仕事ではないことはわかるのであるが、その定年をむかえた男性サラリーマンは、指導をうけたあとに、馬鹿臭くてやっていられるか、と言ってやめてしまった、というような話があった。確かに糸づくりは時間と手間を考えると賃金は低いように感じてしまい、そうしたことがおこってしまうのであるが、糸とりにはじまるつむぎの手仕事というのはそうした諸々のことを含めても、つむぎで頑張るというのが、私の家業の宿命でありこれは昔から現在も賃金面や技術料はこのくらいである。糸を買い取る機元(織元)や糸商、産地問屋がそのあとに儲けている、という漠然としたうらみつらみを感じたものと思われるが、実際には糸に関しては、そんな甘い環境は用意されていない。私もそとで夜勤アルバイトをした経験があり、時給を約1000円前後で稼ぐ世界はつむぎ業にはない金銭というか収入だとは思った。そうした世界にちかい定年サラリーマンは、糸で大金を稼げるものだと思っていたのだろう。なんども言うが、そうした厳しい環境はつむぎ生産者は常につきつけられ、その結果、後継者不足が深刻となっているのであり、サラリーマンの大いなる筋違い、勘違いといえる。逆にいえば、がっぽりとお金を稼ぎたいというものは、つむぎ業につかないのであって、糸とりにはじまる生産はサラリーマンにつとまるような甘い環境はつむぎ業には存在しない。悪銭身につかずとは、まさにこのことであるといえる。修行が足らない60歳は、つむぎ業の厳しさを知ったことだろう。去る者追わず

    日本の染めの世界(短文)

    2016.2.4

    中間記録

    いまから1万年ほど前の縄文人は、樹皮や草の皮からつくった繊維をみにつけていたと考えられている。鳥浜貝塚(福井県)からは大麻や赤麻(あかそ)、押出遺跡(おんだしいせき 山形県)からは赤麻、米泉遺跡(石川県)からは、おひょうといった植物の繊維が出土している。こうした草の皮や樹皮を裂いて織った原始的な布を水やは灰を用いて白くすることから、古代の染色は始まったと考えらえている(考古学)さらに白く晒す(さらす)ために沼などに布を浸したところ、たまたま鉄を多く含んだ泥だったために鉄媒染による発色となった。というのが大島紬などで有名な泥染のはじまりと考えられている。

     

    生産者の立場の参考2012-2014

    三年分

    2016.2.5

    中間記録

    2012年から、後継者の立場、生産者の立場の参考記録を残したものである。当初のつくりと若干変更や改訂した部分はあるが、2016年にあとがきに書いたように、従事歴をコツコツ重ねることこそが、なによりの技術向上の近道であると思う。私は記録していく途中、こんなことは、基本的すぎて、また基礎的すぎて、考えもしなくなるときがやがてくるという予感があった。それはなぜかはわからないがそのときそう感じたので記録していった。

    最短距離のボッチ揚げ、

    遠回りのボッチ揚げに大差はない

    ボッチ揚げ専門制作資料

    2016.2.17

    作成 北村陵

    帯用の太い糸から着尺の経糸をボッチ揚げするようになって気がついた点などを

    図説付きで紹介

    結城紬の化学染料と草木染め

    2016.3.19

    草木染めと化学染料について

    結城紬 作成 北村陵

    草木染めのたのしみ入門

    オリジナル(1)  

    2016.3.23

    草木染めのたのしみ入門オリジナル(1)

    作成 北村陵

     

    絣のロジック(1) 

    2016.2.28

    順不同 中間資料

    これから絣の図案読み取り方法など

    絣の舞台裏を紹介していく第一作目

    入門編

    動画集2014and2015  

    2014-2015

    中間資料集


    動画集 結城紬
    動画集2013


    2013

    中間資料集

     

    動画集 結城紬
    機織り埴輪発掘をみにゆく! 2014.3.9.日

    2014.3.9.日 下野(栃木県)はある一定の範囲で古墳などが密集している地域がある ハニワが機織りしていると栃木県メディアが取材などでテレビなどで宣伝 博物館の来場者が約10倍をこえている まだこれからも埴輪が出土する可能性がある お風呂みたいなのが埴輪の土台となっている。瓦などもあり時の権力者か貴族がいた可能性がある

    古墳から結城紬産地にすでに機織りがあったという衝撃的ニュースとなった

    絣のロジック2 2016.4.24 絣のロジック2 前回、次回は総柄について次は説明するといったが、思いつきによって、ほんとにわかりやすく伝えるためにぽかっと浮かぶときがあります。そのためぽかっと浮かんだのが飛柄の絣だったので今回順番が狂いますが、飛について述べたいと思います。(期待していた方はすみません)絣は、説明が難しいといわれ、実際問題伝えるのが難しいと今回も思いました。しかしなんとかなるとも思っています。

    のりとのり液の作り方、

    浴比の概念、結城紬

    2016.4.25

    本場結城紬ののりとのり液の作り方について

     

    縞のタテ糸ののべ方(整経)と

    作家の縞について

    2016.4.25

    タテ糸ののべ方(縞)とオリジナル縞について

    パターンとパターン外の縞について

    縞のタテ糸ののべ方(整経)と作家の縞について

    信州上田紬写真集1 2016.3.3



    紬の現場
    信州上田紬写真集2 2016.3.3



    紬の現場
    信州上田紬写真集3 2016.3.3



    紬の現場
    信州上田紬写真集4 2016.3.3



    紬の現場
    信州上田紬写真集5 2016.3.3



    紬の現場
    信州上田紬写真集6 2016.3.3



    紬の現場
    信州上田紬写真集7 2016.3.3



    紬の現場
    結城市から遠い民藝 信州上田紬 2016.3.3



    紬の現場とレポート2016年
    黄色の染料と染色と染材料 中間記録2016.5.29 黄色の染材料 黄檗(キハダ)、梔子(クチナシ)、槐(エンジュ)、といった、黄色の染色が可能な草木染材。こうした黄染めには欠かせないものは、着物にしてみるとやはり地味や渋いなどのわびさびの染色になりがちな中でも黄色は美しい。煮出してその染液にきれをいれると黄色に染まるために、重宝されてきた。そういう方法も自然に考え出されたということができる。原始的な文化の時代からも人間が病気になれば、天然木や草などから薬物を食べていたということに原因があると考えられる。現在の野生の鳥や獣みても分かるように、彼らは病気を治すために、あるいは傷をなおすために、薬草食べたり、いろいろの薬物を傷に塗ったりしている。すなわち、生活の知恵として、いつからともなくそれを知っているいえる。人間ももちろん、野獣に近いような生活をしていた原始時代の頃からすでにそのような方法を知っていたはずである。ところが、人間が他の野鳥や野獣などと違って火を知り、それを使って物を煮たり焼いたりするような時代になると、お腹の 薬として、キハダの樹皮を用いるとしても、それをそのまま食べるのはどうも食べにくいということから、それを水に入れ、火で煮出して、その煎じたりした汁を飲むということを自然に考え出したであろうと考えられる。すなわち、そうしたことの薬物と薬草の医療的な生活の側面からやがて衣に色をうつしだすといったことがやがて染色のおおもととなっていると考えられる。とくに草木などのものは煮出してみると、通常であれば、薄い緑色が出てくる場合がほとんどであるが、煮出してみると目立つ色が出ている植物はいちはやく、薬草、薬物の利用につながったと考えることができる。それらは、以前、赤い染材にあげたもの、アカネなどの根などもその利用価値から染色につながったよい例であるといえる。
    赤と黄色の染 中間資料早見表 2016.5.29中間記録



    赤の染色と黄色の染色 中間資料
    棋士1について  2016.5.7

    生きざまは

    やがて

    伝説になる

    植物学2016の4月1について 2016.4.29



    花の歳時記4月
    植物学2016の4月さくらについて  2016.5.5



    花の歳時記4月のさくら2016
    浸染染色原始論考察  2016.5.29

    赤の染色と黄色の染色 中間資料につづく染色考察

    飛鳥・天平の時代の染色

    染色文化

    おもいをはせる染織(1)

    浸染染色原始論考察2 2016.5.29

    染織におもいをはせて 飛鳥・天平の時代の染色からの続き

    考察2について

    おもいをはせる染織(2)

    本場結城紬クラフト館2016年オープン1  2016.5.

    栃木県小山市のJR小山駅の駅前のロブレの一角に2016年

    本場結城紬クラフト館がオープンした。一眼レフカメラとiPad

    で撮影しSNSのTwitterに放出した画像をこちらにストック

    本場結城紬クラフト館2016年オープン2  2016.5.

    上記の続編ではあるが、ロブレや小山駅前の駐車場

    は有料となっており、その点が集客が難しい点である

    と思われる。実演や展示のあり方はモダンをとっている

    が、結城紬の生産をビデオ放送したりして紹介している。

    場所は気がつかないような位置で目立たない。

    縞制作画像集1 2016.5

    縞制作画像集

    織物教室の方がデザイン

    縞制作画像集2  2016.5

    縞制作画像集

    織物教室の方がデザイン2

    昭和写真 昭和究極布紀行と藍染結城  2015

    昭和写真

    昭和究極布紀行 本場結城紬 黄八丈 奄美大島紬 越後上布

    藍染の結城と化学染料の世界の席巻と発見

    ちぢみ 縮 織物 2:2糸配合 参考 2014

    ちぢみ

    縮の縞のはなし

    デジタルマイクロスコープ2016
    講習会iPadメモ
    2016 デジタルマイクロスコープ2016 講習会iPadメモ 北村陵


    茨城繊維工業指導所が導入したハイテクノロジーマシーン
    浸染染色原始論考察3  2016.6.4

    浸染染色原始論考察3

    おもいをはせる染織3

    平安時代にいよいよ潜伏

    平安時代は木村孝(染織研究家)をはじめとした

    多くの研究者たちは平安時代こそ、日本独自の染色の原点

    といった結論を出している。いざタイムスリップしてみよう!

    伊勢型紙と木版捺染と平安時代末期から室町時代 結城図書館調べ 2016.6.5

    伊勢でサミットが行われた2016年

    おもいをはせる染織4

    タイムリーに結城図書館調べ

    思いをはせる染織(4)

    室町・江戸時代の模様染 2016.6.5 室町・江戸時代の模様染


    おもいをはせる染織(5)
    杼について 2016.4.12

    織り道具の杼(ひ)について

     

    徹夜で調べたことが思い出されます。

    奥会津編み組細工、工人まつり 2016.6.11-12

    福島県へゆく

    工人まつり(1)

    工人まつり(2)について 2016.6.11-12

    福島県へゆく

    工人まつり(2)

    会津木綿 山田木綿織元 撮影協力 2016.6.11-12

    福島県へゆく

    会津木綿 山田木綿織元

    撮影協力

     

     

    福島県大沼郡昭和村 からむし糸生産 記事 2016.6.11-12

    福島県へゆく

    からむし糸生産

     

     

    友禅斎の登場と

    その後の日本の染色の基盤 

    2016.6.19

    思いをはせる

    染織(6)

     

     

    日本の織物の歴史

    織物のおこり(1)について

    2016.6.19

    思いをはせる

    染織(7)

     

     

    日本の織物の歴史

    織物のおこり(2)について 

    2016.6.26

    思いをはせる

    染織(8)

     

     

    渡良瀬ビレッジ

    ジャパンブルー 

    2013 藍染について




    久米島紬の絣と紫根染めのぼかし染めの簡易まとめ 2016.6.28 草木染めについて




    稲葉紺屋と大久保紺屋と化学の世界 2016.7.13

    稲葉紺屋と大久保紺屋と化学の世界

     

     

    染色について

    おもいをはせる染織9 

    2016.7.16

    思いをはせる

    染織(9)

    絣のロジック3てがき解説

    2016.7.29

    絣の4種類を解説

    絣の種類を解説

     

    昭和の縮1参考

    2016.7.28

     

    コレクターより掲載許可がおりた為公開
    昭和の縮2参考 

    2016.7.29

     

    コレクターより掲載許可がおりた為公開
    本場結城紬の昭和の縮(3)

    2016.7.29

     

    コレクターより掲載許可がおりた為公開
    昭和の縮(4)

    2016.7.29

     

    コレクターより掲載許可がおりた為公開
    昭和の絣の解説

    2016.8.1

     

    昭和の縮の作品からみる絣の解説

     

       

    羅について 2016.8.7- これまで、織物の基本組織といえば平・綾(斜文)・繻子の三つがあげられ、総ての織物はそれらの組織により、あるいはそれらを種々に変化されたり、組合せた変化組織によって作られると言われてきた。したがって、羅や紗の如き、搦織物も変化組織の一つとされてきたのであるが、三原組織から、経糸が綟れる組織は決して生まれてこないところから、佐々木信三郎先生の提唱によって、経糸を綟らすための特殊な装置である振綜を用いる綟組織は、これを独立した一組織と見なし、近年では四原組織という定義の仕方が定着しつつある。中国には羅綺(らき)とか羅紈という言葉があり、いずれもうすもののあやぎぬと白の練ぎぬ意味し、転じて着飾った美女や美服を着る者の意ともなっている。わが国でも古くは羅を宇須毛乃(うすもの)あるいは宇須波多(うすはた)と読んでいるから、羅というのは本来軽くて薄い絹織物の汎称であったかもしれないが、複雑な綟組織によって網目状あるいは籠目状に織出された極めて特色のある織物としての羅について述べることとし、近年の中国におけるめざましい考古学上の発掘調査によって、複雑緻密な文羅はすでに紀元前2世紀の前漢の時代に織成されていたことが明らかになった。またそれは中国大陸の中心部からだけでなく、中国東部の山西省や後漢の時代ではウイグル自治区など、周辺の遺跡からも発見されているところから、その織成が当時すでにかなり盛んであり、また、その軽快、緻密な美しさが多くの人々に珍重されていたことがわかる。
    柳田整理店、柳田さん(89)とプレス機  2016

    柳田糊抜き名人

    蒸気プレス機

    駒ヶ根シルクミュージアム(長野県)  2016

    駒ヶ根シルクミュージアム

     

     

    長野県

    一尺三寸の竹筬  2016

    竹筬

    おすもうさん竹筬

    安曇野天蚕センター写真集1 2016

     

    駒ヶ根シルクミュージアムへ行った次の日に訪問し記録した。

     

    安曇野天蚕センター写真集2 2016

     

     

    安曇野天蚕センター写真集3 2016

     

     

    安曇野天蚕センター写真集4 2016

     

     

    安曇野天蚕センター写真集5 2016

     

     

    安曇野天蚕センター写真集6 2016

     

     

    棋士2 2016.11.26

    アナザーストーリー

    もうひとつの現実

    結城紬について 2017.1.5

    中江克己

    日本の染織・民芸染織

    引用

    ふるさとの味をもつ民芸紬 ・中江克己・ 伝統の古法で織る結城紬 民芸紬、あるいは民芸的な手織紬といえば、全国にどれだけあるかわからない。しかし、なかには民芸紬とは名だけで実際は機械製の紛い物もあるから、それほど多くはないだろう。そのなかで、私が今ふと思い浮かべるのは、静岡県の浜松で織られている「ざざんざ織」と茨城県の「結城紬」である。もともと紬は自家用として織られ始めた。農家の主婦が子のため、夫のためにと愛情をそそいで織ったし、その母の紬を織る心は娘へと伝えられたのである。材料の繭は玉繭や出殻繭など、絹として売物にならない屑繭である。玉繭は二匹の蛹が入っている繭だし、長い糸を引くことができない。また、卵(蚕種)をとるために蛾を育てることもあるが、この蛾が食い破って出たのが出殻繭だ。こうした屑繭から糸をとるには、まず真綿に引きのばして、指先で糸を紡がなければならない。しかし、そのように手紡ぎした糸は節も多く、むかしは売物にはならなかったのである。だから自家用の織物をつくろうと、丹念に手で紡ぎ、心を込めて染め、織り上げた。それゆえに手作りの素朴な暖か味があった。現在、紬と称する織物は全国各地に200種あるといわれているが、一般に生糸を使うために薄く、平らたくなっているなど、紬本来のざっくりとした味わいが薄れてしまったのは、何とも寂しい。もっとも時代の流れが織物そのものが染物志向で作られ、ドレッシーなものになっているというのが最近の傾向だ。それだけに、むかしの味わいを求めるのがむずかしくなっている。ところが結城紬の技法は、むかしながらのものである。まず、繭を煮て真綿に引きのばし、それから糸を紡ぐ。このような手紬糸を使うのは、今ではそれほど多くはない。糸を紡ぐのは女性の仕事だが、絣くくりは男の仕事になっている。くくりがゆるいと、染料がくくった部分にまで浸みてしまうからで、男の強い力に頼らなければならない。さらに藍などで染めたあと、居座機で織っていく。機織りは女の仕事である。すべて手仕事であり、たとえば1反の糸を紡ぐのに早い人で40日もかかるというように、なかなか苦労の多い仕事なのだ。紬の美しさは控え目に抑えた美しさで、これでもかと外へ向けて表した美しさではない。結城紬は、そうした紬の代表的なものの一つだが、しかし、技巧的になり、高級化して、むかしの素朴な味わいとは違ったものになっている、と嘆く人も少なくない。たとえば結城紬の特色の一つは亀甲絣だが、これが実に精巧で、時代とともにますます精緻さをきわめてきた。明治20年代には織幅に亀甲柄が30個入ったものだったが、30年代50個にふえ、さらに昭和30年代には80個から100個、そして34年には160個、42年には200個という精密な柄が現れたのである。見るとわかるが、たしかに驚くほど精緻だ。しかも、柄が多くなるほど細かくなり、手間もかかる。1反分の絣糸をつくるために、どれほど糸をつくらなければならないか、考えただけで気が遠くなるようなことである。他産地にはない特色を持とうとしたのだろうが、その精緻になった分だけ素朴な味わいを失ったようだ。そして、それだけ高価となり、庶民の手から遠くなってしまった。現在の結城紬のよさ、美しさは紬本来が持っていたものと、かけ離れているとはいうものの、機械化された華美で浅薄なものとは異なり、手作りの暖か味は残っている。むろん品質はすぐれている。とはいえ、庶民の不断着(普段着)として出発した紬が、庶民の手の届かないものになってしまったことに不満は残る。紬も時代の流れに身をまかせ、変化していくのかもしれないが、紬の原点を失えば、もはや紬ではなくなってしまう。近代化の波に乗らず、伝統的な古法が生きているということだけでも、結城紬は貴重な存在であろう。

    コンビニ夜勤と伝統工芸士 2017.1.8 2016年12月の終わり頃に伝統工芸士の合格通知書がきた。私は、コンビニ夜勤をこの資格、伝統工芸士をとる前に、履歴書にこれといって有利になるような資格がなかった。幸いなことに、コンビニ夜勤先は、私は逆スカウトでやることになり、履歴書はそれほど重要なことではなかった。アルバイトの世界というのは過酷で、正直、コンビニ夜勤というのは、体の負担が昼間と違い、疲労回復が遅く、寝てまばたきしたら6時間もたっているということもある。それだけに給料は良いかといえば昼間に少し上乗せされている程度で、例えば、夜勤の新しい人材で若くて意欲のある、体力もある、というようなものが出てくるとたちまち、オーナーから、明日からいい人材がみつかったので申し訳ないが来なくていい、と戦力外通告をうける可能性もある。そういうときに、そうした差をうめるのは、日頃の挨拶や労働への信頼度である。まず、こなすべきことを教えられ、それを無駄のない動き(労働)とお客様への信頼度を勝ちとり、ポジションを常に保持しなければならない。これが例えば、履歴書での選考というものがあった場合、伝統工芸士を取得しているのといないのとでは、あなたはいままでどのように生きてきたのか、という問いに答える答えが全然異なるものになる。私は20歳で12年従事して32歳で取得しました、というのと、家事手伝いをしていました。というのでは明らかに前者が有利になる。ただ、ご存知の方はいるかもしれないが、コンビニ夜勤は過酷で常に人材が不足している。そのため、ものをいうのがキャリアである。経験済みだとある程度、優遇される。私はもう織物ではダメだ、というところにまで追い込まれたら、またコンビニ夜勤をこなすだろう。それと、私は見習い10年目ですだの、どこどこ織物のうん代目ですといったところで他所の職場で認められたり、尊重される可能性はないに等しいことを覚悟したほうがいい。ここで得られた教訓は、いかに早く、その道を志すか、つまり目をつけた、はやさの有利性を言いたかったのである。これから、なにか目標を持ちたい方の参考にばればと思い筆を持った次第である。2017.1.8.
    染色投資2017 2017.1.8 染色投資2017




    ざざんざ織り 2017.1.11

    中江克己

    日本の染織 民芸染織 引用

    素朴な味のざざんざ織 中江克己 素朴な味のざざんざ織結城紬が手仕事の繊細さを追求した典型とすれば、ざざんざ織はざっくりとした素朴な味を持つ紬の、一つの典型といえるだろう。初めてざざんざ織を見たとき、一瞬これが着物の布かと、わが目を疑ったほどだが、それというのも、素材は絹なのに、ウールのような感触があって、洋服にしてもおかしくないように見えたからである。柄も縞と格子が主体で、たとえば薄い紫の地に赤、青、鼠などの細かい縞が入り混じったものなどは、ワンピースに仕立てても、しゃれた感じになるだろう。紺地に白の点々で二重の格子柄を織り出し、その格子の真ん中に花びらのような形を作りながら、赤の点々が連らなり緯縞になっているものは、コートにでもすればよいのだろうか。そして、赤といい青といっても、決して派手な色ではなく、全体に渋い色調で、いかにも民芸織物らしい雰囲気を身につけている。ざざんざ織は手織紬なのだが、着物の織物として、きわめてユニークなものである。ところで、この「ざざんざ」という名に、珍しさを感ずる人も多いだろう。「広辞苑」をひいてみると「ざんざめくさま。うたいさわぐさま」とあり、狂言「茶壺」の「浜松の音はざざんざ」を例にあげている。現在、浜松の八幡神社横に「ざざんざの松」という石碑が建てられているが、この「浜松の音はざざんざ」とうたったのは室町幕府の六代将軍足利義教(1394〜1441)だという。織物の名はこれによったものだ。ざざんざ織は今から40年前、浜松の平松実氏が創案し、現在は息子の哲司に受け継がれている。浜松は古くから織物の盛んな土地で、遠州織物の名は戦前まで代表的な木綿織物として知られていた。平松家も代々この遠州木綿の織屋だったという。ところが第一次大戦後、経済不況の波をもろにかぶり、遠州木綿も大きな打撃を受けた。木綿の機屋にあきたらなかった実氏は、それをきっかけに柳宗悦らの民藝運動に参加、機械織りから離れて、手織りを始めたのである。近代化に逆行する改革といってよく、つまりは民藝運動へ参加したことが契機となって手仕事にめざめ、このユニークな手織紬が誕生したわけだ。糸は節のある玉糸と、真綿から手引きして紡いだ太い糸を使う。見るからに素朴な感じで、それがまた大きな特徴になっている。太いだけに、使用する糸の量も当然、多い。普通の倍くらいあるというから重くてかなわないのではないかと思ったが、単で着るから普通のものとそれほど着た感じは違わないらしい。しかし、糸の精錬を丹念に行なうので、目減りが大変な量になる。といって精錬を適当にすませると、絹特有の艶が得られない。艶のあるしなやかな糸を使ってこそ、独特な風合が生まれるわけである。厚手の独特の地風を作り出すには、大変な苦労が必要なのだ。同じように糸染めも念入りに行なう。しかも糸が太いから時間がかかる。染め職人がかかりっきりで、数時間も染めるのだという。主に植物染料で染め、カラフルな縞柄を丹念に手織りで織り出す。経糸を機にかける前に整経という準備作業がある。普通は整経機で行なうが、手作業にしても横に寝かせた形の整経台を使う。だが、平松家では縦型の整経台で、これも珍しい。前に述べたように織り上げられた布の色調は渋く、むしろ重々しい感じだが、ウールのような風合とともに、ざざんざという響きに似つかわしい。いずれにせよ、ざざんざ織は実用的で、これで仕立てた着物は少しくらいの雨に濡れてもあわてる必要がない。雨が水玉になって、ころがり落ちるのだ。しかも、着物に限らず、羽織やコート、帯地などのほか、テーブルクロス、ネクタイなどと広く利用され素朴な美を発揮しながら新しい伝統をつくりつつある。

    上田と飯田の民芸紬・中江克己・(2017.1.12.編集)引用 (2017.1.12.編集) 結城紬、ざざんざ織のそのほかで民芸紬といえば、長野県の上田紬、飯田紬、山繭紬などが素朴な味わいがあって好ましいものだ。上田紬は300年ほどの歴史を持っているが、すでに18世紀には全国に名を知られるほどだった。最盛期は文化文政から天保にかけて頃(1804〜1844)である。年間7万反を生産し、「上田縞」とも呼ばれて、江戸はもちろん、遠く京や大阪でも人気を得ていた。それというのも「上田産物改会所」を設け、糸質をはじめ、染色や織り味、尺幅などの検査をきびしくして、上田紬の品質高める努力を続けたからである。当時の柄は大きな基盤縞、いまでいう格子縞が主体だが、現在はこまかい格子縞になっている。紬が不断着(普段着)というよりは、趣味的な外出着になっているからだろう。糸紡ぎ織りも機械で行うものが多いのだが、小岩井勉さんのように伝統的な手織りで、しかも植物染料で染めている人もいて、こうして作られた上田紬は何ともいえない落ち着いた風合いで、暖かい味わいがある。飯田紬も素朴な味という点では同じである。もともと、この飯田付近も養蚕地帯で、古くから自家用の紬が織られていたらしいが、初めてこの地方から商品として市場に出たのは、文化13年(1813)に考案された「富田絹」であった。これは玉繭から手で糸を紡ぎ、丹念に織った薄絹で京で紅梅に染められ人気を集めていたという。そのほか、明治、大正期には野良着用の木綿紬を織っていて、盛況だったらしい。飯田紬はそうした背景のもとに生まれたのだが、飯田紬という名が付いたのは大正9年というから、それほど古くない。飯田紬を創案した織元が「若松屋」で、現在、林宏次さん夫妻がむかしの面影を残す素朴な縞紬を織り続けている。だいたい縞柄というのは古くて新しい柄というか、江戸時代のものを見せられてもそれほど古さを感じさせない。現在のものにしても、色使いなどに現代人の好みが反映されていると思えるぐらいで、江戸時代の人間が着てもおかしくないものもある。林さんの織っている飯田紬は、やはり民芸紬といってよいだろう。付近の山野から採集した植物、たとえば梅、椿、樫、栗、柿、胡桃、漆、松葉からさらには茶、なす、よもぎ、玉ネギ、トウモロコシ、サツマ芋など、茎や葉、実、皮から染料をつくり、微妙に変化する多様な色を染め出している。こうして糸染めし、手織で打ち込みを強くしながら、シャキッと織り上げる。いかにも民芸紬という感じで、地風も独特の味わいがある。
    綿紬の弓浜絣 2017.1.13 こうして書いていけば、少ないといいながらも、各地にまだいい手織紬が残っていて、きりがない。それだけ伝統を守ろうとする人がおり、手作りの民芸織物を好む人が多いからであろう。民芸の味は、いいかえればふるさとの味で、それが人々に郷愁を感じさせるのかもしれない。ところで、これまで述べてきたのは絹紬ばかりだが、紬には綿花から手紡ぎする綿紬もあるので、これについて触れておこう。綿紬の民芸織物といって思い出されるのは山陰の弓浜絣である。米子から北へのびる弓が浜半島は、日野川が中国地方から土砂を運んで出来たものという。しかし、奈良時代は「夜見の島」と呼ばれる砂の島にすぎなかった。米子の付近一帯は砂地で、室町時代の後期から開拓が行われたものの、米は育たず、やむなく農民たちはサツマ芋を植えていた。やがて砂地の中は温度が高いことから、綿の栽培が始められ、19世紀には大変な盛況ぶりだったと伝えられる。もともと日本に綿の栽培が定着したのは16世紀のことで、当初は貴重品あつかいをされていた。17世紀から18世紀にかけて、各地で盛んに栽培されて、庶民の衣服にも用いられるようになり、やがて庶民の衣服の主流になったのである。ところで米子の木綿だが、夏は熱く焼けた砂を踏みながら、綿井戸と呼ばれる小さな池から水を汲み、朝となく夕となくかけるのが日課で、大変な苦労をして育てたという。そして秋の綿摘みの季節となると、近隣の村々から雇われてきた娘たちの赤いたすき姿の賑わいが、浜の風物詩でもあった。綿作は手間と技術が必要で、「綿は古来百人手間」などといわれていたのである。綿花を収穫すると種を取り除き、打ちほぐさなければならない。その種からは綿実油をとり、その殻は藍甕を加熱する燃料にしたという。種子を取り除いたものを繰綿(くりわた)というが、これを打ちほぐし、「篠巻(しのまき)」(中国地方では綿筒 じんき といった)に巻きつけ、筒状にする。これを糸車で糸にしていく。こうした手紡ぎした綿紬糸を用いたのが弓浜絣であった。もっとも現在は機械製糸がほとんどで、手紡ぎ糸は少ないが、しかし、綿紬には独特の風合があらわれ、これを好む人は少なくない。弓浜絣は緯の絣糸で模様を織り出す絵絣だが、その模様はその時代その時代の生活を反映させて、実に多様である。生活の詩といってもいい風情があり、それがまた弓浜絣の大きな特徴となっている。むろん糸染めは藍染で、紺と白の清潔な調和が美しい。こうした綿紬は、だいたい綿の栽培がほとんど滅びかけているだけに、ごく一部の地域でわずかながら行われているにすぎない。滅びさせてしまうには惜しいもので、まだ残っているということが、ありがたく思えるほどである。
    好もしい上田の縞紬・佐々木愛子 2017.1.17 私がはじめて、身につけた手織紬は、上田紬でした。新聞社勤務の夫が長野県の支局長となり、昭和31年の春、私たちは、東京から長野市に移り住みました。長野市の県庁に近い住居に落ち着いてから、土地の人に、お手伝に来てもらいました。そのおばさんが「このあたりでは、こんな織物が出来るのですよ」と見せてくれたのが上田紬だったのです。それまで、私は上田紬という名も知らず、見たこともありませんでした。今まで着ていたどの織物にもない素朴で、しっかりした地風、てらいのない縞柄は、まことに好もしい味でした。それから私は、上田市、松代町、戸倉町、須坂市などの紬を織る家々を、次々とたづね歩きました。こんなに身近かで、織物が織られている土地柄におどろいたのです。私は北海道で育ったものですから、身につけるきものは、すべて本州から入って来たものでした。織物では、お召、大島、米流、久留米絣、などを着なれてはいたのですが、それはみな遠い土地で作られたものだったのです。東京で暮している間も、今日と違って、地方の紬などをデパートなどで見ることは全くなかったのです。紬を織る家々で、さまざまな見本裂を見せてもらい、縞や格子、無地などを次々に織ってもらいました。一番はじめに作ったきものは、経糸は薄藍で、緯糸には黒の紬糸を入れた藍無地の紬でした。この紬を着て、長野から寝台車に横になり、翌朝、上野に着き、身づくろいして街に出ても、夜中着ていたきものが、ほとんどしわになっていないのには、驚きました。経糸、緯糸に良質の糸を惜しげもなく使って織り上げてあったからだと思います。
    紬の町で機を織る・佐々木愛子 2017.1.18 長野から上田まで国道沿いには桑畠が続き、つやつやと光った桑の葉が風にゆれていました。その時季には、農家では座敷の畳を上げてしまい、蚕棚を並べて養蚕に精を出すのです。紬を織る川中島の農家を訪ねましたら、三部屋くらい打っ通しで、蚕を飼っていましたが、蚕が桑をたべる音の大きいのに驚かされたものでした。また、真っ白な繭が山のように板の間盛り上げてある有様は、いいようもないほど、豊かで美しい眺めでした。農家のお嫁さんが寒々とした荒壁の納戸で機を織っていましたが、質素な部屋のたたずまいと、機にかかった紅色の輝くような素地とが、あまりにかけはなれて胸がつまったこともありました。織ってもらっているだけでは我慢が出来ず、私は機織をならいはじめました。農家の土蔵の奥に打ちすててあった古い機を、1500円でゆずってもらい、戸倉の紬を織る家に運び、そこで織物を教わったのです。毎日、長野市から通って機を織り、やがて何とか一人で織れるようになって、その糸をかけたままの機を、リヤカーで長野の支局の住居に運んでもらったのです。いま思うと、のどかなものです。藍の濃淡のかつを縞をかけた機が、リヤカーの上でゆらゆらゆれながら、自転車にひかれて国道を通って行ったのです。長野で暮している間に、何反か紬を織ったのですが、素人の私の望みを、面倒がりもせず、手をとって教えてくれた方々のやさしい気持を心からありがたいと思っています。その時の織機は、いま東京の家にあり、織物をしている長女が毎日、使っています。この頃の新しい織機とは全く違い、黒光りしたがっしりした織機です。
    着ていて安心な手織紬・佐々木愛子 2017.1.18 真夏のほかは外出にはいつもきものを着ている私は、丈夫で着心地のよい織物を求めて、その後も次々と、いろいろの土地の手織紬を着てみました。米琉の見本となったといわれる久米島を着たいと思い、15年ほど前に沖縄に行った時、2反ほど求めて帰りました。けれどもその時の久米島紬は、とても地質が薄く、胴裏の白絹が透けて見えるほどでした。泥染の茶褐色の地に、絣のあしがすれた具合は、とてもよいのですが、地質がわるいため、羽織下でなければ着られないのです。その時、10年ほどたって求めた久米島紬は、地風、染色ともに申し分なく、大きな絣の柄が落着いた味に織り上っています。私はいまも、この久米島紬を大切に愛用しています。テーチ木の液に浸しては、泥染めをする方法を、繰り返すことで糸にふくらみと弾力が備り、織り上げた織物は、着ていると体の動きをしっかりと受け止めてくれます。はじめに求めた久米島紬は、戦後、久米島で織物が復興してから間もなくで、良質の糸が手に入らなかった時代のものと思われます。今日の久米島紬は、品質は安定し、よい織物が揃っています。私が着ていた紬の種類は多くはないのですが、自分が手織紬を着てみて思うことは、経糸が生糸で、緯糸だけに紬糸を使って織り上げた紬は、長く着ていると、布地に腰がなくなりやすいようです。経糸の生糸に、5.6本おきに紬糸を入れてある紬は、体の動きを受けとめる手応えがあり、長い時間着ていても、しわにならず、たるみも出ないと思います。ですから着ていて安心なのです。また化学染料で染めた糸よりも、植物染料で手間をかけて染めた糸で織ったものは、染めの工程で、糸がやせるものはやせてしまっていますから、その上で織り上げた紬は布味が落着いています。泥染の方法を経た糸で織った紬が、もっとも着心地がよいように思われます。新潟県の小千谷、六日町、岐阜県の郡上あたりで織られる紬には、経糸にも紬糸が入り、染めは草木染のものがあります。こんな紬は地風に深い味があり、色合は落付いていて、着ていると布味には腰があり、着心地はよく、着あきることがありません。私は日常、こんな紬をよく着ています。
    打ち込みが決める紬のよさ・佐々木愛子  2017.1.20 打ち込みが決める紬のよさ・佐々木愛子・結城紬は、経、緯ともに手紡ぎの紬糸を使っていますから、経糸と緯糸はしっかりと組み合い、いざり機で織り上げた弾力のある地風は、人の体の動きを十分に受けとめ、それでいて体の動きに添う軽さと自由さがあります。この頃の絣結城の値段は、私の手には合いませんから、私が着るのは無地や縞の結城です。着はじめた時は、こわばったような地風が、裾まわしがすり切れる頃には、しっかりと体になじみ、身のこなしが楽で、着ているきもののことを忘れています。着ていて楽で、着くづれしないきものが第一なので、この頃は、ついつい結城を着ることが多くなりました。六日町で織られている経緯ともに紬糸で織ってある細かい蚊絣の紬は、着心地はよいことと思い、一度着てみたいと思いながら、まだ着たことはないのです。蚊絣で織り出した文様が、あまりに技巧をこらしたものが多く、地色が濃紺、黒など濃いものが多いので、なかなか気に入ったものに巡り合いません。若い頃とは違い、あまりに地色が濃いものは、顔色が沈んでだめなのです。結城紬も濃い色が多いのですが、濃い色の織物が似合うのは、50前くらいまでではないかと思うのです。また、きものは美術品ではないので、着る人をぱちぱちとはね返すような、きものの立派さだけが、きわだつような織物は好ましいとは思えません。この頃の織物には、柄が大げさすぎるものがとても多いと思います。私は外出も旅行も織のきものを着通していますので、毎年、春の終わりには何枚かのきものを洗張りして仕立て直します。とても気に入っているきものが、洗張りしたら急に腰がなくなって、くったりしてしまうことがあり、そんな時は、ほんとうに情けない思いです。昔織ってもらった紬でも、洗張りした後は頼りなくなって、今でも着たい柄なのに、着ることもなくなったものが何枚もあります。そうかと思うとはじめに作った藍無地の紬は長年、愛用しましたが、膝が抜けるまでしっかりしていました。織り上った時は、ちょっと地厚すぎると思うくらいの紬が洗張りすると好もしい着心地になるようですし、細い糸で薄手に織った紬は、はじめは着心地がちょうどよいのですが一度洗張りすると地風がやせて頼りなくなります。薄手の紬でも糸の質が優れていて、打ち込みがよければ、水を通しても風合は損わないのだろうと思います。織る時の打ち込みが甘いものは、着ていても、ぴたっとした感がないし、そうかといって力まかせに打ち込んだものも、肩が凝ると思います。私のように、仕立直した後も長く着られる紬を求める人は、今の時代ではもう少ないのでしょう。それ故、丈夫さや着心地よりは、色や柄に重点を置く織物の方が多いのだろうと思います。
    絣の警鐘とリアリズム 2017.1.22 北村陵

    土地の匂いのする紬は少ない・佐々木愛子

    2017.1.22 土地の匂いのする紬は少ない・佐々木愛子
    大島紬の生命は泥染め・佐々木愛子  2017.2.1 戦争前の大島紬は泥染、泥藍染だけでした。母の若い頃までは、緯糸に紬糸を使ったものがあったようですが、私の時代の大島は、もう経緯ともに生糸でした。私の子供の頃、奄美大島から中年の女の人が毎年、大島を売りにきたのを覚えています。大きな風呂敷包みを背負った男の人をお供につれて、聞きとりにくい奄美の方言で話をする女の人が、座敷に大島を広げる時は、とてもたのしみでした。私の娘時代は、一疋大島で、きものと羽織のお対をつくるのがきまりでした。その頃の大島は、今日のように高価なものではなく、お召や縮緬と同じくらいの値だったと思います。娘時代に作ってもらった大島は長女が中学生になる頃まで、何度も仕立直して着ました。泥染をくり返した糸で織り上げた地風には、ふくらみがあり、すべりがよく、しわにならず、この上ない着心地でした。後年、きものにかかわりのある仕事をするようになり、ルポを書くため奄美大島を何度か訪ねました。テーチ木の液に浸した糸を泥染田に運んでは、もむ作業のくり返しの末、あの大島の着心地のよさが生れることを知りました。南の島とはいえ、真冬の泥田はさぞ冷たいことでしょうし、真夏の泥田で強い日光を浴びて仕事をするのは、並々の苦労ではないと思います。テーチ木の液で糸をもむ人は、腕まで茶褐色に染まり、膝まで泥田につかる人は、体中泥だらけになります。こんな仕事をする若い人がなくて困るということでした。大島紬の特色は、この泥染にあるのだと思います。色大島、白大島には、まるで染物のような多彩な絣柄もありますが、織物の品格、着心地は、泥染大島には遠く及びません。私の若い頃に着た大島に、泥染の黒褐色の地に白茶や、えんじ色で大柄な縦縞を織り出したものがあり、お対にして、とても愛用しました。この頃の化学染の大島の縞や格子とは全く違い、泥染の蚊絣の大島と同様な風合だったのです。今もあのような縞大島を着たいと、いつも思っているのです。名瀬市や鹿児島市の大島紬の工場で、製作の工程を見せてもらいますと、蚊絣で多彩な文様織り出すために、息もつまるような作業が行われていますが、それがかえって、大島本来の美しさを損なっているのが、残念でなりません。誰の責任か軽々しくはいえないことですが、大島紬は間違った方向にどんどん歩いて来たようです。こんなに手をかけすぎた織物を着ても、女の人が美しく見えないことだけは、たしかです。泥染、泥藍染の特色をどこまでも守り、もっと素朴で端正織物を作り、いたずらに値段を高くしないことが必要だと思います。
    紬織りに情熱をそそぐ人々・佐々木愛子・  2017.2.2 昔、農家の自家用だった手織紬が、戦後の織のきものの主流となって今日まできましたが、今、紬は一つの曲がり角にきているのではないでしょうか。20年前、私は上田紬に新鮮なおどろきを覚えましたが、今日では、あの時ほど私をひきつける織物はほとんどありません。あまりにも織物が出まわりすぎたのです。今、私が織のきものに求めるものは、丈夫で着心地がよく、澄んだ静かな色合の織物なのです。自家用に織る農家は、今はもうありませんが、今日では、昔はいなかった工芸作家たちが熱心に織物を織っています。織物を学ぶ人も多いのです。このような人達の技は、専門の職人には遠く及ばないけれど、色彩感覚、創造力は優れています。自分の織る織物で大きな収益をあげるのは、むずかしいことを知りながら、それでも織物を作り続けている人達です。この人達の作品が紬織業者に影響して、何か道は開けないかと思うのです。郡上紬などは、その一つの生き方のように思われます。幼い頃から今日まで、長い年月、さまざまな織物を身にまとってきました。その一枚一枚のきものが、人が心をこめて織り上げたものだったことを思うと、豊かな思いに満たされます。見も知らぬ作り手たちに深い感謝の思いを覚えないではいられません。
    素朴で地方色のある民芸品・本吉春三郎  2017.2.3 民芸という言葉は、今日では大変一般的なものになって、誰でも民芸品とはこんな物だという考えをもつほどになっています。民芸の言葉は、大正の末期から昭和のはじめにかけて、柳宗悦を中心として数人の、主として陶器を作る人達の間で生れた新語です。民芸普及は柳宗悦をはじめとする日本民芸協会によって、おしすすめられました。民芸の語は時運に乗じて広まりましたが、はじめ柳などの考えた範囲をこえて、大変安易拡大した解釈をされているのが現状といえましょう。しかし民芸品は、庶民大衆の毎日の生活をうるおす雑器であって、素朴で丈夫で、郷土的地方的な特色をもち、暖か味があり、その物密着した一種の美があるということは根本的な考えでありましょう。紬の着物に考えがおよぶと、私は地方民謡を思いおこします。東北の民謡、信濃や越後の民謡、また九州や沖縄の民謡、それぞれ、その土地に結びついて育ってきました。信濃の紬に伊那節や木曽節のメロディが背景となるのも自然だといえます。そして信濃路のいくつかの紬も、民芸の一つとして考えるのも楽しみです。
    信州の風土と美しい縞紬・本吉春三郎 2017.2.5 信濃は略して信州といいます。信州の紬では上田紬にふれるのが順序でしょう。上田は上田盆地の中心に位し、千曲川の流れに沿うた養蚕や機業地として知られます。ここの紬の歴史は古く、江戸初期の寛文時代にさかのぼるといいます。井原西鶴の「日本永代蔵」に「……うえしたともに、紬のふとりを無紋の花色染にして、同じ半襟をかけて、上田嶋の羽織に、木綿うらをつけて……」という一節があります。紬の代表格の結城紬も、はじめ縞物でした。今も結城の人達は買継商を縞屋呼んでいます。上田紬は縞織物です。最近、少しばかり絣もありますが、上田紬を代表するものではありません。縞を「嶋」とかくのは西鶴(元禄6年没)時代から明治まで、例えば尾崎紅葉の「金色夜叉」や樋口一葉の作品にも用いられています。西鶴のいうふとりは太織のことですが、紬や木綿を絹物対して太物ということからきています。無紋の花色染は、無地染の藍染ということです。紺より薄く、浅葱色よりやや濃い藍の色を花色といいます。縞はもと、節とか条布と呼んだものですが、室町時代にインドから南方の島づたいに渡来した縞木綿を嶋渡りとよんだことによります。現在の上田縞は、たいへん色彩で美しいものです。しかし、縞小紋のすっきりとした粋なものにくらべたら、少しばかり野暮ったい感じにも見えます。紬の着物本来の持ち味は、たとえば新内や歌沢のように粋で都会的なものに比べて、故里の土の匂いを失わない素朴で暖か味のある民謡の味にもたとえられましょう。上田紬は丈夫なことでも知られます。そして高価でもありません。縞紬は気安く、しみじみとした着心地が大切でしょう。上田は上田盆地の中心に位し、近くを流れる千曲川は、上田盆地から善光寺平に入り、長野市近くで犀川と合流し、新潟に入ってから信濃川となり、日本海にそそぎます。上田紬はこの千曲川沿いに点在する、三十軒ばかりの機屋で織られます。信州は四方を山にかこまれて海にのぞむところがありません。山々から流れだす川ぞいに、ややひらけた盆地と平があります。そして伊那紬や飯田紬のできる伊那地方は、伊那谷とよばれるほど山がせまって、諏訪湖を源とする天龍川の急流がうねり流れています。伊那谷と駒ヶ獄をはさんで背中合わせの木曽谷は、もっと山深い地域で「木曽へ木曽へと積み出す米は それ伊那のあまり米」の木曽節にみるように、米も作れないし、養蚕もありません。大正の末頃、私は木曽奈良井宿に数日滞在しました。その奈良井の友人は、後で上田に住むことになって「ああ上田は天が広い」と嘆息をもらしました。最近、奈良井宿の街並は文化財に指定されましたが、そこのTOKURIA HOTELとローマ字でかいた看板と、30年も張りかえていない茶色になった障子紙との、おかしなコントラストを忘れません。数年前、上田紬の業者の集りに出席しました。上田紬は文化財のレッテルはありませんが、ささやかながら産業として発展し、街にデパートやビルが建って賑やかでした。
    農閑期と紬を織る女たち・本吉春三郎 2017.2.7 農閑期と紬を織る女たち・本吉春三郎・信州は、群馬の上州とともに我が国の二大養蚕地です。紬は紬糸を用いた織物のことです。紬糸は玉繭(二匹の蚕が共同して作った一つの繭)や出殻繭(蛹が繭を食い破って飛び出した繭)のような屑繭を真綿に作り、この真綿から糸をひいて作ります。屑繭の糸はところどころ切れているので、立派な糸にはなりません。したがって紬は、不揃いで節や大小があり、羽二重や縮緬のような均整のとれたよい織物には不適当です。信州は上田の方の北信も飯田地方の南信も養蚕地ですから、当然屑繭ができ、材料が自給できる強味があります。また信州は冬が寒くて農閑期が長いので、屑繭を糸にひき、それで織物を織る副業が盛んになりました。紬織は外見が素朴、材料は屑繭ということで、江戸時代の贅沢の禁止にも見のがされました。信濃路を歩くと、冬は枝をたばねた桑畑がつづき、初夏の頃は背もかくれるほどに繁茂した桑の葉が風にそよいでいます。「桑の中から小唄がもれる 小唄ききたや顔見たや」の伊那節そのままです。北原白秋は「信州伊那の谷 木瓜(ぼけ)の花盛り 春蚕かへそか婿とろか」とうたっています。冬が近づくと「はるか彼方の赤石山に 雪がみえます初雪が」と、これは北信から南信が望んだ風景です。信濃路の民謡を聞いていると、いかにものんびりとした農村風景ですが、しかし、諏訪生まれの歌人島木赤彦の「桑摘みて桑かぶれし子どもらの痒がりにつつ眠れるあはれ」という場面も多かったのです。大正末から昭和のかけての大不況のとき、数か月も苦労してつくった繭の相場のあまりにも安いのに気が狂って、千曲川の橋の上から繭を捨てた老婆の哀話を今に忘れません。草木染の言葉を生んだ山崎斌(1892〜1972)は信州生れの文学者でもありますが、昭和4年、郷里の青年たちに養蚕不況の対策として田舎手織の復興をよびかけ、その振興に力をそそぎました。山崎は機を織る農家をさがし歩いたが、自分の家で織ることを何か恥とする気分があることを知って驚きました。「いんね、おらが家じゃ、何年にもそんなもの織った憶えも無えじ」といって顔色をかえて「機織って着るほど、貧乏したくはねえじ」と独り言をいう主婦もあったそうです。最近は若い女性たちが進んで機織をやっているのを見ると、戦前、きびしい織物消費税という法律があって、とても趣味や道楽では手が出せなかったのにくらべて、社会情勢の大きな変化をみる思いです。かつて、機と老人は置き場に困る、という時代があったことを今さらながら考えます。今の老人問題は深刻なものですが、手織機で織ることには文化国家のレジャーという思いさえぬぐいきれません。
    ユニークな美をもつ天蚕紬・本吉春三郎 2017.2.7 信州紬は、上田紬、飯田紬、伊那紬を総称します。ほかに松本紬や小諸紬もありますが、これも信州紬の一つです。共通するところは縞物で絣がないことです。こまかく細部を区別することも、あまり意義はありません。しかし、もう一つ、例外的なものとして天蚕紬があります。天蚕は山繭とも呼ばれます。鱗翅目ヤママユガ科の昆虫です。櫟や楢などの葉を食べ、繭は楕円形で黄緑色を呈します。もと広島県も産地として知られていましたが、今は長野県の特産となっています。量は少なく、長野県の繊維試験場などで増産の計画があるようです。繊維は太く、光沢があって弾力があります。染色が困難なので、家蚕と混織すると自然に染めわけができることとなります。また、家蚕とちがって野外で飼育するため、虫や鳥などの被害も多く、天候によっても支配されるので問題は多いようです。水上勉氏の「有明物語」は、山繭紬を織りつづける、みんという女の薄幸な生活を描いたものです。有明村は穂高の山麓にある村です。「穂高という駅で降りてから、みんの村までは、まだ五里も歩かねばならなかった。………およそ町などといえたものではなく、山また山をわけ入った奥の奥である。と北アルプス穂高の山麓の有明村の有様を描き「キョウソというのは、櫟の葉に巣喰うアブに似た蝿の一種であるが、この虫を天蚕や柞蚕はたべてしまうのだ。すると、かいこの腹の中でもキョウソの卵が回虫となり、かいこの軀(からだ)はキョウソのウジの棲息所とかわり、やがてかいこは死んでしまう。死んだかいこの腹から、蛾となってとび出すキョウソは、一本の櫟に何千匹となくむらがるのである」と記されています。天蚕を飼うことは博打をうつようなあぶない仕事のようでした。水上氏には「西陣の女」という有明村から西陣に女中にでた少女の一生をかいた作品があります。広島の天蚕について、民芸の柳宗悦の文がありますから借用させてもらいます。「この国が持つ特色ある手仕事としては、何よりも(山繭織)を挙げねばなりません。可部地方のもので黄と褐との色合ひを持つ織物であります。一時は着尺にも夜具地にも用途が廣く合當に榮えた仕事でありましたが、いつしか流行におくれ、今は絶え絶えになりました」とあります。ちなみに柳の文に、この国とあるのは広島県を中国地方としてあつかったこと、なお戦時中に書かれた文であることを付記します。着物は、歴史の中にも、また詩歌文学にもかかわりがあって興味が湧きます。「有明物語」も一読すれば、なおさら天蚕紬への理解を深めることになりましょう。
    紬と似ているホームスパン・本吉春三郎 2017.2.7 最近の紬の流行は、戦前すべての女性が、和服で暮らした時代にもまして盛大です。機械文明の発達によって、反動的に手織紬のよさが見直されたのでしょう。ところで、洋服地にホームスパンというのがあります。ホームスパンと紬は似かよった点が多くあります。羊毛を家庭で紡ぎ、手織で織った服地です。英国ではツイードと呼びますが、これはスコットランドのツイード河畔に産するからです。スコットランドやアイルランドは、冬期は雪が深く寒さもきびしい。それに加えて高原の土地は痩せて耕地も少ない。農民にとっては牧羊によっての生活をよぎなくされます。ホームスパンに用いる羊毛は、良種のメリノなどとちがって、ブラックフェースマウンテンと呼ばれる、顔は黒く、毛は長くて粗悪。食肉用や毛皮用として飼育されます。このブラックフェースマウンテンの毛を手で紡ぎ、手織で織ったものがホームスパンです。染料も植物染料を用いるなど、我が国の紬に類似しています。英国皇室は恵まれないスコットランドの農業政策の一つとして、冬の農閑期の家内工業としてホームスパンを奨励しました。そしてこの服地を買い上げて、日常服やスポーツ服として着用しました。これによってホームスパンの人気が上り、英国はもとより、欧米の社交界に出入りする人達にも流行となりました。スコットランドのホームスパン製造が組織立ったのは1908年ごろからですから、そんなに古いことではありません。進んだ機械製品の普及してゆく反面に、素朴なホームスパンの人気が上るのは、我が国で戦後の好景気につれて紬が流行するのとよく似ています。紬もホームスパンも趣味的に愛好され評価されるものです。
    素朴で魅力的な山の織物・山村精 2017.2.20 科(しな)の木の樹皮繊維で織り上げた科布、同じように藤蔓の皮の繊維で織る藤布、楮の樹皮を原料とする楮布、大麻を原料とする麻布。これらを私は「山の織物」とか、「古代太布」と呼んでいます。つまり、それほど歴史の古い織物で、いわば古代織物、日本の伝統織物ともいえましょう。私がそうした古代織物に興味を持ったのは、十数年前のことです。むろん、それ以前に、そういう織物があるということは知っていました。すでに滅びてしまったのではないか、と思われていただけに、山里でひっそりと織り続けられていることを知ったときは、本当に驚いたものです。それでも当時は、あとになって自分がその世界に手を染めるようになるとは思ってもいませんでした。私はもともと機業家であり、いわば商人です。しかし、古代織物の世界に足を踏み入れるや、ソロバンずくで日常を過ごしていた私が、ソロバンを捨てて夢中になってしまったのです。それほど魅力のある世界だといえましょう。山形県の日本海寄り、新潟県との県境近くに摩耶山という標高1200mの山があります。この山は朝日国立公園の展望台ともいわれますが、この麓(ふもと)の山里で古代織物が織り続けられているのです。山形県西田川郡温海町関川。そこへ初めて訪れたとき、私は興奮を抑えることができませんでした。木綿よりも麻よりも、はるかに古い科布。土着の素朴な布に、人の掌のぬくもりや、やさしさが感じられて、すっかり魅せられてしまったのです。続いて新潟県の北端にある山里・新潟県岩船郡山北町山熊田を訪ねました。ここも、やはり摩耶山の麓になりますが、交通の便が悪く、四級僻地といわれる所です。雪に閉ざされると、交通はまったく途絶え、どこが道かわからないところを歩いていくしかないのです。私が初めて訪れたとき、何か別世界へまぎれ込んだかのような感を受けたのを、今でもはっきり覚えています。本当に自然と一体になり、自然との調和を保ちながら生活する中で、人間の手と知恵だけで伝承されてきた織物の世界は、幽玄にさえみえたものでした。
    夏に行なう科の皮剥ぎ・山村精 2017.3.10 正確なことはわかりませんが、科布は一千年以上も前から織られていたもので、日本最古の織物、織物の源流といえます。明治初期までは各地で、自家用として織られていたのですが、近代化が進むにつれて、次第に姿を消したのです。関川や山熊田に残っていたのは、私にとっては幸いでした。もし残っているのなら、ぜひ保存し、後世に伝えたいと考えていたからです。科の木は、地方によって「マダ」「マンダ」「モアダ」などと呼ばれ、山間部に自生する落葉喬木です。大きい木だと、高さは10m周囲は2mにもなりますが、よい科布を織るにはあまり太くない木で、傷のないのが適しているといいます。梅雨が明け、陽射しが高くなると、皮剥ぎが始まります。これには地方によって、木を切り倒してから行う方法と、切り倒さずに木の下に切り込み口を入れ、そこへ両手を入れて上の方に向かって剝ぐ方法とがあります。さらに表の堅い鬼皮と内側の柔らかい甘皮とを剝ぎ分け、甘皮だけを山からもってくるのです。だいたい甘皮五貫目(約19キロ)で4反の布が織れます。一見、単純な作業のようですが、いい木を見つけるために山を歩いたり、皮を剝ぐのに力もいるし、たいへん骨の折れる仕事です。剝ぎ取った甘皮は、束にして軒先などに陰干ししたあと、7月下旬から8月にかけて、川水に漬けてふやけさせたり、それを煮てから、ふたたび水で洗ったりするわけです。煮るときは大きな鍋やドラムカンを用い、その中に甘皮をわのように巻いて入れ、木灰汁を加えて煮ます。甘皮から樹脂分を抜き取り、柔らかくするためですが、若科の場合は1日ぐらい、場合によっては2〜3日も煮ることになります。これも交替で火の番をしなければならず大変です。次に煮上がった甘皮を鍋やドラムカンから取り出し、熱いうちに木で叩き、手でもんで柔らかくします。こうしておいてから、手でさらに薄く1枚1枚剝ぐのです。この薄い皮を川へ運び、石とか竹の箸ではさんでこく。こくというのはぬるぬるしたものなどを取り除くことで、「科こぎ」といっています。この仕事にもコツがありますが、この作業によって皮は網状の繊維だけになるのです。桶の中に米糠(こめぬか)と水を混ぜ入れ、こいた薄皮を漬け、二晩くらい放置しておきます。この作業を「 色出し」と呼んでいますが、一種の精錬とも、自然の作用による染色ともいえましょう。科布というのは、染料による染色は行なわず、本来もっている科の色のまま織り上げる素直な布です。この「色出し」によって、黒ずんだ褐色が淡い褐色に変わっていきます。さらに川の清流で、科皮に付着している糠を洗い落とし、秋おそくまで陰干しにしておくのです。
    根気のいる科裂きと科績み・山村精  2017.3.27 農作業が終わり、冬将軍がやってくると、男たちは出稼ぎのために山里を去り、残された女たちの厳しい仕事が始まります。その最初の仕事は「科裂き(しなさき)」です。これは木の繊維から糸を作るために、ぬるま湯で科皮をぬらして絞り、指先で皮を細く裂く作業です。柔らかくなっているとはいっても、木の皮の繊維だけに、指先は痛められます。山の女たちは誰でも、子供の頃、その辛さに泣き泣き科皮を裂いた、という体験をしているのです。細く裂いた科の繊維は、長さが限られています。したがって布を織るためには長く繋がなければなりません。細く裂いたあと、長く繋いで一本の糸にしていくのですが、これを「科績み(しなうみ)」といいます。これは結び合わせるのではなく、上布などと同様のからめ、結び目を作らないようにします。糸の繋ぎ目に小さな輪を作り、別の科皮をその輪に入れ、撚り込む。これを繰り返して長い糸にしていくのです。指先の繊維な作業で糸が作られていくわけですが、布地の善し悪しは糸で決まるので、この「科績み」が最も神経を使い、根気のいる仕事といえましょう。績み終わった糸は、撚りかけの準備にはいります。直径20cmほど、高さ25cmほどの卵形に巻き上げるのですが、これを「ヘソ玉」といいます。なぜ「ヘソ玉」というかといえばヘソつまり中心に巻取口の糸端があるからです。5月が明けると次に撚糸作業が始まります。経糸は強く、緯糸は少し弱目に撚りをかけますが、微妙な性質をもつ樹皮の繊維だけに、八丁撚糸機などで撚るわけにはいきません。科糸は乾燥するとささくれるので、水でぬらしながら、糸車を手で回し、調子をみながら撚っていきます。撚糸が終わると、整経をするわけですが、これもまったく簡単な経のべの道具を用い、手作業で行なうのです。すべての準備を終え、いよいよ織りにはいります。樹皮の糸ですから動力織機は使えませんし、昔通りの居座機(地機)で、丹念に緯糸を通して織り上げていくのです。先にも述べたように科糸は湿度に敏感で、乾燥をきらいます。したがって、2月中旬から3月末までの積雪のある間中、織り続けるのです。もっともその間は、雪に埋もれていて戸外での仕事もなく、機織りに専念するしかない、ともいえるでしょう。そして4月、雪が溶け始めると、女たちは山野に出て、山菜摘みに1日を過ごすようになります。わらび、ぜんまい、ふき……山里に山菜はこと欠きません。これらは彼女たちの大きな財源なのです。ぜんまい紬は、この山里の幸・ぜんまいの綿から織り上げます。
    おまきと機巻き機について 2017.4.6

    徹夜で書いた記事

    道具についての記事

    真綿かけ 2017.3

    織物協同組合主催

    真綿かけ

    植物をおいかけて一年 2017.4 植物学デザイン



    再掲・植物学デザイン  2017.5.10

    再掲・植物学デザイン

     

     

    塩沢つむぎ記念館写真集1  2017.6.25

    新潟県

     

    塩沢つむぎ記念館写真集2 2017.6.25

    新潟県2017.6.25撮影

     

    塩沢つむぎ記念館写真集3 2017.6.25 新潟県2017.6.25撮影



    塩沢つむぎ記念館写真集4 2017.6.25

    新潟県2017.6.25撮影

     

     

    塩沢つむぎ記念館写真集5 2017.6.25

    新潟県2017.6.25撮影

     

     

     

    塩沢つむぎ記念館写真集6 2017.6.25 新潟県2017.6.25撮影



    塩沢つむぎ記念館写真集7 2017.6.25 新潟県2017.6.25撮影



    塩沢つむぎ記念館写真集8  2017.6.25

    新潟県2017.6.25撮影

    越後上布

     

     

     

    塩沢つむぎ記念館写真集9  2017.6.25

    新潟県2017.6.25撮影

    越後上布

     

     

     

    紙のボビンから学ぶ新潟県越後上布塩沢つむぎ 2017.6.25

    ワインダーのボビンがなくなったときに

     

    塩沢の4大織物  2017.6.25

    新潟県塩沢の織物

     

     

    小千谷縮写真集1  2017.6.25 小千谷縮という縮の織物を見学



    小千谷縮写真集2  2017.6.25 同上


    越後上布、小千谷縮、結城紬について 2017.6.25 越後上布と結城紬は非常に似ている国の重要無形文化財の指定要件がある。糸は越後上布が手うみによる苧麻の糸づくり(麻)、結城紬が真綿からの手でひいた手つむぎ糸(絹)、手括りのよる防染による絣括り(共通)(捺染による絣は該当しない)、織りは地機織りである。越後上布は雪晒しという独特の工程も指定要件である。越後上布を縮にしたものが、小千谷の小千谷縮である。越後上布の緯糸に撚りのかかった糸を用いて生産される。ユネスコ世界無形文化遺産に越後上布、小千谷縮は染織第1号で登録され、1年後に第2号で結城紬が登録されている。越後上布、小千谷縮の地機はそのなのとおり、地べたに機が接触するほど低く足を内側にひいて織る。
    小千谷縮写真集3  2017.6.25

    小千谷縮という織物を見学

     

    小千谷縮写真集4  2017.6.25

    同上

     

    小千谷縮写真集5  2017.6.25

    同上

     

    小千谷縮写真集6  2017.6.25

    同上

     

     

     

    秩父銘仙館、富岡製糸場

    2017

     

    2017 まとめ

     

     
     

     

    つむぎの歴史

    @中間資料を一度記録

    2015.9.16.

    つむぎ(紬)の原型といわれる<あしぎぬ 施 >と紬とはどのような違いがあったのかの探求は続いている。<日本後記 七 >によると、承和五年(838)十月甲寅、大政官處分、太宰府例進、緋綿紬一百端、今定紺紬十端、黒緋紬四十端、緋紬五十端、(後 略)とある。ここから九世紀のはじめに九州の太宰府(だざいふ)から都へ送られてきたのは綿紬であった。と記述記録上確認できる。綿紬とはなにかといえば追加として<延喜式 えんぎしき>(えんぎしきは昔の紬の歴史的資料と覚えてください。)巻二四主計上の調(物納税のようなもの)の規定によると、豊前国については、<綿紬十七疋(あし 単位数)、自餘輸絹、綿、糸、サヨミ、鳥賊、(略)との記述がありはじまり句読点まで綿紬の表記、その次に絹と思わしき表記で、綿紬と絹は別のものとして、判別されているために綿紬は、現在の糸とり道具つくしから真綿をひいてとった手つむぎ糸による織物、すなわち紬としてよみくだいてよしとしていいのではないだろうか。豊前国とは調としてとにかく糸を納める養蚕主要地であったといわれている。この養蚕もまだ技術的にすべての繭が上出来というわけにいかず、玉繭や出殻繭などの繭を使用して、真綿にしてから手つむぎ糸生産をおこない、紬をつくっていた。この過程として、あげるならば、玉繭や出殻繭などの繭もどうにか糸生産(製糸)をおこなう試みがあったが、いままでの歴史ではどうしても繊維学上からも糸は生産できなかった。捨てるにはあまりにも高級な素材の絹は、セリシンとフィブロイン(繭の構造)といった繊維学的研究といった学術があったかどうかは確認できないが、一般的には繭を真綿にするという技術は難しい問題ではなく真綿にしてから手つむぎ糸生産を行っていた。(私の独断的な見解は、養蚕での真綿にもどす繭は、現在の紬の産地といわれるところに集めていたのではないか と推測する。あくまで私の想像である。ただ実際には現在は紬の産地といわれないまでも全国に相当な数の織物産地が存在したと推測する。これも私の想像である。)

    平安時代後期「新猿楽記」には諸国の紬名があるという。その中に「石見紬」との表記があり「延喜式 えんぎしき」にも石見国の調、との表記から歴史的資料にも共通点をみいだせる。のちの資料「庭訓往来(ていきんおうらい)」から石見紬の表記から常陸紬(結城市のパンフレットはこの紬名をとっているがもともとは石見紬ともいえうる)とある。またしても私の推測であるが、鎌倉幕府の成立は強烈だったとして、鎌倉から近い常陸は重要人物の出入りが激しくなったために急速に知名度が常陸紬(ひたちつむぎ)で定着したとみて結城市パンフレットの表記は石見紬より常陸紬という解釈でよろしいと私も思う。ただこの鎌倉の人間、とくに武家は紬を普段着として定着させてしまうほど武家の間で愛好されたと考えられる。

    染織の日本史について @中間資料を記録二度目2015.9.22. 織物が税や労役の代価として農産物などと共に一般の人々の経済生活の基をなしていたことを忘れるわけにはいかない。10世紀のはじめには、ほとんど全国各地で布、生糸(きいと)、平絹、施、綾などが生産されるようになり、一方中央の官営工房では引き続き各種の高級織物が織り出された他、染色も例えば赤系統の色が9種類もあるように様々な色相に染め分けられていた。延長5年(927)に編纂(へんさん)された「延喜式」(えんぎしき)にはその情況が詳しく記されている。その後、11世紀12世紀の和風文化の華が咲いた平安時代の盛期になると服飾文化をうんだ貴族たちの要求に応えて、特に文様を現す緯糸を浮かして織った浮文の技術の発達をみるにいたり、また今日一般に有職文といわれる特色ある文様の出現もみるに至ったのである。貴族のつくり出したものはその他に社会不安もあった。絹一疋は米2石馬2匹と同じであり麻布でも米1石と5反が同値であったから決して安いものではない。このような経済情況の中で都の貴族たちは地方の広大な荘園から納められる富をたくわえ、ひたすら消費的な生活を送っていたから、やがてそれに反対する乱戦がおこった。社会不安が増して納税の織物も途中の強奪を恐れて、他のものに替えられるようになり、地方の機業は次第に衰えていった。こうして次第につのってきた経済的な社会の動揺は政治の実権が武家の手へ移っても止まず、織部司(おりべのつかさ)も廃止されて、機業は官業から民業へと移ったのである。しかし官業に比べて経済的な保障もなく技術練磨の便宜も少ない民営ではこれまで維持してきた優れた技術を伝えることも次第に困難となり、技術は衰える一方であった。しかし、また一方で常陸の紬等、特に品質の優れた染織品が商品として流通しはじめた。信濃の布、加賀の絹、京都の綾や染物もその優れた染織品として商品流通したものである。皮肉なことにもこうした基盤が確立してきた一方で応仁元年(1467)正月早々に火蓋が切られ、以後10年の長きにわたって都を焦土と化して争われた応仁の乱の勃発によって永い伝統を有する京都の機業は一時中断せざるを得ない状態となった。そればかりか、大乱の波及は地方にも及び社会の混乱は全国に拡がったから機業は全国的に衰えてしまったのであった。13世紀14世紀の間における国内機業の不振による高級織物への要求は、中国との私貿易によってもたらされた。15世紀のはじめには中国明との勘合貿易を開始し、生糸をはじめ金襴(きんらん)、緞子(どんす)、間道(かんどう)、錦(にしき)などの織物を輸入したのであった。京の都を焼け野原と化したが中国から生糸を手に入れた織物職人はそこから逃れるようにして移住し中国のそうした珍しい織物に接する機会を得、新しい織法等も学んだ。今日、名物裂と呼ばれる珍重されているものの多くは、この15世紀16世紀の間に渡来した優秀な中国の裂類であるが、現在これらの裂をみてその中に異質なものを感ずる人はほとんどいないといっていいくらい、日本人の意匠の感覚はとけこんでいる。16世紀中葉から末にかけての、室町時代末から桃山時代における染織は特に注目されるのは、刺繍と絞染(辻が花)と摺箔(金箔を押しつける 金箔を用いる)のめざましい進展であるといえる。この三つは、織物界の不振をおぎなって余りあるものがあった。しかし、織物も16世紀の中葉には再び復興し中国の新しい技術を学んだ製品がつくられるようになった。現在でもなお機業界の王座をしめている京都西陣が新しい機業の中心となって再出発したのはこの時である。この新規な織物の内、繻子(しゅす)は絹のもつ艶光り(つやびかり)を一層強めた滑らかな光沢のある織物として特異な存在であったばかりでなく、その組織は各種の織物に応用されて、織物の発達に非常に大きな影響を与えたのであった。この他、唐織、金襴、緞子などが織り出され、急速な発展を遂げた。また綿花の栽培が普及し、新たな利用価値をもった織物として木綿織物が盛んに織られるようになった。これに引続く17世紀18世紀の永い平和な時代は品質の向上と生産量の増大によって、一層の進歩発達をみたのであった。その原因は中国だけでなく、ヨーロッパ、インド、南方諸島の染織品の輸入が可能となったことにつきるであろう。幕府は生糸、綿花の生産を奨励し、原糸が安価となって、高級品の消費を暗にすすめた幕府の政策、経済力を得た町人が出現しはじめる。小袖が社会の主体的な衣服となった結果、その生地として、羽二重、綸子、紗綾、縮緬、絽などが新たに織り出され、その生産は非常に盛んになり、上質なものが織り出されるようになった。おどろくべき染織史とのつながりを随筆家白洲正子の言葉はここで私の中で一致した。幕府の式楽となり武士はもとより町人にまで普及するにまで至った能の隆昌は能装束の製作を盛んにした。各大名家はそれぞれ能役者を抱え、能舞台を設けて、しばしば演能を催すという有様であったから、能装束の需要は甚だ多く、競って優品が作られた。この結果、唐織、厚板、絽金、紋紗、錦等紋織物の大きな発達をもたらしたのであった。また西洋に倣ったものにモール、ビロード(天鵞絨)があり、毛織物の織法もオランダ人によって伝えられ、兎の毛を交ぜた織物も試みられた。更に舶載(はくさい)されたヨーロッパのタピストリィや中国の刻糸に刺戟されて、綴錦が再び織られるようになった。文様染は南方から輸入された更紗をまねた更紗染がいちはやく行われたが天和3年(1683)の刺繍や鹿の子絞(かのこしぼり)や金紗に対するきびしい禁令は各種の染技法の急速な発達を促し、染色の新しい世界を出現したのである。その中の一つである友禅染は今日なお文様染の主流として続いているが、自由な文様表現や華やかな彩どり、軽快な仕上がりに染技法は元禄以後の小袖の文様加工の中心となってきたのである。型紙を使って染める小紋や中形も、それぞれ裃とか浴衣などの別の用途と趣をもつものとして発達した他、摺や絞の技法にも種々の工夫をこらしたものが作られるようになった。木綿は民衆的な織物として、急激に各地方に発達した。松阪、三河、河内、真岡、久留米、伊予、備後、山陰、川越などである。この木綿の普及と発展は永いこと大衆に親しまれてきた麻の織物を暑中の高級織物にするという土台をつくった。麻織物は越後上布(現在 国の重要無形文化財 ユネスコ無形文化遺産登録 織物)や奈良、近江、薩摩などがある。このようにして19世紀の中頃まで染織界にもしばしば奢侈禁止令(しゃしきんしれい 贅沢をさせないきまりをつくった)、倹約令などによって若干の消長はあるものの、明治の新時代を迎えて、西洋文明を全面的に受け入れた結果、ここに現代染織の基礎が築かれたといえよう。

    2012年社会の側面を追う

    俺は、中小企業のおやじ-鈴木-修

    @中間資料三度目の記録2015.9.27.

    2012年に作成した記事であるが、ちょうど2012年あたりから経営者とはどうなるべきで、どういった舵取りをしていくべきだろうかと日々苦心しながらも考えていた。そのときに一度ネットに反映させてある程度の手応えがあったように思う。

    2015年社会の側面を追う

    老後の真実 不安なく暮らすための新しい常識

    文藝春秋 編

    老後のお金 絶対減らさず少しだけ増やす常識

    文藝春秋 編

    @中間資料三度目の記録2015.9.27.

    同上資料と同時追加

    染織資料おこし作業で、社会の現代人とは別世界で仕事をすすめられていると思われても私は困る。掲載の資料は出版から離れてはいるが大変実用性や応用性にたけたものであるように思う。消費増税、ブラック企業などの2015年のかかえる社会問題は常に私の今後とのつながりがあってかならず自分にも巡ってくるものだと私は考える。好循環も悪循環もほとんど巡ってくるタイミングは都会とは時間差があるかもしれないが基本的には田舎にも到達する問題であり、そうした社会問題等を含む危機管理は、とくに不景気の経済では、文藝春秋がチカラを発揮して、良書を出版する傾向があると、私は思う。予期して避けられる問題は私も早期にめをつみたい。また1000円でそれ以上の期待や効果、刺激剤となりうる出版物は貴重なものである。頭の悪い経営者は、満腹状態にいて、空腹感になることを無視してすすめていく傾向があるために、立場的に違うが相手の立場になって考えてはくれないのである。なんでもかんでもついていってはいけない危険を予測しよう。

    越後上布と結城紬のふたつの織物が織りなす不思議について

    @中間資料作成

    四度目の記録

    2015.9.29-30.

     

    伝統織物は日本各地で織られている。土地の自然風土や生活環境のなかから生まれ育ったものが少なくないというのが一般的な見解といえる。その典型ともいえ、いまだに自然環境と一体化して織り継がれている織物たち。越後上布と結城紬は、たぐいない価値を有する人類の無形遺産が集積されているとの評価より<ユネスコ無形文化遺産の登録>をこのふたつの織物はうけた貴重な伝統的な技法による織物であり、たぐいない価値を有する民衆の伝統的な文化の表現形式でもあるとの評価もされている。越後上布をみてみると、米どころとして知られている、新潟県の魚沼は一千年にもわたる歴史をもつこの地では、かつて江戸時代の最盛期には年間二十万反ものを産してこの地の多くの人々の生活を支え魚沼の地を潤し続けた。米作りの裏側で絶え間なく続けられた上布の製織が、国の重要無形文化財の文化財保持の指定がもっとも早かった。そしてこの環境とまったくといっていいほど同じような環境をもっているのが結城である。結城紬は農業が盛んな地域であり、冬の農閑期は農作業を一時的にストップさせてしまうために家内制手工業として結城紬を農閑期に農作業のかわりのように仕事にしていたのである。越後上布も結城紬にとっても、米の生産と織物はきってもきれない仲なのである。ともに年間生産反数は減少をたどりながらもなんとか昭和という時代をかけぬけた。ユネスコ無形文化遺産登録が一番早かったのが越後上布であり次に結城紬となった。

    越後上布の糸の原料の青苧(あおそ)は昭和村から送られてきて、その青苧の繊維を爪先で細くさいてつなぎ(熟練の技がいるといわれている)、糸としておくのが苧績み(おうみ)である。上布は慶長三年上杉景勝が福島県会津へ転封されると共に青苧の栽培も会津へ移り越後での栽培はその後減少した。原料は会津の昭和村から越後上布の産地におくられている。(慶長三年のことについては(a)文章にて情報補足を下記で行う)。結城紬も原料の袋真綿を福島県の保原にゆだねていて原料は福島産のものである。もともとは結城や小山などの結城紬産地で養蚕からの原料づくりはおこなわれていたが、鬼怒川(きぬがわ)の氾濫によって結城家とつながりのある福島へ養蚕の地を移動させた。

    青苧をその繊維を爪先で細くさいてつなぎ糸としていくのが苧績み(おうみ)といったが上布は薄く軽いほど上質になり、糸はできるだけ細いほうが望ましい。江戸時代越後産地の嫁は糸が汚れないように当時既婚女性の一般的風習であった歯を黒く染める<お歯黒>をせず白歯であったということが「北越志」や「越の山都登(こしのやまづと)」という寛政十二年に書かれた書物に記録されている。原糸を作るときは青苧をくちにふくんで唾液で濡らして繊維を爪先で細くさいていたからで上布の生産が彼女たちの生活にとって風習を変えさせる程重要な仕事であったことをそれは物語っている。この他、第二の要件、第三の要件がまたしても結城紬ににているのである。模様をつける場合は手くびりによることとあり、織りは地機で織ることとあり道具類も含めて同一のようだ。緯糸の管を入れる穴をもった刀状の杼(ひ)を使って手前の直線の刃型になっている部分で強く緯糸を打ちこむ。腰で経糸のテンションを加減しながらこの刀杼(とうひ)で緯糸を強く打ちこむところに高機織りとは違う、地機の独特の地風がうまれていくといわれている。第四の要件は「しぼとりをする場合は湯もみ足ぶみによること」とあり、結城紬の縮布にも似てこちらは「しぼ出し」と呼ばれている工程に同じくみることができる。第五の要件は越後上布の「さらしは雪ざらしによること」とある。これは結城紬の産地は豪雪地帯ではないのでおこなわれていない工程である。さらしの目的は漂白することにある。晴天の日を選んで雪上に布をひろげて天日にさらす。雪ざらしは水分が布目を通って蒸発するときのオゾンの作用と言われ、その 期間は一週間から十日ぐらいとされている。この越後上布と結城紬のふたつの織物に不思議なまでに共通点があると感じる。

    (a)慶長三年について:越後から会津へ国を替えることになった。会津百二十万石の地といわれている。関東平野へぐっと接近入り。上杉景勝を支えた唯一無二の家臣がNHK大河ドラマでご存知の方も多いかもしれないが、愛の兜をかざす直江兼続である。上杉謙信の後継者争いの戦いが上杉景勝と上杉景虎の間でおこり、身内に矢を引いて戦わなければならない身内同士のいくさを景勝を直江兼続は影でささえたという話は有名である。慶長三年にはすでに織田信長が幕府を滅ぼし勢力がかわりはじめてまたおちついてきたころかもしれない。歴史専門家のほうが詳しいだろうと思う。

    きもののきろく

    小袖にみる歴史のなぞり

    @中間資料記録

    五度目の記録

    2015.10.4.

    現代のきものの祖型である<小袖>は中世半ば頃から服飾の中心的な形式として浮上し、近世にはその装飾に独自の展開を示し、桃山から江戸初期にかけての小袖は特権的な武家階級の好尚を反映して、肩裾(かたすそ)や段替わり(だんがわり)のような左右対称で区画内に充填的(じゅうてんてき)に文様を配する意匠が主流をなしていた。しかし、17世紀も半ばを過ぎた寛文のころになると寛文小袖と呼ばれる自己主張の強い特権的な意匠が流行するに至り、江戸のファッションは町人主導のものへと移行していく。町人たちは、遊女やかぶき者たちの異装を健全な市井の装いと同化しつつ、小袖デザインを一気に拡大していった。

    きもののきろく2

    着付け、意匠のきもの変化

    @中間資料記録

    五度目の記録

    同上資料と同時追加

    2015.10.4.

    ファッションの主導権が特権的な武家階級から町人たちの手に委ねられる。伝統的な規範にとらわれない彼らは遊女やかぶき者たちの奇抜な装いに刺激を受けながら、あらゆるモチーフを積極的に文様の世界にとりこんだ。

    かぶき者は、流行するデザインをあんに先取りしている場合が多かった。

    たとえば、背中に橋をえがいたデザインを着て、遊女を誘う。その橋は、織姫とひこぼしが再会を果たすための橋であったり、天の川に織姫と彦星の架け橋を描いてしまうスケールのデザインであったり、京都の恋愛で有名な橋をモチーフにしたりしている。着物デザインを挑発に使うのである。

    きもののきろく3

    華から粋への志向へ

    爛熟の果てのきもの

    @中間資料記録

    五度目の記録

    同上資料と同時追加

    2015.10.4

    友禅に代表される染色技法の発展は、江戸中期の染織界に華麗な意匠の世界をもたらした。しかし、急速な流行の拡大の結果、意匠の創造性が消耗していったこともまた事実であった。江戸時代の後期になると、ファッション界を席巻したのが「粋」の意識に導かれた縞や小紋の流行であり、ここでは表面的な華やかさは敬遠され、見えないところに贅を尽くす感覚が尊ばれる。重要なのは見栄ではなく、質であり、生地の風合いや染の仕上げ具合など、装いの微細な部分がポイントとなる。流行の拠点も京都だけでなく、江戸の果たす役割が大きくなりはじまっていく。

    浦沢月子さんについて

    記事引用

    (日本の染織2 紬 

    素朴な美と日本的な味わい 

    p114 草柳大蔵 )

    より 引用

    2015.10.15

    紬とともに 浦沢月子 追加2015.11.4

    六代目「紬屋吉平」の着物人生  織り子の生命を伝えたい女 浦沢月子さん

    (日本の染織2 紬 素朴な美と日本的な味わい p114 草柳大蔵 )

    より 引用

    紬とともに 浦沢月子 追加2015.11.4

     

    多様な織物を生んだ数の文化

    中間資料作成 六度目記録

    2015.11.4

    織物の文化はエジプト、メソポタミア、中国など各地に誕生しそれぞれユニークな特徴をもちながら発達してきた。それらの土地で織物の文化が発達したのは、原材料としての麻、木綿、絹などがあり、それを糸にする技術があったほか、糸から布にするのに欠かせない「数の文化」があったからだ。かつて布や織物が未発達だった原始時代、人々は狩猟で得た動物の皮を着たり、草木の葉をつなぎ合わせたものや、縄を縫い合わせたものなどを着ていた。青森県から出土した縄文晩期の土偶を見ても、縄の肩衣と縄の袴をつけており、古い衣服形式の一つは「縄衣」であったことがわかる。その後、藤、楮(こうぞ)、麻などの植物を水に浸けたり、蒸したり、煮たり、叩いたりして、繊維質を取り出したうえ、糸をつくることを考え出したのである。こうして織物文化の第一歩を歩み始めた。織物というのは、いうまでもなく平行に配列された一組の経糸と、これと直角の方向に平行に配列された一組の緯糸とを、一定の規則にしたがって交差させ、その交差させる作業を連続して作り出したものである。経糸と緯糸とを交差させることを「織る」といい、その規則、つまり糸の交差のさせかたで、織物に美しい多様な変化があらわれるのである。規則とはいいかえれば「織組織」であるが糸を交差させて織物にし、そのうえ織物に模様を表現しようとするには、その織組織を考えなけれなならない。そのために数の概念が欠かせず、したがって「数の文化」があったからこそ、織物の文化が発達したのだといえよう。実際、現在も盛んに使われている和服地の多様な織組織は、それらの織組織を実にさまざまに組み合わせて生み出されいるわけである。

    織物の組織について

    中間資料作成六度目記録

    2015.11.4

    経糸と緯糸とを直角に交差させて織物をつくるが布を織る場合に問題になるのは、どのような織組織によるか、ということだろう。この織物の組織には多くの種類がある。しかし大別すると次のまとめのように7種類に分けられる。

    (1)原組織=平織、斜文織(綾織)、繻子織 <代表的な織り方の三原組織ともよばれる>

    (2)変化組織=変化平織、変化斜文織、変化繻子織 

    (3)特別組織=蜂巣織、模紗織、梨地織、ハック織、混合組織など

    (4)重ね織組織=緯二重織、経二重織、二重織、風通織

    (5)添毛織(パイル織)=別珍、天鵞絨、二重天鵞絨

    (6)搦み織

    (7)紋織

    とわけることができる。以上のうち、(1)の原組織が織物の組織の基本となるもので「三原組織」とよばれている。

    絣以前の絣の系譜

    中間資料作成七度目記録

    2015.11.4

    日本に伝来し、現存する最古の絣は太子間道の愛称で親しまれている法隆寺裂「広東錦」である。これは経糸の非常に密な絹織物で、紅地に黄、藍、白、緑、黒の五色で波状の杢がうねっている模様の、明らに南方系に属する「経絣」であるのに「錦」として分類されている。まだ「絣」というカテゴリーが未成立の時代であったからである。その意味で、室町時代の能装束の「しめきり」も、経絣とまったく同じ技法で、経糸を赤、緑、白等の段染めにし、緯糸も経糸が赤の部分には赤、白の部分には白で織り、装束全体に市松のような効果を出す。明らかに絣の技法であるが、これはあくまでも装束全体を引き立てる背景であるので、まだ絣とは考えられていない。さらに江戸時代の武士の礼服であった「熨斗目」にいたっては、袖や腰の部分にだけ縞や格子を表して、「しめきり」よりさらに絣的、いやまさに絣そのものであるにもかかわらず、熨斗目絣とは呼ばれなかった。しかもこの時代には、すでに「かすり」という日本語も生まれていたのであるから、これもまた絣以前の絣の系譜として考えるべきであろう。
    南蛮貿易による絣の系譜

    中間資料作成八度目記録

    2015.11.5

    御朱印船、南蛮船渡来等、室町末期から徳川初期にかけて、東シナ海から南シナ海一帯は各国の商船でにぎわい、フィリピン、ベトナム、カンボジア、タイ等に日本人町が誕生したほどであった。南シナ海を囲む国々は絣の産地でもあったので、これらの島々の物資、即ち「島物」の中には、当時数多くの絣織物が含まれていたに違いない。勿論琉球絣も十四、五世紀頃から南方系の影響を受けて芭蕉布に絣を織り込むようになり、この時代にはほぼ完成されていたし、南方貿易の重要な中継地であったのだから、これもまた相当量が日本に送り込まれたと考えられる。こうして縞ともちがう「掠れ」た面白い柄に対して、日本独自の「かすり」という名称がつくり出されたのも、1603年に長崎学校で編纂された日葡辞書に「かすり」の項があることから考えても、この時期であったといえる。この時期にカテゴリーとして「絣」が成立していた。
    麻布による絣の系譜

    中間資料作成八度目記録

    2015.11.5

    日本ではじめて絣が織られたのは麻布で、場所は越後であったと推測する織物研究者もいる。理由は色々あるが、基本的には裏日本の物資を大阪に廻送する西廻海運によって、越後と琉球がつながった。漂流したこともあっただろうが、鎖国以後は密貿易も多かったにちがいないとしているのである。帆船であるからすぐに帰るわけにはいかない。その風待ちの二、三ヶ月、越後布と同じ麻布や、よく似た芭蕉布に織り出された美しい絣をみて、船員たちがその技法を習得して帰ったという説である。しかもこの時期は薩摩絣が織り出されたとされている元文五年(1740)よりもはやい。渡辺三省著「越後縮布の歴史と技術」によれば北越機業史に「享保年間(1716-35)越後小千谷の織工カスリチヂミを織り出せり」とある。いずれにせよ、麻布は庶民の衣料として古くから日本の各地で織られていたのだから、当然これらの自家用や村々の市で売り買いされる麻布にも、次第に絣が影響し伝播していったと考えられるとしている。木綿が普及する以前には、庶民の衣料といえば、たいま、苧麻、葛、芭蕉、しな、藤、こうぞなどの植物の繊維を繋いで糸で織った布だけであった。これらの糸には薄褐色の色素のむらがあり、織りあがった布はこのむらが縦横にはしり、乱絣のようになる。これをとるには十日あまりも日光に晒す作業をしなければならない。自家用にそんな手間をかけることもないからそのまま着てそのうえに藍染して着た。このように布の中には、まだ自覚されない絣の赤子が、ねむっていたのである。日本の絣が麻布にはじめて表れたのは単なる偶然ではなかったとみられている。
    木綿織物による絣の系譜

    中間資料作成@

    九度目の記録

    2015.11.7

    インド原産の草棉が中国南、中部を経て、朝鮮で栽培されるようになったのは十四世紀後半である。この朝鮮綿布が応仁の乱(1467-77)前後に大量に輸入され、文明以降には一年に10万匹にも達した。やがて日本の綿布に対する需要が朝鮮の生産量をはるかに越え、日本でも木綿の栽培が始まるのであるが、それは「ほぼ明応、永正(1492-1520)以前と指摘できると思う」(岡野和子 高田幸枝 共著 「近世庶民衣料の一考察」)ただ木綿栽培の北限は三十七度、日本は棉作が可能な北限ぎりぎりにあるので、その栽培の苦労は大変なものであった。しかし棉花を手に入れれば、それ以後の製糸、製織の手間は、例えば麻糸の中程度のものでも、一日約九、十匁しか績むことができないのに、綿糸では約四十五匁も紡ぐことができる。製織にあたっても堅くてまったく伸びというものを持たない麻類の糸に対し、綿糸には柔軟性も伸び(伸縮性)もあり、扱いやすく効率的であった。その上染色性はよく、保湿性にも富んで柔らかい。さらに各工程が容易であるということは、麻類よりも安価であるということに通じるのであるから、木綿の伝来は庶民の衣生活を変化させた。しかもこの木綿の普及と、南蛮貿易による多彩な南方系の縞木綿の伝来が重なったということは、日本の庶民の染織文化にとって幸運であった。サントメ島によって代表される南方系の縞(サントメ縞)の柄は、それまでまったくといっていいほど縞柄を知らなかった日本人、特に庶民の心を激しくとらえた。藍は紺屋で染めてもらい、色糸は野山の植物を煎じて染め、縞を織った。唐桟縞には及ぶべくものではなかったが、それでも彼らは十分に満足したのである。この木綿縞の流れと、麻織物による絣の流れが十八世紀中期に合流したのである。その点を含め、以後の考察のために、ここで各産地に伝承された絣創製の時期にしたがって簡単な年表をおくことにしよう。

    文中元年1372年 琉球 芭蕉布

    寛文延宝1661年 越後 麻

    元文五年1740年 薩摩 木綿

    元文五年 同   河内 木綿

    宝暦年間1751年 大和 木綿

    宝暦年間1763年 米子 木綿

    安永年間1772年 近江 麻

    天明元年1781年 村山 所沢 木綿

    寛政十一年1799年 久留米 木綿

    寛政年間1789年-1800年 名古屋(佐々絣) 木綿

    享和年間1801年 伊予 木綿

    文化年間1804年 米沢 紬

    文政年間1818年 倉吉 木綿

    文政年間1829年 広瀬 木綿

    文久年間1861年 備後 木綿

    慶応年間1865年 結城 紬

    となる。こうして表をつくりみてみると、麻と木綿の絣の合流が前期にあり、中期には庶民の衣料が綿布にうつり、各地で一勢に木綿絣がうまれ、後期になると絹の紬にも絣が浸透してゆくのである。同時に一般によく言われる、絣は琉球(沖縄)から薩摩、久留米、伊予、備後、山陰という伝播は地図のうえでの、観念的で図式的、無責任な説であることが理解されよう。この俗説の根本的な誤りは、薩摩と久留米を同じ九州であるという点で、実に安直に結びつけたことにある。久留米が他国の絣の影響を受けたとすれば、博多、長崎等の古くからの貿易港に近いという地理的な条件と、隣接した甘木に久留米絣よりも以前に、絣と同一の技法の絞染めがあったということをむしろ重視すべきだろう。絣の伝播は、琉球絣にあるという点は同じである。琉球絣の日本への伝播の道は<ふたつの道>があったと考えてみようではないか。

    ひとつは、前記してきたように琉球から越後である。そしてこの絣の流れが西にむかって近江上布につながると共に、一方関東地方等にも影響をあたえた。米子絣(弓浜絣でこれが倉吉絣と広瀬絣の母体という説)海路の中継港であり、伯州棉の産地であったのでこの系列にはいる。

    ふたつめは、琉球から薩摩を経由し海路大阪へという道である。これが「河内絣の文様の基本型はいずれも琉球絣の文様を踏襲したものである」と辻合喜代太郎が著書「河内木綿譜」でのべるものであり、河内、大和、そして近江で越後絣の流れと合流する。

    さらにみつめは、久留米絣はまったく独自に創製され、(井上でんの説を久留米絣からみるとわたしはこの説は充分におこりえるとみている。)伊予、備後に伝播した。

    というものである。勿論、当時の日本の織物は各産地をはじめ自家用織物にいたるまで木綿布の普及にともなう染織技術の向上があり、以上の三つからはずれても独自の工夫によって絣の技法をうみだす水準にあったと考えることもできうる。さらには伝播は一方向でなく、しばしば逆流することがあることを頭にとどめたい。

    日本にある赤について

    赤染材料

    @中間資料 作成

    2015.10.11.

    日本にある赤、茜(あかね)、紅花(べにばな)、蘇芳(すおう)、臙脂虫(エンジムシ)の4種類について

    茜:日本古来より自生していた茜の根による染色 4世紀には遅くても染色されていたとされる。正倉院に収蔵されている染織品のなかで「平螺鈿背八角鏡」(へいらいでんはいのはっかくきょう)は、螺鈿(らでん)や赤い琥珀(こはく)、トルコ石が埋め込まれている印象的な鏡でこれを納める「漆皮鏡箱」の身の内面、ここが茜染による糸で綾地の唐草文が織られている。前後するが、国産ものとはいいきれない正倉院の収蔵のもので世界のいたるところの染織品を保存した可能性があり国産であるとはいいきれない。しかしながら日本茜の自生していた事実や中国から技術伝来などで、茜染めは日本に定着しやすい環境にあった。

    紅花:<日本の染織 紅花染 花の生命を染めた布 >評にて、技法等などを情報追加し、まとめたいとおもう。

    蘇芳:インド南部、マレー半島、インドネシアなど熱帯、もしくは亜熱帯地方に生育するマメ科の植物。そのみきの芯材に赤の色素がある。蘇芳には薬としても効果があり下痢や嘔吐をおさえる効果がある。気温の低い日本ではどうしても生育する環境にならず輸入して使用するしかない。正倉院の収蔵物「黒柿蘇芳染金銀絵如意箱」(くろがきすおうぞめきんぎんえのにょいばこ)があり、黒柿の木でつくった箱を蘇芳で赤く染めかさねたものであるという。さらにそのうえに金銀で唐花木文様をほどこすという装飾性の高い箱。平安時代になってからも赤色は高貴な色として人々を魅了する。

    臙脂虫 エンジムシ 紫鉱:カイガラムシともよばれる。昆虫であるが植物とともにいきる種類は一万種といわれている。運動機能を失った雌は、一部の雄とともに植物に寄生し樹脂で身体をおおう。カイガラムシの分泌物は赤の色素を含んでいるために染料や薬物として採集されてきている。ラックカイガラムシはよく知られる種類でオオバマメノキ(マメ科)、アコウ(クワ科)、ライチ(ムクロジ科)、イヌナツメ(クロウメモドキ科)などの樹木に寄生する。インド、ブータン、ネパール、チベット、ミャンマー、ベトナム、タイ、中国南部で採集できる。正倉院に「紅牙撥鏤尺」(こうげばちるのしゃく)「 紅牙撥縷撥 」(こうげばちるのばち)があり、象牙(ぞうげ)を研磨したものにエンジムシの赤、もしくは上記三種のいずれかの赤染材で染色したと考えられる。

    宮古上布の機織りの苦悩と歓喜、そして本場結城紬とにている運命

    @中間記録2015.11.25

     

    宮古上布と結城紬を私なりにおりまぜてつづりたしましょう。もともと宮古上布は、現在のような形のものではなく、無地もの、縞ものが多かったようです。(本場結城紬にも同じことがいえます。絣生産到来以前は織物はすべてにいえるでしょう。絣は海外から、まず日本には沖縄、琉球王国に伝来し、全国へ伝わっていく歴史のことから宮古上布のほうが絣生産は本場結城紬より、幾分はやかったことと思われます。)麻がたくさん栽培できること、琉球藍という染料が豊富なことで、独自の織物が栄えた島でしたが、今日のように貢納で発達するような土壌もあったのです。沖縄では、芭蕉布が民衆のふだん着として愛用されていましたが、その他にも木綿や麻の織物も着用されていました。とくに宮古では、宮古頭職に任ぜられた下地真栄の妻が、紺細上布(今の宮古上布の前身)を工芸品として、琉球王府に献上したのです。ところが、それがかえって悪い結果をよび、あまりにも素晴らしいものなので、それをみた薩摩政府が、わがものにしようと乗り出してきたわけです。また宮古では、機を織る女には「苦労米」といって米を支給した。家族には非常に喜ばれた。しかし、機織りの女たちの苦しみは想像を絶するものがあり、毛髪が抜け落ちる女は多かったということでした。ただ織るならまだよいのですが、ここに「貢布検査」という難関があります。一反一反につき、織った本人の前で、原料、染め方、織り方、量について検査をするのですが、織り傷や、染料のムラは絶対に許されず、糸も太さが全部揃っていないと、はねられたのでした。これが不合格になると、これまでの苦労が水の泡になるので、彼女たちはひざをつき神に祈りながら、検査結果を待つのです。(備考と参考文:本場結城紬のこんにちもにたようなところがあります。検査制度があること、織り手の心理も非常によく似ています。こうした想像は売り手側にも理解があればよいことかもしれません。上記ページ内の浦沢月子さん紹介記事を参照、参考にしていただけるとわかりやすいと思います。)糸の不揃いも(素人目にはまったくわからないのですが)、新案の意匠の前では、少し大目にみてもらえたようです。ですから、先を争って新柄を考案し、検査がよりスムーズに行くことを願ったのですが、この検査のおかげで、逆にすばらしい宮古上布の技術が現存している、ともいえそうです。自家用から献納布になり、明治の中期以降やっと自分で織ったものは、自分で売れる時代がきました。こうした織物の自分で売ってよい時代の到来をむかえた織物産地はたくさん全国にあります。しかし、その価格も、原料の買入れと、1人分の食費が出るくらいのものでしたが、監視されながら献納のために織るとは、もう雲泥の差です。(2015年現在時、本場結城紬は常に監視下にあります。こうした検査制度の確立が時代時代で厳格化を増し、非常に大変な思いがかさなっていっているのです。これは生産者にとって大変なる課題と宿命です。皮肉にも私(北村陵)が言わせてもらうなら、検査は2時間あれば一連の検査は終わるでしょうが、検査員は公平を保つために第三者(扱いは公務員等、学識者等)がおこない、落ち度が見当たらないようなものも厳しい目線で不合格となった検査依頼者が激怒してしまう場面はいまだにあるといいます。私も激怒した依頼主の気持ちは織元の人なのでよくわかります。学識者は頭がよい、らしいですが、ではいちからつむぎをつくった人の気持ちはわかんのかといいたいものです。場合によっては織るだけで約一年、また半年など長期にわたって出来上がったつむぎに数時間の検査で、あなたのつくったものはダメといわれれば、激怒する人の心は折れます。だから生産者にお前はなってみなさいといった激怒話になるのは当然なきが私はするのです。やけぼっくりにみず状態の激しい口論になるといいます。どちらの主張もそれなりにいいぶんはあるでしょうけど、検査員はそうした学識以外にも、学ぶべきことは多々あると私は思うのです。検査員は世の中学識だけではないことをも理解を深め、頭がいいといって優越感にひたって有頂天のままではいけません。頭がいいというのは脳みそのシワが年をとれば誰だってうすれてなくなっていきます。誰でもいずれ単細胞になるのです。その道数十年という生産者(いってみれば反物検査依頼者)にとって検査員の判断がただの屁理屈にきこえてしまう場合だってあると思われ、どうしても私は激怒する生産者の人の気持ちと同じようになってしまいます。)話がだいぶそれましたが、女たちは競って機を織りました。明治二十六年の生産反数は960反で、その前の献納布がだいたい1400反以上ですから、約3分の2の生産量です。数が落ちておるのは、身体を無理しない程度に織るからですが、この時代は機の種類が地機織りであったことも影響しています。高機織りになったのは、大正時代になってからといわれ昭和には生産量もかなり増えて3000反くらいの大量生産で、どっと市場に出まわりました。(こうした問題は需要と供給、さらには上布ブームなどに対応したものであり、様々な視点からは賛否両論でしょう。手織りの地機織りにこだわって欲しい、という人もいれば、供給が過剰時は、地機織りでは手に入れられる人も少数となります。商人にしてみれば、とにかく数をつくりたいのです。こうした時期は当然ながら品質は低下します。)薩摩上布(歴史解釈によって呼び名は多少異なる)が庶民が着られるようになったので、この言葉は戦前まで、宮古上布と改められずにつけられていたようです。そして宮古上布と呼称がかえり、いきいきとしてきましたが、東京の力の強い問屋が、またまた宮古上布をひとりじめして、高く売りさばき、ごくわずかな人にしか手に渡らないようになってしまいました。宮古上布は、大衆の手には渡らないような運命にあるのでしょうか。本場結城紬もまた同じようなカテゴリーに分類されている印象があるように私は思います。そして、後継者不足問題もかかえています。そうした問題に答えはまだでていません。

    中形

    @中間資料を一度記録

    (古書現代2の再掲)

    2015.12.5

    きものに夏姿ということがある。そして秋姿、冬姿、春姿ということはない。これはわが国の高温多湿の夏の季節から生まれた、風土的なきもの美をいうものである。夏姿には絽や紗、上布を着た姿もふくまれるが、夏のきものはマテリアル、織り方、文様、色彩にいたるまで、他の季節とがらりと変化がみられる。きものの形が一年中同じで変化がないことが、必然的に視覚的に涼感をだすことに、工夫がこらされてきた背景がある。浮世絵には美人画の外にも、北斎などが描く風景画の空の色、水の色に藍からつくった藍蠟(あいろう)という絵の具が用いられていた。藍ガメの中の藍液は黄土色を呈している。この中に糸や布をひたして空気中にさらすと、藍は空気の酔素と化学反応をおこしてはじめて青く発色する。紺屋のものは、これを風を切るという。藍はかつて世界中の暖かい地方で用いられたが、現在、植物藍を用いているのは日本と数カ国を残しているのみである。きょくちてきにはその民族が藍染めの技法を昔ながらの染色をおこない、なおのこるといった感じである。藍の色は日本の風土によく調和する。藍の色をアメリカの人は「ヒロジゲブルー」「ジャパンブルー」と呼んで珍重するのも、日本人の生活に密着した藍色に対する魅力によるものがある。中形には、地色が藍で文様を白く染め抜いた地染まりの中形と地が白のままで文様を藍染めで表した地白中形がある。昼間は地染まり中形をきても、夜ともなれば地白中形が粋に見えて調和がよい。三遊亭圓朝の人情話『牡丹灯篭』にカランコロンと下駄の音をひびかせて出てくる幽霊は、地白中形でないと凄味が出ない。また「生き堪へて身に沁むばかり藍浴衣 橋本多佳子」の句には、紺の地染まり中形が連想されるといふものが多いという。歌舞伎役者によって流行した中形をあぐれば、

    仲蔵縞:仲蔵が毛剃九右衛門にふんしたときに元船の場面できた変わり縞 

    芝翫縞(しがんじま):四筋に釻つなぎ(かんつなぎ)を配し、芝翫に通じさせた模様

    鎌輪ぬ(かまわぬ):鎌の絵のなかにぬの字を入れた図を三筋縞の中に配し、「染めもかまわぬ江戸自慢、、、、」の長唄の文句に合わせたもの

    市村格子:十二代派左衛門好みで、白地に紺で破れ格子に片仮名のラの字を配した柄

    その他、歌舞伎芝居にゆかりのある粋な中形も多い。以上、ふれた中形は、重要無形文化財として指定されている江戸中形(長板本染中形ともいう)主としたものである。中形には明治年間に大阪からはじまった注染中形(折付中形、手拭中形の名もある)がある。現在の中形の大部分は、この方法で染められる。

    郡上つむぎの蘇生 宗廣力三

    宗広力三

     

    @中間資料を一度記録

    2015.12.5

    郡上八幡は、岐阜から越美南線に乗り換えて、約二時間、飛騨山系の山塊にいだかれた小さな城下町である。人口は約二万人、町の中央を長良川の支流、吉田川が貫流し、紅殻格子の古い家並が続く、小さな町である。この郡上八幡町から、北に5kmほど山に入った小駄良郷に宗廣力三さんの主催する「郡上郷土芸術研究所」がある。大きな民家を改造したもので、一階が「郷土織資料館」となっている。自然の草木染絣として、独特の風合いを持つ郡上紬は、戦後、宗廣さんによって創始された。宗廣さんは、大正三年四月二十五日生まれであるから、62才になる。郡上紬の歴史は、宗広さんと共に始まった。もともと、郡上八幡は、源平の昔、平家の落人たちがこの地にわけ入り、村をつくったところであったから、郡上織と呼ばれる伝統絹織物が織られていた。柳宗悦とも交流があり蘇生を志す。郡上紬は野性の蚕糸を紡いで、草木染めしたもので、10世紀に醍醐天皇の命により編纂された「延喜式」にも『曾代糸』と記されており、伊勢神宮の神官の装束に用いられた。宗廣さんは、眼鏡の奥で柔和な笑みを浮かべ、苦労話を語ってくれた。それは、苦難と希望に満ちた、闘いの人生であった。宗廣さんは、農家の次男として、初音の町に生まれた。三男のものが家を継いだ。宗廣さんは、小さい頃から研究熱心で、一つのことを思い込むと、かならず完成させなくては気のすまぬ性格であった。郡上農林学校の生徒であった時にも、寒冷の地では作ることができないとされていた、西瓜やメロンをセロハン張りの室をつくり、実らせている。この成果が何事もやろうと思えば出来る、という自信を植えつけた。学校を卒業すると、県立畜産試験場に入る。ここで、羊毛加工などの技術を修得する。昭和14年、25歳の時に、留学生として、約六ヶ月、ドイツ各地の農場を視察した。このドイツ留学の経験が宗廣さんの視野を世界に向けさせた。郡上八幡地方は寒冷の地であり、貧しい土地であった。この貧しさゆえに、この地の人は、向上心に燃え、反逆の精神があった。また、幕末には、会津白虎隊と共に、最後まで官軍と戦った郡上凌霜隊が、よく知られている。この反抗の精神は、昭和12年になると、青年運動へと発展する。「凌霜隊塾」と呼ばれる修養道場の建設である。これは、郡上郡の次男、三男たちが、八幡町城山の山麓に、山小屋をつくり、荒野を開拓し、自給自足による共同村の建設を計ったものであった。農家の次男たちにとって、土地ではなく、働く場所をもたなかった。この青年達は、共同村の建設によって、理想郷の村づくりを計った生活革新運動であった。戦前の気風も、国策として、海外への飛躍を望んでいたし、県も、この「凌霜隊」に補助金を与え援助した。最初は10人程の小さな運動であったが、やがて、県内から青年達が集まり、満州開拓団、郡上村建設へと発展していった。共同作業によって、山地を開墾し、羊をかい、ホームスパン加工をした。宗廣さんは、この「凌霜隊」に入所し、やがて、広い知識と指導性をかわれ中心的存在となっていく。ようやく実りを結びかけたこの運動も、終戦によって挫折する。敗戦の焦土の中で、希望に燃えて旅立った青年達は、現在の中国東北地区から続々と郡上に引き上げてきた。失意と飢えに怯えた灰色の時代であった。宗廣さんは、これらの青年達に、生きる希望を与えようと、昭和21年、大日ケ獄山麓の国有林三百町歩を払いさげてもらい、五ヶ所に小屋をたてて、太平開拓農場を開いた。それは、山林から木を伐り出して建てたバラック小屋であり、食べるものとてない極貧の生活であった。宗廣さんは、妻とうきさん(55歳)と二人の子供をかかえ、生活苦と闘った。毎日、荒地でできる大根とジャガイモの生活であった。米粒など一粒もなかった。現金収入はゼロに近く、食塩を買うお金もなく、近くの農家にもらいにいったという。衣服は、特需物資を払い下げ、古着を直してあった。共に作業している人々の家を訪ねて見ると、陽がかんかん照りなのに寝ている。腹が減って働けぬというのだ。宗廣さんは困った。そして思い出したのが郡上織であった。織物のことなど全く知らぬ宗廣さんは、京都染色試験場を訪ね、インド原種エリ蚕研究家として知られる浅井修吉氏に面会を申し込んだ。浅井さんは、宗廣さんの情熱にうたれ、つむぎ制作の指導を約束してくれた。その時の心境はまさに藁をもつかみたい気持ちであったという。昭和22年、浅井さんから都合してもらったヒマと「神樹」(うるわしの種)を、農場に持ちかえり、植えた。だが、その年は、水照りが続き、発育せず、わずか10kgのまゆがとれただけであった。エリ蚕はインドのアッサム地方では、親子三代に着られるという上質の絹糸で寒冷の地で育てることは難しい。しかし、宗廣さんの不屈の闘志は、この難点を打破した。品種の改良を行い、やがてマユの木はすくすくと育つようになった。ようやく糸ができると、宗廣さんは、付近の農家から高機をかりだし(のちに地機織り、結城紬の織り機で日本最古の織り機で織るようになる)、浅井さんの指導で、織り方の勉強をした。自ら修得した織りの技術を妻に伝え、やがて、共同農場の人々に教えていった。染めは、山麓にある自然の草木を用いて草木染めした。黄色は、黄八丈と同じように刈安(かりやす)、淡黄色は渋木、茶は阿仙にクルミ、赤は蘇芳、紅花、(生涯の代表作の赤には日本茜をつかうあとあとである)、藍色は藍である。しかし、色調の度合や、かんが解らず、自分の考えていた色がでない。この頃化学染料などまだない。寒風の吹きすさぶ早朝に起きては、火を焚き、草木を入れて、何度も試験を重ねた。ようやく、昭和25・26年頃になると、紬らしいものが出来上がった。それまでの三、四年間は、まったくの無収入で、共同農場の人々など、「前途もわからんし、かってなことやってて…」と非難の声があがっていた。国から十万円の開拓資金をかり、どうにか飢えをしのいだ。また、繊維会社の社長をやっていた山田栄三さんも、販売、資金の面でバックアップしてくれた。こうして完成した郡上紬も、まがいものが出たりして、思わぬ災難にあったりする。商標登録したのは、昭和47年になってからである。郡上紬は、緯糸にエリ蚕のつむぎ糸、経糸は、玉糸とつむぎ糸を使っている。撚りは経糸を強撚りしてある。浅井さんの指導でここまで織れるようになり、本来の草木染めの美しさが郡上紬の評価をたかめている。白洲正子さんの著書に宗廣力三氏の記事があるのでそちらも参考にしていただきたい。

    原始布架空論(1)

    原始的織機について 

    2015.12.11

    記録

    作成 北村陵

    現代の日本の紬

    絣産地一覧表 作成 現代編集2015

    2015.12.21

    @中間資料を一度記録

    現代の日本の紬 絣産地一覧表 作成: 北村 陵

    現代編集2015

    上布が衰退した三つの理由

    2015.12.21

    中間記録

    なぜ、こうなったのか。まず第一に、木綿の普及があげられる。応仁の乱の前後から朝鮮を経由し、日本に普及しはじめた木綿は、やがて江戸中期には栽培の可能な日本中の農村でつくられるようになって、庶民の衣料の中心が布から木綿に移った背景がある。第二に、庶民から成り上がった武士階級は、麻布をその服制の中に取り入れていた。これが木綿以後の麻布の最大の顧客であり、このために上布の技術が発達したのであるが、この武士階級は明治維新で完全に没落した。第三に、今次大戦後の日本は工業化し、日本人の衣生活は欧米化して、仕事着、普段着、街着としての和服は激減し、特に夏の和装における麻布は、ごく一部の人々以外は使われなくなった。絹物の絽や紗の方が正装となり、しかも安価で、麻布のようにしわにならないということが主の原因であろう。このようにして上布は、社会的な存在理由を喪失したといわざるをえない。「縮は死のうとしている。が、まだ完全に死に絶えたわけではない。かすかでも息のあるうちはあらゆる手だてを尽くして、それを守ろうが、無理やりに、なにがなんでも生かそう、生き続けろというのは、かえって残酷ではないか。せめていくらかでも美しさの面影をとどめているうちに、やすらかに死なせてやりたいのだ。」:小千谷の西脇新次郎氏のことばである。彼は江戸時代からつづいている縮問屋の9代目であり、昭和45年には『越後のちぢみ』という、いってみれば越後上布の記念碑ともいうべき本を編纂されている越後上布の第一の理解者である。その氏にして、この言葉である。はじめてきいてみると喉がつまる思いであるが、しかし今、この言葉は素直に私の心におさまるのである。
    滅び去らせるには惜しい上布

    2015.12.21

    中間記録

    上布は、まだ死んではいないが、越後上布の場合には、上布の古格を厳しく守り、苧麻の栽培から苧積み、よりかけ、そして地機で織る技術さえも習得した、六日町の鈴木苧紡庵氏のような人もいる。機を織る人たちからは、例えば「自分は昔機を織っていたが、悪い糸にあった時は本当に泣かされたものだ。だから今、織る人が織りいいような素直な糸を績んで(うんで)あげたいと、それだけを念じて糸を績んでいる。」というような胸をうつ多くの言葉がある。たまたま切れた経糸をあっという間に繋ぎ合わせ、しかもそのつなぎ目が、まるで鋏で余分な部分を切り落としたかのようになっている。八十歳をすぎた老婆の手わざのさえである。こうした人々が数名残っている。宮古島にも石垣島にも同じことがいえる。一筋の糸を追って生き抜いた人々の心の深さは、外部からはうかがい知れぬ深い深いものであろう。そこには長い庶民の歴史がまだ息づいて、あたたかい血が流れている。滅び去らせるにはおしい。本当になんとかならないものかと非力な自分を責める思いにも涙もない。しかし、いかに美しくても、新しい社会に適応することができないものを、仮借なく、非情に滅びさせるのもまた、伝統というものなのであろう。

    沖縄県、読谷山花織について 記事作成 中間資料集

    2016.1.6

    中間記録


    沖縄県、読谷山花織について

    記事作成 中間資料集2

    絣括りとスリコミ(直接染色法)と逆スリコミについて

    2016.1.9

    中間資料 作成

    久米島紬草木染絣の制作の考察 北村陵
    久米島紬、八丈島紬の技法を吸収して改良改善をはかる、について

    2016.1.11

    中間資料作成

    久米島紬が古くから人々に愛好されてきたのは、その色調が草木染めであり、その上、泥染をおこなう染色技法に巧みな技法の日本の紬の染色をみる。そうした原始的な方法によってひきだされてゆく渋みのある落ち着きは着用をかさねてゆくとなんとも深い味わいがある。本土では琉球紬とよばれていたという。17世紀に始まった薩摩島津藩の支配下にあった寛政4年(1792)に江戸の人々の目に初めてとまり、重宝されたといわれている。久米島紬の推移については、琉球国由来記(1713)、琉球国旧記(1731)、仲里旧記(1706)、具志川旧記(1743)、更に具志川村上江洲家家譜等にそれぞれ述べられていることを辻合喜代太郎氏が記述されていることを現在確認した。それらの資料によると、久米島は中国と南方諸島との交易の中継地として船舶の往来が繋く、紬の原料となる絹糸の生産について、もともとこの島に古くから野蚕が存していたことが知られ、更に養蚕技法は15世紀半頃、堂比屋という人が明国に渡り、その地の技法を新しく学んで導入したことや、漂着した中国人から養蚕、製糸の技法を学んで、絹の粗布を製したことなどが、この島の紬の起源であると伝えている。上江洲家家譜、琉球旧記によると更に万暦47年(1619)に越前国の住人宗味入道が琉球を訪れ、国王尚寧王の茶道の指南役となっていたが、たまたま、彼は養蚕、製糸の技法に精通していたことから、王命にしたがってこの島に渡り、従来の伝統的な技法を改良し普及に努めたということである。崇禎5年(1632)<寛永9年に相当する。>に、島津藩の酒匂四郎右衛門(酒匂友寄親雲上)が琉球王府の招きに応じて久米島に渡り、八丈島紬の技法をこの島の紬製作法にとりいれ、大いに改良に努力した。その主なる点は、草木染<刈安(かりやす)、マダミ、椎、泥染)についての研究、オヤリ糸という紡糸法とである。この技法は繭をまず真綿状にし、これから手ひねりで糸を引き出し、その糸先を手紡錘を回転しながら撚り(より)をかけ、手錘に巻きとり紬糸を得るという方法である。このように久米島紬の技法改善に王府がなみなみならぬ努力を尽くしたのは、当時既に琉球は島津藩の治政下にあったため、貢布の制度が定められていたからである。
    図説 オサノカラメドについて

    2015.10.10

    作成日順列前後

    オサノカラメドについて
    図説 染色  ばいせん剤と助剤のイリグチ染色 

    2015.11.18

    作成日順列前後

    染色基本知識強化記事

    紬の昭和住み込み生活

    つむぎ風土記  

    2015.1.14

    作成日順列前後

    作成 北村陵

    本場結城紬の図案紙より考え抜かれた織物図案紙は日本に存在しない。

    考え抜かれて誕生した本場結城紬の図案について 

    2015.2.3

    作成日順列前後

     

    作成 北村陵
    絣の誤謬(ごびゅう)

    2014.10.7

    作成日順列前後

    作成 北村陵
    久米島紬の種別

    2016.1.13

    中間資料

    島内で紬糸は宇江城、比屋定で養蚕を行い、座繰生糸(ざぐりきいと)と手引紬糸とを生産しているが、到底、自給自足は困難であり、多くは那覇、鹿児島等から移入している。しかし、年々栽桑も増加して、自給自足も可能に近くなったという。久米島はそうした歴史もあった。 

    久米島紬の銘柄には

    (1)黒物 グール染、テカチ染に泥染を施したもの

    (2)色物 福木、クルボー、ヤマモー、ユウナで染め、その後、明バンの媒染によるもの

    (3)白紬

    (4)ユウナ染

    がある。これらの色調に必要な染料について述べると、グールはサルトリイバラの根を細かく切り、窯で煮て染汁を採る。テカチはシャリンバイともいい、その幹を細分して煮て染汁を採るものであって、久米島紬の最も特性とされている。赤染色という焦茶色のものはグール染十回、テカチ染十回、泥染八回の工程を経ている。福木は琉球地方の防風林として重要な樹木である。その幹の皮を煮て染汁を採るもので美しい黄色である。クルボウ(クロバイの皮)、ヤマモ・ユウナ(オオハマボウの灰)も用いる。ユウナはグーズミと呼ばれた古来からの伝承染色法があり、その幹を焼いた灰をサンゴ礁で作った臼に入れて十分に粉末化し、これに豆汁を加える。糸染を何回も繰り返して明バンで媒染すると灰色を呈し、すこぶる優雅な色調になるという。このように色調はすべて草木染めを原則としてこれに泥染を施す。泥は仲里村阿嘉地区から採集する。泥染は古くから内地でも行われていた方法であり、丹波布とよばれた布はこの方法によった美しい布とされている。泥染というのは泥のなかにふくまれた鉄分が媒染剤になり発色するものである。久米島紬の場合、テカチ染に泥染を施すとテカチ染のタンニン酸鉄と泥中の鉄塩が化合して、タンニン酸鉄が生じ、黒焦色を呈する。また、緑色は福木の下染に泥染媒染を行って得られ、赤紫色は蘇芳の下染に泥染を行って得られている。

    久米島紬、琉球布の図柄と文様

    2016.1.14

    中間資料

    図柄と文様は<御絵図帳>に基づいたものを原則とし、経絣、緯絣、経緯絣、経縞と絣、緯縞と絣がある。文様によって御殿柄(王、貴族によって用いたもの)、城柄(士族の用いたもの)、小柄(庶民用)と区分されていた。最もよく知られているものは杢糸(もくいと 二本の異なる色の糸のあわせ糸)を用いた色糸による格子縞、格子縞と絣文との組み合わせである。文様主題はトグワー(鳥形)、矢形、花形、亀甲形、番所金、カマシキ、犬足形、十三群、二玉、三玉、ゴーヌーイ、眉形、波形、十字形、雲形、菱形、餌箱形等が用いられ、二つ以上の主題が互いに組み合わされているのが通例である。このような文様は琉球で生産される織物に共通したものであり、いわば琉球産織物の特性といえる。

    首里紬について

    2016.1.14

    中間資料

    首里は旧琉球王府の地であり、古くから琉球の織物の中心地でもあった。旧王府頃には麻布、芭蕉布、トンビアン、花織、琉球絣、手縞、綾中、ランラミ、ロートン織などのすべての織物が生産されていた。したがって現在でもその伝統を守って高度の技法とその洗練された意匠を表現したものが見られる。首里紬は<御絵図帳>に示された図柄を基として織られ、紬糸は伊平屋、伊是名島(いぜなじま)で養蚕された繭から手引きした糸を用いる。色調は草木染によったもので、その主なる染料は福木、藍、テカチ、ヤシャブシ、紅花、ウコン、クロトン、クルボウ等である。文柄図柄は士族以上の人に用いられた多色の美しい格子縞と絣との組み合わせであり、これを手縞という。また、経縞(竪縞)に絣文の組み合わせのものを綾中という。これらの縞糸は二色の色糸を撚った杢糸を用いる。最も多くみられた絣文は鳥形、矢形、眉形、水雲形である。色調は赤、黄、青の三色を基とした美しい構成であって琉球織物の伝統意匠の特性を示したものである。

    きもの…ありがとう

     宮崎恭子

    2016.1.18

    中間記録


    きもの…ありがとう 宮崎恭子

    つむぎについて

    結城市史第六巻 結城市郷土資料

    2012.7.-2012.12.

    中間記録

    作成日順列前後

    結城図書館、茨城繊維工業指導所に保管してある結城市の郷土資料。とくに紬に関しては、結城市の市長をこの資料を編纂した時期、奥順の先代の社長が、過去の資料などからまとめたもので、産地問屋の社長としての輝かしい紬時代を一冊にまとめたのかと思うのである。産地問屋の社長が結城市長であったのだから紬業がいかに盛んな時代かおわかりいただけよう。私も何度か会話したり可愛がられたのであまり悪くは書けないが、2012年の6ヶ月でレポート化および電子化で、結城図書館では、この後持ち出し禁止重要資料となった。結城市史は第1巻から6巻まであり、最後の6巻にて先代が紬について義理でもまとめてくれていたので、作業にとりかかったのである。政治に結城市議会議員など政治に関わる紬業のものが数名いるが、私は紬業のものが政治に入っていくものではないと思って冷ややかな視線を彼らに送っている。政治特有のうさんくささが仕事にも出てしまうと私は考えている。収入は少なくても黙って紬業にうちこむのが本来の姿ではないのかと思うし、政治に介入する紬業の彼らは反面教師である。

    栃木県足利市 織姫神社へ

     

    2016.1.24.

    歴史と文化のまち 足利織姫神社

    レポート作成 北村陵

     

    足利織物資料館の八丁撚糸機について

    2016.1.24.

    足利織物の資料館内撮影(1)

    八丁撚糸機について

    ちぢみ(縮)の糸づくり

    結城紬産地の八丁撚糸機と杢糸生産機について

    2015.7.29.

    中間資料作成

    八丁撚糸機と杢糸生産機の画像と動画:取材先:くらもち撚糸杢糸生産店

    2015.7.29.

    縮織物の糸づくり(強撚糸)、杢織物の糸づくり(杢糸)について

    栃木県足利市 足利織物資料館

     足踏織機について

    2016.1.24

    栃木県足利市 足利織物資料館

     足踏織機について

    と 結城紬産地高橋式半自動織機のリンク
    結城紬産地の道具の変遷について 2015.記録 結城紬産地の道具の変遷について 上記の資料とかさねて勉強してみる

    組物機械(組紐機)の展示とそのほか

     

    足利資料館内撮影

    2016.1.24.

    組紐、座繰り糸関連道具の展示
    蜘蛛の糸と蛍光繭の議題

    2015.7.22

    中間記録

    2015年茨城の講習会のまとめ(1)

    iPadでリアルタイムに記録していった。よみにくい部分あり

    玉繭の養蚕の指摘と考察2015

    2015.7.24

    中間記録

    意図的に、遺伝子組み換えや玉繭生産できるというのは、あまり評価できないレポート

    2015年茨城の講習会のまとめ(2)

    現代の化学染色の時代、

    今後の草木染め時代、

    もう一度、古文献をみつめて

    2016.1.28

    中間記録

    1856年、イギリスのウィリアム・パーキンという青年がコールタールを原料とした赤紫色の色素を発見した。このウィリアムパーキン氏の色素の発見が化学染料開発のおおいなる化学染料および化学合成染料のはじまりをつげたものとなった。この赤紫色を彼はモーブと名をつけ、世界で最初の合成染料会社をつくり彼は大成功をおさめる。この合成染料の発見で、これまでの植物や貝や昆虫などの天然染料を抽出する時代から合成染料の時代へと大きく変わっていった。その後、アリザニン、インジゴ(インディゴ)といった、様々な合成染料が開発されてゆく。19世紀後半には人造繊維も開発されて、現在のようにカラフルな衣服をまとった人びとが街にあふれるようになった。現代の染色は化学染色といえる。しかし今後の<日本の伝統>を重んじるとなると、この化学染料を用いた染色より天然染料などの草木染めにこだわった天然染料、草木染色にたどり着く。古き<万葉集>を筆頭に登場する文献には天然染料のみの染色であることは広く認知されている。草木染めブームなどの染織ブームのときもこうした古い文献<万葉集><源氏物語><徒然草><延喜式>までさかのぼって草木染めが一時的に盛り返した。そしてまた化学染料時代へと戻ってしまった。そして私も着々とすすめているのが、こうした古き文献までさかのぼる従来の天然染料を用いた染色の技法のものであり、それは伝統を草木染め主流から化学染料主流、そしてまた草木染め主流になるものだと私の結城紬染色はあるべきであり、草木染め推奨派である。優しい色合いは決して化学染料にはない奥行きがあると私は思うのである。私の記録を参考に草木染めが、ふたたびのふたたび見直される日がくると思ってやまない。それまで私は産地をひっぱってゆく。

     

    文明、いにしえの色彩

    2016.1.28

    中間資料

    ところで、人はいったいいつから、服地を染めるようになったのだろうか。人類の歴史の中で自然に対する祈りや儀式のために、色彩の利用がはじまったといわれている。1万5000年以上前の遺跡、スペインのアルタミラやフランスのラスコーの洞窟では天然の顔料の絵が描かれている。衣服が発展する前には、どの民族も赤土などの顔料をからだに塗りつけ模様を描いていた。繊維を天然染料で染色するようになるのは、もっとあとのことで、紀元前4000〜3000年にかけてといわれている。世界各地で染色工芸の技術が確立されてからのことだろう。
    古代エジプト文明と染色

    2016.1.28

    中間資料

    現存する最古の染色された布は、エジプトのピラミッドから発見された藍染の麻布である。いまから約4000年以上も古いものとされている。古代エジプトでは、ツタンカーメン(紀元前1352年没)の墓から、茜染の帯も発見されている。紀元前15世紀ごろから、地中海で染色を行ってきた民族として有名なのがフェニキア人である。貝からとりだした分泌液で布を紫色に染める技術を発見したといわれる。1個の貝には、とても微量の色素しかふくまれていなく、1グラムの色素をえるために、約1万個の貝が必要であった。ローマ帝国時代には、この紫色は帝王紫(ロイヤルパープル)とよばれ豪華なくらしの象徴とされていた。クレオパトラの船の大きな帆が貝紫で染められており、その色で権力を誇ったともいわれている。
    アンデス文明と染色

    2016.1.28

    中間資料

    アンデス文明では、紀元前1万2000年ごろから織物が制作されたといわれる。南アメリカのペルーにあるパラカス半島では、紀元前1世紀ごろのものとされる、鮮やかな黄色と紫色の織物が発見されている。この時代には、アンデス地帯では、藍、茜、くるみ、貝紫も使われ、鉄分を含んだ泥、石灰、ミョウバンを利用して染色していたと考えられる。
    中国文明と染色

    2016.1.28

    中間資料

    中国では、4000年以上も前に、蚕から糸をとりだして織物にする絹織物の技術をあみだした。その絹は軽くてしなやかで光沢があり、よく色が染まることから、多彩で澄んだ色の布が生み出された。紀元前3世紀に中国を統一した秦の始皇帝のころから、絹の染織技術が発展したといわれており、中国からローマ帝国までの道が<シルクロード>とよばれているように絹を代表とする交易のための道が、その後の東西交流の重要なルートとなった。日本にも、このシルクロードを通って、西域ペルシャなどからの染織文化が伝わった。それらの影響は正倉院宝物(しょうそういんほうもつ)の染織品をみるとわかる重要な宝である。
    インダス文明と染色

    2016.1.28

    中間資料

    インドでは、紀元前3500〜2500年前にインダス文明がおこって木綿が栽培されるようになった。その木綿の布に華やかな草花文様を木版などで染色したものがインド更紗(サラサ)である。インド更紗は、高度の染色技術による染め布で、紀元前6世紀ごろに発展して生産されるようになった。インドは東西交流の真ん中に位置しており、その染織品が東西に運ばれるようになっていった。

    植物学に学ぶデザイン独学2015

    2015.4-

    中間記録

    植物モチーフのデザイン学、独学。

    レポート作成: 北村陵

    格子柄(チェック)に学ぶ格子のデザイン独学、研究と素材

    格子柄究極への思考

    2015-

    中間記録

    格子柄(チェック)のデザインを考える デザイン学、独学。

    レポート作成:北村陵

    本場結城紬九寸名古屋帯婦人用格子柄草木帯2015< 一品好>シリーズ第一弾 2015-2016.1

    格子柄のデザインをつくり、草木染め100%による染色の九寸名古屋帯

    たった一回での制作シリーズで世には一品しかないカジュアルエレガント

    のコンセプトの婦人用帯を制作し付加価値を追求。その第一弾の帯

    一品好第二弾草木染婦人用格子帯のデザイン考案

    2016.1.25

    中間記録

    上記の制作シリーズ帯の第二弾。草木染め100%による染色の九寸名古屋帯

    こちらも市場には一品しか出回らないまたしてもカジュアルエレガントの

    コンセプトの婦人用帯を制作し引き続き希少性の付加価値を追求。

    その第二弾の帯のデザイン

    絣の履歴と生産 過去の絣生産分

    絣括りによって絣が生産されていく記録をとった。結構なボリュウムであると振り返る。

    まず、こうした記録は生産者ならではと言えるものがそこにはある気がしている。

    図案がかければデザイナー、

    絣とはどんな世界か

    絣<蚊絣>及び

    <十の字>の示す、未知について

    2013-

    中間資料

     

    このホームページを立ち上げた時にこのページをつくった朧げなる記憶がある。調べれば正確な作成日はわかるが、絣を読み解く、語りきかせのページは当時存在しなかったと記憶している。作成:北村 陵

    糸、柄、織の進化の結城紬の柄の結晶<亀甲>、それと結城紬の産地ではなく、国が認めた柄の結晶<十字絣(蚊絣)>について と百年経過の結城紬(結城紬三代の謎)2013.11.22.完成、公開

    2013.11.22

    中間記録

    この北村織物の家宝<十字絣>は、絣ものの本場結城紬で最も古い資料として、全国の博物館から寄贈依頼があったがそんなのはどうでもいい、私がくたばったらもっていくがいい。しかし、正確なる図案がないころに、あらい十字絣ではあるがよく織られている。そこが三代を結ぶ丈夫さすなわち、結城の力かもしれない。
    蚊絣の伝承 温故知新 2012年以前記事

    こちらは蚊絣について書いた記事(ページ)でも旧サイトからデータ移動したもので2012年より前にすでに筆をとっていた。勝負師やヤクザが好んで着るといわれる全国の蚊絣と結城の蚊絣がむすびつくように私は書いていたような気がする。日本民藝館から奨励賞受賞で原稿というか感想文を書いてくれとのことで書いたがそれとは別である。たしか民藝という小冊子になった気がした。これも覚えているのは緊張していたことくらいで覚えていない。本当に古き記事で心境も覚えていない。

    定年サラリーマンの糸とりの考察と現実、手つむぎ糸生産

    2016.2.3

    中間記録

    手つむぎ糸について:北村陵

    60歳で定年退職した男性のサラリーマンが糸とり指導をうけて、手つむぎ糸、袋真綿50枚(袋真綿一枚 約2g)で1ぼっちという取引単位で糸の賃金は高額とされているもので、細く平らな使いやすい手つむぎ糸は一万2千円くらいである。私も毎日のように糸とりしているので、その糸が出来上がる速度というか時間はゆっくりなもので効率のいい仕事ではないことはわかるのであるが、その定年をむかえた男性サラリーマンは、指導をうけたあとに、馬鹿臭くてやっていられるか、と言ってやめてしまった、というような話があった。確かに糸づくりは時間と手間を考えると賃金は低いように感じてしまい、そうしたことがおこってしまうのであるが、糸とりにはじまるつむぎの手仕事というのはそうした諸々のことを含めても、つむぎで頑張るというのが、私の家業の宿命でありこれは昔から現在も賃金面や技術料はこのくらいである。糸を買い取る機元(織元)や糸商、産地問屋がそのあとに儲けている、という漠然としたうらみつらみを感じたものと思われるが、実際には糸に関しては、そんな甘い環境は用意されていない。私もそとで夜勤アルバイトをした経験があり、時給を約1000円前後で稼ぐ世界はつむぎ業にはない金銭というか収入だとは思った。そうした世界にちかい定年サラリーマンは、糸で大金を稼げるものだと思っていたのだろう。なんども言うが、そうした厳しい環境はつむぎ生産者は常につきつけられ、その結果、後継者不足が深刻となっているのであり、サラリーマンの大いなる筋違い、勘違いといえる。逆にいえば、がっぽりとお金を稼ぎたいというものは、つむぎ業につかないのであって、糸とりにはじまる生産はサラリーマンにつとまるような甘い環境はつむぎ業には存在しない。悪銭身につかずとは、まさにこのことであるといえる。修行が足らない60歳は、つむぎ業の厳しさを知ったことだろう。去る者追わず

    日本の染めの世界(短文)

    2016.2.4

    中間記録

    いまから1万年ほど前の縄文人は、樹皮や草の皮からつくった繊維をみにつけていたと考えられている。鳥浜貝塚(福井県)からは大麻や赤麻(あかそ)、押出遺跡(おんだしいせき 山形県)からは赤麻、米泉遺跡(石川県)からは、おひょうといった植物の繊維が出土している。こうした草の皮や樹皮を裂いて織った原始的な布を水やは灰を用いて白くすることから、古代の染色は始まったと考えらえている(考古学)さらに白く晒す(さらす)ために沼などに布を浸したところ、たまたま鉄を多く含んだ泥だったために鉄媒染による発色となった。というのが大島紬などで有名な泥染のはじまりと考えられている。

     

    生産者の立場の参考2012-2014

    三年分

    2016.2.5

    中間記録

    2012年から、後継者の立場、生産者の立場の参考記録を残したものである。当初のつくりと若干変更や改訂した部分はあるが、2016年にあとがきに書いたように、従事歴をコツコツ重ねることこそが、なによりの技術向上の近道であると思う。私は記録していく途中、こんなことは、基本的すぎて、また基礎的すぎて、考えもしなくなるときがやがてくるという予感があった。それはなぜかはわからないがそのときそう感じたので記録していった。

    最短距離のボッチ揚げ、

    遠回りのボッチ揚げに大差はない

    ボッチ揚げ専門制作資料

    2016.2.17

    作成 北村陵

    帯用の太い糸から着尺の経糸をボッチ揚げするようになって気がついた点などを

    図説付きで紹介

    結城紬の化学染料と草木染め

    2016.3.19

    草木染めと化学染料について

    結城紬 作成 北村陵

    草木染めのたのしみ入門

    オリジナル(1)  

    2016.3.23

    草木染めのたのしみ入門オリジナル(1)

    作成 北村陵

     

    絣のロジック(1) 

    2016.2.28

    順不同 中間資料

    これから絣の図案読み取り方法など

    絣の舞台裏を紹介していく第一作目

    入門編

    動画集2014and2015  

    2014-2015

    中間資料集


    動画集 結城紬
    動画集2013


    2013

    中間資料集

     

    動画集 結城紬
    機織り埴輪発掘をみにゆく! 2014.3.9.日

    2014.3.9.日 下野(栃木県)はある一定の範囲で古墳などが密集している地域がある ハニワが機織りしていると栃木県メディアが取材などでテレビなどで宣伝 博物館の来場者が約10倍をこえている まだこれからも埴輪が出土する可能性がある お風呂みたいなのが埴輪の土台となっている。瓦などもあり時の権力者か貴族がいた可能性がある

    古墳から結城紬産地にすでに機織りがあったという衝撃的ニュースとなった

    絣のロジック2 2016.4.24 絣のロジック2 前回、次回は総柄について次は説明するといったが、思いつきによって、ほんとにわかりやすく伝えるためにぽかっと浮かぶときがあります。そのためぽかっと浮かんだのが飛柄の絣だったので今回順番が狂いますが、飛について述べたいと思います。(期待していた方はすみません)絣は、説明が難しいといわれ、実際問題伝えるのが難しいと今回も思いました。しかしなんとかなるとも思っています。

    のりとのり液の作り方、

    浴比の概念、結城紬

    2016.4.25

    本場結城紬ののりとのり液の作り方について

     

    縞のタテ糸ののべ方(整経)と

    作家の縞について

    2016.4.25

    タテ糸ののべ方(縞)とオリジナル縞について

    パターンとパターン外の縞について

    縞のタテ糸ののべ方(整経)と作家の縞について

    信州上田紬写真集1 2016.3.3



    紬の現場
    信州上田紬写真集2 2016.3.3



    紬の現場
    信州上田紬写真集3 2016.3.3



    紬の現場
    信州上田紬写真集4 2016.3.3



    紬の現場
    信州上田紬写真集5 2016.3.3



    紬の現場
    信州上田紬写真集6 2016.3.3



    紬の現場
    信州上田紬写真集7 2016.3.3



    紬の現場
    結城市から遠い民藝 信州上田紬 2016.3.3



    紬の現場とレポート2016年
    黄色の染料と染色と染材料 中間記録2016.5.29 黄色の染材料 黄檗(キハダ)、梔子(クチナシ)、槐(エンジュ)、といった、黄色の染色が可能な草木染材。こうした黄染めには欠かせないものは、着物にしてみるとやはり地味や渋いなどのわびさびの染色になりがちな中でも黄色は美しい。煮出してその染液にきれをいれると黄色に染まるために、重宝されてきた。そういう方法も自然に考え出されたということができる。原始的な文化の時代からも人間が病気になれば、天然木や草などから薬物を食べていたということに原因があると考えられる。現在の野生の鳥や獣みても分かるように、彼らは病気を治すために、あるいは傷をなおすために、薬草食べたり、いろいろの薬物を傷に塗ったりしている。すなわち、生活の知恵として、いつからともなくそれを知っているいえる。人間ももちろん、野獣に近いような生活をしていた原始時代の頃からすでにそのような方法を知っていたはずである。ところが、人間が他の野鳥や野獣などと違って火を知り、それを使って物を煮たり焼いたりするような時代になると、お腹の 薬として、キハダの樹皮を用いるとしても、それをそのまま食べるのはどうも食べにくいということから、それを水に入れ、火で煮出して、その煎じたりした汁を飲むということを自然に考え出したであろうと考えられる。すなわち、そうしたことの薬物と薬草の医療的な生活の側面からやがて衣に色をうつしだすといったことがやがて染色のおおもととなっていると考えられる。とくに草木などのものは煮出してみると、通常であれば、薄い緑色が出てくる場合がほとんどであるが、煮出してみると目立つ色が出ている植物はいちはやく、薬草、薬物の利用につながったと考えることができる。それらは、以前、赤い染材にあげたもの、アカネなどの根などもその利用価値から染色につながったよい例であるといえる。
    赤と黄色の染 中間資料早見表 2016.5.29中間記録



    赤の染色と黄色の染色 中間資料
    棋士1について  2016.5.7

    生きざまは

    やがて

    伝説になる

    植物学2016の4月1について 2016.4.29



    花の歳時記4月
    植物学2016の4月さくらについて  2016.5.5



    花の歳時記4月のさくら2016
    浸染染色原始論考察  2016.5.29

    赤の染色と黄色の染色 中間資料につづく染色考察

    飛鳥・天平の時代の染色

    染色文化

    おもいをはせる染織(1)

    浸染染色原始論考察2 2016.5.29

    染織におもいをはせて 飛鳥・天平の時代の染色からの続き

    考察2について

    おもいをはせる染織(2)

    本場結城紬クラフト館2016年オープン1  2016.5.

    栃木県小山市のJR小山駅の駅前のロブレの一角に2016年

    本場結城紬クラフト館がオープンした。一眼レフカメラとiPad

    で撮影しSNSのTwitterに放出した画像をこちらにストック

    本場結城紬クラフト館2016年オープン2  2016.5.

    上記の続編ではあるが、ロブレや小山駅前の駐車場

    は有料となっており、その点が集客が難しい点である

    と思われる。実演や展示のあり方はモダンをとっている

    が、結城紬の生産をビデオ放送したりして紹介している。

    場所は気がつかないような位置で目立たない。

    縞制作画像集1 2016.5

    縞制作画像集

    織物教室の方がデザイン

    縞制作画像集2  2016.5

    縞制作画像集

    織物教室の方がデザイン2

    昭和写真 昭和究極布紀行と藍染結城  2015

    昭和写真

    昭和究極布紀行 本場結城紬 黄八丈 奄美大島紬 越後上布

    藍染の結城と化学染料の世界の席巻と発見

    ちぢみ 縮 織物 2:2糸配合 参考 2014

    ちぢみ

    縮の縞のはなし

    デジタルマイクロスコープ2016
    講習会iPadメモ
    2016 デジタルマイクロスコープ2016 講習会iPadメモ 北村陵


    茨城繊維工業指導所が導入したハイテクノロジーマシーン
    浸染染色原始論考察3  2016.6.4

    浸染染色原始論考察3

    おもいをはせる染織3

    平安時代にいよいよ潜伏

    平安時代は木村孝(染織研究家)をはじめとした

    多くの研究者たちは平安時代こそ、日本独自の染色の原点

    といった結論を出している。いざタイムスリップしてみよう!

    伊勢型紙と木版捺染と平安時代末期から室町時代 結城図書館調べ 2016.6.5

    伊勢でサミットが行われた2016年

    おもいをはせる染織4

    タイムリーに結城図書館調べ

    思いをはせる染織(4)

    室町・江戸時代の模様染 2016.6.5 室町・江戸時代の模様染


    おもいをはせる染織(5)
    杼について 2016.4.12

    織り道具の杼(ひ)について

     

    徹夜で調べたことが思い出されます。

    奥会津編み組細工、工人まつり 2016.6.11-12

    福島県へゆく

    工人まつり(1)

    工人まつり(2)について 2016.6.11-12

    福島県へゆく

    工人まつり(2)

    会津木綿 山田木綿織元 撮影協力 2016.6.11-12

    福島県へゆく

    会津木綿 山田木綿織元

    撮影協力

     

     

    福島県大沼郡昭和村 からむし糸生産 記事 2016.6.11-12

    福島県へゆく

    からむし糸生産

     

     

    友禅斎の登場と

    その後の日本の染色の基盤 

    2016.6.19

    思いをはせる

    染織(6)

     

     

    日本の織物の歴史

    織物のおこり(1)について

    2016.6.19

    思いをはせる

    染織(7)

     

     

    日本の織物の歴史

    織物のおこり(2)について 

    2016.6.26

    思いをはせる

    染織(8)

     

     

    渡良瀬ビレッジ

    ジャパンブルー 

    2013 藍染について




    久米島紬の絣と紫根染めのぼかし染めの簡易まとめ 2016.6.28 草木染めについて




    稲葉紺屋と大久保紺屋と化学の世界 2016.7.13

    稲葉紺屋と大久保紺屋と化学の世界

     

     

    染色について

    おもいをはせる染織9 

    2016.7.16

    思いをはせる

    染織(9)

    絣のロジック3てがき解説

    2016.7.29

    絣の4種類を解説

    絣の種類を解説

     

    昭和の縮1参考

    2016.7.28

     

    コレクターより掲載許可がおりた為公開
    昭和の縮2参考 

    2016.7.29

     

    コレクターより掲載許可がおりた為公開
    本場結城紬の昭和の縮(3)

    2016.7.29

     

    コレクターより掲載許可がおりた為公開
    昭和の縮(4)

    2016.7.29

     

    コレクターより掲載許可がおりた為公開
    昭和の絣の解説

    2016.8.1

     

    昭和の縮の作品からみる絣の解説

     

       

    羅について 2016.8.7- これまで、織物の基本組織といえば平・綾(斜文)・繻子の三つがあげられ、総ての織物はそれらの組織により、あるいはそれらを種々に変化されたり、組合せた変化組織によって作られると言われてきた。したがって、羅や紗の如き、搦織物も変化組織の一つとされてきたのであるが、三原組織から、経糸が綟れる組織は決して生まれてこないところから、佐々木信三郎先生の提唱によって、経糸を綟らすための特殊な装置である振綜を用いる綟組織は、これを独立した一組織と見なし、近年では四原組織という定義の仕方が定着しつつある。中国には羅綺(らき)とか羅紈という言葉があり、いずれもうすもののあやぎぬと白の練ぎぬ意味し、転じて着飾った美女や美服を着る者の意ともなっている。わが国でも古くは羅を宇須毛乃(うすもの)あるいは宇須波多(うすはた)と読んでいるから、羅というのは本来軽くて薄い絹織物の汎称であったかもしれないが、複雑な綟組織によって網目状あるいは籠目状に織出された極めて特色のある織物としての羅について述べることとし、近年の中国におけるめざましい考古学上の発掘調査によって、複雑緻密な文羅はすでに紀元前2世紀の前漢の時代に織成されていたことが明らかになった。またそれは中国大陸の中心部からだけでなく、中国東部の山西省や後漢の時代ではウイグル自治区など、周辺の遺跡からも発見されているところから、その織成が当時すでにかなり盛んであり、また、その軽快、緻密な美しさが多くの人々に珍重されていたことがわかる。
    柳田整理店、柳田さん(89)とプレス機  2016

    柳田糊抜き名人

    蒸気プレス機

    駒ヶ根シルクミュージアム(長野県)  2016

    駒ヶ根シルクミュージアム

     

     

    長野県

    一尺三寸の竹筬  2016

    竹筬

    おすもうさん竹筬

    安曇野天蚕センター写真集1 2016

     

    駒ヶ根シルクミュージアムへ行った次の日に訪問し記録した。

     

    安曇野天蚕センター写真集2 2016

     

     

    安曇野天蚕センター写真集3 2016

     

     

    安曇野天蚕センター写真集4 2016

     

     

    安曇野天蚕センター写真集5 2016

     

     

    安曇野天蚕センター写真集6 2016

     

     

    棋士2 2016.11.26

    アナザーストーリー

    もうひとつの現実

    結城紬について 2017.1.5

    中江克己

    日本の染織・民芸染織

    引用

    ふるさとの味をもつ民芸紬 ・中江克己・ 伝統の古法で織る結城紬 民芸紬、あるいは民芸的な手織紬といえば、全国にどれだけあるかわからない。しかし、なかには民芸紬とは名だけで実際は機械製の紛い物もあるから、それほど多くはないだろう。そのなかで、私が今ふと思い浮かべるのは、静岡県の浜松で織られている「ざざんざ織」と茨城県の「結城紬」である。もともと紬は自家用として織られ始めた。農家の主婦が子のため、夫のためにと愛情をそそいで織ったし、その母の紬を織る心は娘へと伝えられたのである。材料の繭は玉繭や出殻繭など、絹として売物にならない屑繭である。玉繭は二匹の蛹が入っている繭だし、長い糸を引くことができない。また、卵(蚕種)をとるために蛾を育てることもあるが、この蛾が食い破って出たのが出殻繭だ。こうした屑繭から糸をとるには、まず真綿に引きのばして、指先で糸を紡がなければならない。しかし、そのように手紡ぎした糸は節も多く、むかしは売物にはならなかったのである。だから自家用の織物をつくろうと、丹念に手で紡ぎ、心を込めて染め、織り上げた。それゆえに手作りの素朴な暖か味があった。現在、紬と称する織物は全国各地に200種あるといわれているが、一般に生糸を使うために薄く、平らたくなっているなど、紬本来のざっくりとした味わいが薄れてしまったのは、何とも寂しい。もっとも時代の流れが織物そのものが染物志向で作られ、ドレッシーなものになっているというのが最近の傾向だ。それだけに、むかしの味わいを求めるのがむずかしくなっている。ところが結城紬の技法は、むかしながらのものである。まず、繭を煮て真綿に引きのばし、それから糸を紡ぐ。このような手紬糸を使うのは、今ではそれほど多くはない。糸を紡ぐのは女性の仕事だが、絣くくりは男の仕事になっている。くくりがゆるいと、染料がくくった部分にまで浸みてしまうからで、男の強い力に頼らなければならない。さらに藍などで染めたあと、居座機で織っていく。機織りは女の仕事である。すべて手仕事であり、たとえば1反の糸を紡ぐのに早い人で40日もかかるというように、なかなか苦労の多い仕事なのだ。紬の美しさは控え目に抑えた美しさで、これでもかと外へ向けて表した美しさではない。結城紬は、そうした紬の代表的なものの一つだが、しかし、技巧的になり、高級化して、むかしの素朴な味わいとは違ったものになっている、と嘆く人も少なくない。たとえば結城紬の特色の一つは亀甲絣だが、これが実に精巧で、時代とともにますます精緻さをきわめてきた。明治20年代には織幅に亀甲柄が30個入ったものだったが、30年代50個にふえ、さらに昭和30年代には80個から100個、そして34年には160個、42年には200個という精密な柄が現れたのである。見るとわかるが、たしかに驚くほど精緻だ。しかも、柄が多くなるほど細かくなり、手間もかかる。1反分の絣糸をつくるために、どれほど糸をつくらなければならないか、考えただけで気が遠くなるようなことである。他産地にはない特色を持とうとしたのだろうが、その精緻になった分だけ素朴な味わいを失ったようだ。そして、それだけ高価となり、庶民の手から遠くなってしまった。現在の結城紬のよさ、美しさは紬本来が持っていたものと、かけ離れているとはいうものの、機械化された華美で浅薄なものとは異なり、手作りの暖か味は残っている。むろん品質はすぐれている。とはいえ、庶民の不断着(普段着)として出発した紬が、庶民の手の届かないものになってしまったことに不満は残る。紬も時代の流れに身をまかせ、変化していくのかもしれないが、紬の原点を失えば、もはや紬ではなくなってしまう。近代化の波に乗らず、伝統的な古法が生きているということだけでも、結城紬は貴重な存在であろう。

    コンビニ夜勤と伝統工芸士 2017.1.8 2016年12月の終わり頃に伝統工芸士の合格通知書がきた。私は、コンビニ夜勤をこの資格、伝統工芸士をとる前に、履歴書にこれといって有利になるような資格がなかった。幸いなことに、コンビニ夜勤先は、私は逆スカウトでやることになり、履歴書はそれほど重要なことではなかった。アルバイトの世界というのは過酷で、正直、コンビニ夜勤というのは、体の負担が昼間と違い、疲労回復が遅く、寝てまばたきしたら6時間もたっているということもある。それだけに給料は良いかといえば昼間に少し上乗せされている程度で、例えば、夜勤の新しい人材で若くて意欲のある、体力もある、というようなものが出てくるとたちまち、オーナーから、明日からいい人材がみつかったので申し訳ないが来なくていい、と戦力外通告をうける可能性もある。そういうときに、そうした差をうめるのは、日頃の挨拶や労働への信頼度である。まず、こなすべきことを教えられ、それを無駄のない動き(労働)とお客様への信頼度を勝ちとり、ポジションを常に保持しなければならない。これが例えば、履歴書での選考というものがあった場合、伝統工芸士を取得しているのといないのとでは、あなたはいままでどのように生きてきたのか、という問いに答える答えが全然異なるものになる。私は20歳で12年従事して32歳で取得しました、というのと、家事手伝いをしていました。というのでは明らかに前者が有利になる。ただ、ご存知の方はいるかもしれないが、コンビニ夜勤は過酷で常に人材が不足している。そのため、ものをいうのがキャリアである。経験済みだとある程度、優遇される。私はもう織物ではダメだ、というところにまで追い込まれたら、またコンビニ夜勤をこなすだろう。それと、私は見習い10年目ですだの、どこどこ織物のうん代目ですといったところで他所の職場で認められたり、尊重される可能性はないに等しいことを覚悟したほうがいい。ここで得られた教訓は、いかに早く、その道を志すか、つまり目をつけた、はやさの有利性を言いたかったのである。これから、なにか目標を持ちたい方の参考にばればと思い筆を持った次第である。2017.1.8.
    染色投資2017 2017.1.8 染色投資2017




    ざざんざ織り 2017.1.11

    中江克己

    日本の染織 民芸染織 引用

    素朴な味のざざんざ織 中江克己 素朴な味のざざんざ織結城紬が手仕事の繊細さを追求した典型とすれば、ざざんざ織はざっくりとした素朴な味を持つ紬の、一つの典型といえるだろう。初めてざざんざ織を見たとき、一瞬これが着物の布かと、わが目を疑ったほどだが、それというのも、素材は絹なのに、ウールのような感触があって、洋服にしてもおかしくないように見えたからである。柄も縞と格子が主体で、たとえば薄い紫の地に赤、青、鼠などの細かい縞が入り混じったものなどは、ワンピースに仕立てても、しゃれた感じになるだろう。紺地に白の点々で二重の格子柄を織り出し、その格子の真ん中に花びらのような形を作りながら、赤の点々が連らなり緯縞になっているものは、コートにでもすればよいのだろうか。そして、赤といい青といっても、決して派手な色ではなく、全体に渋い色調で、いかにも民芸織物らしい雰囲気を身につけている。ざざんざ織は手織紬なのだが、着物の織物として、きわめてユニークなものである。ところで、この「ざざんざ」という名に、珍しさを感ずる人も多いだろう。「広辞苑」をひいてみると「ざんざめくさま。うたいさわぐさま」とあり、狂言「茶壺」の「浜松の音はざざんざ」を例にあげている。現在、浜松の八幡神社横に「ざざんざの松」という石碑が建てられているが、この「浜松の音はざざんざ」とうたったのは室町幕府の六代将軍足利義教(1394〜1441)だという。織物の名はこれによったものだ。ざざんざ織は今から40年前、浜松の平松実氏が創案し、現在は息子の哲司に受け継がれている。浜松は古くから織物の盛んな土地で、遠州織物の名は戦前まで代表的な木綿織物として知られていた。平松家も代々この遠州木綿の織屋だったという。ところが第一次大戦後、経済不況の波をもろにかぶり、遠州木綿も大きな打撃を受けた。木綿の機屋にあきたらなかった実氏は、それをきっかけに柳宗悦らの民藝運動に参加、機械織りから離れて、手織りを始めたのである。近代化に逆行する改革といってよく、つまりは民藝運動へ参加したことが契機となって手仕事にめざめ、このユニークな手織紬が誕生したわけだ。糸は節のある玉糸と、真綿から手引きして紡いだ太い糸を使う。見るからに素朴な感じで、それがまた大きな特徴になっている。太いだけに、使用する糸の量も当然、多い。普通の倍くらいあるというから重くてかなわないのではないかと思ったが、単で着るから普通のものとそれほど着た感じは違わないらしい。しかし、糸の精錬を丹念に行なうので、目減りが大変な量になる。といって精錬を適当にすませると、絹特有の艶が得られない。艶のあるしなやかな糸を使ってこそ、独特な風合が生まれるわけである。厚手の独特の地風を作り出すには、大変な苦労が必要なのだ。同じように糸染めも念入りに行なう。しかも糸が太いから時間がかかる。染め職人がかかりっきりで、数時間も染めるのだという。主に植物染料で染め、カラフルな縞柄を丹念に手織りで織り出す。経糸を機にかける前に整経という準備作業がある。普通は整経機で行なうが、手作業にしても横に寝かせた形の整経台を使う。だが、平松家では縦型の整経台で、これも珍しい。前に述べたように織り上げられた布の色調は渋く、むしろ重々しい感じだが、ウールのような風合とともに、ざざんざという響きに似つかわしい。いずれにせよ、ざざんざ織は実用的で、これで仕立てた着物は少しくらいの雨に濡れてもあわてる必要がない。雨が水玉になって、ころがり落ちるのだ。しかも、着物に限らず、羽織やコート、帯地などのほか、テーブルクロス、ネクタイなどと広く利用され素朴な美を発揮しながら新しい伝統をつくりつつある。

    上田と飯田の民芸紬・中江克己・(2017.1.12.編集)引用 (2017.1.12.編集) 結城紬、ざざんざ織のそのほかで民芸紬といえば、長野県の上田紬、飯田紬、山繭紬などが素朴な味わいがあって好ましいものだ。上田紬は300年ほどの歴史を持っているが、すでに18世紀には全国に名を知られるほどだった。最盛期は文化文政から天保にかけて頃(1804〜1844)である。年間7万反を生産し、「上田縞」とも呼ばれて、江戸はもちろん、遠く京や大阪でも人気を得ていた。それというのも「上田産物改会所」を設け、糸質をはじめ、染色や織り味、尺幅などの検査をきびしくして、上田紬の品質高める努力を続けたからである。当時の柄は大きな基盤縞、いまでいう格子縞が主体だが、現在はこまかい格子縞になっている。紬が不断着(普段着)というよりは、趣味的な外出着になっているからだろう。糸紡ぎ織りも機械で行うものが多いのだが、小岩井勉さんのように伝統的な手織りで、しかも植物染料で染めている人もいて、こうして作られた上田紬は何ともいえない落ち着いた風合いで、暖かい味わいがある。飯田紬も素朴な味という点では同じである。もともと、この飯田付近も養蚕地帯で、古くから自家用の紬が織られていたらしいが、初めてこの地方から商品として市場に出たのは、文化13年(1813)に考案された「富田絹」であった。これは玉繭から手で糸を紡ぎ、丹念に織った薄絹で京で紅梅に染められ人気を集めていたという。そのほか、明治、大正期には野良着用の木綿紬を織っていて、盛況だったらしい。飯田紬はそうした背景のもとに生まれたのだが、飯田紬という名が付いたのは大正9年というから、それほど古くない。飯田紬を創案した織元が「若松屋」で、現在、林宏次さん夫妻がむかしの面影を残す素朴な縞紬を織り続けている。だいたい縞柄というのは古くて新しい柄というか、江戸時代のものを見せられてもそれほど古さを感じさせない。現在のものにしても、色使いなどに現代人の好みが反映されていると思えるぐらいで、江戸時代の人間が着てもおかしくないものもある。林さんの織っている飯田紬は、やはり民芸紬といってよいだろう。付近の山野から採集した植物、たとえば梅、椿、樫、栗、柿、胡桃、漆、松葉からさらには茶、なす、よもぎ、玉ネギ、トウモロコシ、サツマ芋など、茎や葉、実、皮から染料をつくり、微妙に変化する多様な色を染め出している。こうして糸染めし、手織で打ち込みを強くしながら、シャキッと織り上げる。いかにも民芸紬という感じで、地風も独特の味わいがある。
    綿紬の弓浜絣 2017.1.13 こうして書いていけば、少ないといいながらも、各地にまだいい手織紬が残っていて、きりがない。それだけ伝統を守ろうとする人がおり、手作りの民芸織物を好む人が多いからであろう。民芸の味は、いいかえればふるさとの味で、それが人々に郷愁を感じさせるのかもしれない。ところで、これまで述べてきたのは絹紬ばかりだが、紬には綿花から手紡ぎする綿紬もあるので、これについて触れておこう。綿紬の民芸織物といって思い出されるのは山陰の弓浜絣である。米子から北へのびる弓が浜半島は、日野川が中国地方から土砂を運んで出来たものという。しかし、奈良時代は「夜見の島」と呼ばれる砂の島にすぎなかった。米子の付近一帯は砂地で、室町時代の後期から開拓が行われたものの、米は育たず、やむなく農民たちはサツマ芋を植えていた。やがて砂地の中は温度が高いことから、綿の栽培が始められ、19世紀には大変な盛況ぶりだったと伝えられる。もともと日本に綿の栽培が定着したのは16世紀のことで、当初は貴重品あつかいをされていた。17世紀から18世紀にかけて、各地で盛んに栽培されて、庶民の衣服にも用いられるようになり、やがて庶民の衣服の主流になったのである。ところで米子の木綿だが、夏は熱く焼けた砂を踏みながら、綿井戸と呼ばれる小さな池から水を汲み、朝となく夕となくかけるのが日課で、大変な苦労をして育てたという。そして秋の綿摘みの季節となると、近隣の村々から雇われてきた娘たちの赤いたすき姿の賑わいが、浜の風物詩でもあった。綿作は手間と技術が必要で、「綿は古来百人手間」などといわれていたのである。綿花を収穫すると種を取り除き、打ちほぐさなければならない。その種からは綿実油をとり、その殻は藍甕を加熱する燃料にしたという。種子を取り除いたものを繰綿(くりわた)というが、これを打ちほぐし、「篠巻(しのまき)」(中国地方では綿筒 じんき といった)に巻きつけ、筒状にする。これを糸車で糸にしていく。こうした手紡ぎした綿紬糸を用いたのが弓浜絣であった。もっとも現在は機械製糸がほとんどで、手紡ぎ糸は少ないが、しかし、綿紬には独特の風合があらわれ、これを好む人は少なくない。弓浜絣は緯の絣糸で模様を織り出す絵絣だが、その模様はその時代その時代の生活を反映させて、実に多様である。生活の詩といってもいい風情があり、それがまた弓浜絣の大きな特徴となっている。むろん糸染めは藍染で、紺と白の清潔な調和が美しい。こうした綿紬は、だいたい綿の栽培がほとんど滅びかけているだけに、ごく一部の地域でわずかながら行われているにすぎない。滅びさせてしまうには惜しいもので、まだ残っているということが、ありがたく思えるほどである。
    好もしい上田の縞紬・佐々木愛子 2017.1.17 私がはじめて、身につけた手織紬は、上田紬でした。新聞社勤務の夫が長野県の支局長となり、昭和31年の春、私たちは、東京から長野市に移り住みました。長野市の県庁に近い住居に落ち着いてから、土地の人に、お手伝に来てもらいました。そのおばさんが「このあたりでは、こんな織物が出来るのですよ」と見せてくれたのが上田紬だったのです。それまで、私は上田紬という名も知らず、見たこともありませんでした。今まで着ていたどの織物にもない素朴で、しっかりした地風、てらいのない縞柄は、まことに好もしい味でした。それから私は、上田市、松代町、戸倉町、須坂市などの紬を織る家々を、次々とたづね歩きました。こんなに身近かで、織物が織られている土地柄におどろいたのです。私は北海道で育ったものですから、身につけるきものは、すべて本州から入って来たものでした。織物では、お召、大島、米流、久留米絣、などを着なれてはいたのですが、それはみな遠い土地で作られたものだったのです。東京で暮している間も、今日と違って、地方の紬などをデパートなどで見ることは全くなかったのです。紬を織る家々で、さまざまな見本裂を見せてもらい、縞や格子、無地などを次々に織ってもらいました。一番はじめに作ったきものは、経糸は薄藍で、緯糸には黒の紬糸を入れた藍無地の紬でした。この紬を着て、長野から寝台車に横になり、翌朝、上野に着き、身づくろいして街に出ても、夜中着ていたきものが、ほとんどしわになっていないのには、驚きました。経糸、緯糸に良質の糸を惜しげもなく使って織り上げてあったからだと思います。
    紬の町で機を織る・佐々木愛子 2017.1.18 長野から上田まで国道沿いには桑畠が続き、つやつやと光った桑の葉が風にゆれていました。その時季には、農家では座敷の畳を上げてしまい、蚕棚を並べて養蚕に精を出すのです。紬を織る川中島の農家を訪ねましたら、三部屋くらい打っ通しで、蚕を飼っていましたが、蚕が桑をたべる音の大きいのに驚かされたものでした。また、真っ白な繭が山のように板の間盛り上げてある有様は、いいようもないほど、豊かで美しい眺めでした。農家のお嫁さんが寒々とした荒壁の納戸で機を織っていましたが、質素な部屋のたたずまいと、機にかかった紅色の輝くような素地とが、あまりにかけはなれて胸がつまったこともありました。織ってもらっているだけでは我慢が出来ず、私は機織をならいはじめました。農家の土蔵の奥に打ちすててあった古い機を、1500円でゆずってもらい、戸倉の紬を織る家に運び、そこで織物を教わったのです。毎日、長野市から通って機を織り、やがて何とか一人で織れるようになって、その糸をかけたままの機を、リヤカーで長野の支局の住居に運んでもらったのです。いま思うと、のどかなものです。藍の濃淡のかつを縞をかけた機が、リヤカーの上でゆらゆらゆれながら、自転車にひかれて国道を通って行ったのです。長野で暮している間に、何反か紬を織ったのですが、素人の私の望みを、面倒がりもせず、手をとって教えてくれた方々のやさしい気持を心からありがたいと思っています。その時の織機は、いま東京の家にあり、織物をしている長女が毎日、使っています。この頃の新しい織機とは全く違い、黒光りしたがっしりした織機です。
    着ていて安心な手織紬・佐々木愛子 2017.1.18 真夏のほかは外出にはいつもきものを着ている私は、丈夫で着心地のよい織物を求めて、その後も次々と、いろいろの土地の手織紬を着てみました。米琉の見本となったといわれる久米島を着たいと思い、15年ほど前に沖縄に行った時、2反ほど求めて帰りました。けれどもその時の久米島紬は、とても地質が薄く、胴裏の白絹が透けて見えるほどでした。泥染の茶褐色の地に、絣のあしがすれた具合は、とてもよいのですが、地質がわるいため、羽織下でなければ着られないのです。その時、10年ほどたって求めた久米島紬は、地風、染色ともに申し分なく、大きな絣の柄が落着いた味に織り上っています。私はいまも、この久米島紬を大切に愛用しています。テーチ木の液に浸しては、泥染めをする方法を、繰り返すことで糸にふくらみと弾力が備り、織り上げた織物は、着ていると体の動きをしっかりと受け止めてくれます。はじめに求めた久米島紬は、戦後、久米島で織物が復興してから間もなくで、良質の糸が手に入らなかった時代のものと思われます。今日の久米島紬は、品質は安定し、よい織物が揃っています。私が着ていた紬の種類は多くはないのですが、自分が手織紬を着てみて思うことは、経糸が生糸で、緯糸だけに紬糸を使って織り上げた紬は、長く着ていると、布地に腰がなくなりやすいようです。経糸の生糸に、5.6本おきに紬糸を入れてある紬は、体の動きを受けとめる手応えがあり、長い時間着ていても、しわにならず、たるみも出ないと思います。ですから着ていて安心なのです。また化学染料で染めた糸よりも、植物染料で手間をかけて染めた糸で織ったものは、染めの工程で、糸がやせるものはやせてしまっていますから、その上で織り上げた紬は布味が落着いています。泥染の方法を経た糸で織った紬が、もっとも着心地がよいように思われます。新潟県の小千谷、六日町、岐阜県の郡上あたりで織られる紬には、経糸にも紬糸が入り、染めは草木染のものがあります。こんな紬は地風に深い味があり、色合は落付いていて、着ていると布味には腰があり、着心地はよく、着あきることがありません。私は日常、こんな紬をよく着ています。
    打ち込みが決める紬のよさ・佐々木愛子  2017.1.20 打ち込みが決める紬のよさ・佐々木愛子・結城紬は、経、緯ともに手紡ぎの紬糸を使っていますから、経糸と緯糸はしっかりと組み合い、いざり機で織り上げた弾力のある地風は、人の体の動きを十分に受けとめ、それでいて体の動きに添う軽さと自由さがあります。この頃の絣結城の値段は、私の手には合いませんから、私が着るのは無地や縞の結城です。着はじめた時は、こわばったような地風が、裾まわしがすり切れる頃には、しっかりと体になじみ、身のこなしが楽で、着ているきもののことを忘れています。着ていて楽で、着くづれしないきものが第一なので、この頃は、ついつい結城を着ることが多くなりました。六日町で織られている経緯ともに紬糸で織ってある細かい蚊絣の紬は、着心地はよいことと思い、一度着てみたいと思いながら、まだ着たことはないのです。蚊絣で織り出した文様が、あまりに技巧をこらしたものが多く、地色が濃紺、黒など濃いものが多いので、なかなか気に入ったものに巡り合いません。若い頃とは違い、あまりに地色が濃いものは、顔色が沈んでだめなのです。結城紬も濃い色が多いのですが、濃い色の織物が似合うのは、50前くらいまでではないかと思うのです。また、きものは美術品ではないので、着る人をぱちぱちとはね返すような、きものの立派さだけが、きわだつような織物は好ましいとは思えません。この頃の織物には、柄が大げさすぎるものがとても多いと思います。私は外出も旅行も織のきものを着通していますので、毎年、春の終わりには何枚かのきものを洗張りして仕立て直します。とても気に入っているきものが、洗張りしたら急に腰がなくなって、くったりしてしまうことがあり、そんな時は、ほんとうに情けない思いです。昔織ってもらった紬でも、洗張りした後は頼りなくなって、今でも着たい柄なのに、着ることもなくなったものが何枚もあります。そうかと思うとはじめに作った藍無地の紬は長年、愛用しましたが、膝が抜けるまでしっかりしていました。織り上った時は、ちょっと地厚すぎると思うくらいの紬が洗張りすると好もしい着心地になるようですし、細い糸で薄手に織った紬は、はじめは着心地がちょうどよいのですが一度洗張りすると地風がやせて頼りなくなります。薄手の紬でも糸の質が優れていて、打ち込みがよければ、水を通しても風合は損わないのだろうと思います。織る時の打ち込みが甘いものは、着ていても、ぴたっとした感がないし、そうかといって力まかせに打ち込んだものも、肩が凝ると思います。私のように、仕立直した後も長く着られる紬を求める人は、今の時代ではもう少ないのでしょう。それ故、丈夫さや着心地よりは、色や柄に重点を置く織物の方が多いのだろうと思います。
    絣の警鐘とリアリズム 2017.1.22 北村陵

    土地の匂いのする紬は少ない・佐々木愛子

    2017.1.22 土地の匂いのする紬は少ない・佐々木愛子
    大島紬の生命は泥染め・佐々木愛子  2017.2.1 戦争前の大島紬は泥染、泥藍染だけでした。母の若い頃までは、緯糸に紬糸を使ったものがあったようですが、私の時代の大島は、もう経緯ともに生糸でした。私の子供の頃、奄美大島から中年の女の人が毎年、大島を売りにきたのを覚えています。大きな風呂敷包みを背負った男の人をお供につれて、聞きとりにくい奄美の方言で話をする女の人が、座敷に大島を広げる時は、とてもたのしみでした。私の娘時代は、一疋大島で、きものと羽織のお対をつくるのがきまりでした。その頃の大島は、今日のように高価なものではなく、お召や縮緬と同じくらいの値だったと思います。娘時代に作ってもらった大島は長女が中学生になる頃まで、何度も仕立直して着ました。泥染をくり返した糸で織り上げた地風には、ふくらみがあり、すべりがよく、しわにならず、この上ない着心地でした。後年、きものにかかわりのある仕事をするようになり、ルポを書くため奄美大島を何度か訪ねました。テーチ木の液に浸した糸を泥染田に運んでは、もむ作業のくり返しの末、あの大島の着心地のよさが生れることを知りました。南の島とはいえ、真冬の泥田はさぞ冷たいことでしょうし、真夏の泥田で強い日光を浴びて仕事をするのは、並々の苦労ではないと思います。テーチ木の液で糸をもむ人は、腕まで茶褐色に染まり、膝まで泥田につかる人は、体中泥だらけになります。こんな仕事をする若い人がなくて困るということでした。大島紬の特色は、この泥染にあるのだと思います。色大島、白大島には、まるで染物のような多彩な絣柄もありますが、織物の品格、着心地は、泥染大島には遠く及びません。私の若い頃に着た大島に、泥染の黒褐色の地に白茶や、えんじ色で大柄な縦縞を織り出したものがあり、お対にして、とても愛用しました。この頃の化学染の大島の縞や格子とは全く違い、泥染の蚊絣の大島と同様な風合だったのです。今もあのような縞大島を着たいと、いつも思っているのです。名瀬市や鹿児島市の大島紬の工場で、製作の工程を見せてもらいますと、蚊絣で多彩な文様織り出すために、息もつまるような作業が行われていますが、それがかえって、大島本来の美しさを損なっているのが、残念でなりません。誰の責任か軽々しくはいえないことですが、大島紬は間違った方向にどんどん歩いて来たようです。こんなに手をかけすぎた織物を着ても、女の人が美しく見えないことだけは、たしかです。泥染、泥藍染の特色をどこまでも守り、もっと素朴で端正織物を作り、いたずらに値段を高くしないことが必要だと思います。
    紬織りに情熱をそそぐ人々・佐々木愛子・  2017.2.2 昔、農家の自家用だった手織紬が、戦後の織のきものの主流となって今日まできましたが、今、紬は一つの曲がり角にきているのではないでしょうか。20年前、私は上田紬に新鮮なおどろきを覚えましたが、今日では、あの時ほど私をひきつける織物はほとんどありません。あまりにも織物が出まわりすぎたのです。今、私が織のきものに求めるものは、丈夫で着心地がよく、澄んだ静かな色合の織物なのです。自家用に織る農家は、今はもうありませんが、今日では、昔はいなかった工芸作家たちが熱心に織物を織っています。織物を学ぶ人も多いのです。このような人達の技は、専門の職人には遠く及ばないけれど、色彩感覚、創造力は優れています。自分の織る織物で大きな収益をあげるのは、むずかしいことを知りながら、それでも織物を作り続けている人達です。この人達の作品が紬織業者に影響して、何か道は開けないかと思うのです。郡上紬などは、その一つの生き方のように思われます。幼い頃から今日まで、長い年月、さまざまな織物を身にまとってきました。その一枚一枚のきものが、人が心をこめて織り上げたものだったことを思うと、豊かな思いに満たされます。見も知らぬ作り手たちに深い感謝の思いを覚えないではいられません。
    素朴で地方色のある民芸品・本吉春三郎  2017.2.3 民芸という言葉は、今日では大変一般的なものになって、誰でも民芸品とはこんな物だという考えをもつほどになっています。民芸の言葉は、大正の末期から昭和のはじめにかけて、柳宗悦を中心として数人の、主として陶器を作る人達の間で生れた新語です。民芸普及は柳宗悦をはじめとする日本民芸協会によって、おしすすめられました。民芸の語は時運に乗じて広まりましたが、はじめ柳などの考えた範囲をこえて、大変安易拡大した解釈をされているのが現状といえましょう。しかし民芸品は、庶民大衆の毎日の生活をうるおす雑器であって、素朴で丈夫で、郷土的地方的な特色をもち、暖か味があり、その物密着した一種の美があるということは根本的な考えでありましょう。紬の着物に考えがおよぶと、私は地方民謡を思いおこします。東北の民謡、信濃や越後の民謡、また九州や沖縄の民謡、それぞれ、その土地に結びついて育ってきました。信濃の紬に伊那節や木曽節のメロディが背景となるのも自然だといえます。そして信濃路のいくつかの紬も、民芸の一つとして考えるのも楽しみです。
    信州の風土と美しい縞紬・本吉春三郎 2017.2.5 信濃は略して信州といいます。信州の紬では上田紬にふれるのが順序でしょう。上田は上田盆地の中心に位し、千曲川の流れに沿うた養蚕や機業地として知られます。ここの紬の歴史は古く、江戸初期の寛文時代にさかのぼるといいます。井原西鶴の「日本永代蔵」に「……うえしたともに、紬のふとりを無紋の花色染にして、同じ半襟をかけて、上田嶋の羽織に、木綿うらをつけて……」という一節があります。紬の代表格の結城紬も、はじめ縞物でした。今も結城の人達は買継商を縞屋呼んでいます。上田紬は縞織物です。最近、少しばかり絣もありますが、上田紬を代表するものではありません。縞を「嶋」とかくのは西鶴(元禄6年没)時代から明治まで、例えば尾崎紅葉の「金色夜叉」や樋口一葉の作品にも用いられています。西鶴のいうふとりは太織のことですが、紬や木綿を絹物対して太物ということからきています。無紋の花色染は、無地染の藍染ということです。紺より薄く、浅葱色よりやや濃い藍の色を花色といいます。縞はもと、節とか条布と呼んだものですが、室町時代にインドから南方の島づたいに渡来した縞木綿を嶋渡りとよんだことによります。現在の上田縞は、たいへん色彩で美しいものです。しかし、縞小紋のすっきりとした粋なものにくらべたら、少しばかり野暮ったい感じにも見えます。紬の着物本来の持ち味は、たとえば新内や歌沢のように粋で都会的なものに比べて、故里の土の匂いを失わない素朴で暖か味のある民謡の味にもたとえられましょう。上田紬は丈夫なことでも知られます。そして高価でもありません。縞紬は気安く、しみじみとした着心地が大切でしょう。上田は上田盆地の中心に位し、近くを流れる千曲川は、上田盆地から善光寺平に入り、長野市近くで犀川と合流し、新潟に入ってから信濃川となり、日本海にそそぎます。上田紬はこの千曲川沿いに点在する、三十軒ばかりの機屋で織られます。信州は四方を山にかこまれて海にのぞむところがありません。山々から流れだす川ぞいに、ややひらけた盆地と平があります。そして伊那紬や飯田紬のできる伊那地方は、伊那谷とよばれるほど山がせまって、諏訪湖を源とする天龍川の急流がうねり流れています。伊那谷と駒ヶ獄をはさんで背中合わせの木曽谷は、もっと山深い地域で「木曽へ木曽へと積み出す米は それ伊那のあまり米」の木曽節にみるように、米も作れないし、養蚕もありません。大正の末頃、私は木曽奈良井宿に数日滞在しました。その奈良井の友人は、後で上田に住むことになって「ああ上田は天が広い」と嘆息をもらしました。最近、奈良井宿の街並は文化財に指定されましたが、そこのTOKURIA HOTELとローマ字でかいた看板と、30年も張りかえていない茶色になった障子紙との、おかしなコントラストを忘れません。数年前、上田紬の業者の集りに出席しました。上田紬は文化財のレッテルはありませんが、ささやかながら産業として発展し、街にデパートやビルが建って賑やかでした。
    農閑期と紬を織る女たち・本吉春三郎 2017.2.7 農閑期と紬を織る女たち・本吉春三郎・信州は、群馬の上州とともに我が国の二大養蚕地です。紬は紬糸を用いた織物のことです。紬糸は玉繭(二匹の蚕が共同して作った一つの繭)や出殻繭(蛹が繭を食い破って飛び出した繭)のような屑繭を真綿に作り、この真綿から糸をひいて作ります。屑繭の糸はところどころ切れているので、立派な糸にはなりません。したがって紬は、不揃いで節や大小があり、羽二重や縮緬のような均整のとれたよい織物には不適当です。信州は上田の方の北信も飯田地方の南信も養蚕地ですから、当然屑繭ができ、材料が自給できる強味があります。また信州は冬が寒くて農閑期が長いので、屑繭を糸にひき、それで織物を織る副業が盛んになりました。紬織は外見が素朴、材料は屑繭ということで、江戸時代の贅沢の禁止にも見のがされました。信濃路を歩くと、冬は枝をたばねた桑畑がつづき、初夏の頃は背もかくれるほどに繁茂した桑の葉が風にそよいでいます。「桑の中から小唄がもれる 小唄ききたや顔見たや」の伊那節そのままです。北原白秋は「信州伊那の谷 木瓜(ぼけ)の花盛り 春蚕かへそか婿とろか」とうたっています。冬が近づくと「はるか彼方の赤石山に 雪がみえます初雪が」と、これは北信から南信が望んだ風景です。信濃路の民謡を聞いていると、いかにものんびりとした農村風景ですが、しかし、諏訪生まれの歌人島木赤彦の「桑摘みて桑かぶれし子どもらの痒がりにつつ眠れるあはれ」という場面も多かったのです。大正末から昭和のかけての大不況のとき、数か月も苦労してつくった繭の相場のあまりにも安いのに気が狂って、千曲川の橋の上から繭を捨てた老婆の哀話を今に忘れません。草木染の言葉を生んだ山崎斌(1892〜1972)は信州生れの文学者でもありますが、昭和4年、郷里の青年たちに養蚕不況の対策として田舎手織の復興をよびかけ、その振興に力をそそぎました。山崎は機を織る農家をさがし歩いたが、自分の家で織ることを何か恥とする気分があることを知って驚きました。「いんね、おらが家じゃ、何年にもそんなもの織った憶えも無えじ」といって顔色をかえて「機織って着るほど、貧乏したくはねえじ」と独り言をいう主婦もあったそうです。最近は若い女性たちが進んで機織をやっているのを見ると、戦前、きびしい織物消費税という法律があって、とても趣味や道楽では手が出せなかったのにくらべて、社会情勢の大きな変化をみる思いです。かつて、機と老人は置き場に困る、という時代があったことを今さらながら考えます。今の老人問題は深刻なものですが、手織機で織ることには文化国家のレジャーという思いさえぬぐいきれません。
    ユニークな美をもつ天蚕紬・本吉春三郎 2017.2.7 信州紬は、上田紬、飯田紬、伊那紬を総称します。ほかに松本紬や小諸紬もありますが、これも信州紬の一つです。共通するところは縞物で絣がないことです。こまかく細部を区別することも、あまり意義はありません。しかし、もう一つ、例外的なものとして天蚕紬があります。天蚕は山繭とも呼ばれます。鱗翅目ヤママユガ科の昆虫です。櫟や楢などの葉を食べ、繭は楕円形で黄緑色を呈します。もと広島県も産地として知られていましたが、今は長野県の特産となっています。量は少なく、長野県の繊維試験場などで増産の計画があるようです。繊維は太く、光沢があって弾力があります。染色が困難なので、家蚕と混織すると自然に染めわけができることとなります。また、家蚕とちがって野外で飼育するため、虫や鳥などの被害も多く、天候によっても支配されるので問題は多いようです。水上勉氏の「有明物語」は、山繭紬を織りつづける、みんという女の薄幸な生活を描いたものです。有明村は穂高の山麓にある村です。「穂高という駅で降りてから、みんの村までは、まだ五里も歩かねばならなかった。………およそ町などといえたものではなく、山また山をわけ入った奥の奥である。と北アルプス穂高の山麓の有明村の有様を描き「キョウソというのは、櫟の葉に巣喰うアブに似た蝿の一種であるが、この虫を天蚕や柞蚕はたべてしまうのだ。すると、かいこの腹の中でもキョウソの卵が回虫となり、かいこの軀(からだ)はキョウソのウジの棲息所とかわり、やがてかいこは死んでしまう。死んだかいこの腹から、蛾となってとび出すキョウソは、一本の櫟に何千匹となくむらがるのである」と記されています。天蚕を飼うことは博打をうつようなあぶない仕事のようでした。水上氏には「西陣の女」という有明村から西陣に女中にでた少女の一生をかいた作品があります。広島の天蚕について、民芸の柳宗悦の文がありますから借用させてもらいます。「この国が持つ特色ある手仕事としては、何よりも(山繭織)を挙げねばなりません。可部地方のもので黄と褐との色合ひを持つ織物であります。一時は着尺にも夜具地にも用途が廣く合當に榮えた仕事でありましたが、いつしか流行におくれ、今は絶え絶えになりました」とあります。ちなみに柳の文に、この国とあるのは広島県を中国地方としてあつかったこと、なお戦時中に書かれた文であることを付記します。着物は、歴史の中にも、また詩歌文学にもかかわりがあって興味が湧きます。「有明物語」も一読すれば、なおさら天蚕紬への理解を深めることになりましょう。
    紬と似ているホームスパン・本吉春三郎 2017.2.7 最近の紬の流行は、戦前すべての女性が、和服で暮らした時代にもまして盛大です。機械文明の発達によって、反動的に手織紬のよさが見直されたのでしょう。ところで、洋服地にホームスパンというのがあります。ホームスパンと紬は似かよった点が多くあります。羊毛を家庭で紡ぎ、手織で織った服地です。英国ではツイードと呼びますが、これはスコットランドのツイード河畔に産するからです。スコットランドやアイルランドは、冬期は雪が深く寒さもきびしい。それに加えて高原の土地は痩せて耕地も少ない。農民にとっては牧羊によっての生活をよぎなくされます。ホームスパンに用いる羊毛は、良種のメリノなどとちがって、ブラックフェースマウンテンと呼ばれる、顔は黒く、毛は長くて粗悪。食肉用や毛皮用として飼育されます。このブラックフェースマウンテンの毛を手で紡ぎ、手織で織ったものがホームスパンです。染料も植物染料を用いるなど、我が国の紬に類似しています。英国皇室は恵まれないスコットランドの農業政策の一つとして、冬の農閑期の家内工業としてホームスパンを奨励しました。そしてこの服地を買い上げて、日常服やスポーツ服として着用しました。これによってホームスパンの人気が上り、英国はもとより、欧米の社交界に出入りする人達にも流行となりました。スコットランドのホームスパン製造が組織立ったのは1908年ごろからですから、そんなに古いことではありません。進んだ機械製品の普及してゆく反面に、素朴なホームスパンの人気が上るのは、我が国で戦後の好景気につれて紬が流行するのとよく似ています。紬もホームスパンも趣味的に愛好され評価されるものです。
    素朴で魅力的な山の織物・山村精 2017.2.20 科(しな)の木の樹皮繊維で織り上げた科布、同じように藤蔓の皮の繊維で織る藤布、楮の樹皮を原料とする楮布、大麻を原料とする麻布。これらを私は「山の織物」とか、「古代太布」と呼んでいます。つまり、それほど歴史の古い織物で、いわば古代織物、日本の伝統織物ともいえましょう。私がそうした古代織物に興味を持ったのは、十数年前のことです。むろん、それ以前に、そういう織物があるということは知っていました。すでに滅びてしまったのではないか、と思われていただけに、山里でひっそりと織り続けられていることを知ったときは、本当に驚いたものです。それでも当時は、あとになって自分がその世界に手を染めるようになるとは思ってもいませんでした。私はもともと機業家であり、いわば商人です。しかし、古代織物の世界に足を踏み入れるや、ソロバンずくで日常を過ごしていた私が、ソロバンを捨てて夢中になってしまったのです。それほど魅力のある世界だといえましょう。山形県の日本海寄り、新潟県との県境近くに摩耶山という標高1200mの山があります。この山は朝日国立公園の展望台ともいわれますが、この麓(ふもと)の山里で古代織物が織り続けられているのです。山形県西田川郡温海町関川。そこへ初めて訪れたとき、私は興奮を抑えることができませんでした。木綿よりも麻よりも、はるかに古い科布。土着の素朴な布に、人の掌のぬくもりや、やさしさが感じられて、すっかり魅せられてしまったのです。続いて新潟県の北端にある山里・新潟県岩船郡山北町山熊田を訪ねました。ここも、やはり摩耶山の麓になりますが、交通の便が悪く、四級僻地といわれる所です。雪に閉ざされると、交通はまったく途絶え、どこが道かわからないところを歩いていくしかないのです。私が初めて訪れたとき、何か別世界へまぎれ込んだかのような感を受けたのを、今でもはっきり覚えています。本当に自然と一体になり、自然との調和を保ちながら生活する中で、人間の手と知恵だけで伝承されてきた織物の世界は、幽玄にさえみえたものでした。
    夏に行なう科の皮剥ぎ・山村精 2017.3.10 正確なことはわかりませんが、科布は一千年以上も前から織られていたもので、日本最古の織物、織物の源流といえます。明治初期までは各地で、自家用として織られていたのですが、近代化が進むにつれて、次第に姿を消したのです。関川や山熊田に残っていたのは、私にとっては幸いでした。もし残っているのなら、ぜひ保存し、後世に伝えたいと考えていたからです。科の木は、地方によって「マダ」「マンダ」「モアダ」などと呼ばれ、山間部に自生する落葉喬木です。大きい木だと、高さは10m周囲は2mにもなりますが、よい科布を織るにはあまり太くない木で、傷のないのが適しているといいます。梅雨が明け、陽射しが高くなると、皮剥ぎが始まります。これには地方によって、木を切り倒してから行う方法と、切り倒さずに木の下に切り込み口を入れ、そこへ両手を入れて上の方に向かって剝ぐ方法とがあります。さらに表の堅い鬼皮と内側の柔らかい甘皮とを剝ぎ分け、甘皮だけを山からもってくるのです。だいたい甘皮五貫目(約19キロ)で4反の布が織れます。一見、単純な作業のようですが、いい木を見つけるために山を歩いたり、皮を剝ぐのに力もいるし、たいへん骨の折れる仕事です。剝ぎ取った甘皮は、束にして軒先などに陰干ししたあと、7月下旬から8月にかけて、川水に漬けてふやけさせたり、それを煮てから、ふたたび水で洗ったりするわけです。煮るときは大きな鍋やドラムカンを用い、その中に甘皮をわのように巻いて入れ、木灰汁を加えて煮ます。甘皮から樹脂分を抜き取り、柔らかくするためですが、若科の場合は1日ぐらい、場合によっては2〜3日も煮ることになります。これも交替で火の番をしなければならず大変です。次に煮上がった甘皮を鍋やドラムカンから取り出し、熱いうちに木で叩き、手でもんで柔らかくします。こうしておいてから、手でさらに薄く1枚1枚剝ぐのです。この薄い皮を川へ運び、石とか竹の箸ではさんでこく。こくというのはぬるぬるしたものなどを取り除くことで、「科こぎ」といっています。この仕事にもコツがありますが、この作業によって皮は網状の繊維だけになるのです。桶の中に米糠(こめぬか)と水を混ぜ入れ、こいた薄皮を漬け、二晩くらい放置しておきます。この作業を「 色出し」と呼んでいますが、一種の精錬とも、自然の作用による染色ともいえましょう。科布というのは、染料による染色は行なわず、本来もっている科の色のまま織り上げる素直な布です。この「色出し」によって、黒ずんだ褐色が淡い褐色に変わっていきます。さらに川の清流で、科皮に付着している糠を洗い落とし、秋おそくまで陰干しにしておくのです。
    根気のいる科裂きと科績み・山村精  2017.3.27 農作業が終わり、冬将軍がやってくると、男たちは出稼ぎのために山里を去り、残された女たちの厳しい仕事が始まります。その最初の仕事は「科裂き(しなさき)」です。これは木の繊維から糸を作るために、ぬるま湯で科皮をぬらして絞り、指先で皮を細く裂く作業です。柔らかくなっているとはいっても、木の皮の繊維だけに、指先は痛められます。山の女たちは誰でも、子供の頃、その辛さに泣き泣き科皮を裂いた、という体験をしているのです。細く裂いた科の繊維は、長さが限られています。したがって布を織るためには長く繋がなければなりません。細く裂いたあと、長く繋いで一本の糸にしていくのですが、これを「科績み(しなうみ)」といいます。これは結び合わせるのではなく、上布などと同様のからめ、結び目を作らないようにします。糸の繋ぎ目に小さな輪を作り、別の科皮をその輪に入れ、撚り込む。これを繰り返して長い糸にしていくのです。指先の繊維な作業で糸が作られていくわけですが、布地の善し悪しは糸で決まるので、この「科績み」が最も神経を使い、根気のいる仕事といえましょう。績み終わった糸は、撚りかけの準備にはいります。直径20cmほど、高さ25cmほどの卵形に巻き上げるのですが、これを「ヘソ玉」といいます。なぜ「ヘソ玉」というかといえばヘソつまり中心に巻取口の糸端があるからです。5月が明けると次に撚糸作業が始まります。経糸は強く、緯糸は少し弱目に撚りをかけますが、微妙な性質をもつ樹皮の繊維だけに、八丁撚糸機などで撚るわけにはいきません。科糸は乾燥するとささくれるので、水でぬらしながら、糸車を手で回し、調子をみながら撚っていきます。撚糸が終わると、整経をするわけですが、これもまったく簡単な経のべの道具を用い、手作業で行なうのです。すべての準備を終え、いよいよ織りにはいります。樹皮の糸ですから動力織機は使えませんし、昔通りの居座機(地機)で、丹念に緯糸を通して織り上げていくのです。先にも述べたように科糸は湿度に敏感で、乾燥をきらいます。したがって、2月中旬から3月末までの積雪のある間中、織り続けるのです。もっともその間は、雪に埋もれていて戸外での仕事もなく、機織りに専念するしかない、ともいえるでしょう。そして4月、雪が溶け始めると、女たちは山野に出て、山菜摘みに1日を過ごすようになります。わらび、ぜんまい、ふき……山里に山菜はこと欠きません。これらは彼女たちの大きな財源なのです。ぜんまい紬は、この山里の幸・ぜんまいの綿から織り上げます。
    おまきと機巻き機について 2017.4.6

    徹夜で書いた記事

    道具についての記事

    真綿かけ 2017.3

    織物協同組合主催

    真綿かけ

    植物をおいかけて一年 2017.4 植物学デザイン



    再掲・植物学デザイン  2017.5.10

    再掲・植物学デザイン

     

     

    塩沢つむぎ記念館写真集1  2017.6.25

    新潟県

     

    塩沢つむぎ記念館写真集2 2017.6.25

    新潟県2017.6.25撮影

     

    塩沢つむぎ記念館写真集3 2017.6.25 新潟県2017.6.25撮影



    塩沢つむぎ記念館写真集4 2017.6.25

    新潟県2017.6.25撮影

     

     

    塩沢つむぎ記念館写真集5 2017.6.25

    新潟県2017.6.25撮影

     

     

     

    塩沢つむぎ記念館写真集6 2017.6.25 新潟県2017.6.25撮影



    塩沢つむぎ記念館写真集7 2017.6.25 新潟県2017.6.25撮影



    塩沢つむぎ記念館写真集8  2017.6.25

    新潟県2017.6.25撮影

    越後上布

     

     

     

    塩沢つむぎ記念館写真集9  2017.6.25

    新潟県2017.6.25撮影

    越後上布

     

     

     

    紙のボビンから学ぶ新潟県越後上布塩沢つむぎ 2017.6.25

    ワインダーのボビンがなくなったときに

     

    塩沢の4大織物  2017.6.25

    新潟県塩沢の織物

     

     

    小千谷縮写真集1  2017.6.25 小千谷縮という縮の織物を見学



    小千谷縮写真集2  2017.6.25 同上


    越後上布、小千谷縮、結城紬について 2017.6.25 越後上布と結城紬は非常に似ている国の重要無形文化財の指定要件がある。糸は越後上布が手うみによる苧麻の糸づくり(麻)、結城紬が真綿からの手でひいた手つむぎ糸(絹)、手括りのよる防染による絣括り(共通)(捺染による絣は該当しない)、織りは地機織りである。越後上布は雪晒しという独特の工程も指定要件である。越後上布を縮にしたものが、小千谷の小千谷縮である。越後上布の緯糸に撚りのかかった糸を用いて生産される。ユネスコ世界無形文化遺産に越後上布、小千谷縮は染織第1号で登録され、1年後に第2号で結城紬が登録されている。越後上布、小千谷縮の地機はそのなのとおり、地べたに機が接触するほど低く足を内側にひいて織る。
    小千谷縮写真集3  2017.6.25

    小千谷縮という織物を見学

     

    小千谷縮写真集4  2017.6.25

    同上

     

    小千谷縮写真集5  2017.6.25

    同上

     

    小千谷縮写真集6  2017.6.25

    同上

     

     

     

    秩父銘仙館、富岡製糸場

    2017

     

    2017 まとめ