織りと染めの歴史 日本編 河上繁樹 藤井健三 共著 <蚕経>によれば養蚕の起源は、先資料記述と重複するが、中国の黄帝その妃 西陵におこなわれていたという。すでに新石器時代に絹の生産が始まっていたと推定されている。養蚕、絹織物の起源は先史時代までさかのぼる。漢代(漢時代)の錦は(我が国の人間国宝北村武資さんの継承した特技技法として尊ばれている 経錦たてにしき)経糸たていとで文様を織りだした平絹がノインウラ遺跡で経錦の残欠が出土されており、他にも現地で織った彩色の毛織り物がみられている。毛織り物には、ちぢれ毛で鼻が高い人物と葡萄ぶどう、あるいは亀甲四弁花文などの文様を織りだしたもの、それはまるでひし形のようなカゴのめで葡萄柄の文様を囲むかの如く織り組まれた文様、いずれも緯糸よこいとで文様を表すものである。中国で発展した錦が経糸で文様を表すのにたいして、ウイグル自治区のニヤでは毛織物は西方的な緯糸による顕文という織法の違いが表れている。ノインウラ遺跡はモンゴル人民共和国に位置しているが、これらは中国シルクロードを経由して、はるかシリアのパルミラなどからも漢代の絹織物が次々と出土していることから、中国の絹技術は多くの国に伝来していることがわかる。古代ローマでは中国のことをセリカ(絹 という意味)とよんだ。日本には海を渡ってもたらされて養蚕技術は紀元前150年から前100年ごろの弥生時代のことで弥生時代に養蚕技術ができあがっていたのである。(これらは布目順郎の研究で明らかになっている。)九州北部に集中して出土例をあげている。中国の正史<三国志>のなかの<魏書 ぎしょ>すなわち我が国のいうところの<魏志倭人伝 ぎしわじんでん>には、三世紀ごろの日本の状況が伝えられている。そこによるところ、稲作、養蚕、絹織りが定着している姿が残されている。卑弥呼(ひもこ この時代における日本の王)の朝貢にたいして、魏帝(当時の中国の王)からは毛織物もおくられているがなかでも<絳地縐粟罽(絳綈縐粟罽)>や<細斑華罽>が贈与されているが縐(すう)は表面に皺(しわ)のあるもので我が国の縮ちぢみに近い織物で貴重な史料であるのではないかと推定されている。卑弥呼は中国からもたらされた絹関連技術を集結させて日本製の錦<倭錦>を中国へ賜った。卑弥呼のあとの次の日本の王も同じく最先端技術を駆使して<倭錦>を献じたが、中国の文献では<倭錦>のことを<異文雑錦>とよび、珍しい文様の錦や他国の織物の錦という意味であったであろうが、当時の突出した絹の先進国の中国からすると日本の錦はとるに足らないものであった、と研究者はくちをそろえる。 これらの重要染織史料は結城図書館で借りることができるために一読するといいかもしれない。