結城市の歴史 近代結城のなりたち

引用 参考書籍 結城市史 第六巻 近代現代通史編 発行:結城市  編集:結城市史編さん委員会

P724

紬問屋の経営

紬問屋と生産者

紬問屋は昭和恐慌の1930年(昭和5)の時点では11軒あり、その3年後に10軒、5年後に

9軒、10年後の1940年(昭和15)には8軒に減少している。紬問屋の買い入れは、毎年

正月2日の初買、12日の初市によって始められた。機屋は特定の紬問屋と取引きする場合

が多く、副業の生産者も部落単位できまった紬問屋へ売る場合が多かった。このような紬

問屋と生産者の結びつき、すなわち紬問屋による生産者の支配は、問屋からの図案を示した

注文生産が梃子になっていた。紬問屋は流行をつかみ、それに合った図案を生産者に持ち込ん

で織ってもらった。このような傾向は昭和恐慌以降にはいっそう強まった。同期以降には紬

の色や図案が多様化したからである。特定の図柄を生産すれば、それを依頼した紬問屋に持ち

込まざるを得ない。こうして特定の紬問屋と生産者の結合は強化され、生産品の7〜8割はきま

った紬問屋へ収まった。紬問屋の具体的な買入反数、買入先、買入価格を奥沢庄平商店(奥庄)

の事例でみてみよう。同商店の買入反数は、1922年(大正11)には1万3989反で結城紬全生産

量の27%を占めていたが、その後買入数量が減少し、昭和恐慌下の1932年(昭和7 )には5740反

になっている。取扱品種は絹織から玉御召や交織物の比重が高くなっていた。買入先をみると、

多くが1〜2反の副業の生産者であった。たとえば1933年(昭和8)1月の買入相手をみると、

取引反数149反で117人にものぼっている。このうち一反買いが90人、二反買いが3人、三反が3人、

三反三人、四反一人となっており、買入相手はほとんどが副業の農家であった。もちろん専業の

製造業者との取引きがなかったわけではない。翌月の買入反数604反のうち、三反以上の取引相手

は12人おり、岡本稲一郎(25反)、早瀬忠三郎(19反)、石島家(18反)、角田清司(14反)、

横山常吉(12反)、田中万造(11反)、小林作一郎(8反)、宮田織平(7反)(括弧が奥沢

商店の買入反数)など専業の製造業者ないしそれに近いと思われる者から購入している。この

ように産地の紬問屋は、仲買人などを介さず直接多数の機屋から紬を買入れたのである。

紬の買入価格については表がある。この買入価格に1〜2割の消費税を付け加え、さらに1〜2割の

利益を見込んだ価格が紬問屋=買継商から消費地の問屋やデパートなどへの販売価格となったのである。

 

<紬問屋と生産者 終わり>