染織の道 文明交差の回廊 中央アジアの砂漠を越えてローマ帝国にもたらせれた中国の糸及び絹。ローマ帝国などの西方では、金(金属)と同じ価値があるとまでいわれた。ネアルコスは絹はアマの表皮をこまかに割いてつくられるとした。詩人ヴェルギニウスは同じように木の葉からとった繊維と考えた。プリニウスは羊毛に似たもので森の産物であると「博物誌」に記した。しかし2世紀の人、パウサニアスは絹を産するセレス(中国)の地はエリュトラ海のもっとも東にあるとし、セレスの人はエチオピア種であるととき、この地にはセルと呼ばれる虫がいて、大きさは最も大きな甲虫の2倍もあり形は蜘蛛に似て脚は八本ある。セレスの人々はこの虫を特別の家をつくって飼うとした。この虫にミレット(あわ キビ)を食べさせ四年間飼い続ける。五年目になるとこの虫に緑色のアシを与える。このアシは虫の好物なので虫はこれを食べて死ぬ。この死んだ虫の体内から糸がとりだされる。ーーーこのように絹が動物質の繊維であることがなかなか知られなかった。取引をする商人たちが生産法を秘密にしていたためとみられる。しかしついに410年になって養蚕技術は中央アジアのオアシス、コータンにまで伝わった。これはコータン王国に嫁いだ中国の女王が髪の中に蚕を隠してもたらしたためとの伝承は有名である。これについで絹織物を製造しようとしたのはササン朝のペルシャであった。ササンの王たちは、シリアを従服したのち、シリアの織工をペルシャのフジスタン地方に移住。ササン錦といわれる絹織物をつくりだした。ただしその原料は中国の生糸を用いたものとみられる。このササン錦は緯錦であった。つまり緯糸で文様を表現する。これに対して中国のそれは経錦であった。経糸で文様を表す技法である。織りの技法からいえば緯錦のほうが華やかで複雑な文様を織り出すことができる。そこでササン錦は中国でも歓迎された。この影響を受けて中国でも7世紀半ばから緯錦がつくられるようになった。そしてついに550年になると東方から帰来した修道士たちが竹の杖のなかに繭をしのばせてコンスタンチノープルに到着し、これをユスティニアヌス皇帝に献上した。これによって地中海方面で養蚕がはじまった。 青色の染料として古くから知られる藍には、大別して四種ほどの植物が知られている。四種で最も有名なのがインド藍すなわちインディゴ(インジゴ)である。ローマ帝国ではインジゴについてはよく知られていなかった。ディオスコルディスはこれを鉱物質の顔料とみて絵の具として利用され、医薬にも用いるとした。染料としてはウォードを利用する。プリニウスの「博物誌」でもインジゴはインドに産し、外見は黒いが水にとくと青紫色になり熱病や発作などに効果があるとした。インジゴは薬剤として用いられたがこれがのちに重要な絵の具となった。このインジゴ以上に重要な絵の具にヒマラヤ産のリシウムと呼ぶ黄色の絵の具があった。これは染料にも使い、時には化粧用にもなったと伝える。インジゴがはじめてペルシャに紹介されたとき、それも医薬であったという。王はインドから書物、チェス、髪を染めるための薬料を受けた。この髪を染める薬剤はインディアンといわれたとある。同様のことはアブマンスールらも記してこの葉は髪を丈夫にし、ヘンナで髪を下染めしたのちインジゴで染めると光沢のある美しい黒になるという。ヘンナは黄色の染料である。このインジゴの実情をはじめてヨーロッパに伝えたのはマルコポーロの「東方旅行記」である。これによってインジゴは植物であることが明らかになった。彼はそのほかカンバエット王国、グジャラート王国にもインジゴがあると記した。彼はワタは12年までは採取できるとし、それ以上になると紡いで糸にするのは難しいし使えぬとした。これは<キワタ>についての記載である。マルコポーロ「東方旅行記」は写本としてひろく行き渡りヨーロッパに詳しく知られるようになったのであった。またさきもひいた14世紀のペゴロッティの手引書にはやはりインジゴの取引のことがのべられている。取引は重量でおこなわれる。手引書は風袋の目方に注意すること、小孔をあけて少量のサンプルを取りだして検査することが必要であるといっている。画家チェンニーニの「芸術の書」には羊皮紙を染めてインジゴ色の紙をつくることがみられる。またインジゴを用いて緑色をつくることもあるともある。これをみるとインジゴは重要な絵の具のひとつであったことがわかる。 北村陵 北村織物