結城市の歴史 近代結城のなりたち

引用 参考書籍 結城市史 第六巻 近代現代通史編 発行:結城市  編集:結城市史編さん委員会

P666

農業生産の足どり

養蚕業の盛衰(3)

1932年(昭和7)頃には繭価の安価が続くため桑畑を廃して大小麦への耕作転換をはかる農家

がふえ、結城郡農会では養蚕に代わる副業として人造麻になるラミー栽培の試験耕作に取り組み

始め、米と繭に支えられた農業のあり方を転換しようと試みた(昭和7年4月13日付<いはらき新聞>)

しかし、その後の景気の回復にともなう繭価の上昇により、農家の累積赤字が解消に向かったため、

この試みは影をひそめ、産業組合や養蚕実行組合への各種の補助金の交付によって養蚕業の保護

がはかられた。この結果、結城市域の養蚕業は、昭和恐慌の落ち込みを回復し、1937年(昭和12)

の日中戦争頃まで生産は伸び続けた。生産量の増加は、養蚕農家戸数の増大とともに養蚕農家の

経営の拡大とによるものだった。当時の養蚕農家の経営規模が村あるいは部落全体でわかる資料は

ないが、1937年における上山川村の20人の養蚕経営の状態を調べたのが表にある。ここには

300貫近い繭を生産する農家も出現している。養蚕業は、日中戦争以降徐々に後退していくとはいえ

1941年(昭和16)以降の戦時下における食糧増産政策による作付けの転換が強行されるまで、多く

の農家にとって米麦作に次ぐ収入源であることに変わりなかった。米と繭に支えられた結城地方の

農業は、昭和恐慌以降徐々に変化していったが、1941年以前には基本的には変化しなかった。

 

<養蚕業の盛衰 終わり>