結城市の歴史 近代結城のなりたち

引用 参考書籍 結城市史 第六巻 近代現代通史編 発行:結城市  編集:結城市史編さん委員会

P468

結城の工業試験所の設置(2)

工業試験場では、1923年(大正12)12月に機織工場の作業を開始し、翌年2月に染色整理工場

の作業を始めた。そのほか、各種の実験、検査の作業も始められ、試験場の業務は軌道に乗った

かに見えた。しかし結城地方で輸出羽二重織物を生産するという計画は、ついに実らなかった。

1925年11月7日、県議会での答弁の中で県の産業課長は、工業試験場は従来絹羽二重輸出織物

の試験をしてきたが、<来年度(大正15年度)ヨリ従来ノ方針ヲ全然変ヘマシテ、今後ハ玉糸ヲ

主トシタ試験場ト致シ>たいと述べた。さらに玉糸応用の銘仙のような織物のほかに、絹綿交織

なども試製しながら、試験場を経営したいとも述べている。このように工業試験場の開業いらい

二年ほどで、羽二重織物の実験操業から撤退することとなった。

工業試験場が<<羽二重製造>>に失敗した理由は、はっきりしないが、結城地方では冬期に乾燥する

という気候上の原因を挙げる人が多い。試験場で利用する水については、試験場設立前に県で調整してある

から、水質のせいではなかろう。気候上の原因のほかに、他県の羽二重産地の状況を見ると織物業者

は明治30年代から製織、整理の技術上の研究、織機の改良などに努力を重ねており、一方、県も

織物業の指導、検査に熱心であり、さらに地元銀行も羽二重産業に積極的に融資してきた。

このように他県の羽二重産業に関係する地元の人たちの、多年にわたる努力と協力によって築かれ

た実績または総合的な力は、後発の産地の結城羽二重では短期間のうちに追いつかれるものではなかった

といえるだろう。工業試験場の羽二重生産について、県議会で1922年(大正11)度予算案審議の際、

その成算を危ぶむ意見が出されているが(大正10年12月4日付<いは(=ば)らき>新聞)、

その人たちの予想どおりの結果となった。

 

<結城の工業試験所の設置(2) 終わり>