結城市の歴史 近代結城のなりたち

引用 参考書籍 結城市史 第六巻 近代現代通史編 発行:結城市  編集:結城市史編さん委員会

P996

機屋の経営規模

1977年(昭和52)茨城、栃木両県の織物協同組合が各組合員につい

て従事者数を調査しているが、両県の組合員について従事者数別に

分類してみると表のとおりである。この表には各地区とも従事者1人

又は2人が圧倒的に多い。茨城県では従事者1人が全体の約半数を占め、

栃木県でも3分の1以上が従事者1人となっている。従事者4人以下は

大部分が家族従事者による経営と考えられるが、茨城県では従事者4人

以下の経営は93.0%に達し、栃木県でも82.1%に達している。結城

紬は今日でも大部分が家族労働力を中心として生産されていることが

この史料から確認される。従事者5人以上の経営は一部他人雇用の経営

が多いとみられるが、純粋の雇用労働は少なく見習人がかなりの比重

を占めると考えられる。結城紬は精巧な技術を必要とするから、かなり

長期にわたる見習期間を必要とした。1960年代までは2,3年住み込んで

技術を習い、一人前の技術を身につけてから独立するのが通例であった

が最近では住み込みによる見習より通勤によるものが多くなり、半年程度

の見習で独立する例が多くなっている。もっとも、このような見習人は

独立しても一人前の待遇は与えられず、在宅見習人とでもいうべき半自立

的な経営を一定期間経験する例が多い。最近の調査によれば雇人を置く

経営者と見習人を持つ経営者がほぼ同数となっている。経営規模は織機

所有台数の調査からも明らかとなる。1977(昭和52)栃木県織物組合

の調査によれば、組合員が経営内に所有した織機台数は一台所有が

72.8%、二台所有が15.3%を占め、全組合員の88.1%が二台以下の

所有であった。従事者数に対応する織機の所有状態であった(a)。

このような小規模生産者の紬生産反数にも表れている。1977年(昭和52)

における生産反数をみると、茨城県では年間10反未満の生産者の55.1%

に達し、10反以上20反未満層(22.1%)と合わせると77.2%に達する。

同年の生産状態を栃木県側についてみると10反未満層63.8%、10反以上

20反未満層25.9%となっている。栃木県側では年間20反未満の生産者が

89.7%に達していた(b)。紬織り専業となると生産量はずっと多くなり、

高級品の生産に重点が置かれるようになる。例えば小塙の外山庄次家につ

いてみると、1953年(昭和28)には54反、54年32反を卸商に販売して

いる。外山家では昭和初年高級な絣織りを始め、これまで2ヘクタール耕作

していたのをほとんど貸し付けて、紬織り専業となった。戦時中は食糧増産

に動員されたが、戦後紬生産の復活するまで再び紬織り専業となった。

1953年頃には両親と庄次夫妻が紬生産に従事、ほかに住み込みの見習4〜5人

が紬を織った。外山家にはこのほか紬織りを委託する織子 が数人いた。従って

外山家では妻1人が紬を織り、ほかの3人はもっぱら絣しばりや下拵えに従事

した。当時取引きした卸商は1軒であり現金取引きではなかった。1953年

1月中卸商に渡した反物は3反(6万3300円)のうち、代金は2万円しか受け

取らず、残金は反物を持って行った時など随時受け取った。この年渡した

54反(87万6200円)のうち年末に決済されたのは51反分(79万3200円)

であり、3反分は翌年回しとなってしまった。しかし、昭和30年代になると

ほとんどの問屋が現金取引きするようになった(c)。

 

 

(a)栃木県本場結城紬織物協同組合員名簿 より

(b)1979年調査 より

(c)外山家<通帳> より

 

<機屋の経営規模   おわり>