結城市の歴史 近代結城のなりたち

引用 参考書籍 結城市史 第六巻 近代現代通史編 発行:結城市  編集:結城市史編さん委員会

P470

明治後期、大正期の紬の生産と販売(1)

紬はこのように農業副業として織られていたので、奢侈品としての地位が固まった明治40年代から、

紬の生産高はあまり変化がなく、毎年2〜3万反、多い年で4万〜5万反の生産であった。紬の生産

戸数も1909年(明治42)の約2400戸から、1927年(昭和2)の約3000戸まで漸増してきたに

すぎない。紬の問屋は、右と同じ時期に11〜12軒であり、数の上での増減はほとんど見られないが、

問屋の勢力には隆替があった。染色業者はほぼ40軒前後であった。また撚糸業者は、縮の普及につい

て増加してきたが、40軒ほどであった。従って、結城紬の生産、販売に関係する業者の数は、ほぼ

3000人前後という水準にあった(このほか紬糸をとる人が、茨城、栃木両県に数千人いた)。

結城地方では、紬のほかに、絹綿交織織物が大正期にも作られているが、その生産量は多い時でも

1500反にすぎない。綿織物はしばしば述べたとおり、衰退の一途をたどり、1911年(明治44)に

6500反であったのが、大正末期にはほぼ姿を消している。生産量からみても、結城織物業は紬の

生産に<特殊化>していったことが、はっきり現れている。

 

<明治後期、大正期の紬の生産と販売(2) につづく>