結城市の歴史 近代結城のなりたち

引用 参考書籍 結城市史 第六巻 近代現代通史編 発行:結城市  編集:結城市史編さん委員会

P460

一 結城紬織物業の確立

各地の織物業と織機の進化(2)

足踏織機は二本の踏み木を両足で踏むことによって、歯車、ベルトの伝導機構を通じて、杼打ち、

開口、筬打ち、巻取りの作業が連動する。木製で人力を用いるという点を除けば、機能、構造とも

力織機とほとんど同じである。バッタンまでは機織りの道具(手機)であるが、足踏織機は布を

織るという作業が人間の手を使わずに行なわれるから、真の意味で機械である。作業の能率では、

足踏織機はだいたいバッタンの二倍、高機の四倍である。 足踏織機は明治30年代以後に全国の

織物産地に普及した。なお、力織機は動力源として電力を利用できるようになってから一般に

普及したので、大正期の半ば以後、各地で広く利用されるようになった。結城の織物業と対比する

ため、石下地方織物業の織機の変遷について述べておく。石下でも1843年(天保14)頃から高

機導入の試みがあったが、高機の使用は定着せず、明治期になって急速に普及した。

1868年(明治元)以前には高機は30%、地機が70%であったが、1878年以後には高機が80%

になり、1893年以後は高機90%、1905年以降は高機のみとなった。そして明治30年代から

バッタンが高機に装置されて使用されるようになった。さらに1917年(大正6)には、栃木県

佐野出身の田島代吉が考案した田島式足踏二丁杼織機が使われ、1920年12月には秋葉三松らの

提唱により田島式織機講習会が開催されている。この後、1924年には一部で動力織機が導入された。

このように石下地方の綿織物、絹綿交織織物は、他の先進機業地の織機の変遷と比べると、いくぶん

の遅れをみせながら進化していった。

これに対し結城紬の織機は終始、地機であった。結城以外の紬または紬に類似した絹織物産地では、

明治末〜大正期に地機の使用をやめてしまった。鹿児島県の奄美大島では1894年〜95年(明治27〜28)

に高機に転換し、八丈島(東京都、黄八丈の産地)でも明治末年には地機を廃した。また埼玉県の

秩父地方でも1897年に高機を導入し、大正期には足踏織機または力織機を採用した。

群馬県伊勢崎では、地機は1922年に姿を消し、バッタン高機が1887年に導入され、第二次大戦後まで

使われた。なお、力織機は1910年から使用された。

石下地方の綿織物業は1896年(明治29)に約33万反を生産したが、1905年(明治38)頃には、ほと

んど姿を消した。1906年には代わって絹綿交織の織物が登場して、三万2000反から増加して、

1910年の10万反になり、その後再び減少して、大正期の半ばまで8万反の生産高となった。

石下織物業では使用織機は、他の産地と同じように近代化をはかりながら、産額はむしろ減少傾向にあった。

これに対し、明治後期、大正期に結城紬は最も古い織機を用いながらも、一定の水準の生産高を維持できた

秘密はなんであろうか。

 

<各地の織物業と織機の進化(2) 終わり>