結城市の歴史 近代結城のなりたち

引用 参考書籍 結城市史 第六巻 近代現代通史編 発行:結城市  編集:結城市史編さん委員会

 

明治期の諸産業  1 結城織物業の発展

明治30年代の織物商組合の方針(2)

結城織物業をめぐる新しい動きの一つに、1897年(明治30)6月の結城町立染織学校の設立がある。

染織学校の設立目的は次のとおりである。<当業者ハ徒ラニ旧法ヲ墨守スルノミニシテ、其染織ノ法

未ダ改良ノ域ニ至ラズ>という状況を打破し、<更ニ進ンデ羽二重織業等ノ新事業ヲ計画セント>した。

そのため、染織に関する学理および実習を教授して、優れた知識技能を有する徒弟を養成することが当時

の急務と考えられた。町会への提案理由の説明でも、長沢一喜議長は<一方ニハ粗製濫造ヲ防ギ、一方ニハ

改良精製ヲ奨励スルト同時ニ、輸出向ノ新事業ヲ計画スルノ必要ヲ認メ>たので、染織学校の設立を計画

したと述べている。これによれば旧来の染織技術の改良と、輸出羽二重織物業の創始が、学校設立の目的で

あることが明らかである。輸出羽二重の主要産地である福井、金沢、川俣(福島)地方で、羽二重を本格的

に織り始めるのが明治20年代であるから、結城町のこの企ては、タイミングがとくに遅かったとはいえない。

ところが町財政から多額の支出をして、せっかく開校したが、入校生徒数は予想をいちじるしく下回った。

そればかりではなく、同校は1901年(明治34)9月には廃校となった。

このようにして、専門の染織学校教育によって新しい輸出向け羽二重織物業へ進出することも、旧来の織物業

の改良を目的とする染織技術の改革も、ともに実らなかった。つまり明治30年代における結城織物業近代化の

試みは失敗した。旧来の染織方法で織物を作る方が、結城織物業にとって有利なのだという考え方が、結局

主流を占めたからである。

結城の織物業者は近代化への努力が失敗したことで、再び古い生産技術を頑固に守ろうとする態度をとった。

結城物産織物商組合では1904年(明治37)10月に、紬織りに絹糸を混入することは<結城紬ノ真価ヲ失墜スル>

から、<当町永遠ノ利害ニ関連スル処少ナカラズ>として、業者一同買い入れないことを決議した。

結城木綿については、もっと早く1895年(明治28)2月に<木綿織ニシテ洋糸及紡績糸ヲ交織シタルモノハ

標章ヲ貼付セズ>と決定していた。

これは、全国の織物業の水準からみれば、結城織物業の伝統的な染織技術を固持して織物業界で生き残るのだ

という基本方針の宣言でもあった。この<保守的>=<伝統的>方針は、1912年(明治45)の本場結城織物

同業組合の設立に当たって、再び確認されることとなる。

 

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