<近代化への変遷 (2)>

茨城県は、機業奨励のため、指導者教育に力を入れていた。明治45年結城紬の振興策として、結城町に専門技術員を駐在させて、技術の指導にあたらせる一方、補助金を交付するなどの施策が行なわれた。しかし、地元では、さらに強力な指導の必要性を感じ、公設の指導機関の設置を県に要望し、町当局も全力をあげて協力をしている。
大正10年、茨城県は県会において、試験場設置の件を全会一致で可決し、場所は結城を最適地として認定した。大正13年、茨城県工業試験場完成とともに、業務を開始した。
昭和8年には、結城紬の品質向上と製造責任を明確にするため、県営検査を実施することになり、検査監督員が検査に当たった結果、染色図案の向上とともに、品質もよくなり、市場から絶賛を浴びることができた。このように、検査場の果たした役割は非常に大きなものがあったが、不幸にして、太平洋戦争となり、試験場は軍需工場に転換せざるをえなくなってしまった。そして、昭和19年3月ついに閉鎖となった。

昭和15年に発動された、国家総動員法による7、7禁令は、紬関係者にとっては、破滅的な打撃となってしまった。

紬の生産が分業化されて、原料、染色、機屋等が、それぞれ副業の域を越えて、専業化していたからである。これに対し、一部関係者は、紬生産技術の消滅を恐れ、日本の文化的遺産の継承を県や国に訴え続けた。この熱意がようやく各官庁を動かし、技術保存として、各工程段階別に特免のレッテルを貼付し、配給機構の枠内で、原料の支給を受け、命脈を保つことができた。

昭和18年12月23日付、商工大臣山崎達之輔氏より野村半平、永井重策、水野浪治の3名が代表者として許可された。

昭和20年8月終戦となり、結城紬復活の機を迎えたが、物資不足のため、僅かの原料配給を得て、生産の糸口とし、除々に活気を取り戻してきた。

昭和23年組合活動が再び活発となり、生産上昇の時期を迎えたので、元通りの公設指導機関の必要性を感じ、その設置要望が高まり、地元民の総力をあげての運動が認められて、同年9月の茨城県議会において、設置の件が可決され、昭和25年、茨城県繊維工業指導所として発足した。栃木県においても、昭和28年、栃木県紬織物指導所を設置して管内の指導育成に当たった。