結城市の歴史 近代結城のなりたち

引用 参考書籍 結城市史 第六巻 近代現代通史編 発行:結城市  編集:結城市史編さん委員会

P459

一 結城紬織物業の確立

各地の織物業と織機の進化

結城と石下の木綿織物業は、業者の努力と茨城県工業試験所(石下)の指導のかいもなく、

明治40年代には衰退の一途をたどり、大正初期にはほとんど見る影もなくなった。これに

対して、紬の生産は明治末期から大正半ばまで2万〜3万反、大正後期には4万反から3万反、

昭和戦前期にはほぼ2万反ないし3万反の水準を維持していた。このように紬の生産高は、

その特別な生産方法と需要に支えられて、急増することもなく、また大幅に落ち込むことも

なかった。つまり木綿織物業に比べると、紬織物業は安定した産業であった。

明治、大正期に綿織物でも絹織物でも、使用する織機は一般に地機ー高機ーバッタンー足

踏織機ー力織機の順に高度なものとなり、能率が高まっていく。結城織物業の織機について

おおまかにいえば、紬は地機、木綿織物は高機の段階にとどまった。これに対して石下織物

業では明治、大正期に他の織物産地と同様に地機から力織機まで段階を通っている。

地機と高機については、すでに述べたが、バッタン(飛杼のこと、ジョンケイの発明)は、

従来の高機では織る人が両手で経糸のあいだを通していた杼を、ひもではね飛ばす装置のこと

である。これを高機に取り付けると(バッタン高機という)片手で杼を動かし、片手で筬を

扱えて、しかも杼をうまく投げるのに要する熟練がいらなくなるので、地機に比べて1.5〜2倍

の能率が上がる。このようにバッタンは杼通しの熟練度が低くて済み、両手の幅の小さい12,

13歳の女子でも取り扱うことができた。高機は各織物産地でも本格的に普及するのは、明治

以後のことであり、しかもバッタンを取り付けたことによって綿織物生産に高機が普及したという。

バッタンはチャンカラ、チョンコとも呼ばれ、明治10年代に河内、和泉、知多、三河地方へ普及

し、その他の縞木綿の産地には明治20年代から普及した。付け加えれば、機械製糸による均質の

絹糸とバッタンを使用しなければ、輸出羽二重は織り出すことはできない。

 

<明治末 諸産業 つづく>