結城市の歴史 近代結城のなりたち

引用 参考書籍 結城市史 第六巻 近代現代通史編 発行:結城市  編集:結城市史編さん委員会

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農業生産の足どり

養蚕業の盛衰(2)

他方、1931年6月4日から結城繭市場でも蚕種の改良と統一、優良繭の大量出荷あるいは共同

出荷を奨励するため、1000貫以上共同出荷した場合には、1000貫以上15円、2000貫以上

35円、3000貫以上60円の奨励金の交付を決定した。このように養蚕業では、養蚕農家の組織化

が進められ、山川村では1935年(昭和10)9月に従来の部落単位の養蚕実行組合を一村一組合

にして山川村養蚕実行組合を設定し、蚕種の共同購入と繭の共同販売を推し進めた。大正中頃まで

蚕種は、茨城、群馬、埼玉、長野、福島など各地の蚕種を使用していたが、昭和初年以降蚕種の

統一が進められ、この頃には県の指導のもとに<茨城一蚕種>に統一された。結城市域には桜井、

広江、秋葉、森田、石川、柴などの蚕種業者がおり、これらの業者は地元だけでなく、各地の

養蚕実行組合を通じて全県下に蚕種を販売していた。最大規模を誇った桜井兼太郎家では、当時

12万グラム(10グラムの蚕種から7〜8貫の繭がとれた)の蚕種を製造しており、上簇の時には

近在から50〜70人を雇っていた。(桜井兼太郎談)

蚕種の統一、共同購入とともに繭の共同販売も進んだ。1934年(昭和9)度の茨城県の取引状況

をみると製糸家との直接取引きが最も多く、そのうち共同出荷は97万2085貫で、個人取引きは

6万1545貫にすぎず、次に市場取引きでも共同出荷が35万5100貫、個人出荷11万5800貫と

共同出荷が多くなっている。しかも特徴的なことは仲買人との取引きが激減しており、仲買人へ

の共同出荷1万6000貫、個人出荷5万903貫にすぎなくなっている。(昭和10年7月6日付<いは

(ば)らき新聞)。足元をみられて仲買人に買いたたかれていた養蚕農家は、共同出荷、それも

直接製糸家と取引きすることのよって自分たちの利益を少しでも守ろうとしたのである。

 

<養蚕業の盛衰(3)につづく>