結城市の歴史 近代結城のなりたち

引用 参考書籍 結城市史 第六巻 近代現代通史編 発行:結城市  編集:結城市史編さん委員会

 

明治期の諸産業  1 結城織物業の発展

織物問屋と機屋

結城地方では、明治期までは機屋(生産者)で機織りを専業としているのはほとんどなく、大部分が

農家の副業であった。いざり機は木製で、簡単な機構のため安価であり、近隣の大工に作ってもらったり

中古品を譲り受けて使っていた。真綿は自家製か、業者から買ったりしたが、これも安いものであった。

このように紬の生産には多くの資本を必要としなかったので、その技術さえあれば農家の副業にふさわしい

ものであった。結城地方の農家では農閑期を利用して女の人が糸をとり、部屋の片隅や廊下で簡単な構造の

いざり機を使って織っていた。男の人は絣くくりなど機織りの下準備を担当した。そのため一生産者当たり

の年間生産高は少なく、明治十代では紬の一人当たりの年間生産反数は10反に満たない。

従って結城織物の生産者が自分で直接消費市場へ売り出しにでられなかったから、結城町の問屋(産地問屋、

買継商という)へ売り込みにいくことになる。生産者は消費市場の需給状況や、流行など市場情報をよく

知っている問屋に依存せざるをえず、問屋の指導と支配下に置かれていた。そのうえ結城織物の生産では生産

規模が小さく、しかも織機が安価であり、原材料も自家製か、ごく安い物であったため、資金や原材料を問屋

から借り入れる(これを問屋制前貸しという)必要もほとんどなかった。従って結城の織物業は、現在にいたる

まで問屋制家内工業の状態にとどまっている。

結城織物問屋は1815年(文化12)に三軒、1858年(安政5)には五軒であったが、幕末には近江屋(山中)太

兵衛一軒だけになったという。明治維新後、旧来からの問屋の支配に対抗する新興勢力として奥沢庄平、鈴木新平

らが登場してくる。とくに奥沢は前述したように絣紬を織り出すために苦心を重ね、先進機業地を視察して

1873〜74年(明治6〜7)頃ようやく成功した。このような新興問屋の台頭、新製品の開発、木綿織物への高機

導入などの結果、明治初期から結城織物業の新しい発展がみられた。

結城織物業の発展につれて、問屋もふえて1880年(明治13)には五軒となって、江戸時代からの近江屋商店、

明治初期新興の奥沢、鈴木の両商店に、篠原清吉と藤貫栄太郎が加わっている。そして1887年(明治20)にも古山

嘉平、三河広吉、馬場治平の三軒が新しく織物商組合に参加している。だが、明治前期で最も古い歴史を持つ山中商店

は明治20年代始めに姿を消している。このように問屋は数のうえでは明治後期に十一〜十ニ軒で安定してはいたが、

隆盛になる問屋と衰退していく問屋とがあり、問屋の運命にも厳しいものがあった。

一方、機屋と呼ばれる織物生産者は、1883年(明治16)の約1200人から、1912年(明治45)の2710人へと、

二倍にふえている。しかし農家副業として織物業に従事する人が増加しても、一人あたりの紬の生産反数は8反から

10反程度にとどまり、農家副業として地機を使用する伝統的技術を守っているかぎり、紬の生産性を向上させること

は困難であった。

 

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