結城市の歴史 近代結城のなりたち

引用 参考書籍 結城市史 第六巻 近代現代通史編 発行:結城市  編集:結城市史編さん委員会

P469

近代的織物業としての結城紬織物業(2)

結城地方の紬織物は、このような近代化の道をとったのに対して、石下地方では1914年頃から経糸

を玉糸とし、緯糸を木綿の撚糸で織る<豊田紬>(絹綿交織)を創りだし、1924年(大正13)から

は絣の柄をとりいれ、さらに力織機をも導入している。近代的織物として結城紬と似た普及品を力織機

で織るという生産方法を採ることが、石下織物業の近代化の道であった。また下館の織物業では、

明治40年代から、足踏織機および力織機を採用して、足袋底の厚い生地を織るという形で、近代的織物

業としての地位を築き上げた。このように結城、石下、下館の織物業のそれぞれが近代化はしたものの、

他の先進織物地帯では作れない特殊な織物を小規模生産するというのが、茨城県の織物業の近代化に

おける共通の特色となった。本県は農業県であって、農家一戸当りの耕地面積は比較的大きく、経営

は安定していたが、農業生産性はあまり高くなく、従って農業生産に家内労働力を必要としていたから、

織物業は農家副業としてしか成り立たなかったのである。農業副業ではなく、専門に織物業を行うには、

機械、設備に多額の資金を要し、大量の織物材料購入のための資金も必要になる。織物生産者である

機屋にそれだけの資金がなければ、問屋がその資金を貸し付けることになる。そのような形の問屋制の

もとで織物生産を行っていて、ひとたび恐慌にあえば、問屋も機屋もともに倒産のめにあわなければならない。

そうなれば、紬の生産全体にとって大きな打撃となる。大規模で近代的生産方法を導入していた生産者が

つぶれた場合、伝統的な生産方法や技術を守る者は完全にいなくなる。こう考えてくると、問屋の支配下

で、ある程度安定した農業経営のもとで農業副業として紬を作っている生産者に、景気変動から生ずる危険

をほとんど負担させる仕組みが、紬を今日まで結城地方に残してきたことになる。

 

<近代的織物業としての結城紬織物業 終わり>