小岩井紬工房 前にて
NHK真田丸で賑わう2016年上田城にて

軽井沢のホテルにてくつろぐ

稲葉紺屋(結城市)と大久保紺屋(小山)の結城紬の作業場、仕事場は、撮影が済んでいるのであとで民藝シリーズに追加を予定している。

社会の授業の歴史が私を証明してくれているきがした。 学校という教育システムは、学校へいくこと、家に帰って休み 再び学校へいくこと、それは社会の歴史の授業が、その中で 最も、救いがあり、説得力があった。それは中学までの 教育まで同じだった。そのおぼろげな現実は、私が家業を すすめてゆくと、ゆっくりと姿を現しはじめた。 染色という糸を染める工程を 独学で勉強しスタートすると、まず結城と小山の染色屋、紺屋を 見学し、会話を重ねていくことからはじめ、染色をしようとする とき理科の勉強の意味が今なら何故か 理解できる。糸を染める工程は化学と生物学の意味を前にも まして意味をもって いった。その染色で学んだことを誰かに伝えたいとおもう頃、 国語の授業の意味も必要になり意味を持ち始めた。より正確に伝えたい ときに、数字がチカラをもちはじめ算数の授業の意味を 今なら理解ができることが増えているのである。 織物は私は戦争の 記憶を持ったものだというイメージが消えなかった。 ここ上田紬の手織りの工房でもそのイメージは変わらなかった。 なぜそう思うのかときかれると私には誰かにそれをうまく説明できるか どうかわからない。 上田紬の戦後の写真という作業している写真の説明をきいても、 そのうつしだすものが、戦争の記憶を持っている気がする。 養蚕されている繭に、 養蚕されていくときにつくりだされる完璧な闇の黒は 、私のどこかに、うつしだされた黒から深い沈黙をうながす。 上田紬の職人さんは、私の父に結城紬は上田紬の技術を もっていったのだ。と話した。そのときの上田紬の旅には 四人しか登場人物がいなかった。私の両親と上田紬の工房の 職人の夫婦の四人である。今回、この旅に私は同行している。 登場人物は六人である。だれだろうか。上田紬の工房の職人の夫婦の 若旦那さんとみえる質のいいスーツを着こなした男性が私に工房を案内してくれた。 上田紬の職人さんの父のつくりだして、あたりに散る歴史の沈黙を、 若旦那は、丁寧な技術で風通しの良い工房にしているように 私の目にはうつるのである。それも何故そう感じるのかと きかれると説明できない。 日本三大紬(結城、大島の他に牛首と塩沢という説もあるが)のひとつ信州上田紬の 手織りによっていまもいとなまれている軒数は2軒のみとなった と若旦那は私に説明する。近代化をすすめた上田紬の策は失敗した。は工場で 大量の上田紬を生産するために工場の従業員を多くの人たちが 志願したが、その機械の工場はいまは誰もいなくなって、 手織りで地道に生産する職人が残った、と若旦那は私に説明して くれた。この現実をまのあたりにした職人は、静かにしかし熱をおびて説明 をしたかったのだろう。しかしその歴史を肌で感じとってきた 生粋の職人が言葉にするとき、それはあまりにも沈黙はおもく きくものにのしかかりそして 果てしなき追憶をなぞらなければならなくなる。 この取材をしたときに六人になっていたことは私は一瞬の中に あまりにも自然な形で、若旦那の説明が私の思う理想とこれからの 織物業の形を伝えている気がした。それを奇跡とよべば安っぽい かもしれない。しかしときの流れでつくられてゆく奇跡をまのあたりにして 私はその人生の輝きを自分の中におさえきれずに、何かが ゆっくりと矛盾を消して自然な形に、しかし劇的な瞬間のとき の中に私はたちあっているような気がする。 自分がシャッターをきると細胞単位で、私のおもう理想をとらえている。 こんな瞬間は、本当に少ないのだ。何もが残らない虚しい空間を さいて、夢中でカメラのシャッターをきった。 染織資料をむさぼった。若き日の私の見知らぬ職人の姿と私がだぶつきはじめている。 古くすり切れた書物が私に呼びかけている。お前に伝統を背負えるかと。 この原稿は私のかく記事のなかでも、的確に私の現在をとらえている。

軽井沢ハーヴェストクラブの夜にて 2016.2.21 iPadから送信