結城市の歴史 近代結城のなりたち

引用 参考書籍 結城市史 第六巻 近代現代通史編 発行:結城市  編集:結城市史編さん委員会

P478

紬の販路

結城紬の需要は明治20年代から関西方面でふえてきたが、明治後期では関西への販路の方が

重要になった。紬がどの地方にどれだけ売られたかを具体的に示す史料は、ほとんどないが、

1915年(大正4)の奥沢庄平商店の取引高明細表をみると、だいたい東京は30%、大阪40%、

京都17%、名古屋6%となっている。東京三割、関西七割、の比率である。この地方別の出荷

比率は昭和戦前期、および戦後もほとんど変わっていない。地元問屋は関西や東京のデパート、

繊維商社、有力問屋を回って、柄や織りの流行を聞き、注文をとってきて機屋に織らせる。

織り上がれば、それを現金で機屋から買って、消費地の取引先へ運ぶか、取引先から買い付け

にくるのを待つ。地元問屋と取引先との売買は1〜2ヶ月の延べ払い取引が普通であった。

つまり手形で売ることになる。地元現金が必要ならば、銀行で手形を割り引いてもらう。

問屋の資金量の大小は、手持ち資金のほかは銀行からの融資量によって決まってくる。前に

述べたように、積極的に問屋として活動するには銀行のバックアップが必要であった。結城町

の主要な産業は、農業、醸造業、織物業であったが、明治末期には紬織物業が安定的発展をとげて

いた。そして織物に明治38年1月から価格の一割の消費税が課せられていたから、1912年(大正

元)度に結城町から納入される国税のうち最高額は3万円の織物消費税である。1万3000円の

酒税、所得税(7000円)や地祖(4000円)の納入額を上回っていた。紬織物業、とくに紬問屋

が結城町の経済、さらに政治上で大きな地位を占めていたことは、銀行役員の顔ぶれからもわかるが

国税収入の面でもはっきり現れていた。

 

<紬の販路 終わり>