結城市の歴史 近代結城のなりたち

引用 参考書籍 結城市史 第六巻 近代現代通史編 発行:結城市  編集:結城市史編さん委員会

P435〜P438

養蚕農家

 

前編でみたように、明治初期養蚕業を導入しえたのは、資金や労力に恵まれた富裕な農家であった。

明治30年代以降、養蚕業の普及、奨励に当たったのは、町村農会や結城町小塙に設立された蚕業組

のような団体であったが、結城農学校の教師や卒業生の果たした役割も大きかった。

<江川村農会成績>には、<中産以上>の子弟が競って結城農学校に学び、気象、土壌、肥料などに

関する科学的な知識を修得し、殊に実習で得た経験を応用して研究、検討を積むため、改善の跡が

いちじるしい、と述べている。

しかし第一次大戦下の好況期などには、投機的な養蚕家も一部に現れ、1916年(大正5)4月、結城

郡農会は<養蚕家ニ警告ス>と題するチラシを配布して農家の注意を喚起している。チラシでは養蚕業

に重要な要素として、蚕種、桑葉、蚕室、蚕具、技術、労力等の条件をあげ、それら要素のバランスが

重要であることを強調した。蚕種は優等品を購入すること、桑葉は善いものが充分供給されること、

蚕室と蚕具は、蚕児の衛生、作業に多大の関係を持っており、いずれの要件も不可欠であり、これらの

条件を無視した飼育規模拡大は大変危険であると警告した。

こうした中で、養蚕家の経営規模はしだいに大型化していった。一例として1915年(大正4)、小塙

蚕業組合から表彰を受けた三人の養蚕経営についてみるとする。この三人の経営規模は掃立枚数15〜20枚

収繭量70〜100貫、桑園五反以上という規模であったが、これとて小塙蚕業組合の中でみると、必ずしも

最大の規模ではなく、標準からやや上層の飼育規模であった。

こうした大規模経営はやがて江川村にも普及するようになった。

このように養蚕経営が大規模化すると、自家労働力だけでは不足し、日雇、季節雇等の雇人を使わざるを

得なくなった。1921年(大正10)の上山川村養蚕家158戸のうち、雇人を使用したもの53戸、上簇の

時期に雇人を使用したもの60戸あり、合わせて113戸が何らかの形で雇人を使っている。同年の上山川村

養蚕雇人賃金は一日60銭であった。

1926年(大正15)、結城郡養蚕同業組合は<養蚕労銀標準協定>というチラシを配布した。組合ではこれ

により各農家ごとに異なる賃金が支払われる不公平をなくすというものであったが、雇人の公定賃金が問題

となるほどに、養蚕業が大型化し、単なる農家副業の枠から大きくはみだしつつあったことを示している。