結城市の歴史 近代結城のなりたち

引用 参考書籍 結城市史 第六巻 近代現代通史編 発行:結城市  編集:結城市史編さん委員会

P474

明治後期、大正期の紬の生産と販売(3)

紬の生産費(コスト)について詳細はよくわからないが、明治末期から大正半ばまでの生産費は、

第一次大戦前では一反約10円、戦争中からの物価、賃金の上昇にともなって、一反20〜30円へと

コストも上昇している。つむぎ賃や織り賃も、農業副業として自分の家で糸をとったり織ったり

している場合、なかなか厳密に計算しにくい。1909年(明治42)当時の紬の生産費調査では、

一反9円37銭(消費税を算入していない)で、問屋の取引価格(売値)は10円30銭となっている。

これでは問屋の利益はないようにみえる。県の調査では実際には仲買人(問屋)は生産費より安く

買い入れ、高価に販売するから、利益が得られるという。利益の<多少ハ実ニ取引ノ巧拙(こうせつ)

ニ依ルヤ明ナリ>と記している。機屋は問屋との駆け引きの上手か下手かによって収入が大いに異なっ

てくる。1909年2月20日付の<いは(ば)らき>新聞は、結城町の問屋が相互に連絡し合って、

紬の買い値を安くするので、機屋は不利益をこうむっている。そこで栃木県の生産者は産業組合を作って

製品を買い入れ販売しようとしたが、資金が足りないので、足利織物買継商組合が保証して銀行融資を

受ける約束ができた、と報道している。地元の問屋は消費地の問屋と密接な取引関係があり、地元問屋

を通さないで生産者が紬を売ることは不可能であった。しかも地元問屋に売る場合でも、いろいろな

駆け引きがあったから、機屋では紬を売りにいく人は、男と決めていたほどである。

結城町の紬問屋は10軒前後で、問屋としての共通の利益を守るために結束していた。その結束をいっ

そう固くするため、1910年(明治43)5月10日に、結城物産織物商組合の総会は次の決議をしている。

組合へ新たに加入する者について(1)結城町在住者に限る、(2)身元保証金200円を差し出す、

(3)そのほか一時金200円も出金する、(4)保証人を立てる、その保証人は結城在住者で組合が確実

と認めた者に限る、(5)組合員の権利は譲渡、または売買できない、というものである。つまり、よほど

のことがないかぎり、問屋の数はすやしたくないという決議である。ここに決められた加入条件は本場結城

織物同業組合第二部になっても踏襲されていた。このような紬問屋の強い支配力もまた、農業副業としての

紬織物業を支えてきた一条件であった。この意味も含めて紬問屋が紬織物の歴史上、大きな役割を果たして

きたことは確かである。紬の生産者がなければ、今日の結城紬がないのは、いうまでもないが、生産者と

分ちがたく結びついている紬問屋の存在も、結城紬を在続させてきた要因である。

 

<明治後期、大正期の紬の生産と販売 おわり>