<結城紬 人間国宝シリーズより転載 編集北村陵>

近代化への変遷
天保の禁令が厳しかったその反動として、解除された後の染織りの技法は急速な進歩を来たし、高級な縞織物へと発展し、当時の結城紬といえば、ほとんどが縞織りになってしまった。当時の卸商を、現在でもなお縞屋と呼んでいるのは、当時の名残りである。

一方、新進地の久留米では、文化10年(1813年)頃、すでに絣の織法を創案しており、結城では50年も遅れをとってしまったが、慶応元年(1865年)当時の業者は、中河原村(現在の小山市)の大塚いさ女、須藤うた女を指導督励して、絣の製織りに努め、ようやく結城紬として絣が一応は完成した。

しかし、時代の進展は縞ばかりではなく、絣にも豊かな技術と新しい流行を要求するようになった。地元卸商、故奥沢庄平氏は、明治6年より3年間にわたり足利、桐生、伊勢崎、八王子などの先進地を視察し、高度の絣の試作に取り組み、幾度となく失敗を重ねながら,ついに成功することができ、結城紬はここに画期的局面を、展開するまでになった。

結城紬も明治の発展期に入り、品質の改良が行われたため俄然人気が湧き、販路拡張も順調に進んできたが、一部粗悪品が出廻り、不評を買う事態が生じた。これを防ぎ、信用を取り戻すため、組合を結成し、厳しい自主規制と製品検査を実施し、製品に証紙を貼付することとしたため、結城紬は、再び声価を高めることができた。このように組合活動が実績をあげていたが、更に強力なものにするため、明治45年2月、同業組合法にもとづき関係者の間で、本場結城紬織物同業組合が設立された。その後、幾度か組織の変更や戦争中の中断はあったが、現在も各業種毎の組合が、それぞれ活躍を続けている。

このころの技術的なものを見ると、明治40年の博覧会に、一反八百円の結城縮が陳列され、並外れた価格が人々の注目をひいた。この時の紬は、巾に二百個の蚊絣であり、細かい絣に挑戦するものが次々にあらわれ、大正の初期には亀甲絣も巾に百二十個が記録されている。

結城で縮織りが初めて作られたのは、明治35年頃で、一業者が栃木県佐野市の機業を見学したさい、ヒントを得たと伝えられている。当時の結城紬といえば男物と年輩向きの女ものであったが、縮織り発案で、女物の単衣に進出し、金額的にも伸びを示しはじめた。この頃、結城紬の得意とする兜町に一大変革が起こった。株式取引所の一規約による波紋である。当時の相場師の服装が結城紬に角帯という長い間の不文の定めであったのを<取引所に出入する者は洋服たるを要す>という新しい規則によって、和服が禁ぜられたからである。これを機会に結城紬はますます改良に拍車がかかり、縮織りに絣織りを盛んに仕組み、老若男女の区別なく、大衆の好みに合わせ、欧州大戦の好況も手伝って、縮の声価をますます高めていった。