結城市の歴史 近代結城のなりたち

引用 参考書籍 結城市史 第六巻 近代現代通史編 発行:結城市  編集:結城市史編さん委員会

 

明治期の諸産業  1 結城織物業の発展

 

結城物産織物商組合の設立

結城紬は、(1)紬糸の使用、(2)藍染めを主体とする堅牢な染色、(3)地機の使用という特色を

持っていた。また結城木綿も、(1)国産綿糸の使用、(2)堅牢な染色、(3)地機の使用という

伝統的な材料と技術で作られていた。そのほか紡績糸を使い、高機で織る高機織でも、堅牢な染色および

高機(これも手織であって伝統的織機といえる)の使用という特色があった。このため結城紬も木綿織物も

耐久性があるとの声価を保ち、他の機業地の同種の製品よりも、1.5倍以上の高い値段がつけられていた。

ところが結城地方では明治十年代後半から偽染または粗製の織物が出回ってきた。これに対し、奥沢、鈴木

らはすでに1873年(明治6)から、このような弊害を防止する努力をしていたから、10年代後半でも精力的

に業者の協力を呼びかけた。その努力が実って問屋全員が加入する織物商組合と、有力染色業者を結集した

染色組合とが設立された。結城の織物問屋は1887年(明治20)一月に同業組合法にもとづき、結城町を

<組合区域>とする結城物産織物商組合の設立を一月二十七日に出願し、二月二十三日に認可された。

初代頭取は鈴木新平、副頭取は奥沢庄平と山中治兵衛、出願当時の組合員は古山嘉平、三河広吉、藤貫栄太郎、

馬場治平、篠原清吉である。

結城物産織物商組合の規約によると、(1)織物商は必ずこの組合に加入する、(2)紬および木綿織物の原糸は

<正路ノ染工ニ附シ、真正ノ染込ヲ要ス>、(3)織物の丈および幅を規定する、(4)組合員の買い入れた織物は、

染色および寸法について組合の検査を受け<組合ノ商標ヲ貼付ノ上、販売スベシ>と定められた。なお、この組合規定

に反した業者に対しては、1896年(明治29)十月に制裁金を科することを定めている。

右の規約からもわかるように、結城織物の品質を維持するため、とくに正規の染色を行なわせ、織物の規格を定め、

それによって市場における評判と高価格を維持するのが組合の目的であった。この目的を果たすため、奥沢、鈴木らは

染物業者に対して協力を求め、志を同じくする染色業者の木村弥五郎らに働きかけた。その結果、木村を組合長とする

結城物産本染組合が、1887年(明治20)七月に設立された。組合員の数は同年末で24名、翌年末には29名であった。

<本染>の二字にかれらの心意気を見ることができる。この組合地区は設立当初は結城郡、真壁郡の一部であったが、

のちに拡張して栃木県下都賀郡、河内郡、芳賀郡を含むようになった。1906年(明治39)現在で、組合員は茨城県下

25名、栃木県下18名、計43名となった。

さらに結城物産織物商組合は、販売する織物の<正確ヲ証明スル為メ>登録商標を定め、証紙を合格品に貼ることとし、

1887年3月9日に紬と木綿織物のそれぞれについて登録商標の申請を行った。そして組合では織物検査のために、同年

6月25日に結城物産織物検査所を開設し、組合員の中から検査役を選任した。この検査所の検査に合格した反物に商標が

貼られ、初めて結城織物として市場にでていくことになる。また同年6月3日には繭、生糸および真綿などの販売上の弊害

を防ぎ、販路を拡張する目的で、結城繭糸真綿商組合が設立された。出願の幹事は平沢敬治、秋元定次郎である。

この真綿商組合の設立により、紬の原料である真綿の売買もまた、問屋の規制下に置かれることとなった。

このように1887年の結城物産織物商組合の設立は、明治初期以来台頭してきた織物問屋たちが、原料の真綿、染色部門をも

含む結城織物業全体について強固な支配を確立したことを示している。結城物産織物商組合ができてからは、組合員以外の

問屋が問屋に新たに進出するのは非常に困難になったから、機屋の交渉力と立場はいっそう弱くなった。その反面、問屋が

手に入れる利益は大きかったから、新たに織物問屋業を始めようとする人たちが出てくるのも当然であった。

 

<明治諸産業 つづく  >