結城市の歴史 近代結城のなりたち

引用 参考書籍 結城市史 第六巻 近代現代通史編 発行:結城市  編集:結城市史編さん委員会

P717

結城紬織物業の変遷

(1)紬生産の変容

技術の改良と製品の高級化(2)

昭和初年には工業試験場から直接指導を受けず、独自に紬の改良に努力する生産者も現れていた。

たとえば、小塙の外山家や小林作十郎などがその一例である。これらの機屋では1929年(昭和4)

頃牡丹模様の風呂敷を参考に牡丹柄の緯惣を試織して、これに成功した。1935年頃になると方眼紙

を利用して経絣の図案を考案している。一部の機屋はこの頃から紬織専業に踏み切っており、それら

に必要な用具も独自に調整した。亀甲の方眼紙を印刷したり、経絣のための経枠を大工に作らせ、

さらにこれにローラーをつけたりしている。小塙地区における先進的な機屋はさらに足利、桐生、

村山大島などの織物の板じめを見学し、これを参考にして生産の改善を図った。このような工業試験場

および民間の生産者の努力を通じて、紬の生産は従来の縞柄から絣縮へとその主製品を変化させていった。

しかも、年々図柄が改良され、手のこんだいわゆる<細工絣>に移っていった。<二の字>とか<十の字>

といわれた絣模様から六角形の中に複十字<キ>を織り込んだ亀甲模様が中心となり、それも亀甲80

(a)から120,160と高級な反物が次々と織られ、品種が多様になっていった。

紬問屋の奥沢庄平商店の反物の買い入れをみると、1928年(昭和3)1月中には19種類であった紬の品種が、

31年同月には26種、翌年同月には46種にふえている。製品も着物だけでなく、1931年には

ネクタイ、翌々年にはショールやカラーカバー、その翌年の1934年(昭和9)にはテーブルクロスなどが

製造、販売されるに至った。ところで結城紬の品種には地域性があった。各農家の耕地が一般に狭い鬼怒川

沿いの一毛作地帯では複雑な模様の高級な紬を織り、農業規模も大きい二毛作地帯は単純な柄の紬を作った。

この違いは、家計における紬収入への依存度の相違と、それと表裏の関係にある農業労働に従事する時間の

差であった。また、地域によっても特徴がみられ、たとえば小塙では<十字絣>というふうに柄や品種に

特色があった。一軒の家の伝承や近隣の情報交換が大きかったと思われる。

 

(a)反物の幅の中に亀甲が80個並んだ場合

 

<技術の改良と製品の高級化(2) 終わり>