結城市の歴史 近代結城のなりたち

引用 参考書籍 結城市史 第六巻 近代現代通史編 発行:結城市  編集:結城市史編さん委員会

P961

谷沢家の紬織り(1)

生産量の多い谷沢家についてみてみよう。同家の紬生産は江戸時代までさかのぼることが

できるが、他人を雇って紬を織るようになるのは太平戦争後である。谷沢繁造(a)が少年

であった頃には農閑期に母が一人で紬を織っていた。妹2人が成長してからは、母と2人の

妹が一緒に紬を織った。だいたい11月半ばから紬を織り、4月半ばまで一人月1反ぐらいの

割合で織り上げていた。無地と縞物だけを織っていた。同家では明治時代から田畑一町7反

を耕作する自作農であり、この中に約6反の桑園をもち春秋には養蚕業も兼ねていた。

戦後の農地改革では自作代表として絹川村の農地委員となって活動し、また村会議員、茨城

県本場結城紬織物工業協同組合初代理事長を兼ねた。繁造は1934年(昭和9)小塙地区から

妻を迎えるが、妻は結婚前から絣を織っていたので、谷沢家でも当主の結婚を契機として

絣の生産に切り替えた。蚊絣のかなり精巧なものを織った。この頃母は織物をやめ、妻と

妹2人が絣を織り、絣しばりは当主が妻の実家へ通って習った。1957年(昭和32)同家

では婿を迎えるまで当主が絣しばりと下拵えを行った。戦後は紬織りの見習も1人、2人ずつ

入れ、 家族と一緒に紬を織らせた。見習は住み込みで3年間くらい修行してから家に帰って

独立した。独立後は大部分が同家の委託生産者となった。1971年(昭和46)の同家の紬

生産をみると、家族1人と年間1〜2名の見習が家内で1〜2反の紬を織ったほか、5人に頼んで

11反の委託生産を行っている。委託生産者の年間生産量は一定しない。1971年には委託人

の生産は3反が2人、2反が2人、1反が1人となっている。受託者が在宅兼業として行っている

ことが、次の生産反数からわかる。

 

(a)1906年9月生まれ

 

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