結城市の歴史 近代結城のなりたち

引用 参考書籍 結城市史 第六巻 近代現代通史編 発行:結城市  編集:結城市史編さん委員会

 

明治期の諸産業  1 結城織物業の発展

絣の始まり

結城の紬も木綿も、木綿織物も、江戸時代以来柄は縞が圧倒的に多かった。(縞は柳条、嶋、島とも書く)。

このため結城織物問屋は<縞屋>と呼ばれ、機屋といわれる生産者が問屋へ反物を売り込みにいくことを

<縞売り>と称していた。ところが、結城地方で幕末安政年間(1854年〜59年)から1873年〜75年

(明治6〜8)にかけて、ようやく絣の模様が試作されるようになった(絣は飛白、綛、とも書く)。

結城の紬絣の<開設年月>、つまりいつから絣が織られるようになったかについては、安政年間に

薩摩絣の形をとりいれ、しだいに絣の模様を改良し、文久年間(1861〜63年)に至り種々の模様を織り

出したという。これは奥沢庄平、鈴木新平、山中治兵衛が紬木綿営業人の肩書きで提出した

<製造物及製造ノ景況取調書>(明治16年11月16日付)の中の記録である(奥沢宗吉氏蔵)。さらに

1865年(慶応元)に結城町の問屋は、当時の機織りで老巧の評判が高かった大塚いさ、須藤うた

(栃木県絹村)らに絣を織らせて、良い結果を得たという。(坂本大次郎結<結城織物史>46ページ)

しかし、幕末における絣の製作はまだ試作の段階にあって、絣が広く普及したわけではなかった。

その証拠には、1873年(明治6)の結城町の織物統計<国産紬、木綿書上>では、紬縞6000反と木綿縞

6000反が記載されているだけである。のちに奥沢庄平は1873年(明治6)3月に足利、桐生、伊勢崎の

機業地を、翌年5月に同地方と八王子を視察し、さらに1875年(明治8)6月にも同じ地域を視察して絣の

試作に努力し、いくたびかの失敗にも屈せずついに絣の製織に成功した。奥沢は問屋であるから、各地を視察

して研究はしたが、自分で絣を織ったわけではない。問屋とともに、機屋および染色業者(紺屋)の人たちの

努力があって、絣の製織は成功したのである。たとえば1873年(明治6)には、前記の大塚いさが初めて<団十>

絣を織るに当たり、染色業者木村弥五郎に、団十の字形を現すため糸染めの注文をし、木村の店の徒弟頭小林作次郎

が苦心して染め上げている。絣を織り出したことは、結城紬の歴史にとって画期的な出来事であって、今日の

結城紬の複雑、精巧な柄もこの絣織りを応用、発展させたものである。紬は、絣が作られる前には冬用のもののみで

あったが、紺絣を織り出してから、販路が拡張し、夏冬両方の衣料になったと、1884年(明治17)には報じられている。

このように紬に絣が導入されても、絣は<絣くくり>に非常に手間がかかり、織るのもむずかしかったから、従来

の縞から絣の製作に移る人は少なかった。1883年(明治16)でも、紬絣は年間500反程度しか織られず<製造物

及製造ノ景況取調書>(奥沢宗吉氏蔵)、紬織りの約一万反に対し約5%にしか当たらなかった。なお、大正初期に

なっても、絣の生産は紬全体のうち10%にもおよばなかった。しかも、その絣の柄も昭和十年代初めまでは簡単なもの

であったから、木綿織物を含めて結城織物全体として、色も渋く、縞柄を中心とする単純で地味な織物であった。

結城地方では、幕末から明治初期にかけて絣の技術が導入されたが、絹織物業としてはその時期は西陣、桐生、大島

など先進機業地と比べると、相当に遅かった。

 

<絣の始まり 終 >