結城市の歴史 近代結城のなりたち

引用 参考書籍 結城市史 第六巻 近代現代通史編 発行:結城市  編集:結城市史編さん委員会

 

明治期の諸産業  1 結城織物業の発展

結城紬と結城木綿、高機織

結城の織物 といえば、現在では誰でも結城紬のことと思うが、明治初期から明治30年代まで生産反数

では木綿織物は紬と同じか、それを上回るほどであった。結城紬も結城木綿も江戸時代から農家の副業

として農閑期に生産されてきた。なお、農閑期の副業として繭から生糸をとって紬や太織など簡単な絹

織物をつくったり、地元産の原綿から木綿糸をとって、それで綿織物を作ることは、明治初期までは

結城地方に限らず全国各地でもごく普通に行われていた。

機織りに使う機は地元では<ハタシ>(<機脚><機足>という字をあてる)とよばれているが、

結城地方では紬織りには江戸時代から現在に至るまで<いざり機>(地機、下機ともいう)がずっと

使われてきた。いざり機で紬も木綿織物も織ることができる。これに対して他の進んだ機業地の一部では

いざり機よりも能率の高い高機が、高級な絹織物では元禄期から、木綿織物では1801〜03年から使用されていた。

結城地方に上州から高機が導入されたのは文政年間(1818〜29年)といわれているが、高機の使用は

普及しなかった。その後も結城の絹織物は紬が主体であったから、高機は使用されなかった。一方この

地方の木綿織物に高機が本格的に使用されたのは1872年(明治5)頃からである。全国木綿織物産地での

高機の本格的普及は明治以後のことであるから、縞木綿織への高機導入の時期としては決して遅い方ではなかった。

従って明治期の結城地方の木綿織物には、国内産の綿糸(和糸)を使っていざり機で織った<結城木綿>と、

国産糸または輸入紡績糸(唐糸)を高機で織った<高機織>とがあった。その高機織にも二種類あった。

1881年〜84年(明治14〜17)の統計には木綿織物として(1)結城木綿のほか、(2)高機織唐糸縞、

(3)高機半唐半和糸縞が挙げられている。紡績綿糸は、幕末から明治20年代まで輸入されたものが多かった

ので、唐糸、洋糸、外糸と呼んでいる。<半唐>とは経糸が輸入綿糸の木綿織物である。奥沢庄平商店の

織物売(高統計でもわかるように結城では地糸と地機で製した結城木綿と高機織とを区別している。

(結城市史では両者を合わせて<木綿織物>とよび、木綿織物と紬とを合わせて<結城織物>と呼ぶことにする。

 

<明治諸産業 つづく>