結城市の歴史 近代結城のなりたち

引用 参考書籍 結城市史 第六巻 近代現代通史編 発行:結城市  編集:結城市史編さん委員会

 

明治期の諸産業  1 結城織物業の発展

明治30年代の織物商組合の方針

この時期の深刻な体験から、結城でも石下でも、織物業に関する人たちは、大衆の衣料である木綿織物

を在来の織機(地機または高機)と技術で作っていたのでは、生産費の点で他の産地の木綿織物と市場

で競争できないことをはっきり知った。しかし、この体験と認識は共通であったが、そこから導き出さ

れた経営方針は、結城町の織物業者と石下町の織物業者では全く異なった。

紬については、近代的織機では高い品質のものは作れないし、また旧来の製法と生産規模を守っていた

のでは紬織物を専業にすることも不可能であった。従って、結城以外の機業地では地機による紬の生産

をやめてしまう傾向がいっそう強くなった。結城では旧来どおり農業副業の形態で、紬糸とり、絣くくり、

染色、織布の優れた技術をますます高める方向で、しかも生産量はあまりふやさないで高価な紬を作る

こととした。これに対し、石下町では紬を作る技術はすでに失われていたし、一方古い機械と技術では、

綿織物も大量に安く作ることはできないので、先進綿織物業地帯にならって、力織機を導入し、近代的

染色技術を採用することによって、綿織物業の近代化をはかろうとした。このような新技術の研究と指導

のために、1908年(明治41)4月に石下町西原に茨城県工業試験所が設置された。しかし先進綿織物業

地帯と比べると、資本と技術の格差は大きく、この木綿織物業近代化の試みは失敗してしまう。石下町の

工業試験所も1911年(明治44)3月かぎりで廃止された。

一方、結城町でも絹織物業近代化の試みがなされていた。1897年(明治30)に藤貫健吉、犬丸清兵衛ら

の結城産織物合資会社は八王子より女工教師を招いて、絹機織業を開始した。明治30年代後半には、経糸

を絹糸、緯糸を紬糸にした<こうばい織>が流行し、明治40年代頃までつづくという状態になった。

 

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