<結城紬 結城三代 北村織物>

北村織物一代:北村直三郎 もしくは二代北村勘一 作 もしくはそれ以前の生産者

本場結城紬制作時代 :明治初期から大正時代初期のいずれか

私(北村陵 北村織物五代)が袖をとおせば、結城三代ではなく、

結城四代もしくは五代と呼べる本場結城紬(着尺)

 

研究機関からは大正時代には、この紬はつくられていた。という結果がでている。

すべて藍染めであるが、絣のタテ、ヨコ糸だけは化学染料で染色されている

こともわかっている。大正時代にはすでに化学染料の染色技法がドイツから

日本までに影響をあたえて定着していたことを示している。また、小倉商店の

120年以上経過したという絣の結城の着尺(2013.現在)があるということも

きいているので、結城の歴史はまだまだ謎が多い。

このようにこの紬を拡大すると、十字絣は絣の精度は当時はあらかったこと

がわかる。それ以前はさらにあらいと考えられる。

結城紬織元や結城紬卸商など、歴代の結城紬関係者は大正時代

もしくはそれ以前の結城三代(ほとんど四代とかそれ以上引き継がれている

場合が多く、高い確率で100年以上は経過している結城をもっている。)は

素朴でいて、結城紬の絣の技術精度はまだまだこれから

成長していくこととなる。ただし、結城紬産地、絣導入の結城紬といっても、絣の

導入以前にすでにあらい柄の絣は、研究しなくても生産はおこなわれていたという

ことになる。その後、あらい十字絣から、図案や研究が産地独自ですすみ、結城紬

産地の誇る進化の柄の結晶<亀甲 きっこう>がうみだされることとなった。

絣はあらい 絣も精度がこれからあがっていくこととなる。

二代北村勘一は200十字絣(蚊絣)をつくりその作品は結城市(市保存)の反物と

なっている。

また、北村勘一は、上記の北村織物保存の結城を、まるで女性のような丁寧な着物

の扱いをし、毎日着物普段着生活していた。(このころはすでに、洋服もでまわっ

ているが)と私の父(勘一は私の父からすると祖父にあたる立場)は当時を回想し

て話している。

私は、恐れ多く、一生、袖をとおさない。私の父は袖をとおした。

結城三代は、もっているのが誰かは重要で、それを手放したり、売った時点で

ほとんど価値は無くなってしまう。私は結婚や家庭や子供をもつ気もないし、

北村織物は私の代で終わりである。だからといって私は売却したりしない。

兄弟の誰かが子孫をもったらまた別の環境になってしまうが、

北村織物の伝説はここで終わりである。私は一生、結城紬

絶対現場主義と現役は目指す。ものと価値と考えは別である。

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