結城市の歴史 近代結城のなりたち

引用 参考書籍 結城市史 第六巻 近代現代通史編 発行:結城市  編集:結城市史編さん委員会

 

明治期の諸産業  1 結城織物業の発展

結城織物の原料

普通の生糸(絹糸、たんに糸ともいう)は、繭を煮て、緒から糸を引き出して、数本をまとめて、撚りを

かけながら巻き取るという方法で作られる。ところが紬の原料である紬糸は、繭を煮てから真綿を作り、

その真綿から手で糸を引っ張り出して撚りをかけないで糸をとる。つまり真綿から手で糸をつむぐという

作業で紬糸ができる。厳密にいえば、このようにして作った紬糸だけで織ったものが<紬>なのである。

紬糸の原料である真綿は、出殻繭(でがらまゆ)または玉繭(たままゆ)から作るのが普通である。

出殻繭というのは、蚕種(蚕の卵)をとるために蚕の蛾が出たあとの繭であり、玉繭は一つの繭のなかに

さなぎが二匹入ってできた繭をいう。出殻繭はむろんのこと、玉繭も普通の製糸工程では糸がとりにくく、

また糸にしても節があって、良い絹糸にはならない(玉繭からとった糸を玉糸または節糸という)。

出殻繭も玉繭も普通の製糸用の原料として不適当な繭である。そのような繭から真綿を作り、その真綿から

紬糸をとり、それで紬を織り上げていたから、紬は明治初期まで全国各地の養蚕地帯で作られていた粗末な

絹織物であった。それを伝統的な生産方法を守りながら、高級な織物にしてきた過程が、明治以後の近代

結城紬の歩みなのである。

結城地方は、前にも述べたように県下で最も養蚕製造がさかんであったから、出殻繭がたくさんできた。それで

江戸時代から明治前期にかけては、それを利用して真綿を作っていた。1884〜85年(明治17〜18)から、

福島県の保原(福島市の北東12キロ)から真綿が少しずつ入ってきたが、まだ1902〜03年(明治35〜36)頃

では、地元産の繭の方が多かった。しかし1907年(明治40)頃からは、保原産の真綿が中心となる。

そして、1917年〜21年(大正6〜10)には、紬原料の真綿の80%は保原産のものとなった。

結城の木綿織物の原料である綿糸も、明治初期までは、地元産の綿花から手紬で糸車を使って作っていた。結城

地方上山川村でも明治初期には綿が栽培されていた記録が残っている。しかし結城地方の原綿生産は採算がとれない

ため急激に減少し、1884年(明治17)当時、十年前と比較すると繰綿(綿糸の原料)の産出はほぼ十分の一に

減じたと伝えられている。それでも国内産の綿花から手紬で綿糸をとることは続けられていた。

<地糸ヲ以テ紡ギ地機ヲ以テ織ル>結城木綿の特色はこうして残った。しかし木綿織物を作る農家は、地糸のほかガラ紡

で作った綿糸を使用したり、輸入綿糸または外国産の綿花から機械紡績工場で作られた綿糸をも使用するようになった。

結城地方でも高機織の原料として機械紡績糸の使用が増し、1881年(明治14)の統計にも唐糸使用のものがあり、

1894年(明治27)の内国歓業博覧会への<出品解説書>でも、<半唐高機織ハ基経糸ニハ洋糸ヲ用イ、緯糸ニハ本地近郷

産出ノ綿糸ヲ以テ原糸ニ供用ス>と述べている。そして1893年(明治26)より、新規に製造された結城ガス糸織りでは

<ガス糸ヲ以テ原糸ニ供用シ、縞ガス糸織ニハ其縞糸ノミニガス糸ヲ用イ、他ハ総テ洋糸ヲ以テ原糸ニ供用>していた。

明治20年代のわが国紡績業の発展の結果が、結城の木綿織物業の原料の面にも、大きな影響をおよぼした。しかし結城の問屋

は地糸を使い地機で織った結城木綿の声価を維持するため、1885年(明治18)にはすでに<結城木綿ノ如キモ、唐糸ヲ交ヘ

タルモノハ明ラカニ其雑糸タルヲ標彰スルヲ例トナス>という方針をとっていた。

破れにくく、色あせない、つまり耐久性のある織物を作るには、(1)丈夫な原料糸で織ることと、(2)質の良い染色原料

を使って、優れた技術で染めることが大事である。結城郡織物の染料として、紺色は天然の藍を使っていた。藍はアイタデの葉

(葉藍)から製するが、アイタデは地元でも栽培されていた。従って、結城織物の原料は、原糸も染料も、

江戸時代から明治10年代までは、ほとんど地元産のもので間に合っていた。なお、藍は阿波(徳島県)で産するものが良質であった

から、地元産の藍で下染めして、仕上げには阿波産の藍を用いていた(茨城県の葉藍の生産量は1902年が最高であった)。

結城織物業者は、旧来の製法を守ることで特色を出そうとしていたから、第二次大戦期まで紺色は天然藍を多く使っていた。

紺色以外の色は藍地下にかねまたは化学染料を利用した。問屋および染色業者が藍を基本にして堅牢に染めることを結城織物の

一つの特色とする方針を採っていたため、紺色のほかネズミ色や茶色のような渋く、地味だが、あきのこない色調が中心となっていた。

従って昭和初期までは男物の衣料として利用されることが多かった。

 

<明治諸産業 つづく >